2005年03月27日

アーキグラムの実験建築 1961-1974

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1961年から74年までイギリスで発行された雑誌「アーキグラム」。6人の建築家を中心メンバーにしたこの雑誌には、SF的なアイデアが強烈なビジュアルイメージで展開されています。

残念ながらそのアイデアは直接実現することはありませんでした。
「アーキグラム」を一言でいうなら、それはまさに「絵に描いたモチ」だったわけです。

しかし、もう少し広い視野で見るならば、彼らの着想は実現した、または実現しつつあるとも言えます。

交通網と情報網が一体化したネットワークシティ・インターチェンジ、宇宙服に発想を得た、着脱可能な〈家〉スータルーン、パーツを組み合わせて集合住宅を造るカプセル・ホームズ、建て増し自由自在の使い捨てユニットで構成するプラグイン・シティ、まさに「ハウルの動く城」、足があって動く都市ウォーキング・シティ…。そのものズバリのものはなくとも、たとえばインターネットの普及など別の方向から解決されたものもあります。

つまるところ大事なことは、彼らがこれらの思考実験によって示そうとしたコンセプトそのものです。彼らは別に予言者というわけではなく、人と建築・環境とのかかわりを追求していった結果のアイデアを提唱したのであり、評価すべきは実現の可否というより、元となった考え方そのものなのだと思います。

建築が不動のものであれば、居住者はそこにとどまらざるを得ませんが、建築が動けば、移動の自由が得られます。移動の自由は精神の自由、国境からの自由も意味しています。建築物を地下に埋めてしまえば、地表は自然の状態を保っておくこともできます。移動式大学によって、情報だけでなく人と人とのつながりも残ってゆきます。

建築の革新によって得らえる自由を最大限にしようとする彼らのアイデアは、見てくれはポップでも考え方としては非常にラディカルなものです。ポップなビジュアルと並んで、建築家のこのような役割は後世に多大な影響を与えたものと思います。ただし、彼らのアイデアが実現に至ったとき、本当に元のコンセプト通りの「自由」が得られるかどうか。助けにはもちろんなるでしょうが、それは結局、運用次第ということになりそうです。


水戸芸術館
展示は本日・2005年3月27日で終了してしまいましたが、
図録によってかなり展示の様子がわかります。図録の紹介はこちら
posted by 銀の匙 at 16:44| Comment(0) | TrackBack(0) | 展覧会 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年03月24日

moog(モーグ)

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いかにも電子楽器の映画にふさわしい、カラフルなオープニング。そこへ「私は電子回路を感じることができる」…という、モーグ・シンセサイザーの祖・モーグ博士の電波な発言がかぶさり、のっけから、まさかヤバイ映画?と思わせるあたり、心憎い演出であります。

「スイッチト オン バッハ」で産湯を使い、YMOで青春を過ごした世代ではありますが、それでも話を見失いがちだったので、MOOG初体験の観客にわかりやすいストーリーとはいえません。スクラッチのように話が行ったり戻ったり飛んだりして、興味のない人には何のこっちゃという感じもあるでしょう。そんな、電子というより電波に傾いたような作りではありますが、なかなか魅せる映画です。

第一の魅力はズバリ、モーグ博士その人。いかにも技術畑の人らしい、誠実で着実なお人柄とお見受けしましたが、その一方で、インスピレーションを大事にする発明家らしい一面も持っています。アイデアがどこかからやってくる…日本語でいう「ひらめき」ってやつではないかと思うのですが…ことを説明するあたりは、思わず頷いてしまいます。そうしたひらめきについての考察や、ミュージシャンたちとの交流を眺めているうちに、冒頭の発言の言わんとすることが、受け止められるようになってきます。

第二の魅力は、登場する音楽。バックに流れる音楽も、時折インサートされるライブパフォーマンスで流れる音楽もチラリチラリで、もっと聴かせろー!と暴れたくなるものばかり。バーニー・ウォレルのファンキーな演奏はとにかく最高(何秒もなかったけど)。リック・ウェイクマン、キース・エマーソン、ステレオラブもよかった。初めて聴きましたが、パメリア・カースティンの演奏するテルミンは本当に素晴らしかったです。

観終わってパンフレットを買いました。これも良くできてます。博士へのインタビューやモーグ名盤ガイドなど貴重な内容。これでもうちょい字が大きかったらなあ…って年寄りな発言ですみません。

ハンス・フェルスタッド監督
1時間10分 2004年
シネマ・ソサエティ(渋谷)
作品のHPはこちら
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2005年03月21日

アラキメンタリ

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裸を撮った写真はもちろん、花でも、子供でも、雲でも、街でも、アラーキーが撮った写真には体温を感じます。同時に強烈な死の匂いも。このドキュメンタリーは、その「感じ」のでどころを探っていきます。

取り澄ました先進国の首都の顔と、うらぶれた場末、二つの顔を持つ東京をこよなく愛する荒木。崇高でありながら、醜いものは醜い裸体の作品。ほんの一瞬垣間見える、明るくパワフルな写真家の別の一面…。ビヨークや北野武、森山大道など、彼をよく知る人々の証言も興味深いものです。

最初のうちは、ドキュメンタリーとはいえずいぶんのっぺりした映像だなあと思いましたが、そのフラットさが、日常と作品の落差を示しており、却って良かったのかもしれません。

東京での上演館「ライズX」には今回初めて入りましたが、2階席もあるゆったりした空間なのに、なんと38人しか入れません。日曜最終回は1000円均一のためか、夕方前に切符は完売してしまいました。定員入れ替え制なので、なるべく早い時間に整理券を確保しておくことをお勧めします。なお、2階一番前の席がスクリーン正面になりますので、1階に座ると首が痛くなるんじゃないでしょうか…。

トラヴィス・クローゼ監督
1時間15分
ライズX(渋谷)作品HPはこちら
DVD発売予定とか。
posted by 銀の匙 at 22:21| Comment(0) | TrackBack(0) | 映画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年03月18日

天上草原

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ヴィスタ・サイズの画面が狭く感じるほどの広々とした大地。この映画の主役は草原の景色そのものです。

そこにいる人や動物、移動式のテントも、風景とよく調和しています。映画に出てくる動物は、どこか借り物めいた感じがするんですが、この映画の中では馬も羊も牛も、街中の自転車や洗濯物のように目立たず、普通に使いこなされている感じです。羊を柵へ囲い込んだり、オオカミを懲らしめたり、日常生活のなかに溶け込んだ馬と乗り手が印象に残りました。


そんな天上の国のような草原に、突然つれて来られたフゥズ。ショックから口が利けなくなってしまった子供です。父親より先に出所したモンゴル族のシェリガンが面倒を見るために連れてきたのです。彼の目を通して、モンゴルの日常がドラマチックに綴られていきます。日本のダメ親父を彷彿とさせるシェリガン、その弟で優しく勇敢なテングリ、元夫のシェリガンに翻弄されながらも、楽天的で温かいバルマ。善人だか悪人だかわからない、おかしな隣人サロン…。嵐のように激しい感情を持っているのに、表現の仕方はとても慎み深いところは懐かしさを感じさせます。

「黄金の心を持っている」とフゥズが評したモンゴルの人々の、飾らない暮らしぶりを見るだけでもほっとする映画です。


監督:サイフ
   マイリース
出演:ナーレンホア、ニンツァイ、グアルスーロン
2002年 1時間53分
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2005年03月17日

「王の帰還」劇場版

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以下ははいねさんの「LotR Spoiler News」に書かせて頂いた感想です。HPのバックアップ用記事です。劇場版初回・ネタバレ少々ありの内容となっております。ラストシーン中心の長い記事はこちらです。
同時期にかおる@ヨーレスのオババ様が書かれた感想はこちらです。
  

(「ロード・オブ・ザ・リング」「ホビット」関連の記事を最初からご覧になりたい方は、右のカテゴリー欄から「ロード・オブ・ザ・リング」を選んでいただくか、→こちらのリンクからスクロールして戻ってご覧ください)

これまで同じ映画を複数回見ることは、滅多にありませんでした。ところがLotRに限っては、それこそ取り憑かれたように何度も見ています。一体なぜなのか。今回、ニュージーランドまで出掛けて「王の帰還」を都合6回も見ながら、ずっとそのことを考えておりました。

初回に見たのは12月20日、ニュージーランド最大の都市・オークランドの「Village Hoyts Queen St」というシネコンでした。深夜にもかかわらず満席です。さすが監督のお膝元だけあって、本編に先立ち、テレコム、ニュージーランド航空といったスポンサーが、LotRの名場面を巧みに使った広告を流し、気分を盛り上げてくれます。

本編を見るにあたり、原作はいったん置いて一個の映画作品として楽しむよう努めるつもりでしたが、いざ始まってみるとそんな誓いが思い出せないほど、映像に引き込まれてしまいました。ニュージーランドの壮大な自然がそのまま見せ場のシーン、一大史劇を観るようなスペクタクルなシーンが現れるかと思えば、メリーとピピンの別れの場面のように感情に訴えてくる場面も登場します。

とりわけ嬉しかったのは、脚本、演出、音楽、美術、俳優の演技など、すべての要素が調和していたことです。ストーリーの関係上扱いが大きくなくとも、それぞれのキャラクターにふさわしい見せ場が用意され、それらが大きな物語を織り成しているさまは、大小さまざまのピースがぴたりとはまってパズルが完成するような快感を与えてくれました。
戦闘シーンは凄惨で容赦のないもので、ピピンとメリー、二人のホビットの目を通して描かれ、単なる活劇に終わっていない点も評価できます。

執政家については、前作の消化不良気味なファラミアの描写に不満があったこともあり注目していました。今回は作品内で一応のまとまりがあったように思います。特に、問題になっていた食事シーンは前半の見せ場でもあり、シークエンス全体として見ると悪くないように感じました。
ジョン・ノブル扮するデネソールは、初登場のシーンにおいて、父子の情に流されすぎではと思わせつつも、「白の塔の眼は節穴ではない」に続くセリフで、執政としてそれなりの人物であることを伺わせます。
ところが、次の食事シーンに来て突如観客は悟るわけです。普通に見えても、この人は何かが決定的に狂っている。ジョン・ノブルの演技は複雑で、その行動が狂気なのか、ファラミアへの隠された愛ゆえか、どちらともとれる演出も冴えています。
白い都と黒の衣装のコントラスト、冷え冷えとした宮廷の描写から石の都に響く鐘の音まで、このシークエンス全体の編集、音楽、音響、美術のアンサンブルは絶妙で、第三部の良さが凝縮されているように思いました。

さて、ニュージーランドのお客さんの反応は、私の見る限りでは日本とあまり変わりません。拍手もしないし、歓声をあげたりもせず、おとなしい限りです。それでも、どの映画館でも笑い声が起こるシーンというのはありました。ギムリのギャグ、ガンダルフの"Get up!"、エオウィンの"I am no man!"(なぜここで皆笑うのか不思議だった)、そして、キリス・ウンゴルのシークエンスです。

キリス・ウンゴルといえば、「二つの塔」から「王の帰還」にかけて、モルドール・ルート最大の山場であり、泣けるに違いない!と期待していたところです。ところが案に相違して、先ほどまでと同じ映画かと疑うほどB級ホラー風味というか、昔なつかし東映の怪獣映画みたいな展開(そしてさすがと言うべきかハワード・ショワの音楽の、なんと場面に合っていることよ…涙)、しかもお客さんがまた、各シーンで遠慮なく笑うんですね。あまりのことに、こちらは椅子からズッコケそうになってしまいました。

主人公の絶対絶命の場面で反射的に笑っちゃうような絵をもってくるのは演出としてどうか、という以上に問題なのは、サムの心の動きと指輪の扱いです。使命をまっとうするか、一命を投げ打って主人の傍にいるか悩んだような描写もなく、危機が去った後、指輪をあっさりポケットから出されてしまうと(少しはフロドに渡すのを躊躇しますが)、本当にサムは主人に忠実だったのか、ファラミアの性格を変えてまで指輪の恐ろしさを強調したこれまでの演出ポリシーはどこへいってしまったのか、解釈に苦しみます。原作ではここでフロドが、献身的なサムさえも指輪を狙う者と見てしまうのがショッキングで、その変化は後のシーンへのステップにもなるわけですが、映画では類似のシーンが他にも用意されていますから、見る側はまたか、といった感じです。そのせいで、シークエンス全体が、ちょっとここらで見せ場を作っておくか、くらいのあってもなくてもいいような軽いものに変貌してしまったのが惜しまれます。

もう一つの問題は―これは皆様、大いに異論がおありかと思いますが―、物語中盤におけるイライジャ・ウッド(フロド)の演技です。前2作や他の出演作に比べておおよそ彼らしくなく、どうにもオーバー・アクト気味だったように思います。イライジャの演技については全く心配していなかっただけに、本当に意外でした。
私としてはむしろ、「二つの塔」でショーン・アスティンが見せた英雄的サム像の行く末が気がかりでしたが、意外に良かったです。今回良い役回りだったこともありますが、主人の危機にあっては勇敢なのに、根は平凡で素朴なホビットとして描かれていてほっとしました。
他にもモルドール・ルートの中盤は、ショットを飛ばして無理につないだような座りの悪い部分が散見され、クライマックスにも驚きが感じられませんでした。そんなこんなで、正直申し上げて初回には、ここで席を立って帰っちゃおうかなくらいにヘコみました。

ところがです。
物語が終盤に入ると、奇跡のように巻き返しが始まります。まずは滅びの山でついに何もかもが終わるところ。'And there was Frodo,...yet himself again...There was the dear master of the sweet days in the Shire.'という原作の記述そのままのシーンが展開します。原作を読んでいない観客は、この唐突なフロドの変化にちょっとムッとするかもしれませんが、ともかくこのシーンのアスティンとイライジャの演技は絶品です。ここ以降、短い時間にエピソードが詰め込まれ、観る側はついていくのが精一杯な感じはあります。ただし、かなりの改変はあるものの、驚くほど原作の味わいが残っているように思いました。原作は「指輪を捨てる」行為で物語が終わってしまうのではなく、その後も話が続いていくところが面白いのですが、映画の方も限られた時間ながら、そういうニュアンスが感じられます。

灰色港の手前、馬車のシークエンスでは、イライジャは全編を通して最高の演技を見せます。時間にしてわずか数十秒。まさに「エルフ的」な、超然とした雰囲気を漂わせながらも、痛みと悲しみ、情愛を込めた表情は、これまでのフロドの道のりを感じさせてくれる素晴らしいものです。

ラストシーンも余韻がありましたが、実は当初、おや、ハッピーエンドなのかしら、と思いました。「映画では」ガンダルフがピピンに語っているように、終わりは(恐らく)死を暗示しているのも関わらず、灰色港でのフロドの表情といい、エンディングの曲調といい、監督はあまり湿っぽい終わり方にはしたくなかったのだろうと思ったからです。ですから人によって、見る回数によっても、エンディング、ひいてはこの作品全体の受け止め方は変わってくることでしょう。初回は見終わって感動したいうより劇中のセリフ通り'It's done'、肩の荷が下りたような感じでしたが、回を重ねるにつれ、だんだん終盤の各シーンの「行間」やもっと前のシーンとのつながりが読めるようになってきたように思います。解釈が一つに定まらないところ、それがこの映画の一番の良さだと思います。

この映画は原作同様、ここさえつかめばOKという中心がありません。逆に、それぞれの細部にこそ、この映画の真髄があります。つい何度も観てしまうというのは、このへんに理由があるのかもしれません。もう一つ言うと、世界中の人から愛されている原作を下敷きにしながら、この作品にはなお、ピーター・ジャクソン監督の強烈な個性が感じられます。単なる名作映画の枠に収まらない毒気に、何かやめるにやめられない麻薬的な魅力があるようにも思います。
そうはいっても、原作はとても一つの映画的解釈だけで満足できるものではありません。バクシ版の「指輪物語」を見て映画化を決意したジャクソン監督のように、この映画を見た人たちの中から新しい「ロード・オブ・ザ・リング」が作られる日を、今から心待ちにしています。
(若干ネタに走ったSEEへのあんまり真面目でもない感想はこちら

長文・ラストシーン中心の感想はこちら


★こちらの映画館で見ました↓
Village Hoyts Queen St。ニュージーランドのオークランドの目抜き通り、クイーンズ・ストリートにあるシネコンです。夜中まで開いているBorders New Zealandという書店やファーストフード店が併設されています。同じ建物内に巨大なスクリーンで見られる劇場もあったことを、帰国してから知り、ちょっと残念でした。


作品情報=ぴあ http://cinema.pia.co.jp/title/2222/
posted by 銀の匙 at 01:59| Comment(0) | TrackBack(2) | ロード・オブ・ザ・リング | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

「王の帰還」(ネタバレあり・長大)

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(以下はHPのバックアップ用記事です)

映画全体の感想はこちら。SEEへのあんまり真面目でもない感想はこちら

(「ロード・オブ・ザ・リング」「ホビット」関連の記事を最初からご覧になりたい方は、右のカテゴリー欄から「ロード・オブ・ザ・リング」を選んでいただくか、→こちらのリンクからスクロールして戻ってご覧ください)
決定的なネタバレはしない、ということで書いたので、ラストシーンについては書くことができませんでした。という訳で以下はこの長い長い映画の中の一番心に残った部分、ラストシーンを中心に書いたものです。読み返してみると、何だかセンチメンタルで変なんですけど、たまにはこういうのもいいかなと…。長文お許しください。
* * * * *
この物語のあらすじを一言でいえば、「主人公が指輪を捨てる話」ということになるのでしょう。だとすると、普通なら捨てるシーンがクライマックスで、成就すれば基本的に物語は終わります。ところが、原作の「指輪物語」ではその後に、「ホビット庄の掃蕩」という比較的長い章が登場するのです。これは(恐らく作者の意図したとおり)、読み手の予想の裏をかき、困惑させもします。

原作にこの章があるということはつまり、物語(またはフロド)にとって、指輪を捨てるという行為が物語の主眼ではなく、この章で起こることのために準備された、ということも考えられるのではないでしょうか。「ホビット庄の掃討」では、指輪戦争の余波によって、主人公の故郷であるホビット庄すら荒廃し、ホビット自身、同じ庄のホビットを相手に戦わざるを得なくなります。そんな中でフロドは一人、誰も傷つかないことを願い、敵であるサルマンやグリマを憐れみ、赦しを与えます。このくだりも、物語全体を締めくくる重要なモチーフです。だから、第一部の時のインタビューですでに、原作の「ホビット庄の掃蕩」に当たる部分が撮影されないことが言及されていたのは、原作をようやく読み終えた後では、大変不思議に思えました。

ところが、実際に第三部を見てみると、一つの指輪が滅ぼされた後も、原作未見の観客にとっては長すぎるであろうと思われるほど、ラストシーンまでは時間がかかります。そしてその中で、はっきりとした形ではないものの、この章のモチーフが織り込まれているのではないかと感じました。そのことを述べるまえに、もう少し映画のシーンを遡って見てみましょう。

* * * * * * * * * * * *
第三部を見ると、LotR全体がフロドを中心に組み立てられたものであることが、よくわかります。個々のエピソードが、フロドの指輪棄却を成功させる方向へと収斂していくのは勿論のこと、サムの描かれ方が抑え気味になっているのもそう思わせる一因です。原作では、彼は一時ではありますが、フロドの代わりに指輪をはめ、その誘惑に打ち勝ちます。少なくとも劇場公開版にはこのシーンはなく(あったとしたら、モルドールで指輪をはめて、なぜサウロンに見つからないのか理由を説明しなければならなくなるでしょう)、観客の前で、所有している指輪の魔力に抵抗して見せるのはフロドだけです。

第一部では、幽鬼の世界に身を置きながら、嵌めた指輪を「外す」という並大抵ではないことをしますし、
第二部では、ファラミアの手に渡ろうとする指輪を、自らの意思の力で隠します。
ただし、「抵抗している」描写は、俳優の演技に頼って表現しなければならず、映画ではいささか難しかったようです。どうしても誘惑されているシーンの方がわかりやすくて目立ちますし、内面の戦いは剣を振るうより過酷なのに、別ルートでの派手な戦闘シーンの描写の前にはかき消されがちでした。しかも、第二部の場合、いったん誘惑に屈してサムに剣を向けてしまうシーンがあるのでなおさらです(第三部の冒頭で、スメアゴルとデアゴルのシーンがあって、ようやく、剣を突きつけるシーンはこのシーンと対になっていたことがわかりますが…)。
第三部も中盤になると、フロドはほとんど動けないにも関わらず前に進もうとし、ここでやっと観客も、彼の意思の力を目に見える形で実感します。

キリス・ウンゴルのシーンではボロボロになりながら、フロドにはまだゴラムを思いやる余裕が少し残っています。このシーンを見て、フロドは優しくて強いなあとちょっとほろっと来ました。ついでにいうとここにも、映画ならではの工夫が見えると思います。映画のサムは、原作と違ってゴラムにあまり憐れみを見せません。このことが逆に主人公の長所を際だたせているし、映画のサムは指輪を嵌めなかったため、指輪所持者の気持ちを本当には理解できなかったことを示す意図もあるのでしょう。原作でフロドとサムの2人がもっている特性をどちらか1人に与えるのは、2人の総和で人物描写をしているためもあると思います。

映画では登場人物の性格をあまり複雑に描写していませんが、これは少ない持ち時間でたくさんの登場人物を出すための苦肉の策と、私には映りました。この映画で使える時間数から考えれば、本来なら登場人物はもっと整理しないと、とてもじゃないけど細かな心理描写はできません。ランキン/バス版の「王の帰還」と比較すれば、それは非常にはっきりします。ランキン/バス版はモルドール・ルート以外の描写はバッサリ切り、それでようやく原作の描写をある程度拾うことが出来ているのですが、1個の映画作品としてはあまりにも不完全です。

文章では小さな描写を積み重ねて微妙な心の動きを追うことができるのに対して、映画の人物描写はセリフではなくエピソード単位で追加しないと、観る側の頭は納得しても感情が納得しません。登場人物がそのような性格を持つに至った背景の描写も必要です。しかも、迷う、感動する、悲しい、といった心の動きに共感させるには、シーンのテンポを遅くするか、時間を長くとらなければならない。主要な登場人物全員にこれをやっていると、映画全体で見たときのテンポが悪くなる。しかし、なるべく原作に出てくる登場人物は出したい…となれば、思い切って一人一人の性格の幅は小さくし、映画の登場人物全体で、勇気や自己犠牲、崇高さといった要素を汲み取ってもらわざるを得ないでしょう。

話が脱線しました。
最後まで耐えに耐えても、フロドは結局、滅びの山で指輪を捨てることはできませんでした。彼はイシルドゥアと同様、指輪を自分のものだと宣言してしまいます(このときのフロドの表情をイシルドゥアと同じにする、という演出は余り感心しなかったけど…顔の作りが違いすぎて、同じ感情を表してるようには見えなかった…)。
なぜそうなったか。
指輪の魔力には誰も逆らうことができない、というのが原作、映画、ともに唯一の理由なのかもしれません。加えて原作を読んだ限りでは、サムとの比較において、フロドには指輪につけ入られる部分もあったのではないかと感じています。逆に映画では、指輪に向かって、まるで生贄のように自分を差し出してしまった印象を受け、彼の運命に涙しました。火口の上でまるで祈るようにうつむき、サムに答えて“I'm here, Sam”(僕はここだ、サム)と答えたときの表情に、オスギリアスでナズグルに向かって指輪を差し出したときの、恍惚とした表情を思い出したためでしょうか…。

火口の一連のシーンでのサムの表情はとてもよかった。彼は最後まで、指輪の行方ではなくて、フロドを心配していることがよく伝わりました。そこへ指輪への妄執によってか、あるいはTTTで指輪にかけた誓いによって吸い寄せられてきたのか、ゴラムが指輪を奪いに現れます。奪われあと、フロドは姿を現しますが、また指輪を取り返そうとする。ここは、指輪を滅ぼすという目的を忘れていなかったというのと、指輪に取り憑かれたままだったというのと二通り解釈できそうですが、私は後者だったと思います。原作にも火口付近で、指輪を争ってサムやゴラムを驚かすほどの力を見せる描写があります。また、ゴラムが指輪と一緒に溶岩の中に落ちたとき、フロドはかろうじて崖につかまっており、サムが手を伸ばすとフロドは一瞬ためらうような表情を見せる、ここでようやく我に返ったのではないかと思ったからです。一緒に映画を見た連れは、ここでもまだフロドは指輪に未練があったのだと言いますが…。彼はサムの“Don't you let go,Reach!”(放さないで、手を伸ばして)という呼びかけに応えてもう一度手を伸ばします。そこには、彼自身が助かりたいと思ったというより、原作でいうと、サムに言われるがままに火口から逃げる箇所と同じ心理が働いているように見えました。

外に出ると、フロドは完全に自分を取り戻し、戻ることはないであろう故郷のことを口にします。これは、滅びの山でサムが彼に語ったセリフをなぞっていると同時に、三部の冒頭でスメアゴルから失われてしまった人間らしい(ホビットらしい?)感覚を、取り戻したことを意味しているのでしょう。ついに解放された喜びに浸るフロドとは反対に、サムは泣きじゃくります。彼にとって、試練はすべて主人を助けるためのもので、自分のためではありませんでした。主人が救われた今、彼は元のとうもろこし畑から先へは一歩も踏み出せないホビットに戻ってしまい、心の奥に忘れていた平凡な自分自身の象徴ともいえる、「ロージーと結婚したい」というごく平凡な望みの封印を解いてしまったわけです。それを聞いたフロドは、

“I'm glad to be with you, Samwise Gamgee, here at the end of all things.”
(お前と一緒にいられて嬉しいよ、サムワイズ・ギャムジ―、ここで今、すべてが終わろうとするときに)

と慰めるかのように言います。 この言葉は、第一部のラストにフロドが言う“Sam. I'm glad you're with me.”を連想させます(こちらは、「お前が一緒に(ついて)来てくれて」ですね)。と同時に、フロドがサムをフルネームで呼んだときに、私が思い出したのはむしろ、こちらの言葉でした。

“I made a promise, Mr. Frodo, a promise. Don't you leave him, Samwise Gamgee, and I don't mean to.”
(僕は約束しました、フロド様。彼から決して離れるな、サムワイズ・ギャムジ―。だから、離れません)

第一部の旅の初めと、そしてフロドが単身モルドールへ向かおうとしたときにサムが言った言葉で、彼は最後までその誓約を忘れませんでした。だからフロドは、第一部でその言葉を聞いたときと同様にサムを抱擁して、先の言葉を言ったのだろうと思ったのです。この物語の中では、言葉による誓約はとても大切なものです。アラゴルンが最後に死者の王に、“I hold your oath fulfilled. Go, be at peace.”(誓いは果たされた。安らかに逝け)と言ったのと同じ意味があるのではないかと。だから、約束を最後まで守ったサムを誇りに思い(サムにとっては何よりの慰めになることでしょう)、彼と一緒にいられることが嬉しい、という意味も込められているのではないかと思います。

このようなサムの働きはもちろん、長いことフロドとサムの二人だけが知っていたことだったでしょう。それに結局、指輪を所持するという試練は、ガラドリエルが言ったように、最後までフロドだけに与えられたものでした。映画のサムは目立った栄誉を与えられることはありませんでしたが、少なくとも表面上は元の生活に帰り、新たな家族と安らぎを得ました。一方、映画のフロドは、この重荷を誰とも分かち合うことができません。「ホビット庄の掃討」が無かったので、ホビット庄は無傷なままに残されています。それに比べて、フロドの何と変わってしまったことか。故郷は救われたのに、彼にはどこにも帰るところがないのです。

緑竜館で乾杯するシーンでは、寂しげに乾杯する四人のホビットたちの姿に、ローハンで楽しそうにここのビールのことを歌うメリーとピピンの姿を重ねて、涙が流れそうでした。ローハンにいたときよりもむしろ、実際に戻ってきた後の方が故郷は遠くなってしまったように見えます。彼らの苦しい旅のことなど何も知らない村人たちに囲まれて飲むビールの味は、以前とはまるで違ってしまったのではないでしょうか。それでも他の三人は何とか元の生活に帰っていけたようですが、フロドの孤独と傷は深すぎて、到底、日々の暮らしで癒されるようなものではありませんでした。

彼はがらんとした屋敷の中で、こう思います。

How do you pick up the threads of an old life? How do you go on, when in your heart you begin to understand there is no going back? There are some things that time can not mend. Some hurts that go too deep,that have taken hold.
(どうすれば昔の暮らしに戻れるだろう、どうすればいい、もう心の底では「行って帰る」ことはあり得ないと知ってしまったら?時間をかけても癒せないものがある。受けた傷は深く根を下ろしてしまった)

机に向かって物語の続きを書くフロドの姿は、第一部のSEEでビルボが書き物をする姿につながります。しかし、同じことをしていながら、フロドしかいない袋小路屋敷は、きちんと片付いたどこか空虚な場所で、ビルボがいたときのような生気はまるで感じられないことに胸を衝かれます。

ビルボを見送って灰色港へ旅立つシーンは、映画の中でも最も心に残ったところです。フロドは、ビルボと二人で馬車に乗っています。まるで指輪を所持していた間に止められていた時が一気にのしかかってきたかのように、ビルボは年老いていて、記憶も定かではありません。そんなふうになっても、彼の指輪への思いは消えておらず、フロドに指輪を見せてくれと頼みます。その時フロドは、まるで感情をどこかに置き忘れたかのような表情で、指輪はなくしてしまった、と告げます。そうするとビルボは、“Oh,pity”と言います。願わくば、もう一度触れてみたかったのだが。その言葉を聞いた後のフロドの表情は、長く暗い試練を経て初めて到達できる境地を示していたと思います。

フロドにとってビルボは一番大切な身内であり、裂け谷で赤表紙本を見ながら交わした会話が示すとおり、憧れの存在でもありました。そんなビルボが裂け谷で指輪に取り憑かれたようなありさまになったことに、どれほどショックを受けたことか。原作では影はその場ですぐ消えうせたように書かれていますが、映画のフロドが内心どう思ったかは想像に難くありません。後にモリアで、彼はガンダルフにこう言います。

“I wish the ring had never come to me,I wish none of this had happened.”
(指輪が自分のところに来なければよかったのに。こんなことが何一つ起こらなければよかったのに)

この言葉の中には「ビルボが自分に指輪なんてくれなければ良かったのに」という意味も当然含まれているものと私は考えます。なぜなら、このセリフは、ゴラムを見つけたときの

“It's a pity Bilbo didn't kill him when he had the chance.”
(ビルボがあいつを殺しておいてくれなかったことは残念だった)

の後に出てくるセリフだからです。このときは、ガンダルフが“pity”という言葉をとらえて、フロドを諌めます。「残念だ(a pity)と言うが、その情け(the pity)こそが皆の運命を変えるかもしれない」。馬車でビルボが「pity」と言ったとき、フロドにはこの会話が思い出されたことでしょう。一度は指輪の虜になって初めて、フロドはビルボの妄執を本当に理解したのではないでしょうか。彼は哀しげに眼を閉じ、そして同情と愛情の念を込めてビルボに額を寄せます。この一瞬の表情に、私は原作の「ホビット庄の掃蕩」に匹敵する赦しを見ました。相手はサルマンではなかったけれど…。本当に素晴らしい表情でした。

フロドを演じたのがイライジャ・ウッドであったことは、この物語に神話的な色彩を与える上で、多大な貢献をしたと思います。もちろんバクシ版のアニメのように、見た目は平凡でも内に強さを秘めた人物造型にしたらもっと原作の意図に沿っていたのかもしれません。原作では、サルマンがフロドに「あんたは成長したな」というシーンもあり、主人公の成長が重要な要素でもあるのでしょう。映画では成長したというより傷ついて変わってしまったという面だけが強調された嫌いはあります。

それでも、イライジャの演じるフロドには、第一部の初めから、少年と青年のちょうどはざま、男性と女性の間、定命と不死の者の間の儚い存在、何かこの世のものならぬ雰囲気がありました。彼がフロドだったからこそ、第一部の冒頭でガラドリエルが暗示している通り、この話が単なる冒険物語ではなく、消え去ってしまった過去の記憶なのだということを視覚的にも示せたのだと思います。

第三部も終盤になると、彼はホビットというより、ほとんどエルフのように見えます。灰色港のシーンでサムに向かって赤表紙本を差し出すときの話し方、友人たちをじっと見つめる眼差しには、どこかガラドリエルを思わせるものがありました。第一部からここまでさんざん涙を流してきたのに、一番悲しいはずの別れのシーンでは、フロドは目を潤ませることすらしません。サムを抱擁したほんの一瞬、ちらりと悲しげな眼差しを向けるだけです。彼はその時点ですでに、ガンダルフがミナス・ティリスでピピンに話していたような、別の世界に住む人になっていたのでしょうか。

ここで思い出したのは、TTTのラスト、サムが自分たちの冒険が歌や物語になって語り継がれるかどうか、尋ねているシーンです。子供たちが父親に、フロドの冒険を聞きたいとせがんでいるところを想像するサム。フロドは、勇者サムワイズの話を忘れているよ、と言って笑います。原作ではキリス・ウンゴルの暗いトンネルの中で語られ、絶望的な状況の中でもくじけないホビットの強さを示す、とても好きなシーンでした。映画では、オスギリアスでの試練をなんとかクリアして、少しほっとしたところに置かれています。笑ったフロドにサムは、真面目な話をしているんだと抗議しますが、フロドはサムに向かって振り返り、自分もそうだ、と言います。この振り返った一瞬の、怖いほどの美しさは忘れられません。この時点ですでに、彼がサムの目の前に実在する人物ではないような錯覚すら覚えたものです。もはや、人々が、サムが語る、物語の中にしか存在しない人のように。

灰色港では、フロドは、すでに悲しみを超越したような表情で

“We set out to save the Shire, Sam. and it has been saved, but not for me.”
(僕たちはホビット庄を救うために出かけたね、サム。そしてホビット庄は救われた…だけど、それは僕のためではなかった)

と言います。あまりと言えばあまりな結論。サムは納得が行かず、泣きの涙で引きとめようとします。
しかしフロドは赤表紙本を彼に手渡し、終わりの方のページはお前の分だよ、と言います。そのページが尽きたとき、サムはどうするでしょうか。原作なら、フロドは、かつて一時とはいえ指輪所持者であったサムに対して、お前の番も来るだろう、と予言めいたことを言います。映画ならどうでしょう。赤表紙本を書き終えたとき、サムはようやく、彼自身の物語を生きることになるのではないでしょうか。家路をたどるサムの姿に重なってフロドは語ります。

“My dear Sam, You can not always be torn in two. You will have to be one and whole for many years. You have so much to enjoy,and to be, and to do...Your part in this story will go on.”
(サム、お前はいつも、二つに引き裂かれている訳にはいかないよ。ずっといつも一つで、完全な者でいなければ。心行くまで楽しんで、生きて、いろいろなことをするんだ。お前の物語は、続いていくのだから)

ここでtear in two、二つに引き裂かれる、とフロドが言っているのは何のことでしょう。原作を読むと、ホビット庄に帰ったあと、サムは自分の家庭をもって、一方でフロドの面倒を見ています。彼はずっと、フロドがこれほどの犠牲を払いながらそれなりの待遇を受けていないことに心を痛めていました。しかし、いざフロドからビルボに会いに行く最後の旅に誘われると、サムは、一緒に行きたいが、本当にいたいのはここ(家族のもと)だけで、二つに引き裂かれるような気持ちがする、と言うのです。こう言われることを予期しているフロドが可哀想で、読むたびにどうにもやり切れないシーンですが、映画ではこういう描写はありません。

それではサムは何と何に引き裂かれるのでしょう。フロドを懐かしむ気持ちと、今の家庭を大事にする気持ちでしょうか。私は、サムが体験した指輪戦争の出来事と、サムがこれから生きなければならない現実の生活という意味かなあ、とおぼろげながら思っています。ラストシーンで彼は、遠いまなざしをしながら、“Well...I'm back.”いま戻ったよ、と言い、過去を後ろ手に閉めるように、ドアを閉じます。サムは起こったことを忘れることはないでしょう。それでも、彼はその後、ホビットらしく生きていけるのではないかと、そんな感じがしました。

一方、フロド自身は輝くばかりの笑顔を残して、海の彼方へ去ってしまいます。アラゴルンの母ギルラインが(SEEで)「私は自分のために望みをとっておかなかった」と語ったのと同じく―フロドは、他人の幸せのために自らは犠牲になりました。あの笑顔は、残された者を祝福しているかのように見え、また、すべての痛みから解き放たれて、すでにこの世にいない人のようにも見えます。それでも、見送る者に背を向ける直前の表情は、第一部の最後に“Sam. I'm glad you're with me.”といった時と同じ、元のままの彼らしく、何だか少しほっとしました。

原作を読んだときには、あまりにも悲しくて、最後の数ページは涙なしに読み進めることができなかったものですが、映画の方は原作とはまた違った味わいがあったとでもいいましょうか。原作には、メリーとピピン、サムが泣いていたことは書いてありますが、フロドの表情については何も書かれていません。ですから、フロドが笑顔を見せるとは考えてもいなくて―というかフロドがどんな表情をしているか考えたこともなかった―良い意味で意表を衝かれました。そして、どこか他の場所へ行かなければならないのなら、せめてそこでは幸せに暮らして欲しいという気持ちをかきたてられました。とても悲しかったけれど…。

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ロード・オブ・ザ・リング3部作

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(ビルボの書斎内の記事のバックアップです)映画化のニュースを目にしてから足掛け3年、ようやく最終章を見ることができました。
自分にとって、これほど語りたくなる映画も、語るのが難しい映画も初めてです。

そもそも、原作『指輪物語』を手にしたこともなかった自分にとって、「ロード・オブ・ザ・リング」はまったく未知の物語でした。にもかかわらず、製作発表時にネットに上がったほんの数点のスチルにさえ、激しく惹かれるものを感じました。そして、いよいよ映画館で第一部の予告を見てみると、一番心を動かされたのは、画面を埋め尽くした兵士たちが一瞬にしてなぎ倒される場面の映像でした。

その絵は「ファンタジー」という言葉から想像する甘くて夢のような世界とはまるで違う、動かしがたい神話か、冷徹な歴史の一コマのように見えました。期待は裏切られることはなく、第一部の冒頭では「予言」と題された音楽が流れ、ガラドリエルのナレーションが静かに、映画の結末を暗示します。これから語られる物語は、全て失われてしまったものなのだと。

この、冒頭のナレーションに関して、第一部のDVDのコメンタリ―で主演のイライジャが語る内容は示唆的です。もともとこの部分をフロドが語るヴァージョンもあったけれど、使われなくてよかった。それでは終わった冒険の話になってしまう――彼のコメントは、話の先がわかって興を殺ぐという程度の意味だったかも知れません。それはともかく、映画はフロドの冒険譚にも、彼の成長物語にもならずに済みました。第三部でフロドが記録の書き手であったことが明らかになるけれど、映画全体の語り手はやはり、彼ではありえません。彼の残したものは、伝えられるうちに歴史になり、伝説になり、そして神話に、やがては誰一人定かには知らない遠い記憶のようなものになってしまう。この寂寥感が三部を通じて流れ、映画を一つにまとめているように思います。

 このように、おとなしく作っていれば文科省推薦間違いなしの格調を備えながらも、監督はこの映画を一つの枠に閉じ込めることはしませんでした。凝りに凝ったディテールから辟易するほどの演出、ホラー、ゴシック、ラブロマンスなどジャンルは横断的にミックスされて何もかもが過剰なうえ、俗悪な部分はとことん俗悪、かといって娯楽作に偏することもせず、微妙なバランスの上に成り立っているのが優れて現代的で、興味深かったところです。長さがそれを可能にした、とは言えるかもしれませんが、凡百の監督なら素材の偉大さに負けて、自らのよって立つスタンスを捨ててしまっていたことでしょう。ただし、それをやったらハリウッドの雇われ監督の仕事と一緒です。原作は原作で面白く、映画は映画で面白い、というのが一番理想的なパターンだと思うんですが、しかし、ピーター・ジャクソン監督は、敢えて原作あってこその映画化という一線は崩しませんでした。もっと大胆な解釈を見せてくれても面白かったという気もします。

中国語に「仁者見仁、智者見智」ということわざがあります。仁を重んじる人は、何を見ても仁を見いだし、智を重んじる人は、何を見ても智を見いだす、というほどの意味です。物の見方は人それぞれ、という風にもとれましょうし、穿った言い方をすれば、物の見方によって相手を知ることができる、とも取れましょう。そう思いつつ「LotR」三部作を見ると、たとえばオークや怪物が跋扈するグロテスクなシーン、悲惨極まりない戦闘シーンは生き生きしていて、PJ監督が嬉々として付け加えたシーンのように見えます。しかし、実は原作を読み返してみると、この手の描写は少なくないのに驚きます。読んでいるときは無意識のうちに避けていたのでしょうか。変な言い方ですが、改めて原作の中に潜む一面に光を当ててもらったような気がしました。

とはいえ、最終章の「王の帰還」は、原作の制約にしばられ、限られた時間の中に詰め込めるだけエピソードを詰め込んだ感もなきにしもあらず…、それでもなお『ロード・オブ・ザ・リング』はPJの作品であり、ジャンルと表現の幅を広げたエポック・メーキングな作品だと言えるでしょう。

(若干ネタに走ったSEEへのあんまり真面目でもない感想はこちら
posted by 銀の匙 at 01:48| Comment(0) | TrackBack(0) | ロード・オブ・ザ・リング | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年03月11日

サイドウェイ

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ワインが重要な役割を果たす作品と聞いて、アメリカ人にワインなんてわかるのかよ!と思ったり(←自分は下戸のくせに)、人生の味わいを感じさせる作品と聞いて、アメリカ映画でしみじみした味わいなんてわかるのかよ!と思ったり(←単なる偏見)した浅はかな私をお許しください、ペイン監督。

いい映画でした、本当に…。

まず、しょぼくれた凸凹中年男二人組のロード・ムービーという設定がツボでございます。

ロード・ムービーというだけで、好きの基礎票は確保されてしまうのですが(ちなみに、私に言わせりゃ「ロード・オブ・ザ・リング」のカテゴリーはファンタジーじゃなくてロード・ムービーなんですけど、いえ、別に「指輪への道」と思ってる訳では)、それはさておき、しっかりしてるかと思えば、時折すごく子供っぽかったりするオタク風味なマイルスと、本人的にはまだまだイケてるナンパ野郎、でも時折保護者のようにフォローに回るジャック、この2人のキャラクターが良い具合に噛み合っていると思います。

離婚の痛手を引きずったまま、人生にも希望を失いかけているマイルスと、(彼にしてみれば)人生の墓場である「結婚」に一週間の執行猶予しかないジャック。本人たちにとっては深刻なシチュエーションなのに、肩の力が抜けていて、見てるこちらが浮き浮きしてくる軽妙さなのです。アメリカの良さが凝縮されたような感じとでもいいましょうか、いろいろ言われてはいるけれど、この人たちは根っこのところではあくまで楽天的で、開けた心を持っている人たちなんだよなあと再認識した次第です。

後で振り返って見ると、しょぼい野郎どもが感じのよい美女にモテモテ…という展開にはそんな都合いいことあるかしら…と思わなくはないですが、そこはオトコの(オタクの)ロマンということで。

キャスティングは最高にハマッてますし(彼らに絡む女性たちもとても良かったです。しかし…アメリカ映画に出てくる東洋系の美女って、ははは♪)ちょっとザラザラした映像とジャズでまとめた音楽もいい感じです。ヴァージンTOHOシネマズ六本木で見ましたが、お客さんがウケて盛り上がりました。できれば劇場で見たい作品です。

監督:アレクサンダー・ペイン
出演:ポール・ジアマッティ他
130分
posted by 銀の匙 at 22:47| Comment(2) | TrackBack(0) | 映画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年03月06日

20のアイデンティティ

2004年の東京国際映画祭で上映された作品です。ちょうど忙しくて行かれなかったのですが、シアター・イメージフォーラムで「韓国インディペンデント映画2005」という催しがあり、その1本として上映されました。立ち見が出るほど大入り満員、老若男女幅広い層のお客さんが詰めかけていました。

もともと「韓国映画アカデミーの創立20周年を記念して、同校出身の20人の映画監督が「20」をテーマに競作した、全20話のオムニバス作品」だったそうです。今回はそのうち10話が選ばれていました。

街の様子やファッション、部屋の中のグッズに至るまで、何だか日本と良く似てるな〜というのが第一印象でしたが、もちろん韓国の人のアイデンティティは日本人とは全然違います。喜怒哀楽が激しいし、女の人は美人だし(笑)。特に、現代の民話とでもいいましょうか、現実はキビシイねえ…みたいな作品が韓国らしく感じられて好みでした。

特に面白いと思ったのは

『秘密と嘘』監督:ミン・ギュドン 9分
20歳になって運が開けた男。アクシデントで可愛い女の子と知り合い、婿養子に入ることになります。ところがお義母さんというのがまたセクシーで…。
韓国映画のお家芸、セクシー路線がやりすぎで笑っちゃう楽しい作品ですが、この秘密と嘘をどうしよう??と考えるだすと、なかなか深刻な話なのかも。

『Fucked Up Shoes!』 監督:ユ・ヨンシク 6分
あるレストランの玄関。お客さんは靴を脱いで上がります。ちゃんと揃えて脱がないせいで、20組の靴はぐちゃぐちゃに。帰るときにはお約束の大混乱が起こります。秀逸なアイデアだったので、もうちょい捻ってあれば傑作になったかも。最後の店員さんのセリフ、字幕は「さようなら」でしたが、意訳になっても「毎度ありがとうございました!」が良かったなあ。

『Sutda』監督:キム・イソク 9分
賭場の中だけで進行するお話。20歳になって花札を覚えた主人公は、こんな生活はイヤだと思いつつ、賭場に入り浸る毎日です。負けを取り返さなければやめられない、と思い詰める彼はどうやら賭け事が原因で両足を失ったらしいのです(この辺、全く説明がないだけに却って怖かった)。その日、彼には凄い役が回ってきます。最後の大バクチに出るべきか、それとも…。哀愁漂う作品。

『20の質問』監督:イ・スヨン 5分
男は彼女にふられたばかり。もう生きている甲斐もないと、ホームから飛び込み自殺をしようとします。ところが、彼が落とした携帯を拾った男が追いかけてきて…。
きれいごとでは済まされない、現実世界のキビシサを思い知っちゃう作品。

『シンク&ライズ』監督:ボン・ジュノ 7分
河のほとりにある売店で親父さんが一人、店番をしています。よく見ると「キネマ旬報」なんか読んでて観客の爆笑を誘っていました。そこへ現れた貧しい身なりの父娘。娘に「ゆで卵は水に浮かぶ」なんて講釈を垂れる父親を諭す店番親父に、もし卵が川に沈んだら娘をやる!と言い出す父親。え、まさかまさか…?
たった7分でしたが、見応え十分だった作品。店番の親父さん、どこかで見た気がするなあ、と思ったら「火山高」で教頭先生をやってた人じゃないでしょうか。凄い存在感でした。

シアター・イメージフォーラム(渋谷)韓国インディペンデント映画2005のHPはこちら
posted by 銀の匙 at 23:12| Comment(0) | TrackBack(0) | 映画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする