2013年06月03日

映画『オブリビオン』(ネタバレ表示以降、未見の方は注意!)

最近のSF大作にしては2時間の上映時間はちょうど良かったですね。って、褒めるとこは、そこかい…な、感じですが、まずは映画館で観とけ、と、おススメしときましょう(何をエラそうに)。

前評判通り、背景も、登場人物も、極限までそぎ落とした映像がとてもスタイリッシュで綺麗。アイスランドでロケをしたと聞きましたが、薄い灰色、白、薄い緑が主体の地上の風景は大変美しく、雲の上にしつらえられたトム・クルーズの住居兼オフィスも本当に素敵です。

建物はセットで、眼下に映る光景はハワイの山上で撮影したものだとか。移りゆく雲、時間とともに変化していく空の色が素晴らしく、このあたりのシーンだけ編集して、ずーっと壁に投影しておきたいと思ったほどでした。

雄大な風景をバックにした追撃シーンも迫力があり、IMAXでの鑑賞がおススメです。

ヒロインのジュリアを演じたオルガ・キュリレンコは私のストライクゾーンの女優さん(誰も聞いてないですね、そんなこと。でもなぜか時々中島みゆきに似てるなーと思うこともあるんです…)。ただ、見た目あまりアメリカ人っぽくない彼女が、アンドリュー・ワイエスの絵の前に立って故郷を思い起こすシーンは、ちょっと違和感ありましたけど。

映画のぱっと見の印象は、いかにもお金のかかった、でもストーリーはいろんなSFをつぎはぎしたような作品、なんですが、観終わった直後から、じわじわと心に沁みるSF映画なんです。それは恐らく、もう一人のヒロイン、ヴィクトリアを演じたアンドレア・ライズボローの好演のおかげが大きいと思います。

お話の方も、単純なようでなかなか歯ごたえがあります。
ストーリーの「オモテ側」は、こんな感じです。

舞台は2077年の地球。エイリアンの侵攻に人類は勝利するも、その戦いのために月は破壊され、地上は地震や津波、また核兵器による汚染にさらされ、居住不可能な状態に。人類はタイタンへの移住を計画し、準備を進めていた。

しかし、計画の切り札である海水を使ったエネルギープラントは、常にエイリアン「スカヴ」の攻撃にさらされており、空中に浮かぶ、移住までの居住地「テッド」にある本部は無人偵察機ドローンによって、プラントを守っている。

なぜか5年前以前の記憶を抹消されたまま、トム・クルーズ演じるジャック・ハーパーは、ドローンの修理屋として地上に降り、地表高く作られた管制ルームで彼をサポートするヴィカとともに、たった二人、プラントを守っていた…

広大な地球をバックに男女二人だけが取り残され、故郷の大地も、かろうじて、放射能汚染地域の境界線に降りることができるだけ。頼りの本部「テッド」も、日没時には通信できなくなる。しかも、「テッド」とのやりとりは、いつも決まりきった言葉の往復…。

こんな美しくも寂しく、単調な生活が繰り返される中で、ヴィカのただ一つの希望は、あと2週間で任期が終わるということ。決まり通りの手順にしばしば違反するジャックをいつもはらはらしながら見守るヴィカ。

美しく、まるでアンドロイドのような彼女の表情は、無表情なのに何か必要以上のことを知っているような、不思議な雰囲気を漂わせています。

一方のジャックは、繰り返し繰り返し現れる記憶の断片に悩まされています。エイリアン侵攻前の地球、ニューヨークの雑踏の中で振り向く、長い黒髪の女性。エンパイア・ステートビルの屋上らしき場所の望遠鏡…。

そんなある日、地表に宇宙船が墜落するという大事故が起こります。どうやら、かつて地球からタイタンに向かうことになっていた調査船のようです。ところが、事情を知らないらしいドローンが、墜落機のカプセルで冬眠する生存者を攻撃しはじめます。ジャックは危険も顧みず、ドローンの攻撃を止めようとしますが…。


観終わった後も、いったいヴィカにはどんな記憶があったのか、繰り返し考えてしまいます。いつも伏し目がちで、指令を疑わないヴィカ。きっとジャック・ハーパーを心から愛していたであろうヴィカ。

サスペンスの謎解きや、ヒロイン・ジュリアと主人公ジャックの永遠の愛の影に隠れてしまった切ない彼女の物語こそ、この映画を記憶に留めるものにしてくれているのだと、つい思ってしまいます。




以下、ネタバレになりますので、ご覧になっていない方はご注意ください。





さて。


裏のストーリーの方は、つなぐもつなげたり、『月に囚われた男』+『ブレードランナー』+ひょっとすると『2001年宇宙の旅』+『ターミネーター』って感じでしょうか。

これは新鮮、という設定がなかったのが残念ではありますが、未来を描くと言いながら現代の問題にもつながる描写がされていること、お話の中で、いろいろな要素がそれなりに整合性が取れているので、SFとしては及第点だと思います。

結局、宇宙のどこかから現れた破壊機械(後の「テッド」)が、自らの取り込んだサンプル(NASAがタイタン調査のために送り出した探査機にのっていた、ジャックとヴィカ)を大量にコピーして地球を制圧、その後は、自らが海洋資源を利用するためにプラントを作ったものの、生き残った人類の破壊工作に遭い、防御のための無人攻撃機のメンテナンスをジャックのコピーが担っている訳です。

ところがコピーの方にもオリジナルの記憶は残っていたらしく、地球を周回し、60年ぶりに地上に呼び戻されたNASAの探査船の後部(破壊機械に取り込まれる直前にジャックが切り離した)で人工睡眠状態になっているジュリアを見て、ジャックの方はこれが夢の中の女性、そして妻だったと思い出す。

そして、管制タワーに連れ帰ると、ヴィカの方は規則違反だと強い拒絶反応を起こす。ま、単に嫉妬した、ということなのかも知れませんが、当初同じ探査機に乗っていた者同士、実はオリジナルのヴィカもジャックに思いを寄せていたのかも知れません。

どの程度記憶があるのかは分かりませんが、アンドレアが、知っていそうな、何も知らなさそうな、実に微妙な演技で、見る者に切々と迫るものがあります。

映画のストーリーの方は、このあたりを大げさに盛り上げたりせず、さらりと流しているのも、アクションものの分かりやすいSF+永遠のラブストーリーを観たい人にはそう観えるということで、面白い作りだと思います。

一方、SFの中身を見ていくと、どっかから究極の破壊機械が忽然と現れて…なんて話、唐突すぎてなんだかなー、なんですが、そんな凄いテクノロジーの割には、テッドの中身もドローンも人間の理解の範疇内なのが、怪しい感じなんですよね。

実は、テッドは宇宙の果てからやってきたのではなく、人間が秘密裏に作っていたものが、制御が効かなくなり、暴走を始めたのではないか…。そう考えると、いろいろと辻褄が合います。

第一、ドローンにしても、攻撃機能を備えた人工衛星にしても、すでに世の中に存在しているし、相手が誰かを考えもせず、無条件に殺戮しようとする兵士も存在します。ジャックも言います。ドローンではなく、ジャック自身が武器なのだと。あるいは、この作品の裏テーマは、こうした状況やこうした状況を引き起こす、人間への諷刺と見ることだってできるでしょう。

さらにもう少し、普遍的なテーマを探るならば、それはSF(そして文学)の一大テーマである、人間とは何か、ということに行き当たります。

ジャックは、地表に残された、美しい自然に囲まれた小屋の中に、死について書かれた本を大切に持っています。ジュリアと2人、歳を取り、だれにも知られることなく死んでいく…そんな将来像を語るという、決戦シーンの前によく置かれるお約束のシーンなんですが、この映画では皮肉にも、その直後に、ジャックは大量にコピーされた存在なのだということが発覚します。

ま、世界のヒーローとして彼が犠牲になるとしましょう。

でも、まだまだ「ジャック」は大量に存在してるんですよ。(感動のラストシーンにさえ、のこのこ出てきましたよね?)

トム・クルーズのファンにゃー嬉しいかも知れませんが、これは相当シュールな光景です。何せ、ジュリアを発見したジャックだって、オリジナルではないんですから、彼をジャックと認めるなら、ジャックは永遠に死なないし、取り換えの利く存在、まるで彼らが破壊しようとした機械のような存在ということになります。

ついにテッドに乗り込んできたジャックと対峙した人工頭脳は叫びます。クローンを作ったのだから、
私こそが神なのだ、と。そうだとすると、クローン(コピー)は人間ではないのでしょうか?

一方、同じ記憶、同じ身体を持っていても、経験が違うのであれば別の個体、とみなすのであれば、5年前以前の物事を忘却し、ジュリアとであったジャックはやはりジャックとは言えないのでしょうか。『トータルリコール』では、記憶をいったんなくした主人公は、記憶のなくなる前とはまるで正反対の人間になってしまうのですが…。

そういうわけで、「忘却」をタイトルに冠したこの映画、難解すぎてお客がついてこれない、という風には作っていないものの、なかなか味わい深いものがあります。他にもいろいろ解釈はできそうですね…


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posted by 銀の匙 at 02:25| Comment(0) | TrackBack(0) | 映画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年06月01日

きっと、うまくいく 3 idiots

映画館では、「オレ、インド映画『ムトゥ』以来」みたいな話している人が多数いたように、残念ながら普段は見る機会の少ないインド映画。私も本当に久しぶりに見ましたが、さすが一般公開に踏み切っただけあって、老若男女、どなたにも楽しめる作品でした。

3時間と長尺なので(スルーされちゃいましたが「インターミッション」というテロップが出てましたので、地元で上映するときは折り返し部分で休憩が入るのでしょう)、笑って泣いて感動してたらあっと言う間でした。

ある日、いきなり母校、超名門のICE工科大に呼び出され、「勝ち組」チャトゥルの腹いせに付き合わされる羽目になった2人の同窓生、ファルハーンとラージュー。チャトゥルは、天才クラスメートのランチョーに忘れられない(爆笑ものの)屈辱を味わわされた怒りから、10年後の9月5日、すなわち今日、どちらがより成功しているか賭けをしよう、と言っていたのです。しかしその場にランチョーは現れず、なんとか今の自分の成功を見せつけたいチャトゥルと、親友を慕うファルハーンとラージューの2人は、卒業後忽然と姿を消したランチョーの行方を捜すことになります。

3人が捜すランチョーとは、気は優しくて機械オタクのナイスガイ(あんまりこういう組み合わせの人知らないけど)。Aal is well (何とかなるさ;うまく行くさ)が口癖で、学業優秀ながら正義感が強すぎ、あちこちでトラブルを引き起こしてしまいます。

彼と同室となったばかりに常に厄介事に巻き込まれてしまうファルハーンとラージューですが、そこはランチョーの機転と発明でいつもピンチを切り抜け、友情を深めていきます。ランチョーは学長をおちょくりつつも、暗記ばかりで本当の勉強をしようとしない、させない学生や学校の目を覚まそうと奮闘し、ついに首席で卒業したあと、忽然と姿を消す…というところまでが前半。ここで本来ならちょっと休憩が入り、後半にはあっと驚く展開が待っています。

工科大学生のバカ話というと、つい、「ビッグバン★セオリー/ギークな僕らの恋愛法則」を連想しちゃうんですが、こちらはセリフで笑わすというより、やんちゃで笑わすと言った感じでしょうか。理系男子あるある……的なノリは少ないものの、野郎だらけの宿舎であるある……ネタはバッチリ組み込まれ、青春ムービーにはつきもののロマンス、インド映画にはお約束のダンスシーンも盛り込んで、なおかつ細かい伏線をきっちり回収していくドラマ作りに脱帽です。

音楽はインド映画らしい、キャッチーで踊れるメロディのものばかりですが、舞台が現代の、しかも工科大ということで、アレンジがかなり現代風になっています。現代風といえば、サリーが似合えばよかった昔のぽっちゃり系ヒロインと違って、いまはイブニングドレスやジーパンなんかも颯爽と着こなせなければダメみたい。

聞いてて面白かったのは、現地語(ヒンディー語)と英語がちゃんぽんで出てくるところ。どんなときヒンディー語から英語にスイッチしているか注意してたのですが、あまりにシームレスなのでときどきいつ切り替わったか気が付かないほどです。英語の中にヒンディー語が混じってる(小学校の先生様:マスター・ジーとか)こともあるし。字幕大変だったろうな、と思ったら松岡環さんでした。ずっと前、個人でインド映画を広めるために奮闘していらしたときに、作品を見せていただいたことがあるのですが、今も変わらず頑張っていらっしゃるのに感動し、なんだか映画と重ねてみてしまいました。

感動といえば、悪役(?)っぷりが板についてた学長先生が、一番初めにランチョーから「宇宙でなんでペンが必要なんですか?鉛筆で書けばいいのに」と質問されて即答できず、一本とられた形になっていたのを、最後にキッチリ返してそのままにしておかなかったところが、とても科学者らしく、そして先生らしくてジーンと来ちゃいました。

ぜひ、ぜひ皆さまもご覧になってください。

シネリーブル池袋で見ました。ルミネの中にある小規模な映画館ですが、ラインナップがとても良いです。画面が小さいのがちょっと残念ですが、席は段差があってよく見えます。スクリーンがかなり上の方にあるので、I以降の席がおススメです。

以下、ネタバレになりますので、未見の方はご注意ください。






後半の、実は彼は大金持ちの養子で、主家の跡取りになりかわり…という展開が、なんだか『ムトゥ 踊るマハラジャ』でも見たなー(あっちは逆の立場でしたが)という感じでしたが、昔の日本の映画とか、韓流とかといっしょで、こういうのは鉄板ネタとして入ってるんでしょうか。あるいは、インドの庶民が見ると、カタルシスを得られる展開なのか、インドのことにとんと疎いのでよくわからないですが…。

今も階級社会なのか、仕事は好きに選べるのか、女の人もふつうに働いてるのかなどなど、知らない自分にもやもやしつつ見ておりました。出身地ネタも入ってたみたいでしたが、よく分からなかったのも残念。

ラストは、やっぱりねー、という感じでしたが(ペンネタも効いてましたね)、実は小学校の先生「のみ」というのでも良かったんじゃないかなと思います。それじゃチャトゥルにいっぱい食わせられないから観客は納得しないかな。優秀なら成功する、とランチョーは言ったけど、その成功が社会的地位とか、収入の額だといことなら、何だか彼の自由人っぽい言動と整合性がとれないような気がしました。

ま、収入は少ないけれど、好きな道を歩んだファルハーンのエピソードもあるし、ランチョーは結局、自分の好きなことが認められたということだし、これでいいのだ!
posted by 銀の匙 at 01:06| Comment(0) | TrackBack(0) | 映画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする