2016年11月29日

神水の中のナイフ

白い服を着た人たちが画面の中を横切っていきます。
白は中国では喪の色。

元からか、中国に住んでるからなのかは分かりませんが、この映画の主役である、回族(イスラム教を信奉する少数民族)の人たちにとっても白は喪の色であるらしく、つまり、埋葬のシーンから映画が始まります。

法要をどうするかで、故人の夫である老人と息子とが話をしています。四十日の法要というのを盛大に行う習慣らしく、息子は老牛を犠牲として捧げるという提案をします。老人の方は迷うところがあるらしく、老いて耕作にも向かなくなった老牛を、ためつすがめつしています。

牛は牛で何かを察知したらしく、餌を受け付けなくなります。老人は、宗教指導者のところへ行き、清水の中にナイフを見、自ら清浄を保った奇跡の牛の話を引き合いに出して、老牛を見に来るように話しますが、指導者の方は興味は示すものの、牛をさらに高い目的のために使うのだから、良いことなのだと父親を諭します。

遺品としてスカーフをもらった嫁や、故人に貸した5元を返してもらった知人など、独り言のような切れ切れのエピソードがぽつんぽつんと点描され、映画は寂寥感を深めていきます。

そこに映し出されるのは、水も食料も十分になく、最低限の物資での生活です。

それでも、家々は清潔に整えられ、貴重な水で老人は丁寧に沐浴を行います。確かに貧しい生活ですが、どこか清々しいものを感じさせます。

そして法要を前に、老人は町の市場へ行くと言いおいて、独り出かけます。雪を頂いたいくつもの盛り土が連なる場所で、彼はじっと佇んだまま…。

                     *

上映のあと、プロデューサーによるティーチ・インが行われました。

かろうじてコーランの朗誦が、やや音楽的ではあるものの、まったくBGMのないこの映画、正直、静謐すぎて気が遠くなる瞬間もあったのですが(…)、監督もオーケストラ曲を起用しようとしたものの、結局やめてしまったそうです。

正方形に近い4:3の画角にしたのは、クラシックな雰囲気を出したかったということに加えて、主人公の心の動きに集中してもらいたいという意図があったとのこと。

主人公が寡黙なのもきっと同様の意図によるのでしょうが、主人公を演じた人は実は真逆の明るい性格で、なんと外国へ行ったこともあるのだとか。彼を含め、全員が地元の素人の人たちだとは信じられないほどの自然な演技でしたが、この地で実際に生活している人たちが出演することで、映画がよりいっそう風土に結びついて感じられました。

監督は漢民族の人で、大学で回族のクラスメートに勧められてこの作品を撮ったとのことですが、原作小説の舞台になった、寧夏回族自治区の西海固に強いこだわりがあったそうで、人も含めた風土を写しとりたかったのでしょう。

回族の人たちは、いわゆる色目人(しきもくじん・マルコ・ポーロの『東方見聞録』とかに出てきましたよね)の末裔だということですが、ウイグル族とは違い、外観は漢民族と特に変わりません。しかし彼らは700年にわたって伝統を守り、イスラム教の教義に則って暮らしています。

劇中、主人公の老人が、天井から吊るした甕から滴り落ちる水で丁寧に沐浴する場面が描かれていて(まさかサービスカットじゃないよね?と思ってしまった・笑)、水が貴重だということを説明するにしてはずいぶん儀式的だと思ったら、イスラム教では大切な行為だったのですね。

プロデューサーも、実は漢民族の間でも、昔は目上の人に会う前にきちんと沐浴をしていました、と説明してくれました。日本でいう禊に近いイメージでしょうか。

それに加え、映画では雨や雪のシーンが結構重要なところで登場するので、砂漠のように見えて実際はかなり降るんだなと思ったら、実はほとんどの年が干ばつに見舞われていて、国際連合世界食糧計画によれば、地球上で最も人類が生存するのに適さない地と認定されているところなのだとか。

そうした、すべてがそぎ落とされた環境の中だからこそ、人間と動物、生と死とが、より近しく感じられるのかも知れません。

                        
                     *   
東京フィルメックス映画祭で見ました。
この映画祭はいつもユニークで心に残る作品を上映してくれるので、楽しみにしています。今年は時間の関係で2本しか見られませんでしたが、大賞の作品(『よみがえりの樹』)やその他の作品にも、見てみたいものがたくさんありました。来年も(開催されますよね?!)、ぜひ出かけたいと思っております。

朝日ホールでの上映だったのに、よみうりホールに出かけてしまい、
落語の会に入場しそうになったマヌケな観客は私です。

左端よりのブロックで見ましたが、案外観やすかったです。
音楽がなかったからかもしれませんが
(ステレオだったら音のバランスが気になってたかも)。



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2016年11月27日

湾生回家

台湾で生まれた人のことを“湾生”というそうです。

初めて聞いた...と思ったけど、そういや、香港で生まれた人のことは“港生”っていうんですよね。
確か、ジャッキー・チェン(成龍)の本名が陳港生だったはず。

しかし、この映画の“湾生”たちは日本人。台湾が植民地だったころに親が台湾に渡り、現地で生まれた日本人のことを指します。

本作品は彼ら、台湾を故郷として懐かしむ、老境の日本人たちに寄り添った、台湾の監督によるドキュメンタリーです。

前半、“湾生”の一人が台湾・花蓮の生まれ育った村に帰り、幼なじみの家を訪ねあてると、多くの人はもう鬼籍に入っています。さすがにもうはるか昔の出来事になっちゃったんだな…と思っていると、後半には、日本人の母・清子さんを持つ台湾のファミリーが、寝たきりの清子さんに代わってそのルーツを探すエピソードがあり、清子さんを台湾人に預けて日本に帰ってしまったその母・千歳さんのことをまだ覚えている人が登場したりして、まだまだ歴史のかなたの話ではないと改めて感じさせてくれました。

“湾生”たちはたまたま台湾に生まれただけなのですが、その胸中は複雑であろうことが画面から観て取れます。

敗戦後、見ず知らずの祖国・日本に「引き揚げ」、日本語の発音がおかしいといじめられ、祖国に違和感を覚えながら生きる日々。

“湾生”のふるさとは台湾以外にはあり得ない。でも、いまどきの帰国子女と違って、台湾にいる間は子供だったために意識しなかった、統治者としての自分たちの立ち位置に気づいた“湾生”たちは、ふるさとへの愛を手放しで語るには微妙な立場にいます。

そして、日本で育った彼らの子供たちは、親たちの「台湾熱」に戸惑いを抱いているのです。

そんな中にあって、ふるさとを思う彼らの心情を理解し、寄り添おうとする台湾の人たちの、穏やかで温かいまなざしには本当にホッとさせられます。

自分の狭い経験ですが、今から30年くらいまで台湾では、もっと日本人に対して厳しい見方をする年配の人が多かったし、台湾に旅行に行く人たちの多くが買春目的だったりして、若い人たちにもよく思われていなかったように思います。

月日は流れ、負の面とともに、日本が台湾にとって正の役割を果たした面も、公平に評価すると言ってくれる人たちが現れたことは、ありがたく感じるとともに、なかなかできないことであるとも思います。

そんな友情を仇で返す日が来ないよう、平和を守り続けることの大切さを改めて感じさせてくれる素晴らしい作品です。機会があれば、ぜひご覧になってみてください。

ホアン・ミンチェン監督作品
公式ホームページはこちら
予告編を観るだけで泣けます...。

岩波ホールで観ました。
映画館というより、ホントに、ホールにスクリーンをつけました、
という印象。スクリーンが逆3Dというか、引っ込んだところにあるので、すごく小さく見えます。

前から2列目くらいで観た方がいいかも。

マナーのいいお客さんばかりで、席に余裕があると、
みな、後ろの人に重ならないように座ってます。
だから、観やすいといえば観やすいです。


ぴあ映画生活

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2016年11月25日

残酷ドラゴン 血闘竜門の宿

*朗報* 2017年1月28日より、『侠女』と共に渋谷ユーロスペースで公開!
作品情報は→こちらまで http://www.shochiku.co.jp/kinghu/sp/index.html
 松竹映画っていうのがまたピッタリで…(笑)

「龍門客桟」といえば、ツイ・ハーク監督の『新龍門客桟』しか観たことがなくて、いったいオリジナルの方はどんななんだろう、『侠女』のキン・フー監督作品だから、きっと面白いに違いない…と思っていたところ、東京フィルメックス映画祭で上映してくださったので、早速観に行ってみました。

月曜日、しかも終映が夜11時半を回るにも関わらず、日劇3のそこそこ広い場内は善男善女で押すな押すなの大賑わい。昔からのアジア映画ファン/武侠映画ファンらしき方々の中に、トレンディ(死語)な若者の姿もちらほら。

そんなオシャレな映画だったかしら?

それはともかく、なかなか観る機会がない映画というのは本当で、冒頭部のクレジットによれば、台湾でデジタルリマスターを施したのでまた鑑賞できるようになった様子。

いま観ると、現代武侠映画のルーツとはいえ、時代劇にしては衣装もセットもちゃっちいし、物語なんてあってなきが如しなのですが、それが逆に良い味になっている(ような気がする)映画です。

お話は明の時代、無実の罪で処刑された忠臣の遺児が立ち寄った龍門の旅籠で、彼らを追う東廠(宦官による特務機関)を、宿の主人や、通りがかりの武芸の達人が撃退する、というもの。

観ていて、なぜかメトロポリタン・オペラのライブ・ビューイングを連想してしまったのですが、立ち回りや鳴り物入りの音楽が越劇っぽくて、伝統劇の舞台を観ているような雰囲気がある一方、ワイヤーワークやナゾの電子音楽みたいなBGMが登場したりして、なぜか最先端だったりもする不思議なミックス具合であります。

ナゾと言えば字幕もすごくて、セリフは画面の下にヨコ書き、「東廠」みたいな用語の解説がタテ書きで画面の右に入り、盛りだくさんな印象です。こういうの初めなので、アバンギャルドな印象だったんですけど、ふつうにあるものなんでしょうか???

そういえば、最初の方でやたら笑いが起こっていたのですが、たぶんセリフが“躲开(どぅおかい)”で、字幕が「どけ」だったので、「空耳アワー」状態になってたからでしょうか。

あるいは、剣の達人が次々と見せる武芸の妙技の数々が、微妙に宴会芸っぽかったからか?!

おっほん、それはさておき、最初の方は演技からプロットから、いかにもあるあるな渋めのチャンバラ劇だったのに、後半に進むにつれて雑というかムチャクチャな感じになっていき、ラスボスとの戦いでは、敵の周りを取り囲んでぐるぐる回ると相手が目を回したり(これでラスボスがホットケーキになったらさらに面白かったんだけど、ってそれは○びくろさんぼの見過ぎ)、首がすぽ〜んと飛んでったり(Dr.スランプのようにあっけらかんとしていたけど…)、どこまで本気かわからない展開になってきて、ここで終わったらウケる!と思った中途半端な瞬間に、すかさず「終劇」の2文字、案の定、お客さん超ウケていましたね〜。

しかも字幕まで、最初の正調時代劇風から、だんだん笑いを取る方向にシフトしてるあたり、芸が細かい。

正統派時代劇と見せかけて相当アバンギャルドな本作品、コメディやヒューマンドラマのスパイスも絶妙な逸品です。

日劇3で観ました。
スクリーンが上の方にあるうえ、前の席との間隔が狭く、かなり見づらい劇場です。
J列くらいでもちょっと前目かも。

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2016年11月06日

カゲロウデイズ in a day's

s-カゲロウデイズ.jpg
(↑劇場でいただいたミニパンフレット。キャラクターデザイン集です&ムビチケ)

自分は映画関係者でもなんでもございませんが、ゼロから作品を作ることの困難さについては少しは承知しているつもりだし、特に鑑賞眼が優れているわけでもないので、「良くなかった」と思った作品の感想を書いても意味ないと思っているのですが、それにしてもこれはひどかった。

GIFアニメかと思うほど平板で簡単な動きしかないアニメを4Dや3Dにするなんて…。

そもそも、劇場で公開するレベルとも思えない。

それでもたくさんの人が関わっていたらしいことはエンドロールで分かったけれど、なぜこうなってしまったのでしょう。

話も途中から始まって途中で終わり。初見の観客のことは、一切関知していません、っていうか、ファンの皆さんはあれで満足なんでしょうか。イラストは上手いけどお話が作れない漫画家さんのマンガみたいでした。

webや紙媒体は面白かったので観に行ったんだけど、ガッカリしたというより、ビックリしました。映画しか観てない人に、この程度の作品なのかと思われたらもったいないと思わなかったのでしょうか。

すごく好意的に解釈すれば、webネイティブ世代のクリエイターの作品を、これまでのセルアニメ的な表現に押し込めようとしたことが、どだい間違っていたのかも知れません。

だったら、別に映画にしなくてもいいじゃない。
やりたい方向で頑張れ。

でも、もしまた映画を作るなら、次は新しいところを見せて欲しい。誰が悪かったのかはわからないけど、ファンだと思って観客をナメてはいけません。
本気出してください。期待しています。

TOHOシネマズ六本木で観ました。
スクリーン8がMX4Dの劇場です。スクリーンが小さめなので、
F列くらいが見やすいと思います。

ぴあ映画生活
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2016年11月02日

サーミの血/サーミ・ブラッド(表示以降、お話の結末に触れています)

【2016年9月16日〜劇場公開決定!】
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(↑ ノルウェーで購入した絵葉書より)

一昨年ノルウェーの北極圏を定期船で旅したとき、船が主催する、ヨーロッパ最北端への小さなバス旅に参加しました。

道すがら、地元のバスガイドさんは、昔からその地方に住んでいる、サーミという人たちのことを話してくれました。トナカイを放牧したり、漁業をしたりして生計を立てているそうで、彼らの歌う不思議なうたも聞かせてくれました。「ヨイク」という歌で、聴き手もトランス状態に陥りそうな、シャーマンのお祈りのうたのような感じでした。

バスは放牧地に立ち寄り、そこには民族衣装を着たサーミのおばあさんが一人、トナカイの傍らでぽつんと立っていました。ガイドさんに記念撮影をどうぞと言われ―おばあさんもそのために待っていてくれたのですが、何だか見世物扱いしているようで、複雑な心境でした。

第一、民族衣装を着ていることを除けば、サーミの人は、一般のノルウェーの人たちと特に変わったところはないように見えました。北極圏に住む先住民族はアジア系しかいないと思い込んでいた自分には、これはかなりの驚きでした。

がぜん興味が沸いたので、ベルゲンの街で船を下りたあと、サーミの人について書かれた本やCDなどを探したのですが、唯一の収穫は↑絵葉書だけ。残念に思っていたところ、サーミによるサーミの映画が上映されることを知り、鑑賞いたしました。

お話の舞台はスウェーデン。

サーミの老婦人・クリスティーナが息子に連れられ、妹の葬式に参列するためにやってきます。

しかし彼女はサーミとして扱われるのを嫌っているらしく、サーミは嘘つきで物盗りだと罵り、参列者である郷里の人々との語らいや、サーミの伝統行事に参加しようとする息子や孫娘を避けて、一人、ホテルに残ります。

参列者を見た他の旅行客たちは、食事の席でサーミについて噂し、「あの人たちはどこでもバイクで乗り入れる」「自然保護地域を破壊している」「サーミは自然と共生する人たちだと思っていたのに」等々と非難し、クリスティーナは我が意を得たかのように聞いています。

ディスコに興じる人々の間をさまよい、放牧地に向けてヘリコプターで出発する息子たちを、ホテルの窓からぼんやり眺めるクリスティーナ。その視線の先に、少女時代の思い出が蘇ります。

当時、スウェーデンでは同化政策がとられており、サーミの子供たちだけが通う寄宿学校ではサーミのことばは禁じられていました。

スウェーデン語を習い、本を読み、教師になることを夢見る賢い少女・エル=マリャは、自分のおかれた境遇に我慢できず、首都の高校に通いたいと願い出ますが、サーミには文明世界に適応する能力がない、街に出たら絶滅してしまうと教師に拒否されてしまいます。

外の世界に憧れるエル=マリャは、スウェーデン人の集まるダンスパーティーに潜り込み、教師の名・クリスティーナを名乗って、裕福そうな青年と知り合います。それをきっかけに彼女は家を出て、ウプサラの高校に入学することに成功するのですが…。

               *

少女時代のエル=マリャを演じたのはサーミの女性で、何よりも彼女がとても魅力的でした。八方ふさがりの状況の中で、何とかして自分の運命を切り開こうとする少女の冒険物語として面白く、彼女の姿に心打たれると共に、ルーツを捨てて生きることを選んだ彼女への複雑な思いも抱かせる、見事な作品でした。

東京国際映画祭で観ました。
上映後、アマンダ・ケンネル監督と主演のレーネ=セシリア・スパルロクによるティーチインがありました。ネタバレになりますので、OKな方はどうぞ以下もご覧ください。







冒頭、彼女の語った「嘘つきで物盗り」とは彼女自身のことに他ならなかったわけですが、彼女のおかれた状況からすれば、ある程度小狡く立ち回らない限り、境遇を変えることは絶望的でした。

パーティーに行ってしまった彼女をおいかけてきた妹に、スウェーデン人の少年たちから言われた侮蔑のことばをそのまま投げつけて、追い払おうとするわけですが、自ら差別する側に立って差別から逃れようとするその行動は褒められたものではないけれど、自分も同じ立場ならやってしまうかも知れない。

監督いうところの「サバイバル術」に長けていたために、彼女は意志を通すことができた。ホテルで他の宿泊客に語ったことが本当なら、彼女はその後、希望通り教師になり、サーミというルーツから逃れて成功したということになります。

しかし、老齢になって来し方を振り返ったとき、果たしてそれが理想的な生き方だったのかと彼女自身、忸怩たる思いがあったに違いありません。

誰もいなくなった教会で妹の遺骸に寄り添ったとき、彼女は捨ててきたルーツや過去とも、ようやく和解できたかのように見えました。

しかし、彼女がそんな思いをしなければならなかったのは、彼女自身のせいでは全くないのです。

ラストシーン、ヘリコプターで行くような放牧地へ、彼女は自らの力で登っていきます。そこは、昔ながらのテントが張られる一方で、非難された通り、大型のオートバイが何台も止められているところです。その印象的な光景に、自分の物差しで他者をはかり、圧迫することの愚かさをまざまざと見せつけられた気がします。

         *

上映が終わり、監督のアマンダさんと主演女優のレーネさんが登場し、ティーチインとなりました。

作品の素晴らしさに比例するように、熱心な質問がいくつも出されましたが、アマンダさんは余裕で、レーネさんは一生懸命、英語で答えてくれました。

レーネさんは普段はトナカイの放牧をして暮らしているとのことで、アマンダさんからはe-mailでコンタクトがあったそうです。今、放牧にはバイクや四駆が使われているということで、あの広大な地域を移動するのですから、そりゃあった方が便利ですよね。

映画冒頭の旅行客のセリフは、監督が本当に聞いたことを取り入れているそうです。

今、スウェーデンでは同化政策も改められ、レーネさんの世代はサーミであることに誇りを持っているといいますが、外野の人たちの考えは大して改まっていないように思えてなりません。

自然保護区を荒らしていると言っても、そこは元々サーミの職場だったのだし、そこでバイクを使うことを「サーミ特権(?)」のように非難するのはどんなもんなんでしょうか…じゃ、あなたたちのオフィスの周りを自然保護区に指定しますから、歩いて通ってね、出張も歩きですからね、と言ってやりたい…。

先住民族だからって勝手に「自然と共生してる」みたいなレッテルを貼られて、イメージ通りでないと嫌がられるっていうのも何なんだかな…バイキングの子孫なんでしょ、なんで手漕ぎ船に乗らないの。飛行機に乗るなんてあり得ない、と言ってやりたい…。

と思っていると、会場からは早速、チベットに行ったときに見た、チベットの人たちのおかれている状況に似ていると感じました、と言う発言が出ました。

するとすかさず別の方から、日本も昔、台湾や韓国を植民地にして、同じような政策を行っていました。そうした人たちはどういう意識を持つべきでしょうか、という強烈なカウンターが飛んできました。

相手の足を踏んだ人は、踏んだことを忘れてしまう。踏まれた人は痛さを忘れない、という言葉を一瞬思い出してしまいましたが、監督さんは少し考えて、静かに、こんな風に答えてくれました。

監督という仕事の良いところは、問いかけをすることはあっても、答えを提示しなくていいことです。映画とは、自分の前に立てた鏡のようなもの。自分のしたことを映し出し、自省を促して、前へと進んでいくのです。

もう一つの興味深い質問は、カメラの位置に関するものでした。

この映画は主演のレーネさんに貼りつくようにして撮られたショットが多いのですが、なぜでしょうか、という問いに対して監督は、

ヒロインのアップが多いのは意図的なものです。出来事を、他人事ではなく、彼女の目を通してとらえて欲しかったからです。だから、ほとんどのシーンに彼女の姿が映っています。

もう一つは、余計なものを排除するためです。この映画は1930年代を舞台にしているため、カメラを引くと、道端のリンゴ売りだとか、人々の衣装だとかといった、30年代の風景が入り込むことになります。そうすると、観客の関心が当時の風俗習慣の方に向いてしまう。それを避けるためです。

サーミの人びとを記録した学術映画や、人類学的な興味ではなく、ひとりの少女の物語としてこの映画を観て欲しい、という監督さんの意図が表現された演出だったのですね...これは、質問をした方もスゴイと思いました。

というわけで、かしこ可愛いサーミの少女・エル=マリャのド根性冒険物語を楽しみつつ、自らを省みさせる素晴らしい本作品、後日、日本公開もありそうだとのことですので、ぜひお見逃しなく!

ぴあ映画生活

posted by 銀の匙 at 00:21| Comment(0) | TrackBack(0) | 映画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする