
(ビルボの書斎内の記事のバックアップです)映画化のニュースを目にしてから足掛け3年、ようやく最終章を見ることができました。
自分にとって、これほど語りたくなる映画も、語るのが難しい映画も初めてです。
そもそも、原作『指輪物語』を手にしたこともなかった自分にとって、「ロード・オブ・ザ・リング」はまったく未知の物語でした。にもかかわらず、製作発表時にネットに上がったほんの数点のスチルにさえ、激しく惹かれるものを感じました。そして、いよいよ映画館で第一部の予告を見てみると、一番心を動かされたのは、画面を埋め尽くした兵士たちが一瞬にしてなぎ倒される場面の映像でした。
その絵は「ファンタジー」という言葉から想像する甘くて夢のような世界とはまるで違う、動かしがたい神話か、冷徹な歴史の一コマのように見えました。期待は裏切られることはなく、第一部の冒頭では「予言」と題された音楽が流れ、ガラドリエルのナレーションが静かに、映画の結末を暗示します。これから語られる物語は、全て失われてしまったものなのだと。
この、冒頭のナレーションに関して、第一部のDVDのコメンタリ―で主演のイライジャが語る内容は示唆的です。もともとこの部分をフロドが語るヴァージョンもあったけれど、使われなくてよかった。それでは終わった冒険の話になってしまう――彼のコメントは、話の先がわかって興を殺ぐという程度の意味だったかも知れません。それはともかく、映画はフロドの冒険譚にも、彼の成長物語にもならずに済みました。第三部でフロドが記録の書き手であったことが明らかになるけれど、映画全体の語り手はやはり、彼ではありえません。彼の残したものは、伝えられるうちに歴史になり、伝説になり、そして神話に、やがては誰一人定かには知らない遠い記憶のようなものになってしまう。この寂寥感が三部を通じて流れ、映画を一つにまとめているように思います。
このように、おとなしく作っていれば文科省推薦間違いなしの格調を備えながらも、監督はこの映画を一つの枠に閉じ込めることはしませんでした。凝りに凝ったディテールから辟易するほどの演出、ホラー、ゴシック、ラブロマンスなどジャンルは横断的にミックスされて何もかもが過剰なうえ、俗悪な部分はとことん俗悪、かといって娯楽作に偏することもせず、微妙なバランスの上に成り立っているのが優れて現代的で、興味深かったところです。長さがそれを可能にした、とは言えるかもしれませんが、凡百の監督なら素材の偉大さに負けて、自らのよって立つスタンスを捨ててしまっていたことでしょう。ただし、それをやったらハリウッドの雇われ監督の仕事と一緒です。原作は原作で面白く、映画は映画で面白い、というのが一番理想的なパターンだと思うんですが、しかし、ピーター・ジャクソン監督は、敢えて原作あってこその映画化という一線は崩しませんでした。もっと大胆な解釈を見せてくれても面白かったという気もします。
中国語に「仁者見仁、智者見智」ということわざがあります。仁を重んじる人は、何を見ても仁を見いだし、智を重んじる人は、何を見ても智を見いだす、というほどの意味です。物の見方は人それぞれ、という風にもとれましょうし、穿った言い方をすれば、物の見方によって相手を知ることができる、とも取れましょう。そう思いつつ「LotR」三部作を見ると、たとえばオークや怪物が跋扈するグロテスクなシーン、悲惨極まりない戦闘シーンは生き生きしていて、PJ監督が嬉々として付け加えたシーンのように見えます。しかし、実は原作を読み返してみると、この手の描写は少なくないのに驚きます。読んでいるときは無意識のうちに避けていたのでしょうか。変な言い方ですが、改めて原作の中に潜む一面に光を当ててもらったような気がしました。
とはいえ、最終章の「王の帰還」は、原作の制約にしばられ、限られた時間の中に詰め込めるだけエピソードを詰め込んだ感もなきにしもあらず…、それでもなお『ロード・オブ・ザ・リング』はPJの作品であり、ジャンルと表現の幅を広げたエポック・メーキングな作品だと言えるでしょう。


