
(以下はHPのバックアップ用記事です)
映画全体の感想はこちら。決定的なネタバレはしない、ということで書いたので、ラストシーンについては書くことができませんでした。という訳で以下はこの長い長い映画の中の一番心に残った部分、ラストシーンを中心に書いたものです。読み返してみると、何だかセンチメンタルで変なんですけど、たまにはこういうのもいいかなと…。長文お許しください。
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この物語のあらすじを一言でいえば、「主人公が指輪を捨てる話」ということになるのでしょう。だとすると、普通なら捨てるシーンがクライマックスで、成就すれば基本的に物語は終わります。ところが、原作の「指輪物語」ではその後に、「ホビット庄の掃蕩」という比較的長い章が登場するのです。これは(恐らく作者の意図したとおり)、読み手の予想の裏をかき、困惑させもします。
原作にこの章があるということはつまり、物語(またはフロド)にとって、指輪を捨てるという行為が物語の主眼ではなく、この章で起こることのために準備された、ということも考えられるのではないでしょうか。「ホビット庄の掃討」では、指輪戦争の余波によって、主人公の故郷であるホビット庄すら荒廃し、ホビット自身、同じ庄のホビットを相手に戦わざるを得なくなります。そんな中でフロドは一人、誰も傷つかないことを願い、敵であるサルマンやグリマを憐れみ、赦しを与えます。このくだりも、物語全体を締めくくる重要なモチーフです。だから、第一部の時のインタビューですでに、原作の「ホビット庄の掃蕩」に当たる部分が撮影されないことが言及されていたのは、原作をようやく読み終えた後では、大変不思議に思えました。
ところが、実際に第三部を見てみると、一つの指輪が滅ぼされた後も、原作未見の観客にとっては長すぎるであろうと思われるほど、ラストシーンまでは時間がかかります。そしてその中で、はっきりとした形ではないものの、この章のモチーフが織り込まれているのではないかと感じました。そのことを述べるまえに、もう少し映画のシーンを遡って見てみましょう。
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第三部を見ると、LotR全体がフロドを中心に組み立てられたものであることが、よくわかります。個々のエピソードが、フロドの指輪棄却を成功させる方向へと収斂していくのは勿論のこと、サムの描かれ方が抑え気味になっているのもそう思わせる一因です。原作では、彼は一時ではありますが、フロドの代わりに指輪をはめ、その誘惑に打ち勝ちます。少なくとも劇場公開版にはこのシーンはなく(あったとしたら、モルドールで指輪をはめて、なぜサウロンに見つからないのか理由を説明しなければならなくなるでしょう)、観客の前で、所有している指輪の魔力に抵抗して見せるのはフロドだけです。
第一部では、幽鬼の世界に身を置きながら、嵌めた指輪を「外す」という並大抵ではないことをしますし、
第二部では、ファラミアの手に渡ろうとする指輪を、自らの意思の力で隠します。
ただし、「抵抗している」描写は、俳優の演技に頼って表現しなければならず、映画ではいささか難しかったようです。どうしても誘惑されているシーンの方がわかりやすくて目立ちますし、内面の戦いは剣を振るうより過酷なのに、別ルートでの派手な戦闘シーンの描写の前にはかき消されがちでした。しかも、第二部の場合、いったん誘惑に屈してサムに剣を向けてしまうシーンがあるのでなおさらです(第三部の冒頭で、スメアゴルとデアゴルのシーンがあって、ようやく、剣を突きつけるシーンはこのシーンと対になっていたことがわかりますが…)。
第三部も中盤になると、フロドはほとんど動けないにも関わらず前に進もうとし、ここでやっと観客も、彼の意思の力を目に見える形で実感します。
キリス・ウンゴルのシーンではボロボロになりながら、フロドにはまだゴラムを思いやる余裕が少し残っています。このシーンを見て、フロドは優しくて強いなあとちょっとほろっと来ました。ついでにいうとここにも、映画ならではの工夫が見えると思います。映画のサムは、原作と違ってゴラムにあまり憐れみを見せません。このことが逆に主人公の長所を際だたせているし、映画のサムは指輪を嵌めなかったため、指輪所持者の気持ちを本当には理解できなかったことを示す意図もあるのでしょう。原作でフロドとサムの2人がもっている特性をどちらか1人に与えるのは、2人の総和で人物描写をしているためもあると思います。
映画では登場人物の性格をあまり複雑に描写していませんが、これは少ない持ち時間でたくさんの登場人物を出すための苦肉の策と、私には映りました。この映画で使える時間数から考えれば、本来なら登場人物はもっと整理しないと、とてもじゃないけど細かな心理描写はできません。ランキン/バス版の「王の帰還」と比較すれば、それは非常にはっきりします。ランキン/バス版はモルドール・ルート以外の描写はバッサリ切り、それでようやく原作の描写をある程度拾うことが出来ているのですが、1個の映画作品としてはあまりにも不完全です。
文章では小さな描写を積み重ねて微妙な心の動きを追うことができるのに対して、映画の人物描写はセリフではなくエピソード単位で追加しないと、観る側の頭は納得しても感情が納得しません。登場人物がそのような性格を持つに至った背景の描写も必要です。しかも、迷う、感動する、悲しい、といった心の動きに共感させるには、シーンのテンポを遅くするか、時間を長くとらなければならない。主要な登場人物全員にこれをやっていると、映画全体で見たときのテンポが悪くなる。しかし、なるべく原作に出てくる登場人物は出したい…となれば、思い切って一人一人の性格の幅は小さくし、映画の登場人物全体で、勇気や自己犠牲、崇高さといった要素を汲み取ってもらわざるを得ないでしょう。
話が脱線しました。
最後まで耐えに耐えても、フロドは結局、滅びの山で指輪を捨てることはできませんでした。彼はイシルドゥアと同様、指輪を自分のものだと宣言してしまいます(このときのフロドの表情をイシルドゥアと同じにする、という演出は余り感心しなかったけど…顔の作りが違いすぎて、同じ感情を表してるようには見えなかった…)。
なぜそうなったか。
指輪の魔力には誰も逆らうことができない、というのが原作、映画、ともに唯一の理由なのかもしれません。加えて原作を読んだ限りでは、サムとの比較において、フロドには指輪につけ入られる部分もあったのではないかと感じています。逆に映画では、指輪に向かって、まるで生贄のように自分を差し出してしまった印象を受け、彼の運命に涙しました。火口の上でまるで祈るようにうつむき、サムに答えて“I'm here, Sam”(僕はここだ、サム)と答えたときの表情に、オスギリアスでナズグルに向かって指輪を差し出したときの、恍惚とした表情を思い出したためでしょうか…。
火口の一連のシーンでのサムの表情はとてもよかった。彼は最後まで、指輪の行方ではなくて、フロドを心配していることがよく伝わりました。そこへ指輪への妄執によってか、あるいはTTTで指輪にかけた誓いによって吸い寄せられてきたのか、ゴラムが指輪を奪いに現れます。奪われあと、フロドは姿を現しますが、また指輪を取り返そうとする。ここは、指輪を滅ぼすという目的を忘れていなかったというのと、指輪に取り憑かれたままだったというのと二通り解釈できそうですが、私は後者だったと思います。原作にも火口付近で、指輪を争ってサムやゴラムを驚かすほどの力を見せる描写があります。また、ゴラムが指輪と一緒に溶岩の中に落ちたとき、フロドはかろうじて崖につかまっており、サムが手を伸ばすとフロドは一瞬ためらうような表情を見せる、ここでようやく我に返ったのではないかと思ったからです。一緒に映画を見た連れは、ここでもまだフロドは指輪に未練があったのだと言いますが…。彼はサムの“Don't you let go,Reach!”(放さないで、手を伸ばして)という呼びかけに応えてもう一度手を伸ばします。そこには、彼自身が助かりたいと思ったというより、原作でいうと、サムに言われるがままに火口から逃げる箇所と同じ心理が働いているように見えました。
外に出ると、フロドは完全に自分を取り戻し、戻ることはないであろう故郷のことを口にします。これは、滅びの山でサムが彼に語ったセリフをなぞっていると同時に、三部の冒頭でスメアゴルから失われてしまった人間らしい(ホビットらしい?)感覚を、取り戻したことを意味しているのでしょう。ついに解放された喜びに浸るフロドとは反対に、サムは泣きじゃくります。彼にとって、試練はすべて主人を助けるためのもので、自分のためではありませんでした。主人が救われた今、彼は元のとうもろこし畑から先へは一歩も踏み出せないホビットに戻ってしまい、心の奥に忘れていた平凡な自分自身の象徴ともいえる、「ロージーと結婚したい」というごく平凡な望みの封印を解いてしまったわけです。それを聞いたフロドは、
“I'm glad to be with you, Samwise Gamgee, here at the end of all things.”
(お前と一緒にいられて嬉しいよ、サムワイズ・ギャムジ―、ここで今、すべてが終わろうとするときに)
と慰めるかのように言います。 この言葉は、第一部のラストにフロドが言う“Sam. I'm glad you're with me.”を連想させます(こちらは、「お前が一緒に(ついて)来てくれて」ですね)。と同時に、フロドがサムをフルネームで呼んだときに、私が思い出したのはむしろ、こちらの言葉でした。
“I made a promise, Mr. Frodo, a promise. Don't you leave him, Samwise Gamgee, and I don't mean to.”
(僕は約束しました、フロド様。彼から決して離れるな、サムワイズ・ギャムジ―。だから、離れません)
第一部の旅の初めと、そしてフロドが単身モルドールへ向かおうとしたときにサムが言った言葉で、彼は最後までその誓約を忘れませんでした。だからフロドは、第一部でその言葉を聞いたときと同様にサムを抱擁して、先の言葉を言ったのだろうと思ったのです。この物語の中では、言葉による誓約はとても大切なものです。アラゴルンが最後に死者の王に、“I hold your oath fulfilled. Go, be at peace.”(誓いは果たされた。安らかに逝け)と言ったのと同じ意味があるのではないかと。だから、約束を最後まで守ったサムを誇りに思い(サムにとっては何よりの慰めになることでしょう)、彼と一緒にいられることが嬉しい、という意味も込められているのではないかと思います。
このようなサムの働きはもちろん、長いことフロドとサムの二人だけが知っていたことだったでしょう。それに結局、指輪を所持するという試練は、ガラドリエルが言ったように、最後までフロドだけに与えられたものでした。映画のサムは目立った栄誉を与えられることはありませんでしたが、少なくとも表面上は元の生活に帰り、新たな家族と安らぎを得ました。一方、映画のフロドは、この重荷を誰とも分かち合うことができません。「ホビット庄の掃討」が無かったので、ホビット庄は無傷なままに残されています。それに比べて、フロドの何と変わってしまったことか。故郷は救われたのに、彼にはどこにも帰るところがないのです。
緑竜館で乾杯するシーンでは、寂しげに乾杯する四人のホビットたちの姿に、ローハンで楽しそうにここのビールのことを歌うメリーとピピンの姿を重ねて、涙が流れそうでした。ローハンにいたときよりもむしろ、実際に戻ってきた後の方が故郷は遠くなってしまったように見えます。彼らの苦しい旅のことなど何も知らない村人たちに囲まれて飲むビールの味は、以前とはまるで違ってしまったのではないでしょうか。それでも他の三人は何とか元の生活に帰っていけたようですが、フロドの孤独と傷は深すぎて、到底、日々の暮らしで癒されるようなものではありませんでした。
彼はがらんとした屋敷の中で、こう思います。
How do you pick up the threads of an old life? How do you go on, when in your heart you begin to understand there is no going back? There are some things that time can not mend. Some hurts that go too deep,that have taken hold.
(どうすれば昔の暮らしに戻れるだろう、どうすればいい、もう心の底では「行って帰る」ことはあり得ないと知ってしまったら?時間をかけても癒せないものがある。受けた傷は深く根を下ろしてしまった)
机に向かって物語の続きを書くフロドの姿は、第一部のSEEでビルボが書き物をする姿につながります。しかし、同じことをしていながら、フロドしかいない袋小路屋敷は、きちんと片付いたどこか空虚な場所で、ビルボがいたときのような生気はまるで感じられないことに胸を衝かれます。
ビルボを見送って灰色港へ旅立つシーンは、映画の中でも最も心に残ったところです。フロドは、ビルボと二人で馬車に乗っています。まるで指輪を所持していた間に止められていた時が一気にのしかかってきたかのように、ビルボは年老いていて、記憶も定かではありません。そんなふうになっても、彼の指輪への思いは消えておらず、フロドに指輪を見せてくれと頼みます。その時フロドは、まるで感情をどこかに置き忘れたかのような表情で、指輪はなくしてしまった、と告げます。そうするとビルボは、“Oh,pity”と言います。願わくば、もう一度触れてみたかったのだが。その言葉を聞いた後のフロドの表情は、長く暗い試練を経て初めて到達できる境地を示していたと思います。
フロドにとってビルボは一番大切な身内であり、裂け谷で赤表紙本を見ながら交わした会話が示すとおり、憧れの存在でもありました。そんなビルボが裂け谷で指輪に取り憑かれたようなありさまになったことに、どれほどショックを受けたことか。原作では影はその場ですぐ消えうせたように書かれていますが、映画のフロドが内心どう思ったかは想像に難くありません。後にモリアで、彼はガンダルフにこう言います。
“I wish the ring had never come to me,I wish none of this had happened.”
(指輪が自分のところに来なければよかったのに。こんなことが何一つ起こらなければよかったのに)
この言葉の中には「ビルボが自分に指輪なんてくれなければ良かったのに」という意味も当然含まれているものと私は考えます。なぜなら、このセリフは、ゴラムを見つけたときの
“It's a pity Bilbo didn't kill him when he had the chance.”
(ビルボがあいつを殺しておいてくれなかったことは残念だった)
の後に出てくるセリフだからです。このときは、ガンダルフが“pity”という言葉をとらえて、フロドを諌めます。「残念だ(a pity)と言うが、その情け(the pity)こそが皆の運命を変えるかもしれない」。馬車でビルボが「pity」と言ったとき、フロドにはこの会話が思い出されたことでしょう。一度は指輪の虜になって初めて、フロドはビルボの妄執を本当に理解したのではないでしょうか。彼は哀しげに眼を閉じ、そして同情と愛情の念を込めてビルボに額を寄せます。この一瞬の表情に、私は原作の「ホビット庄の掃蕩」に匹敵する赦しを見ました。相手はサルマンではなかったけれど…。本当に素晴らしい表情でした。
フロドを演じたのがイライジャ・ウッドであったことは、この物語に神話的な色彩を与える上で、多大な貢献をしたと思います。もちろんバクシ版のアニメのように、見た目は平凡でも内に強さを秘めた人物造型にしたらもっと原作の意図に沿っていたのかもしれません。原作では、サルマンがフロドに「あんたは成長したな」というシーンもあり、主人公の成長が重要な要素でもあるのでしょう。映画では成長したというより傷ついて変わってしまったという面だけが強調された嫌いはあります。
それでも、イライジャの演じるフロドには、第一部の初めから、少年と青年のちょうどはざま、男性と女性の間、定命と不死の者の間の儚い存在、何かこの世のものならぬ雰囲気がありました。彼がフロドだったからこそ、第一部の冒頭でガラドリエルが暗示している通り、この話が単なる冒険物語ではなく、消え去ってしまった過去の記憶なのだということを視覚的にも示せたのだと思います。
第三部も終盤になると、彼はホビットというより、ほとんどエルフのように見えます。灰色港のシーンでサムに向かって赤表紙本を差し出すときの話し方、友人たちをじっと見つめる眼差しには、どこかガラドリエルを思わせるものがありました。第一部からここまでさんざん涙を流してきたのに、一番悲しいはずの別れのシーンでは、フロドは目を潤ませることすらしません。サムを抱擁したほんの一瞬、ちらりと悲しげな眼差しを向けるだけです。彼はその時点ですでに、ガンダルフがミナス・ティリスでピピンに話していたような、別の世界に住む人になっていたのでしょうか。
ここで思い出したのは、TTTのラスト、サムが自分たちの冒険が歌や物語になって語り継がれるかどうか、尋ねているシーンです。子供たちが父親に、フロドの冒険を聞きたいとせがんでいるところを想像するサム。フロドは、勇者サムワイズの話を忘れているよ、と言って笑います。原作ではキリス・ウンゴルの暗いトンネルの中で語られ、絶望的な状況の中でもくじけないホビットの強さを示す、とても好きなシーンでした。映画では、オスギリアスでの試練をなんとかクリアして、少しほっとしたところに置かれています。笑ったフロドにサムは、真面目な話をしているんだと抗議しますが、フロドはサムに向かって振り返り、自分もそうだ、と言います。この振り返った一瞬の、怖いほどの美しさは忘れられません。この時点ですでに、彼がサムの目の前に実在する人物ではないような錯覚すら覚えたものです。もはや、人々が、サムが語る、物語の中にしか存在しない人のように。
灰色港では、フロドは、すでに悲しみを超越したような表情で
“We set out to save the Shire, Sam. and it has been saved, but not for me.”
(僕たちはホビット庄を救うために出かけたね、サム。そしてホビット庄は救われた…だけど、それは僕のためではなかった)
と言います。あまりと言えばあまりな結論。サムは納得が行かず、泣きの涙で引きとめようとします。
しかしフロドは赤表紙本を彼に手渡し、終わりの方のページはお前の分だよ、と言います。そのページが尽きたとき、サムはどうするでしょうか。原作なら、フロドは、かつて一時とはいえ指輪所持者であったサムに対して、お前の番も来るだろう、と予言めいたことを言います。映画ならどうでしょう。赤表紙本を書き終えたとき、サムはようやく、彼自身の物語を生きることになるのではないでしょうか。家路をたどるサムの姿に重なってフロドは語ります。
“My dear Sam, You can not always be torn in two. You will have to be one and whole for many years. You have so much to enjoy,and to be, and to do...Your part in this story will go on.”
(サム、お前はいつも、二つに引き裂かれている訳にはいかないよ。ずっといつも一つで、完全な者でいなければ。心行くまで楽しんで、生きて、いろいろなことをするんだ。お前の物語は、続いていくのだから)
ここでtear in two、二つに引き裂かれる、とフロドが言っているのは何のことでしょう。原作を読むと、ホビット庄に帰ったあと、サムは自分の家庭をもって、一方でフロドの面倒を見ています。彼はずっと、フロドがこれほどの犠牲を払いながらそれなりの待遇を受けていないことに心を痛めていました。しかし、いざフロドからビルボに会いに行く最後の旅に誘われると、サムは、一緒に行きたいが、本当にいたいのはここ(家族のもと)だけで、二つに引き裂かれるような気持ちがする、と言うのです。こう言われることを予期しているフロドが可哀想で、読むたびにどうにもやり切れないシーンですが、映画ではこういう描写はありません。
それではサムは何と何に引き裂かれるのでしょう。フロドを懐かしむ気持ちと、今の家庭を大事にする気持ちでしょうか。私は、サムが体験した指輪戦争の出来事と、サムがこれから生きなければならない現実の生活という意味かなあ、とおぼろげながら思っています。ラストシーンで彼は、遠いまなざしをしながら、“Well...I'm back.”いま戻ったよ、と言い、過去を後ろ手に閉めるように、ドアを閉じます。サムは起こったことを忘れることはないでしょう。それでも、彼はその後、ホビットらしく生きていけるのではないかと、そんな感じがしました。
一方、フロド自身は輝くばかりの笑顔を残して、海の彼方へ去ってしまいます。アラゴルンの母ギルラインが(SEEで)「私は自分のために望みをとっておかなかった」と語ったのと同じく―フロドは、他人の幸せのために自らは犠牲になりました。あの笑顔は、残された者を祝福しているかのように見え、また、すべての痛みから解き放たれて、すでにこの世にいない人のようにも見えます。それでも、見送る者に背を向ける直前の表情は、第一部の最後に“Sam. I'm glad you're with me.”といった時と同じ、元のままの彼らしく、何だか少しほっとしました。
原作を読んだときには、あまりにも悲しくて、最後の数ページは涙なしに読み進めることができなかったものですが、映画の方は原作とはまた違った味わいがあったとでもいいましょうか。原作には、メリーとピピン、サムが泣いていたことは書いてありますが、フロドの表情については何も書かれていません。ですから、フロドが笑顔を見せるとは考えてもいなくて―というかフロドがどんな表情をしているか考えたこともなかった―良い意味で意表を衝かれました。そして、どこか他の場所へ行かなければならないのなら、せめてそこでは幸せに暮らして欲しいという気持ちをかきたてられました。とても悲しかったけれど…。


