2014年08月02日

蘭陵王(史実編)

s-蘭陵王_0006.jpg
(画像はポストカードから)

中国の美女といえば、西施とか楊貴妃とか、誰でも名前くらいは知ってると思うけど、美男の方はあまり知られてないみたい。

外出すると女子に取り囲まれて、車の中は女たちが投げ入れたプレゼントがギッシリ…みたいなひと(潘岳・はんがく)とか、イケメンすぎて人がじろじろ見るために、気疲れして死んじゃった元祖パパラッチの被害者みたいなひと(衛玠・えいかい)とか、いるはいるけど、何かぱっとしないのは、史官のジェラシー(笑)のせいかしら。

て訳で、実在の人物であり、正史のお墨付きもバッチリな中国No.1のイケメンといえば、蘭陵王(らんりょうおう)、この人しかいない! 

と意気込んで周りに聞いてみたら、中国史専攻の人にさえ「知らない、そんな人」って言われてしまった…えぇ、そんなにマイナー? だって蘭陵王って言えば…

 ・色白で物腰も優美、女人と間違われるほどの美形ながら、軍神と恐れられる武将だった、とか
 ・あまりに優男なので、戦場では周りの将兵が見とれちゃって士気が下がるから恐ろしい仮面をつけてた、とか、

 ・たった500騎で5万の敵陣を突破し、味方の城に到着したところ、敵と疑われてしまった。そこで仮面を外したら、その美貌で、たちまち本人と認定され、戦に大勝利をもたらした、とか、

 ・褒賞として20人の妾を与えられたが、1人しか受け取らなかった、とか、

 ・もらい物は1個でも兵士に分け与えた、とか

 ・民に慕われ、勝利を讃える「蘭陵王入陣曲」(らんりょうおうにゅうじんきょく)が作られて、当時の超人気ダンスチューンに。なんとその曲は現代まで伝わっている、とか
  

すぐにでも映像化できそうなエピソード満載のお方なのですよ! やはりというべきか、中国・台湾合作で去年、『蘭陵王』としてテレビドラマ化されて、今年日本でもDVDが出てます。

後ろに書きますように、実は日本とも浅からぬ縁のあるこのお方、ドラマになったことを知ってはいたんですが、この完全無欠のイメージが壊れるのが嫌で、当初はテレビドラマを見ようという気が起きませんでした。だって、誰ができます、こんな役? 美女と見まごう無敵の武将なんて…(むしろタカラヅカ向きだと思うわ)

ところが、何の因果か分かりませんが、調べ物の関係で46話もあるこのDVDを3日で全部見なきゃいけない羽目に陥り、半ば嫌々見たところ、結構面白くって、調べなくて良いことまであれこれ調べちゃいました。もったいないから書いとこう、というのが以下のエントリーでございます。
 
まずは、フィクションの元になった史実の方から…

蘭陵王は今から1400年くらい前、三国志の次の時代(魏晋南北朝)のひとです。姓は高、あざなは長恭(ちょうきょう)。(北)斉の第四皇子で、与えられた領地の名前から蘭陵王と呼ばれていました(プリンス・オブ・ウェールズみたいなもんでしょうか)。

中国では、王朝が滅んだあとに、次の王朝が国家事業としてその歴史を記した史書を編纂します。蘭陵王については、北斉史巻11、北史巻52に500字ほどの記載があるのですが、そこにきっちり、

長恭貌柔心壮、音容兼美
(長恭は優しい顔つきだったが心は勇壮で、声も姿も共に美しかった)

と書かれています。500字の記述中、10字も使ってイケメン認定って、どんだけよ?

正史には他にも、

 たった500騎で敵の包囲網を突破、味方の城(中国語の「城」は日本語でいうと「まち」にあたる)に着いたが、将兵は誰も彼の顔を知らない。
 兜を脱いだら(どんな顔か知られていないにも関わらず)、蘭陵王と認められた。


という有名なエピソードが書かれています。なぜ兜を脱いだら本人と分かったのかは正史には特に書いてないんですけど、たぶんここから、誰もが認めるその美貌を隠して戦うために恐ろしい仮面をつけてた、という話になったようです。

正史の記述は短いので、せっかくだから全部読んでみましょうか。

蘭陵武王長恭,一名孝瓘,文襄第四子也。
蘭陵武王〈らんりょうぶおう〉長恭〈ちょうきょう〉はまたの名を孝瓘〈こうかん〉、文襄帝〈ぶんじょうてい〉の第四皇子だった。

武王、というのは諡号(おくりな:死んだあとに贈られる称号)。父の高澄は斉の建国前に亡くなってしまうので(→詳しくは第9話の記事→こちら をご覧ください)死後に皇帝の称号を与えられました。

累遷并州刺史。突厥入晉陽,長恭盡力擊之。
昇進を重ねて并州刺史〈へいしゅうしし〉となり、突厥〈とっけつ〉が晋陽(しんよう:今の山西省太原市。当時は斉国并州〈へいしゅう〉にあり、首都の一つだった)に侵入した折は、全力で迎え撃った。

突厥は当時強大だったトルコ系の騎馬民族のこと。ドラマでも重要な役割を果たします。
晋陽は当時の要衝で、ここから蘭陵王と同時代の貴族の墓が発掘されました(徐秀顕墓)。ドラマの公式Facebookによると、衣装や髪形なども、その出土品を参考にしているようです。(詳しくは第7話の記事→こちら、第10話の記事→こちら をご覧ください)。

蘭陵王のドレッドヘアも出土品を参考にした...らしい。

芒山之敗,長恭為中軍,率五百騎再入周軍,
邙山(ぼうざん)で不利な戦況になると、中軍にいた長恭は500の騎兵を率いて再度(当時、敵対していた)周軍に攻め入った。

正史ではここは「敗」となってますが、注釈によるとどうも誤字らしく、「役」〈芒山の戦いで〉とするのが正しいとあります。

邙山の戦いは2回あり、ここで言っているのは第2次邙山の戦いのこと(第9話参照。記事は→こちら)ドラマでは出てきませんが、実は第1次邙山の戦いも、ドラマに大いなる関係があります。そちらについては第9話の記事→こちらをご覧ください。

遂至金墉之下,被圍甚急,
ついに(洛陽の東にある)金墉城(きんようじょう)まで到達したが、城は周軍に包囲され、危機的状況だった。

城上人弗識,長恭免冑示之面,乃下弩手救之,於是大捷。
城内の兵卒は長恭の顔を知らなかったため、兜を脱いで顔を現すと、城内の将も認めてようやく射手を遣わし、彼を援護して、大勝利を収めることができた。

なお、ここののくだり、味方が構えていた弓を下ろして、と取る解釈をよく見ます。確かに文脈としてはその方が場面に合うような気がするし、ドラマでも、蘭陵王たちに向けて構えていた弓を、仮面を取ったら下ろしていますね。でも原文を見ると、「弓を」じゃなくて「弓手を」になってるので、ここは弓手を応援によこした、と解釈しました。

武士共歌謠之,為蘭陵王入陣曲是也。
斉軍の将兵はこのことを讃えて共に歌ったことから、「蘭陵王入陣曲」が成った。

歷司州牧、青瀛二州,頗受財貨。
のちに彼は州牧、青瀛(せいえい)の二州の刺史を歴任したが、たびたび賄賂を受け取った。

後為太尉,與段韶討栢谷,又攻定陽。
のちに太尉となり、段韶(だん しょう)と共に栢谷(はくこく)を討ち、また、定陽(ていよう)を攻めた。

韶病,長恭總其衆。
段韶が病を得ると、その軍を率いた。

前後以戰功別封鉅鹿、長樂、樂平、高陽等郡公。
前後して軍功により、鉅鹿(きょろく)、長楽、楽平、高陽などの郡公に封ぜられた。

芒山之捷,後主謂長恭曰:
芒山での大勝ののち、後主(高緯:こうい)が長恭に、

「入陣太深,失利悔無所及。」
「敵の陣地深くに入りすぎだ。危うくなったら後悔しても間に合わないではないか」
と言ったところ、


對曰:「家事親切,不覺遂然。」
「自分にとって大切な家の大事です。考えるまでもなく飛び込んでしまいました」と答えた。

帝嫌其稱家事,遂忌之。
帝は長恭が(皇帝でもないのに国事を)「家の事」と言ったことを嫌い、疎ましく思うようになった。

この辺もドラマにきっちり取り入れられています。(第10話→こちら

及在定陽,其屬尉相願謂曰:
長恭が定陽に戻ったのを見計らって、部下の相願が言った。

「王既受朝寄,何得如此貪殘?」長恭未答。
「王は朝廷から重用されておられるのに、なにゆえそのように財を貪られるのか」
長恭は答えなかった。


相願曰:「豈不由芒山大捷,恐以威武見忌,欲自穢乎?」
「芒山での大勝の後、ご武勲が疎まれるのを恐れ、ご自身で評判を落とそうとのおつもりか」と相願が言うと、

長恭曰:「然。」相願曰:「朝廷若忌王,於此犯便當行罰,求福反以速禍。」
長恭は「いかにも」と答えた。
相願は「もしも朝廷が王を疎んじているならば、このようなお振舞いは懲罰の口実となります。幸いを求めようとして、かえって災いを招いておるのですぞ」


長恭泣下,前膝請以安身術。
長恭は涙ながらにひざまずき、身を守る術の教えを乞うた。

相願曰:「王前既有勳,今復告捷,威聲太重,宜屬疾在家,勿預事。」
「王はすでに勲功を立てられ、さらにこのたびは大勝をなされた。名声が高くなりすぎておられる。病を口実に外に出ず、政には口をはさまぬことです」

長恭然其言,未能退。
長恭はその言葉を良しとしたが、退くことはできなかった。

及江淮寇擾,恐復為將,歎曰:「我去年面腫,今何不發。」
(隣国の陳が)江淮地方に攻め寄せてくると、また将として出陣せねばならなくなることを恐れ、嘆息していった。「去年は顔が腫れる病を得たというのに、今年はなぜ罹らぬのか」

自是有疾不療。
これ以降、病気にかかっても治療を受けなかった。

武平四年五月,帝使徐之範飲以毒藥。
武平4年(西暦573年)5月、帝は徐之範を遣わし、長恭に毒薬を賜った。

長恭謂妃鄭氏曰:「我忠以事上,何辜於天,而遭鴆也。」
長恭はその妃、鄭氏に言った。「忠義を尽くし、なんら天に恥じるところがないのに、なにゆえ毒を仰がねばならないのか」

ということで、ここに鄭氏が出てきます。実在した人物で、史実ではもちろん、蘭陵王の妃です。
(史実とドラマの鄭妃について、詳しくは第12話→こちらへ)
妃曰:「何不求見天顏。」
妃は言った。「なぜ、皇帝陛下にお目通りを願わないのですか」

長恭曰:「天顏何由可見。」遂飲藥薨。贈太尉。
長恭は「何をもってお目通りが叶おうか」といい、ついに毒酒を仰いで薨じた。
死後に太尉の官職を贈られた。


長恭貌柔心壯,音容兼美。
長恭は優しい面立ちをしていたが、勇猛果敢な性格で、その声も姿も共に美しかった。

為將躬勤細事,每得甘美,雖一瓜數果,必與將士共之。
将として、どんな些細な事も自ら差配した。美味が届くと、それが瓜ひとつであろうと、数個の果物であろうと、必ず将士と分けあった。

このあたり、ドラマでは第10話に登場しますね。(記事は→こちら

初在瀛州,行參軍陽士深表列其贓,免官。
瀛州にいた当初、行参軍(官名)の陽士深(ようししん)が「(長恭は)戦利品を貪り、法を枉(ま)げている」と上奏したため、長恭が免官になったことがあった。

楊士深〈よう ししん〉も実在の人物。史実でも、近くに仕えていたのですね。ちょっと役目は違うけど…でも、ご意見役なのはどちらも同じ。

及討定陽,士深在軍,恐禍及。
定陽を討つ際、士深は長恭の軍営にいて、報復を受けるのを恐れた。

長恭聞之曰:「吾本無此意。」
長恭はこれを聞き、「元より、かようなつもりは無い」と言った。

乃求小失,杖士深二十以安之。
そして、小さな過失を探し出すと、20回叩かせる刑に処して、士深を安心させた。

嘗入朝而僕從盡散,唯有一人,長恭獨還,無所譴罰。
かつて参内した折に、従者とはぐれて独りきりで帰ってきたことがあったが、誰も罰しなかった。

武成賞其功,命賈護為買妾二十人,唯受其一。
武成帝(高緯の父)が長恭の功績をたたえて、賈護に命じて20人の側女を買い与えたが、その中の1人だけを受け取った。

有千金責券,臨死日,盡燔之。
死に臨んだその日、多額の証文を焼き捨てた。

…というのが全文です。正史だからと言って、本当の事が書いてあるとは限らないわけですが、少なくとも人に慕われていたのと容姿が美しかったというのは本当じゃないかなーと思うのは、蘭陵王が亡くなった翌年に、死を悼む石碑が建てられているからです。

顕彰碑に褒め言葉しかないのは当然ですが、直接本人を知る人たちが見るわけだから、あまり荒唐無稽なことも書いてないでしょうし、そもそも、(「名ばかり官位」を追贈されたとはいえ)毒を賜った皇帝が健在なのに、碑が建てられたのは相当慕われたためだと思います。

碑には弟の第五皇子・安徳王による詩と600字ほどの碑文が刻まれ、そこには蘭陵王の人となりがこう記されています。

風調開爽 器彩韶K
器の大きな明るく清々しい人柄で、才があり、抜けるような美しさだった

ってことで、武将らしく豪気な性格だったということと、容貌が優れていたということはデフォルトらしい。
ここに至るも仮面の話は出てこないんですが、時代が下って『旧唐書』(くとうじょ)になると、巻29にこんな記述が登場します。

《大面》出於北齊。
「大面」という演目は北斉由来の曲である。

北齊蘭陵王長恭,才武而面美,常著假面以對敵。
北斉の蘭陵王長恭は、才武兼備、容貌も美しく、常に仮面をつけて敵に対した。

嘗擊周師金墉城下,勇冠三軍,
かつて周の軍を金墉城下に撃ち、その勇猛果敢さは全軍一であった。

齊人壯之,為此舞以效其指麾擊刺之容,謂之《蘭陵王入陣曲》
斉の人々はこれを壮挙とした。この舞はその采配や剣を振るうさまにならったもので、『蘭陵王入陣曲』と言う。

唐代になると、仮面をつけて戦うキャラは確立しているんですね。

だとすると、どんな仮面かがとっても気になる訳ですが、そこでTVドラマを見てしまった私が、血圧上がったのも無理からぬことでありましょう。

何か悲しくて般若の面なのよ〜!!
(いつも一番カッコいいはずのシーンで般若の面が出てくるので、お茶吹いちゃうんですけど)

ほれほれ。

s-蘭陵王_0005.jpg
(こちらもポストカードより。このビジュアルは蜷川実花さんが担当したそうですが、撮影時に苦労したんじゃないかな〜・笑)

絶対般若の面はない!とは思いますけど、じゃ、実際はどんな面だったかというヒントは、実はどうもやはり日本にあるらしい(ほら般若じゃん、と勝ち誇るのはやめぃ)。
こちらが面の画像

いやこりゃ般若の方がましかもぶつぶつぶつ

『蘭陵王入陣曲』は人気曲だったので、斉が滅んだあとも隋代、唐代と受け継がれ、遣隋使、遣唐使が日本に持ち帰り、雅楽の演目として残された一方、唐代に舞楽が統制されたせいで、本国では廃れてしまったということのようです。

雅楽の「蘭陵王」が「入陣曲」を受け継いだものという特定の決めてになった手がかりは、服装だったということなので、面の方もある程度、当時の面影を残しているのではないでしょうか。

その辺の事情は、実際に調査をされた馬忠理先生の論文(日本語訳)を読むことができますので、ぜひどうぞ。
こちらです。
(『蘭陵王入陣曲』について、詳しくはこちらのエントリー→第10話の3 もご覧ください!)

雅楽の「蘭陵王」は日本でも人気曲だったため、日本の文学作品の中にも登場します。(記事はこちら→蘭陵王入陣曲:後編)

ちなみに、蘭陵王が死んで4年後の577年には北斉が滅んでしまい、っていうか、だいたい、この王朝自体、27年しか続かなかったんですが(短っ!)、皇族である、渤海(ぼっかい)出身の高一族が美形ぞろい+性格がファンキーとキャラ立ちしているおかげか、北斉史は短いながら、なかなか面白いです。

帝王紀の他にも、列伝の段韶(だんしょう:テレビドラマにも太師として出てきました)のくだりを読むと、蘭陵王の大勝の影に、この人の作戦があったことが分かります。(彼の息子さんも、史書に美形だったって書かれております)

蘭陵王の弟、第五皇子・安徳王なんて、史書を見ると前半生は結構なワルで、ドラマ以上にハチャメチャな人だったようです(どういうふうにハチャメチャかは、お食事中の人もいるかと思うと、とても書けない…)。

のちに、蘭陵王が芒山の戦いで勝って凱旋すると、他の兄弟たちは誉めそやしたのに、安徳王だけがこんなことを言いました。
蘭陵王芒山凱捷,自陳兵勢,諸兄弟咸壯之。延宗 獨曰:「四兄非大丈夫,何不乘勝徑入?使延宗當此勢,關西豈得復存。」
「四兄(蘭陵王)はまことの丈夫(ますらお)ではないな、なぜ勝ちに乗じて進撃しないのだ。私がこの局面を迎えていたのだったら、関の西側などなくなってしまうだろうに(当時、西側は交戦相手である周の領土だった)」

ところが、蘭陵王が亡くなると…
蘭陵死,妃鄭氏 以頸珠施佛。廣寧王使贖之。延宗手書以諫,而淚滿紙。
蘭陵王が死ぬと、妃の鄭氏は身に着けていた首飾りを仏寺に喜捨した。広寧王(第三皇子)は人をやって買い戻そうとした。安徳王は上奏文を書いてこれを諌めたが、その紙は涙の跡だらけだった。

ま、コスプレ兄貴スカトロ弟(あ、書いちゃった)は、なかなかいいコンビかと…。

と喜んでたらこんな長さになっちゃいました。肝心のドラマの話は、また改めて、「有話即長編」にて。

*PS.その後、リクエストをいただいたため、出演者へのインタビュー番組の紹介などを交えて、テレビドラマに1話ずつ突っ込んだを回を追って考察したり、元の中国語のセリフから引っ張り出したトリビアなんかを集めた記事を書いております。

第1話は→こちらからどうぞ。


posted by 銀の匙 at 12:00| Comment(2) | TrackBack(0) | 蘭陵王(テレビドラマ) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
蘭陵王♪ていえばもう♪
奈良の春日の大社の宝物に
幼少のミギリ。。。ぽっ(〃▽〃)
となったワタシ。
阿修羅像といい美しいおのこは
後世に伝えられるのも美しく〜♪
花と散れ〜♪
顔だけ美人でカラダはムッキーだったり
したらどうなんだろう・・・剣使うし。
と、せっかくの匙サンのがくじゅつ的な
推察と無縁の妄想カキコごめん
どろん。。。笑
Posted by Elfarran at 2014年08月10日 17:49
Elfarranさん、こんばんは。
この2週間出ずっぱりで失礼いたしました。台風のさなか、出張しててマジ死ぬかと思いましたよ…

いえいえ、ガクジツ的と見せかけて(?)、これこそが妄想カキコでございまして…先におわびしときますけど、この後、どんどんひどくなりますのでお許しを…

春日大社といえば、「蘭陵王」の舞楽が奉納されるお社ですよね。1992年に、南都楽所の笠置先生が実際の蘭陵王廟の前で、雅楽「蘭陵王」を奉納されたそうです。

そのとき、物見高い見物人がたくさん集まって、近くを走ってた列車が止まるほどの騒ぎになったと聞きました。

でも、この舞、本当に素敵ですよね。音楽もいいし。見物するだけの価値は十分あると思います。
Posted by 銀の匙 at 2014年08月23日 22:15
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