2016年11月02日

サーミの血/サーミ・ブラッド(表示以降、お話の結末に触れています)

【2016年9月16日〜劇場公開決定!】
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(↑ ノルウェーで購入した絵葉書より)

一昨年ノルウェーの北極圏を定期船で旅したとき、船が主催する、ヨーロッパ最北端への小さなバス旅に参加しました。

道すがら、地元のバスガイドさんは、昔からその地方に住んでいる、サーミという人たちのことを話してくれました。トナカイを放牧したり、漁業をしたりして生計を立てているそうで、彼らの歌う不思議なうたも聞かせてくれました。「ヨイク」という歌で、聴き手もトランス状態に陥りそうな、シャーマンのお祈りのうたのような感じでした。

バスは放牧地に立ち寄り、そこには民族衣装を着たサーミのおばあさんが一人、トナカイの傍らでぽつんと立っていました。ガイドさんに記念撮影をどうぞと言われ―おばあさんもそのために待っていてくれたのですが、何だか見世物扱いしているようで、複雑な心境でした。

第一、民族衣装を着ていることを除けば、サーミの人は、一般のノルウェーの人たちと特に変わったところはないように見えました。北極圏に住む先住民族はアジア系しかいないと思い込んでいた自分には、これはかなりの驚きでした。

がぜん興味が沸いたので、ベルゲンの街で船を下りたあと、サーミの人について書かれた本やCDなどを探したのですが、唯一の収穫は↑絵葉書だけ。残念に思っていたところ、サーミによるサーミの映画が上映されることを知り、鑑賞いたしました。

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お話の舞台はスウェーデン。

サーミの老婦人・クリスティーナが息子に連れられ、妹の葬式に参列するためにやってきます。

しかし彼女はサーミとして扱われるのを嫌っているらしく、サーミは嘘つきで物盗りだと罵り、参列者である郷里の人々との語らいや、サーミの伝統行事に参加しようとする息子や孫娘を避けて、一人、ホテルに残ります。

参列者を見た他の旅行客たちは、食事の席でサーミについて噂し、「あの人たちはどこでもバイクで乗り入れる」「自然保護地域を破壊している」「サーミは自然と共生する人たちだと思っていたのに」等々と非難し、クリスティーナは我が意を得たかのように聞いています。

ディスコに興じる人々の間をさまよい、放牧地に向けてヘリコプターで出発する息子たちを、ホテルの窓からぼんやり眺めるクリスティーナ。その視線の先に、少女時代の思い出が蘇ります。

当時、スウェーデンでは同化政策がとられており、サーミの子供たちだけが通う寄宿学校ではサーミのことばは禁じられていました。

スウェーデン語を習い、本を読み、教師になることを夢見る賢い少女・エル=マリャは、自分のおかれた境遇に我慢できず、首都の高校に通いたいと願い出ますが、サーミには文明世界に適応する能力がない、街に出たら絶滅してしまうと教師に拒否されてしまいます。

外の世界に憧れるエル=マリャは、スウェーデン人の集まるダンスパーティーに潜り込み、教師の名・クリスティーナを名乗って、裕福そうな青年と知り合います。それをきっかけに彼女は家を出て、ウプサラの高校に入学することに成功するのですが…。

               *

少女時代のエル=マリャを演じたのはサーミの女性で、何よりも彼女がとても魅力的でした。八方ふさがりの状況の中で、何とかして自分の運命を切り開こうとする少女の冒険物語として面白く、彼女の姿に心打たれると共に、ルーツを捨てて生きることを選んだ彼女への複雑な思いも抱かせる、見事な作品でした。

東京国際映画祭で観ました。
上映後、アマンダ・ケンネル監督と主演のレーネ=セシリア・スパルロクによるティーチインがありました。ネタバレになりますので、OKな方はどうぞ以下もご覧ください。







冒頭、彼女の語った「嘘つきで物盗り」とは彼女自身のことに他ならなかったわけですが、彼女のおかれた状況からすれば、ある程度小狡く立ち回らない限り、境遇を変えることは絶望的でした。

パーティーに行ってしまった彼女をおいかけてきた妹に、スウェーデン人の少年たちから言われた侮蔑のことばをそのまま投げつけて、追い払おうとするわけですが、自ら差別する側に立って差別から逃れようとするその行動は褒められたものではないけれど、自分も同じ立場ならやってしまうかも知れない。

監督いうところの「サバイバル術」に長けていたために、彼女は意志を通すことができた。ホテルで他の宿泊客に語ったことが本当なら、彼女はその後、希望通り教師になり、サーミというルーツから逃れて成功したということになります。

しかし、老齢になって来し方を振り返ったとき、果たしてそれが理想的な生き方だったのかと彼女自身、忸怩たる思いがあったに違いありません。

誰もいなくなった教会で妹の遺骸に寄り添ったとき、彼女は捨ててきたルーツや過去とも、ようやく和解できたかのように見えました。

しかし、彼女がそんな思いをしなければならなかったのは、彼女自身のせいでは全くないのです。

ラストシーン、ヘリコプターで行くような放牧地へ、彼女は自らの力で登っていきます。そこは、昔ながらのテントが張られる一方で、非難された通り、大型のオートバイが何台も止められているところです。その印象的な光景に、自分の物差しで他者をはかり、圧迫することの愚かさをまざまざと見せつけられた気がします。

         *

上映が終わり、監督のアマンダさんと主演女優のレーネさんが登場し、ティーチインとなりました。

作品の素晴らしさに比例するように、熱心な質問がいくつも出されましたが、アマンダさんは余裕で、レーネさんは一生懸命、英語で答えてくれました。

レーネさんは普段はトナカイの放牧をして暮らしているとのことで、アマンダさんからはe-mailでコンタクトがあったそうです。今、放牧にはバイクや四駆が使われているということで、あの広大な地域を移動するのですから、そりゃあった方が便利ですよね。

映画冒頭の旅行客のセリフは、監督が本当に聞いたことを取り入れているそうです。

今、スウェーデンでは同化政策も改められ、レーネさんの世代はサーミであることに誇りを持っているといいますが、外野の人たちの考えは大して改まっていないように思えてなりません。

自然保護区を荒らしていると言っても、そこは元々サーミの職場だったのだし、そこでバイクを使うことを「サーミ特権(?)」のように非難するのはどんなもんなんでしょうか…じゃ、あなたたちのオフィスの周りを自然保護区に指定しますから、歩いて通ってね、出張も歩きですからね、と言ってやりたい…。

先住民族だからって勝手に「自然と共生してる」みたいなレッテルを貼られて、イメージ通りでないと嫌がられるっていうのも何なんだかな…バイキングの子孫なんでしょ、なんで手漕ぎ船に乗らないの。飛行機に乗るなんてあり得ない、と言ってやりたい…。

と思っていると、会場からは早速、チベットに行ったときに見た、チベットの人たちのおかれている状況に似ていると感じました、と言う発言が出ました。

するとすかさず別の方から、日本も昔、台湾や韓国を植民地にして、同じような政策を行っていました。そうした人たちはどういう意識を持つべきでしょうか、という強烈なカウンターが飛んできました。

相手の足を踏んだ人は、踏んだことを忘れてしまう。踏まれた人は痛さを忘れない、という言葉を一瞬思い出してしまいましたが、監督さんは少し考えて、静かに、こんな風に答えてくれました。

監督という仕事の良いところは、問いかけをすることはあっても、答えを提示しなくていいことです。映画とは、自分の前に立てた鏡のようなもの。自分のしたことを映し出し、自省を促して、前へと進んでいくのです。

もう一つの興味深い質問は、カメラの位置に関するものでした。

この映画は主演のレーネさんに貼りつくようにして撮られたショットが多いのですが、なぜでしょうか、という問いに対して監督は、

ヒロインのアップが多いのは意図的なものです。出来事を、他人事ではなく、彼女の目を通してとらえて欲しかったからです。だから、ほとんどのシーンに彼女の姿が映っています。

もう一つは、余計なものを排除するためです。この映画は1930年代を舞台にしているため、カメラを引くと、道端のリンゴ売りだとか、人々の衣装だとかといった、30年代の風景が入り込むことになります。そうすると、観客の関心が当時の風俗習慣の方に向いてしまう。それを避けるためです。

サーミの人びとを記録した学術映画や、人類学的な興味ではなく、ひとりの少女の物語としてこの映画を観て欲しい、という監督さんの意図が表現された演出だったのですね...これは、質問をした方もスゴイと思いました。

というわけで、かしこ可愛いサーミの少女・エル=マリャのド根性冒険物語を楽しみつつ、自らを省みさせる素晴らしい本作品、後日、日本公開もありそうだとのことですので、ぜひお見逃しなく!

その他の面白かった映画、フェイバリット映画100は→こちら から

ぴあ映画生活

posted by 銀の匙 at 00:21| Comment(0) | TrackBack(0) | 映画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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