2016年12月27日

オアシス:スーパーソニック

数年前、確かスカンジナビア航空かなんかに乗ったときに、離陸前ずっとキャッチ―な曲がかかっていて、気になって後で調べたら、ノエル・ギャラガ―ズ・フライング・ハイっていう、やたら長い名前のバンドのAka...What a life!という曲でした(こちらにオフィシャルMVがあります...→https://www.youtube.com/watch?v=d6m03FUYaTM が、前置きがすごく長くて、実際の曲は3:34くらいからです)。

これがまた中毒症状を呈する楽曲で、ひと頃は常に頭の中で再生されている状態だったのですが、この映画のポスターを見かけて、あ、そうだノエル・ギャラガ―って元オアシスの人だったと思い出し、どんな人なんだろうと思ってノコノコとオアシスのドキュメンタリーである、この映画を観に行ったという次第です。

ブリットポップは好きなのですが、90年代当時はブラーのファンだったので、オアシスなんか、ああ、あの兄弟仲の悪いって噂のバンドね、くらいにしか思ってませんでした。

今回、映画を観て真相を知りましたが、まさか本当だったとは…(笑)
(つか、全くの部外者にまでそんなことが知れ渡ってるバンドって一体…)

それに、私の知ってた曲が「ワンダーウォール」とか「シャンペン・スーパーノヴァ」とかスローな曲ばかりだったので(名曲だとは思ったけど)ロックバンドだという認識すらなかったのですが、いやいや、この生き様はまさにロックンロール。

初めての海外公演に出かけたオランダで、移動中、乱闘騒ぎに自ら参戦。リードボーカルのリアムは結局一曲も披露せずに強制送還されてしまい、しかしそれを聞いた契約レーベルの総帥・アラン・マッギーは「最高だ」って言った、とか(つまり、一番のつわものはマッギーだった訳ですが)。

ドラッグをやりながらステージで演奏して、伴奏と歌が別の曲だったとか(直接の原因はローディーがセットリストを間違ったせいらしいのですが、ラリッてなきゃ気が付くだろ普通)。

もし実家が魚屋だったら兄弟がマスで殴り合ってたと思うとか。

こんな妙なバンドに嫌気がさして辞めてしまったベーシストが、危機を救いに駆けつけてきてくれたのに、感謝の言葉一つ掛けるでもなく、オアシスに腰抜けは要らないと罵ってみるとか。

さんざん家庭内暴力を繰り返した父親がライブの後の打ち上げ会場に現れると、本気で殺そうとするとか。

全編いちいちこの調子、いったいこのエネルギーはどこから出てくるんでしょうか。

とにかく、折れない、曲がらない、凹まない。スーパーソニックっていうより超合金で出来てるようです。

兄弟間ばかりではなく、あらゆることに罵詈雑言、その発言は得体のしれない芸風を確立しています。口だけ番長かと思いきや、アルバムセールスも動員数も新記録を達成し、英国一のバンドにのし上がる有言実行ぶり、お見それいたしました!

映画は、こんなとんでもないバンドの中心人物である、ノエル・ギャラガーとリアム・ギャラガ―兄弟の幼いころから、1996年・25万人を動員した空前のネブワース・ライブまでをとらえたドキュメンタリーです。

グラスゴーでの初登場ライブをはじめとする初期のライブやレコーディング中の映像から、ツアーの間のちょっとしたメンバーのやり取りの記録まで、よくもこんな映像残ってたものだと驚くようなものばかり。

常にいがみ合っているネコ派の兄ノエルとイヌ派の弟リアム。決して幸福とは言えない子ども時代を過ごした彼らですが、だからこそギターに没頭できたと考えるノエル、ケンカの相手に金づちで殴られて音楽に目覚めたというリアム。

共に、「悪魔的でふてくされて挑発的」と言われる彼らの音楽とは裏腹に、ポジティブという言葉が陳腐に感じるほと前向きなロック魂を感じます。発言もよく聞くと、毒舌ながら痛いとこ突いてる名言のオンパレード。

日本についての発言も入っていて、なぜかとっても日本に優しいのが却ってブキミなんですけど、「英語もできないのになんであんなに熱狂的なんだ?」という感想が鋭すぎて笑っちゃいます(褒めているらしい)。

この二人に「クレイジー」と認定していただけるとは、誠に光栄の至りであります。

正直、オアシスのファンでなければピンと来ない作りだし、残念ながら曲が途切れ途切れにしか入っていないのでミュージシャンのドキュメンタリーとしてはどうかと思うものの、登場人物のキャラクターが予想を上回る面白さでかなり挽回してると思いますし、一つの時代の象徴として観れば、90年代の熱気を体現できる貴重な作品と言えるでしょう。

ちなみに、ギャラガ―兄弟の発言があまりに面白いのですっかりハマってしまい、映画を観終わっても彼らの悪口名言集を探して読んでる毎日です。



角川シネマ有楽町で観ました。
音響も悪くないし、観やすい劇場です。

立川シネマシティで爆音上映中だそうで、そちらでも観てみたいのですが、楽曲がぶつ切りなので、却ってフラストレーションが溜まるかも…。

まあ、あの最高の音響でノエル・ギャラガ―の毒舌を聞くのも悪くないチョイスかも知れません。

ぴあ映画生活
posted by 銀の匙 at 03:13| Comment(0) | TrackBack(0) | 映画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年12月24日

素晴らしき哉、人生!

*2017年も田端のシネマ・チュプキ・タバタで上映されるそうです。
素晴らしい映画館で、素晴らしい映画を!*

http://chupki.jpn.org/about

皆様、メリー・クリスマス!

年明け、似たような邦題で新作映画が公開されるそうですが、こちらは1946年のアメリカ映画。フランク・キャプラ監督作品です。

舞台はクリスマス・イブの夜、アメリカの小さな町、べドフォード。激しく降りしきる雪の中で、多くの人たちがジョージ・ベイリーのために祈っています。星空の彼方(?)でそれを聞いていた天使は、二級天使クラレンスを派遣することに決定。もしジョージを救えれば翼がもらえると聞いて喜ぶクラレンスは、彼がもうすぐ自殺しようとしていると知らされます。そして、助けに行く前に、まずはそこまでのジョージの半生と事のいきさつを聞かされます。

主人公のジョージは弱きを助け強きをくじき、善良で陽気で人懐っこい、アメリカ人の理想のような青年。彼には冒険心も野心も理想もあり、小さな町を出て世界に羽ばたこうとしていました。

しかし、彼の父親が急逝し、義侠心から町の小さな住宅ローン貸付会社を引き継ぐことになります。

町は無慈悲な銀行家、ポッターが支配しており、貧しい人たちは彼の貸し出す粗末な家に住んでいました。ジョージの会社は低利で住宅の資金を融資し、彼らがマイホームを手に入れる手伝いをしていたのです。

決して裕福とは言えないけれど、人のためになる仕事をし、愛する人と温かい家庭を築いて事業も軌道に乗ってきた矢先、同じ会社で働いていた叔父がうっかり、銀行に預けるために持っていた会社の資金8000ドルを封筒に入れたまま、新聞といっしょにポッターに渡してしまうというミスをしてしまいます。

常日頃、ジョージの言動に面白からぬ思いをしていたポッターは、すぐにこの現金の意味を悟り、ここぞとばかり彼を追い詰めます。

クリスマスの夜、絶望したジョージは、周りに当たり散らし、家を飛び出して町はずれの橋の上で、暗い川面を見つめているのでした...。

実は観るまで何の予備知識もなくて、モノクロのタイトルロールが出たのに驚いてしまったのですが、最初の方のシーンが雪の降りしきる夜景や星空と、もともとモノクローム的な世界からスタートし、最初のうちは登場人物(と天使)も声だけなので、全く違和感なく、すんなりとお話に入っていけました。SF好きには、パラレルワールドものとしても楽しめます。

主人公のジョージが、ああっ、ちょっとそこでなぜハッキリ言わないの?!とか、たまには相手に譲ってもらってもいいじゃない、とかじれったいんだけど、聖人君子っていうよりは、若干要領が悪いというか、巻き込まれ型なのが良い子のスーパーヒーローと違ってホッとします。

良妻賢母を絵に描いたようなヒロインのメアリー、忘れん坊で大ピンチを招いてしまうけど憎めない叔父貴などの登場人物や、ローンを組んでも自分の「ホーム」を手に入れることが誇らしかったりする価値観とか、アメリカ映画らしいのも興味深いです。

第二次大戦が終わってすぐに撮られた映画だからか、人の善意とか、勇気とか、復興とかの要素もふんだんに詰め込まれていますが、施しを与え、人を赦し、隣人愛を確かめ、神の恩寵を感じるというクリスマスの意義を思い出させてくれます。

仇役の銀行家・ポッターも、一見、どこまでも憎々しいようではありますが、実は現金の封筒に気づいて咄嗟に、それを返すために叔父を呼び戻そうとするんですね。すぐに思いとどまりはするけれど、そういうところに救いを感じます。

それにポッターさんにも、この後きっと、ディケンズの「クリスマス・キャロル」みたいな奇跡が起こることでしょう…。

田端のシネマ・チュプキ・タバタで観ました。
クラウドファウンディングで創られた、常設のバリアフリー映画館とのことです。
入口からシアタールームまで階段を使わず直結で、車椅子でのアクセスが良いことはもちろん、目の見えない人も映画を楽しめるよう、音声ガイドもあるとのこと。今回のような映画を観るのにピッタリな劇場だと思いました。

上映が終わって、お客さんが映画館の人に良い映画を有難う、とお礼を言ったり、知らないお客さん同士で和やかに話したりしていたのは、プログラムがこの映画だったからということもあるでしょうが、この映画館だからということもあるのだと思います。

出来たばかりで設備も綺麗ですし、音もよく、画面も見やすいです。
17席しかないので、遠くから足を運ばれる方は、入場予約をした方が良いかも知れません↓
(席自体は自由席です)
http://chupki.jpn.org/about
posted by 銀の匙 at 23:32| Comment(0) | TrackBack(0) | 映画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年12月21日

あなた、その川を渡らないで(表示以降、ストーリーの結末に触れています)

この映画のストーリーを簡単に説明すると、こんな感じです。

昔々…じゃなくて21世紀、韓国の山奥に、
おじいさんとおばあさんが住んでいました。

おじいさん…とおばあさんは、山へ芝刈りに、
おばあさん…とおじいさんは、川へ洗濯に行きました
(そんでもって、おじいさんは、洗濯しているおばあさんにちょっかいを出していました)

つまり、二人はどこへでも一緒に出かけました。

そして二人はいつまでも 幸せに暮らしました。
めでたし、めでたし。

いやほんと、ドキュメンタリーだということを忘れてしまいそうなくらい、このまんま。

89歳になっても可愛らしいおばあさんと、
98歳になってもやんちゃなおじいさん。

二人はとても仲良しで、どこへでも手をつないで出かけます。
いつもお揃いのきれいな韓服を着ていて、とてもオシャレなカップルです。

そういえば、オリンピックの前だったと思うけど、80年代に初めて韓国に行ったとき、ソウルの街でも年配の人は民族衣装を着て、ステキな帽子を被ってましたっけ。夏だったので、白の麻の服がとても清々しく見えたものです。

2000年に入ってまた出かけたら、地方に行っても全然韓服を見かけなくなっててとても残念でした。機能的で動きやすいんじゃないかと思うのですが、実際着ると、見た目とは違うのかしら…?

と、話が逸れましたが、山間の川沿いの一軒家に暮らしている老夫婦の日常を、映画は優しく映し出します。

お手洗いが離れにあるんだ…とか、床に座ってご飯を食べるんだ...とか、縁側みたいな場所があるんだ...とか、日本の田舎によく似てると思うところもあるし、嬉しいと歌ったり踊ったり、哀しいと声を挙げて泣いたり、感情表現は開けっぴろげで日本とはだいぶ違います。

でも基本、皆さん明るいというか、楽観的だから長生きなさってるのかも知れないけど、老人会のバス旅行でディスコ風のアリランがかかると立ち上がって踊り出したり、何だか楽しそう。

とはいえ、若いころのように元気いっぱいという訳にもいきません。そうした衰えも、仕方がないことと受け入れて、一日一日を大切に生きるお二人の姿が、あたり一面の銀世界や春の花々、夏の驟雨や涼み台での食事など、四季折々の風物や自然と美しく調和しています。

以下、映画の後半に触れています。


* * *



ある日おばあさんは、お店で6着の子供服を買って、燃やし始めます。早くに亡くなった6人のお子さんのために、天国で着る服を用意していたのです。当時はまだ貧しくて、服を買ってあげられなかったのが心残りだったからと。でもなぜ今…?と思ったら、理由はすぐに分かりました。

咳が止まらなくなり、夜もよく眠れないおじいさん。おばあさんは、子どもたちに服を持って行って欲しいと言い、着る物に困らないようにと、おじいさんの普段着も少しずつ火にくべ始めます。そこまで覚悟しながら、それでもやはり、一日でもおじいさんと一緒にいたいと願うその姿にしみじみと心打たれるものを感じます。

観終わった後、身近な人をもっと大切にしようと、きっと思える映画です。

作品のサイトはこちら↓
http://anata-river.com/

ユジク阿佐ヶ谷で観ました。
規模は小さいですが、アットホームな雰囲気で、
椅子もしっかりしている観やすい劇場です。
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2016年12月05日

ファンタスティック・ビーストと魔法使いの旅(ネタバレなし)

いや〜、面白かったですね〜。

ハリー・ポッターのシリーズがあまりピンと来なかったので、ましてや外伝となると、観るつもりは全然なかったのですが、「なんとかかんとかの旅」っていうタイトルに弱いのと、トランクの中に何かいる!っていう第1弾の予告が面白くて、ついつい映画館に足を運んでしまいました(釣られやすい)。

でも、釣られて正解でしたね...。

実は、前売りを買ったあとに第2弾の予告を観てしまい、そいつがイマイチだったので、げっ、騙された...と焦っておりました。何がイマイチだったかというと、そこがそれ、本映画の主役である「魔法生物」のビジュアルだったので、焦る気持ちもお分かりいただけますことでしょう。

しかし、映画の中で動いていると、ニフラーとかニフラーとかニフラーとかが、思ったより可愛かったんです。

そういえば、最近、ルイ・ヴィトンのショーウインドーにこんな連中がいるのですが、

s-ニフラーか?.jpg
ニフラーか?

s-ニフラーですよね?.jpg
ニフラーなのか??

まさかニフラーが化けてるんじゃないでしょうね...。

今回は魔法動物学者のニュート・スキャマンダーが主人公ということで、おっちょこちょいではありますが賢いこの人が大変気に入ったうえ、学校を舞台にした前作と比べるとぐっと大人っぽく、またしょっぱなからいい具合にゴシック風味が入っているのもツボにはまりました。

お話の舞台になっている1920年代のNYを縦横無尽に駆け巡る設定もいいし、主人公のニュートを初め、脇のキャラクターもそれぞれ魅力的。ストーリーは基本、逃げた動物を捕まえる話なのですが、そこにさまざまな人のさまざまな思惑が絡んできたり、ハリー・ポッターシリーズとつながっていたりして、それほど凝ってるわけではないけれど、そこそこ厚みのある物語になっています。

私はハリー・ポッターのファンじゃないんですけど(すいませんね)、ファンタスティック・ビーストはファンになれそうです。

映画を観る前に読んでしまうと、ちょいとネタバレになってしまうかも知れませんが、お話のカギとなる、アメリカ合衆国魔法議会(マクーザ)について、原作者のJ.K.ローリングさんが書いているこちらの文章(https://www.pottermore.com/writing-by-jk-rowling/macusa-jp)も、お話の背景を知るうえで興味深いです。

そうそう、アメリカが舞台といえば、アメリカの俳優とイギリスの俳優でことばをちゃんと使い分けてる上、魔法世界の用語もイギリスと違いを出すなど、イギリスファンタジーの伝統か、さすがことばの設定はきちんとしてますね。

今回のお話はそれなりに完結していますが、シリーズものだということなので、これは先が楽しみになってまいりました。

ニュート・スキャマンダーさん(尊敬すべき人なので、どうしてもさん付けで呼びたくなってしまう)のミドルネームはアルテミスっていうらしいですね(女…?)。映画の中で、お兄さんの名前はテセウスで、どうもスゴイ人っぽいようなことが匂わされていましたが、お名前のナゾも含めて、先々解明されることを期待しております!

TOHOシネマズ日本橋でみました。
ここのスクリーン7はTCXドルビーが売りの上、場所柄か、あまり混み合わないので
おススメの映画館です。後ろから2列目のLか3列目のK、14か15の席が観やすいです。

ファンタスティック・ビーストと魔法使いの旅|映画情報のぴあ映画生活
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2016年12月03日

私の少女時代 Our Times(我的少女時代)〜表記以降、ネタバレあり

台湾で2015年にナンバー・ワンヒットを記録した作品、しかも《蘭陵王》のプロデューサー・陳玉珊(フランキー・チェン)女史の初監督作品ということで、先入観バリバリで鑑賞してまいりました。

内容は、言わずと知れたド直球青春恋愛ドラマで、少女マンガがそのまま三次元になったよう。

林真心(リン・ヂェンシン)は、一流の大学を出てやりたい仕事についてステキな男性と結婚する、という夢とは裏腹に、さえない男友達を持ち、さえない職業生活を送っています。彼女はふと、不美人な平凡女子だった自分の少女時代を思い出します。

高校生の頃のこと、彼女は不幸の手紙を受けとり、それを憧れの人気者男子・欧陽非凡(オウヤン・フェイファン)に因縁をつけた不良の徐太宇(シュイ・タイユィ)に転送したところ、差出人がバレてしまい、パシリとしてこき使われる羽目になる。

しかし真心は、徐が美少女・陶敏敏(タオ・ミンミン)に告白して速攻ふられたのを目の当たりにして、彼のため、ひいては陶と欧陽を引き離すため、徐と失恋同盟を組むと言い出す。そのうち、ただのワルだと思っていた徐の意外な面を知るにつけ、だんだんと彼に惹かれていくのだが…という、要するに王道の恋愛ストーリー。

さすがに、転校してきたヒロインがパンをかじりながら登校すると、出会いがしらに男子生徒とぶつかって…というお約束の展開はなかったものの、それ以外はだいたい予想つくんじゃないかと思います(笑)

でも、眼鏡ドジっ娘のヒロイン、林真心を演じたビビアン・ソンがとても上手くて、こういう真っすぐで一生懸命な青春もあるよね、きっと…とつい引き込まれるあたり、さすがにヒットメーカーの技。

少女マンガ的な作品にありがちな傾向として、女子の心理は凄くきちんとつかんでいると思うのですが、その正確さに比べると、男子の方の描写は、あり得なくね?って感じなんだけど、ま、いっか。男子の皆さん、いかがだったでしょうか…?

台湾最難関の大学を目指す進学校ってこんなものなの…?とか、受験2か月前でこの余裕は何?とか(あ、優秀だから、これでいいのか)、細かいツッコミはさておき、この手の話で上映時間2時間越えは、自分的には結構辛いものもありました。

でも、お話のほとんどが台湾の90年代の回想シーンで、小道具も凝っていたし、学校生活やお店の作り、携帯やパソコンのない日常、「不幸の手紙」やアイドル全盛期などの時代的な感覚が、同時代かそのちょっと前の日本と似ているところがあり、そういったディテールは、恋愛モノが苦手な自分にも大変興味深かったです。

挿入歌も、当時流行した、グラスホッパーの《失恋陣線連盟》とか、鳳飛飛の《追夢人》、アンディ・ラウの《忘情水》なんかが上手く使われていましたね。

たま〜に、セリフが21世紀風のことがあるのが、笑っちゃうけど…(“超”とか)。

それにあなた、欧陽非凡(オウヤン・フェイファン)! すっごいキラキラネームな気がするけど、よくある名前なの? それとも、欧陽菲菲 (オウヤン・フェイフェイ)の親戚筋? 

とまあ、ツッコミも含めていろいろ楽しめるし、後味が爽やかな映画なので、機会があればどうぞご覧になってみてください。

とりあえず私は、アンディ・ラウ(劉徳華)の偉大さを改めて思い知らされました。まだ現役アイドルだなんて、華仔、いったい今年、歳、いくつ…。?

お話の細かいところはネタバレになるので、OKな方は以下をどうぞ。

新宿武蔵野館で観ました。
ずいぶん綺麗に、シネコン風(?)になってたけど、改装したのでしょうか。
せっかくだから化粧室の個室も増やしたらよかったのに…。でも、係の人は親切だし、小さい方のスクリーンも見やすいので、その他は文句なしです。

以下、ストーリーの内容に触れています。








いくつか、元の中国語が分かると面白い箇所があったので書いておくと、不良の徐太宇に説教を噛ましていたときに引き合いに出していたのが“周処”の話。

周処は三国時代の人で、地元の連中にトラやミズチと並んで「三害」認定されたワルだったのを悔い改め、最後は将軍の位を贈られ、三国一のイケメン・潘岳(はんがく)に追悼詩まで詠んでもらうほど出世しました。

中国では今でも、不良に説教するときは、映画同様、周処の話を持ち出すそうで、ワルからは一番嫌われている歴史上の人物だそうです(笑)

しかも“処”の字には発音が二つあり、ワルは必ず読み方を間違えて説教されるっていう、これまた定番のムカつくおまけつき。

それから、徐太宇が初めて林真心と出かけるシーン、メイクに気合いが入りすぎた真心を見て、「村祭りか?」というセリフがありますが、中国語では“廟会”(ミャオホイ)と言っていて、要は日本でいう、神社やお寺の縁日のことです。

でも、「縁日かよ?」って訳しても面白くないですよね…「村祭り」は上手いなっ、って思いました。

最後の、コンサートのタイトルのダブルミーニングもちょっと分かりづらかったかも知れませんね。

アンディ・ラウのコンサートのタイトルは徐太宇が考えたことになっていて、《真心愛妳》(心からあなたを愛しています)と、“真心,愛妳”([林]真心、[私は]あなたを愛してる)の意味が込められてるんですね。

90年代の風俗習慣を知るという意味では面白く観たものの、正直、映画というよりはテレビドラマっぽい作りだなあとは思いましたが、それだけに一層、フランキー・チェンの手腕には脱帽せざるを得ません。

この映画は、そもそもかなり話も単純明快だと思うのに、さらに回顧シーンの終わりには、欧陽が真心に、彼女が知らなかった徐の行動の真相を解説して聞かせます。

いちいち全部フラッシュバックで再現するのですでにくどい上に、そのときの徐の気持ちも併せて説明するので、興が削がれることおびただしいものがあります。

そもそも、徐の気持ちは回顧シーンでベタに暗示しているわけだし、最後に大人になった二人が会うシーン以降の展開が、高校生のときの徐がどう思っていたかを示しているので、それより前では敢えて説明せず、観客が補って観るように演出するのが普通の映画の定石だと思うのですが、全部セリフにして言わせてしまう。

なんか、コメンタリーつきのDVDを観てるみたい。

しかし、日ごろ映画を観なれない観客に対して、登場人物の気持ちは自分で考えろと投げ出すこれまでの映画のやり方の方が不親切で、新規市場開拓には不適切だったのかも知れません。

さらに映画が終わると、短くない時間のおまけメイキングビデオが付いていて、聖地巡礼に来いと言わんばかり(ちょっと行ってみたくなったけど・笑)、どれが名セリフだったのか、どこが名場面だったのかも、日本語吹き替えによる再現Vでガッチリ解説していただけます。

何なんだこれは…とその場では脱力しましたが、余韻と引き換えに、絶対に観客に分からなかったと言わせない、誤解させない、有無を言わせないサービス精神というかおもてなしの心というか、それを徹底したあたりが、大ヒットの秘密なのかも知れません。

となると、この映画の功労者はやはり、監督なのでしょう。アンディ・ラウという線も、残しときたかったところではあるのですが…。


ぴあ映画生活


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2016年11月29日

神水の中のナイフ

白い服を着た人たちが画面の中を横切っていきます。
白は中国では喪の色。

元からか、中国に住んでるからなのかは分かりませんが、この映画の主役である、回族(イスラム教を信奉する少数民族)の人たちにとっても白は喪の色であるらしく、つまり、埋葬のシーンから映画が始まります。

法要をどうするかで、故人の夫である老人と息子とが話をしています。四十日の法要というのを盛大に行う習慣らしく、息子は老牛を犠牲として捧げるという提案をします。老人の方は迷うところがあるらしく、老いて耕作にも向かなくなった老牛を、ためつすがめつしています。

牛は牛で何かを察知したらしく、餌を受け付けなくなります。老人は、宗教指導者のところへ行き、清水の中にナイフを見、自ら清浄を保った奇跡の牛の話を引き合いに出して、老牛を見に来るように話しますが、指導者の方は興味は示すものの、牛をさらに高い目的のために使うのだから、良いことなのだと父親を諭します。

遺品としてスカーフをもらった嫁や、故人に貸した5元を返してもらった知人など、独り言のような切れ切れのエピソードがぽつんぽつんと点描され、映画は寂寥感を深めていきます。

そこに映し出されるのは、水も食料も十分になく、最低限の物資での生活です。

それでも、家々は清潔に整えられ、貴重な水で老人は丁寧に沐浴を行います。確かに貧しい生活ですが、どこか清々しいものを感じさせます。

そして法要を前に、老人は町の市場へ行くと言いおいて、独り出かけます。雪を頂いたいくつもの盛り土が連なる場所で、彼はじっと佇んだまま…。

                     *

上映のあと、プロデューサーによるティーチ・インが行われました。

かろうじてコーランの朗誦が、やや音楽的ではあるものの、まったくBGMのないこの映画、正直、静謐すぎて気が遠くなる瞬間もあったのですが(…)、監督もオーケストラ曲を起用しようとしたものの、結局やめてしまったそうです。

正方形に近い4:3の画角にしたのは、クラシックな雰囲気を出したかったということに加えて、主人公の心の動きに集中してもらいたいという意図があったとのこと。

主人公が寡黙なのもきっと同様の意図によるのでしょうが、主人公を演じた人は実は真逆の明るい性格で、なんと外国へ行ったこともあるのだとか。彼を含め、全員が地元の素人の人たちだとは信じられないほどの自然な演技でしたが、この地で実際に生活している人たちが出演することで、映画がよりいっそう風土に結びついて感じられました。

監督は漢民族の人で、大学で回族のクラスメートに勧められてこの作品を撮ったとのことですが、原作小説の舞台になった、寧夏回族自治区の西海固に強いこだわりがあったそうで、人も含めた風土を写しとりたかったのでしょう。

回族の人たちは、いわゆる色目人(しきもくじん・マルコ・ポーロの『東方見聞録』とかに出てきましたよね)の末裔だということですが、ウイグル族とは違い、外観は漢民族と特に変わりません。しかし彼らは700年にわたって伝統を守り、イスラム教の教義に則って暮らしています。

劇中、主人公の老人が、天井から吊るした甕から滴り落ちる水で丁寧に沐浴する場面が描かれていて(まさかサービスカットじゃないよね?と思ってしまった・笑)、水が貴重だということを説明するにしてはずいぶん儀式的だと思ったら、イスラム教では大切な行為だったのですね。

プロデューサーも、実は漢民族の間でも、昔は目上の人に会う前にきちんと沐浴をしていました、と説明してくれました。日本でいう禊に近いイメージでしょうか。

それに加え、映画では雨や雪のシーンが結構重要なところで登場するので、砂漠のように見えて実際はかなり降るんだなと思ったら、実はほとんどの年が干ばつに見舞われていて、国際連合世界食糧計画によれば、地球上で最も人類が生存するのに適さない地と認定されているところなのだとか。

そうした、すべてがそぎ落とされた環境の中だからこそ、人間と動物、生と死とが、より近しく感じられるのかも知れません。

                        
                     *   
東京フィルメックス映画祭で見ました。
この映画祭はいつもユニークで心に残る作品を上映してくれるので、楽しみにしています。今年は時間の関係で2本しか見られませんでしたが、大賞の作品(『よみがえりの樹』)やその他の作品にも、見てみたいものがたくさんありました。来年も(開催されますよね?!)、ぜひ出かけたいと思っております。

朝日ホールでの上映だったのに、よみうりホールに出かけてしまい、
落語の会に入場しそうになったマヌケな観客は私です。

左端よりのブロックで見ましたが、案外観やすかったです。
音楽がなかったからかもしれませんが
(ステレオだったら音のバランスが気になってたかも)。



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2016年11月27日

湾生回家

台湾で生まれた人のことを“湾生”というそうです。

初めて聞いた...と思ったけど、そういや、香港で生まれた人のことは“港生”っていうんですよね。
確か、ジャッキー・チェン(成龍)の本名が陳港生だったはず。

しかし、この映画の“湾生”たちは日本人。台湾が植民地だったころに親が台湾に渡り、現地で生まれた日本人のことを指します。

本作品は彼ら、台湾を故郷として懐かしむ、老境の日本人たちに寄り添った、台湾の監督によるドキュメンタリーです。

前半、“湾生”の一人が台湾・花蓮の生まれ育った村に帰り、幼なじみの家を訪ねあてると、多くの人はもう鬼籍に入っています。さすがにもうはるか昔の出来事になっちゃったんだな…と思っていると、後半には、日本人の母・清子さんを持つ台湾のファミリーが、寝たきりの清子さんに代わってそのルーツを探すエピソードがあり、清子さんを台湾人に預けて日本に帰ってしまったその母・千歳さんのことをまだ覚えている人が登場したりして、まだまだ歴史のかなたの話ではないと改めて感じさせてくれました。

“湾生”たちはたまたま台湾に生まれただけなのですが、その胸中は複雑であろうことが画面から観て取れます。

敗戦後、見ず知らずの祖国・日本に「引き揚げ」、日本語の発音がおかしいといじめられ、祖国に違和感を覚えながら生きる日々。

“湾生”のふるさとは台湾以外にはあり得ない。でも、いまどきの帰国子女と違って、台湾にいる間は子供だったために意識しなかった、統治者としての自分たちの立ち位置に気づいた“湾生”たちは、ふるさとへの愛を手放しで語るには微妙な立場にいます。

そして、日本で育った彼らの子供たちは、親たちの「台湾熱」に戸惑いを抱いているのです。

そんな中にあって、ふるさとを思う彼らの心情を理解し、寄り添おうとする台湾の人たちの、穏やかで温かいまなざしには本当にホッとさせられます。

自分の狭い経験ですが、今から30年くらいまで台湾では、もっと日本人に対して厳しい見方をする年配の人が多かったし、台湾に旅行に行く人たちの多くが買春目的だったりして、若い人たちにもよく思われていなかったように思います。

月日は流れ、負の面とともに、日本が台湾にとって正の役割を果たした面も、公平に評価すると言ってくれる人たちが現れたことは、ありがたく感じるとともに、なかなかできないことであるとも思います。

そんな友情を仇で返す日が来ないよう、平和を守り続けることの大切さを改めて感じさせてくれる素晴らしい作品です。機会があれば、ぜひご覧になってみてください。

ホアン・ミンチェン監督作品
公式ホームページはこちら
予告編を観るだけで泣けます...。

岩波ホールで観ました。
映画館というより、ホントに、ホールにスクリーンをつけました、
という印象。スクリーンが逆3Dというか、引っ込んだところにあるので、すごく小さく見えます。

前から2列目くらいで観た方がいいかも。

マナーのいいお客さんばかりで、席に余裕があると、
みな、後ろの人に重ならないように座ってます。
だから、観やすいといえば観やすいです。


ぴあ映画生活

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2016年11月25日

残酷ドラゴン 血闘竜門の宿

*朗報* 2017年1月28日より、『侠女』と共に渋谷ユーロスペースで公開!
作品情報は→こちらまで http://www.shochiku.co.jp/kinghu/sp/index.html
 松竹映画っていうのがまたピッタリで…(笑)

「龍門客桟」といえば、ツイ・ハーク監督の『新龍門客桟』しか観たことがなくて、いったいオリジナルの方はどんななんだろう、『侠女』のキン・フー監督作品だから、きっと面白いに違いない…と思っていたところ、東京フィルメックス映画祭で上映してくださったので、早速観に行ってみました。

月曜日、しかも終映が夜11時半を回るにも関わらず、日劇3のそこそこ広い場内は善男善女で押すな押すなの大賑わい。昔からのアジア映画ファン/武侠映画ファンらしき方々の中に、トレンディ(死語)な若者の姿もちらほら。

そんなオシャレな映画だったかしら?

それはともかく、なかなか観る機会がない映画というのは本当で、冒頭部のクレジットによれば、台湾でデジタルリマスターを施したのでまた鑑賞できるようになった様子。

いま観ると、現代武侠映画のルーツとはいえ、時代劇にしては衣装もセットもちゃっちいし、物語なんてあってなきが如しなのですが、それが逆に良い味になっている(ような気がする)映画です。

お話は明の時代、無実の罪で処刑された忠臣の遺児が立ち寄った龍門の旅籠で、彼らを追う東廠(宦官による特務機関)を、宿の主人や、通りがかりの武芸の達人が撃退する、というもの。

観ていて、なぜかメトロポリタン・オペラのライブ・ビューイングを連想してしまったのですが、立ち回りや鳴り物入りの音楽が越劇っぽくて、伝統劇の舞台を観ているような雰囲気がある一方、ワイヤーワークやナゾの電子音楽みたいなBGMが登場したりして、なぜか最先端だったりもする不思議なミックス具合であります。

ナゾと言えば字幕もすごくて、セリフは画面の下にヨコ書き、「東廠」みたいな用語の解説がタテ書きで画面の右に入り、盛りだくさんな印象です。こういうの初めなので、アバンギャルドな印象だったんですけど、ふつうにあるものなんでしょうか???

そういえば、最初の方でやたら笑いが起こっていたのですが、たぶんセリフが“躲开(どぅおかい)”で、字幕が「どけ」だったので、「空耳アワー」状態になってたからでしょうか。

あるいは、剣の達人が次々と見せる武芸の妙技の数々が、微妙に宴会芸っぽかったからか?!

おっほん、それはさておき、最初の方は演技からプロットから、いかにもあるあるな渋めのチャンバラ劇だったのに、後半に進むにつれて雑というかムチャクチャな感じになっていき、ラスボスとの戦いでは、敵の周りを取り囲んでぐるぐる回ると相手が目を回したり(これでラスボスがホットケーキになったらさらに面白かったんだけど、ってそれは○びくろさんぼの見過ぎ)、首がすぽ〜んと飛んでったり(Dr.スランプのようにあっけらかんとしていたけど…)、どこまで本気かわからない展開になってきて、ここで終わったらウケる!と思った中途半端な瞬間に、すかさず「終劇」の2文字、案の定、お客さん超ウケていましたね〜。

しかも字幕まで、最初の正調時代劇風から、だんだん笑いを取る方向にシフトしてるあたり、芸が細かい。

正統派時代劇と見せかけて相当アバンギャルドな本作品、コメディやヒューマンドラマのスパイスも絶妙な逸品です。

日劇3で観ました。
スクリーンが上の方にあるうえ、前の席との間隔が狭く、かなり見づらい劇場です。
J列くらいでもちょっと前目かも。

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2016年11月06日

カゲロウデイズ in a day's

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(↑劇場でいただいたミニパンフレット。キャラクターデザイン集です&ムビチケ)

自分は映画関係者でもなんでもございませんが、ゼロから作品を作ることの困難さについては少しは承知しているつもりだし、特に鑑賞眼が優れているわけでもないので、「良くなかった」と思った作品の感想を書いても意味ないと思っているのですが、それにしてもこれはひどかった。

GIFアニメかと思うほど平板で簡単な動きしかないアニメを4Dや3Dにするなんて…。

そもそも、劇場で公開するレベルとも思えない。

それでもたくさんの人が関わっていたらしいことはエンドロールで分かったけれど、なぜこうなってしまったのでしょう。

話も途中から始まって途中で終わり。初見の観客のことは、一切関知していません、っていうか、ファンの皆さんはあれで満足なんでしょうか。イラストは上手いけどお話が作れない漫画家さんのマンガみたいでした。

webや紙媒体は面白かったので観に行ったんだけど、ガッカリしたというより、ビックリしました。映画しか観てない人に、この程度の作品なのかと思われたらもったいないと思わなかったのでしょうか。

すごく好意的に解釈すれば、webネイティブ世代のクリエイターの作品を、これまでのセルアニメ的な表現に押し込めようとしたことが、どだい間違っていたのかも知れません。

だったら、別に映画にしなくてもいいじゃない。
やりたい方向で頑張れ。

でも、もしまた映画を作るなら、次は新しいところを見せて欲しい。誰が悪かったのかはわからないけど、ファンだと思って観客をナメてはいけません。
本気出してください。期待しています。

TOHOシネマズ六本木で観ました。
スクリーン8がMX4Dの劇場です。スクリーンが小さめなので、
F列くらいが見やすいと思います。

ぴあ映画生活
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2016年11月02日

サーミの血/サーミ・ブラッド(表示以降、お話の結末に触れています)

【2016年9月16日〜劇場公開決定!】
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(↑ ノルウェーで購入した絵葉書より)

一昨年ノルウェーの北極圏を定期船で旅したとき、船が主催する、ヨーロッパ最北端への小さなバス旅に参加しました。

道すがら、地元のバスガイドさんは、昔からその地方に住んでいる、サーミという人たちのことを話してくれました。トナカイを放牧したり、漁業をしたりして生計を立てているそうで、彼らの歌う不思議なうたも聞かせてくれました。「ヨイク」という歌で、聴き手もトランス状態に陥りそうな、シャーマンのお祈りのうたのような感じでした。

バスは放牧地に立ち寄り、そこには民族衣装を着たサーミのおばあさんが一人、トナカイの傍らでぽつんと立っていました。ガイドさんに記念撮影をどうぞと言われ―おばあさんもそのために待っていてくれたのですが、何だか見世物扱いしているようで、複雑な心境でした。

第一、民族衣装を着ていることを除けば、サーミの人は、一般のノルウェーの人たちと特に変わったところはないように見えました。北極圏に住む先住民族はアジア系しかいないと思い込んでいた自分には、これはかなりの驚きでした。

がぜん興味が沸いたので、ベルゲンの街で船を下りたあと、サーミの人について書かれた本やCDなどを探したのですが、唯一の収穫は↑絵葉書だけ。残念に思っていたところ、サーミによるサーミの映画が上映されることを知り、鑑賞いたしました。

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お話の舞台はスウェーデン。

サーミの老婦人・クリスティーナが息子に連れられ、妹の葬式に参列するためにやってきます。

しかし彼女はサーミとして扱われるのを嫌っているらしく、サーミは嘘つきで物盗りだと罵り、参列者である郷里の人々との語らいや、サーミの伝統行事に参加しようとする息子や孫娘を避けて、一人、ホテルに残ります。

参列者を見た他の旅行客たちは、食事の席でサーミについて噂し、「あの人たちはどこでもバイクで乗り入れる」「自然保護地域を破壊している」「サーミは自然と共生する人たちだと思っていたのに」等々と非難し、クリスティーナは我が意を得たかのように聞いています。

ディスコに興じる人々の間をさまよい、放牧地に向けてヘリコプターで出発する息子たちを、ホテルの窓からぼんやり眺めるクリスティーナ。その視線の先に、少女時代の思い出が蘇ります。

当時、スウェーデンでは同化政策がとられており、サーミの子供たちだけが通う寄宿学校ではサーミのことばは禁じられていました。

スウェーデン語を習い、本を読み、教師になることを夢見る賢い少女・エル=マリャは、自分のおかれた境遇に我慢できず、首都の高校に通いたいと願い出ますが、サーミには文明世界に適応する能力がない、街に出たら絶滅してしまうと教師に拒否されてしまいます。

外の世界に憧れるエル=マリャは、スウェーデン人の集まるダンスパーティーに潜り込み、教師の名・クリスティーナを名乗って、裕福そうな青年と知り合います。それをきっかけに彼女は家を出て、ウプサラの高校に入学することに成功するのですが…。

               *

少女時代のエル=マリャを演じたのはサーミの女性で、何よりも彼女がとても魅力的でした。八方ふさがりの状況の中で、何とかして自分の運命を切り開こうとする少女の冒険物語として面白く、彼女の姿に心打たれると共に、ルーツを捨てて生きることを選んだ彼女への複雑な思いも抱かせる、見事な作品でした。

東京国際映画祭で観ました。
上映後、アマンダ・ケンネル監督と主演のレーネ=セシリア・スパルロクによるティーチインがありました。ネタバレになりますので、OKな方はどうぞ以下もご覧ください。







冒頭、彼女の語った「嘘つきで物盗り」とは彼女自身のことに他ならなかったわけですが、彼女のおかれた状況からすれば、ある程度小狡く立ち回らない限り、境遇を変えることは絶望的でした。

パーティーに行ってしまった彼女をおいかけてきた妹に、スウェーデン人の少年たちから言われた侮蔑のことばをそのまま投げつけて、追い払おうとするわけですが、自ら差別する側に立って差別から逃れようとするその行動は褒められたものではないけれど、自分も同じ立場ならやってしまうかも知れない。

監督いうところの「サバイバル術」に長けていたために、彼女は意志を通すことができた。ホテルで他の宿泊客に語ったことが本当なら、彼女はその後、希望通り教師になり、サーミというルーツから逃れて成功したということになります。

しかし、老齢になって来し方を振り返ったとき、果たしてそれが理想的な生き方だったのかと彼女自身、忸怩たる思いがあったに違いありません。

誰もいなくなった教会で妹の遺骸に寄り添ったとき、彼女は捨ててきたルーツや過去とも、ようやく和解できたかのように見えました。

しかし、彼女がそんな思いをしなければならなかったのは、彼女自身のせいでは全くないのです。

ラストシーン、ヘリコプターで行くような放牧地へ、彼女は自らの力で登っていきます。そこは、昔ながらのテントが張られる一方で、非難された通り、大型のオートバイが何台も止められているところです。その印象的な光景に、自分の物差しで他者をはかり、圧迫することの愚かさをまざまざと見せつけられた気がします。

         *

上映が終わり、監督のアマンダさんと主演女優のレーネさんが登場し、ティーチインとなりました。

作品の素晴らしさに比例するように、熱心な質問がいくつも出されましたが、アマンダさんは余裕で、レーネさんは一生懸命、英語で答えてくれました。

レーネさんは普段はトナカイの放牧をして暮らしているとのことで、アマンダさんからはe-mailでコンタクトがあったそうです。今、放牧にはバイクや四駆が使われているということで、あの広大な地域を移動するのですから、そりゃあった方が便利ですよね。

映画冒頭の旅行客のセリフは、監督が本当に聞いたことを取り入れているそうです。

今、スウェーデンでは同化政策も改められ、レーネさんの世代はサーミであることに誇りを持っているといいますが、外野の人たちの考えは大して改まっていないように思えてなりません。

自然保護区を荒らしていると言っても、そこは元々サーミの職場だったのだし、そこでバイクを使うことを「サーミ特権(?)」のように非難するのはどんなもんなんでしょうか…じゃ、あなたたちのオフィスの周りを自然保護区に指定しますから、歩いて通ってね、出張も歩きですからね、と言ってやりたい…。

先住民族だからって勝手に「自然と共生してる」みたいなレッテルを貼られて、イメージ通りでないと嫌がられるっていうのも何なんだかな…バイキングの子孫なんでしょ、なんで手漕ぎ船に乗らないの。飛行機に乗るなんてあり得ない、と言ってやりたい…。

と思っていると、会場からは早速、チベットに行ったときに見た、チベットの人たちのおかれている状況に似ていると感じました、と言う発言が出ました。

するとすかさず別の方から、日本も昔、台湾や韓国を植民地にして、同じような政策を行っていました。そうした人たちはどういう意識を持つべきでしょうか、という強烈なカウンターが飛んできました。

相手の足を踏んだ人は、踏んだことを忘れてしまう。踏まれた人は痛さを忘れない、という言葉を一瞬思い出してしまいましたが、監督さんは少し考えて、静かに、こんな風に答えてくれました。

監督という仕事の良いところは、問いかけをすることはあっても、答えを提示しなくていいことです。映画とは、自分の前に立てた鏡のようなもの。自分のしたことを映し出し、自省を促して、前へと進んでいくのです。

もう一つの興味深い質問は、カメラの位置に関するものでした。

この映画は主演のレーネさんに貼りつくようにして撮られたショットが多いのですが、なぜでしょうか、という問いに対して監督は、

ヒロインのアップが多いのは意図的なものです。出来事を、他人事ではなく、彼女の目を通してとらえて欲しかったからです。だから、ほとんどのシーンに彼女の姿が映っています。

もう一つは、余計なものを排除するためです。この映画は1930年代を舞台にしているため、カメラを引くと、道端のリンゴ売りだとか、人々の衣装だとかといった、30年代の風景が入り込むことになります。そうすると、観客の関心が当時の風俗習慣の方に向いてしまう。それを避けるためです。

サーミの人びとを記録した学術映画や、人類学的な興味ではなく、ひとりの少女の物語としてこの映画を観て欲しい、という監督さんの意図が表現された演出だったのですね...これは、質問をした方もスゴイと思いました。

というわけで、かしこ可愛いサーミの少女・エル=マリャのド根性冒険物語を楽しみつつ、自らを省みさせる素晴らしい本作品、後日、日本公開もありそうだとのことですので、ぜひお見逃しなく!

その他の面白かった映画、フェイバリット映画100は→こちら から

ぴあ映画生活

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2016年10月31日

ソング・オブ・ザ・シー 海のうた

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(劇場でいただいたポストカード)

ケルト風の歌や音楽がふんだんに持ち込まれたアイルランドのアニメーション、と聞いて、観るしかない!!と出かけてみたら、なんとビックリ、日本語吹き替え版でした。

大人のための映画館で、1日1回夜の上映しかないんだから、原語版にしてくれればいいのに…、と思ったけどひょっとして字幕版がないのかしら???

ということで、ゲール語は聞けませんでしたが、なんかこうハッキリ思い出せないんだけど、すごく日本アニメ風のキャラクター(おじゃまんが山田くん…のわけないか)と、海や岩、森などの美しい背景美術の組み合わせが面白い作品でした。

とはいえ、まるっきりほんわかファンタジーというわけでもなく、自然の風景の中にゴミなんかもちゃんと描き込まれています。

また、上のポストカード↑にありますように、お話の設定にハロウィーンが使われており、妖精たちがオーロラに乗り、人の国から自分たちの住む世界へ帰る日として登場します。

日本では大人の仮装大会に変換されているため、迷惑としか感じないこのお祭りですが、この物語の中では異界と現世がひととき交わる「お盆」的な、神秘的で、しかしどこか懐かしい雰囲気で描かれています。
 
          *

灯台守の父と暮らす少年・ベンは、母の形見の巻貝の笛を大切にしていました。ベンは、妹・シアーシャの出産と同時に母を失ってしまったために、つい妹にいじわるばかりしてしまいます。

かねてから、子どもたちの境遇を心配していた祖母は、シアーシャが6歳の誕生日に一人で海に入ってしまった事件をきっかけに、子どもたちを街で育てることにします。街の暮らしが気に入らず、逃げ帰ることばかり考えているベン。

ハロウィンの日、兄から止められていたにも関わらずシアーシャが巻貝の笛を吹くと、仮装した3人組が現れ、「セルキーを見つけた」とシアーシャを連れていってしまいます...

          *

物語も絵同様、日本ではなじみのないユニークなモチーフと、どこか懐かしい神話・伝説のモチーフとがないまぜになって、不思議な世界観を作りだしています。

子供向けのアニメですが、お父さん、どうやってお母さんと知り合ったんだろう…とか、シアーシャはどうして最後にあの選択をしたんだろう…とか、大人が観てもちょっと考えさせられるところのあるアニメです。

ガーデンシネマ恵比寿で観ました。
トム・ムーア監督
http://songofthesea.jp/

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2016年10月24日

スター・トレック Beyond (ネタバレなし)

この秋の目玉はコレでしょう! と思って観に行きましたところ、期待にたがわず滅茶苦茶でした。

いくらBeyondだからって、Beyond過ぎ(むしろ「彼岸過迄」)。

そりゃそうですよね、(自分的に)口あんぐりランキング堂々第2位の『ワイルド・スピード』の監督さんだもの、当然3位もイタダキです(ちなみに、第1位は『マッド・マックス』)。

予告がこんなん(→ https://www.youtube.com/watch?v=IVoN9lT1AqQ )だったんで、あらまジャスティン・リン監督も大人になったのね(?)、ずいぶんシンミリした話になったこと、と思っていたら、もちろん違いました。

むしろ、こっちの予告の方が映画全体のイメージに近いです
(なぜ隠す・笑)

https://www.youtube.com/watch?v=XRVD32rnzOw

前後にそれらしいストーリーをくっつけて艤装していますが、この弾けっぷり、もはや、スター・トレックでもないし、SFですらありません(笑)。

じゃあ何かっていうと、まあ…エンタープライズ号を使った『ワイルド・スピード』かな。

アメリカでは映画館の3面を使って上映するマルチ・スクリーン版

https://www.youtube.com/watch?v=lDWIc4MGirE

というのもあるそうで、なるほどピッタリ。日本でも観てみたいなあ...。

話は3行どころか30字にまとめてもネタバレになりそうなんで、やめておきますが、1つだけ。

お姉さん、なんで英語がしゃべれるの?
 →家で勉強した 

ってふざけんなあああっ! どうして学校で10年英語を勉強した日本人より上手いのよおっ!と映画館で暴れそうになったけど、これが重要な(唯一の?)伏線だったのかなあ...と1週間経ってから気がつく私にSF映画を語る資格があるのでしょうか。

いや、ない。

とっちらかった感想になりましたが、強力におススメです。
予算の許す限り、デカい! 飛び出す! 劇場で観ましょう。

今回、全編にわたって活躍したアントン・イェルチンを偲びつつ。

posted by 銀の匙 at 08:28| Comment(2) | TrackBack(0) | 映画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年09月25日

君の名は。(表示以降ストーリーの結末に触れています)

東京ドームシティに「宇宙ミュージアム TenQ」というスポットがありまして、この夏、新海誠監督の展示があるというので行ってみました。

http://www.tokyo-dome.co.jp/tenq/exhibition/7/

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なぜ新海監督の展示に行ったかという話がちょっとややこしいのですが、今年行われた「ラ・フォルジュルネ・オ・ジャポン」というクラシック音楽の祭典のキービジュアルがとてもステキで。

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この絵を描かれたのは画家の四宮義俊という方なのだそうですが、なぜ採用されたかといえば、音楽祭のディレクター、ルネ・マルタンさんが新海監督の作品「言の葉の庭」のポスターに使われた四宮さんの作品を見て気に入ったから、という説明がされていました。
http://www.lfj.jp/lfj_2016/about/article_02.html

で、四宮さんが新海監督の新作にも協力されているということだったので見に行ってみたわけです。

スペースは小さめでしたが、映像美をじっくり堪能できる展示でした。(展示は2016年11月6日まで)

予告も上映されていて、それを見た感じでは恋愛ものにちょこっとファンタジーを絡めた、よくあるパターンのアニメなのかなと思って、こんなに映像が美しいのに、お話でガッカリしたらやだなぁと思いつつ、でも思いきって劇場に行ってまいりました。

大きなスクリーンで観る絵の美しさは格別でした。

空の色、自然の風景、街の情景。

ことに素晴らしかったのは、主人公のひとり・瀧〈たき〉が祠の中で何かに引き込まれていくようなシーン。色鉛筆で書かれたような不思議なタッチと色、観ているこちらまで引き込まれるような動きに文字通り息を呑みました。ここを観るためにもう一回映画を観たいくらい…。

ストーリーの方も、三葉〈みつは〉と瀧の主人公2人がとても好感のもてるキャラクターで、途中から思いっきり応援モードに入ってしまいました。ちょうど良い頃合いの長さの映画でしたが、この2人の微笑ましくも奇妙な日常(?)のエピソードをもっともっと観たかったなぁ...ホントに面白かった。

ずっと東京に住んでると、そんなに東京って憧れるようなところかな?といつも思うんですが(東京だって、高校生にとってのカフェ事情は三葉の故郷と同じですってば! 放課後にカフェに入り浸ってあんな高いパンケーキ食べてる高校生なんて滅多にいないって!)、ま、そこがファンタジーだって理解してあげるとしましょう。

日照時間だって長くないですよ!!!日当たり悪いんだからさ(笑)。

なんてツッコみつつも、観終わった後は良い歳して滂沱の涙で、恥ずかしくて席を立てなかったですよ。

それは、もちろん、主人公2人の物語に泣けたということもあるし、もうちょい別の意味もありました。
ただ、理由はネタバレになってしまうので、まだ観ていない方はここまで。

お話の内容が分かっても良い方は、どうぞ続きをご覧ください。











予告編を観て予想できたストーリーは、主人公の2人の心が入れ替わってしまうということと、彗星が関係ありそうだ、というところまででしたが、基本、推測通りに話は進んでいきます。

ヒロイン・三葉の住む、糸守町の全景が出てきたところで、誰もが、こりゃ隕石かなんかが落ちたクレーターのあとだろ...と思ったことでしょう。そして何度も繰り返される目覚めと夢。「時をかける少女」みたいだな、と思ってると、やはり彗星が墜ちて、町が消滅したという展開になってきました。

これは、「時をかける少女」みたいに、事件の前に何度もタイムリープして事態を打開しよう、という話になるか、萩尾望都先生の「金曜の夜の集会」みたいになるのかな(「金曜の…」のネタバレになるのでこの先は書きませんが、心打たれる素晴らしい作品なので、ぜひお読みになってみてください)、と思っていたら、そこはあまりややこしいことにはならずに、最終的には町も救われ、2人は再会できる、というハッピーエンドになっています。

観終わった後には心底ホッとするとともに、もしこの作品が10年前に作られていたら、エンディングはちょっと違っていたかも知れないな、と思いました。

瀧が、三葉のいた町が消滅すると知ったときに登場する、新聞や映像、犠牲者の名簿などの映像を観て、日本に長年住んでいる人ならきっと無意識に、恐ろしい自然災害の記憶が呼び覚まされるに違いありません。

大自然の脅威の前に、なすすべもない私たち。火山の噴火、台風、大雨、大地震、津波…21世紀の今さえ、大きな災害の前には集落1つ、村1つ、あるいは地域ごと、跡形もなくなってしまうことを、日本に住む人ならいつも心のどこかに感じているはずです。

私は東京に住んでいるので、小さいころから繰り返し繰り返し、関東大震災の恐ろしさを聞かされています。ひとたび地震がくれば、目の前のにぎやかな街もあっという間に崩れてしまうだろう。大きな火事も起きるかもしれない。そのときもし、自分が生き残って、親しい人が犠牲になったら?

そんなとき、もし災害の1日前に戻ることができて、皆を助けることができたら、どんなに良いか…。

無理だと分かっていても、3.11を経験した後でスクリーンの中でそれが観られたことに、とてつもなく安堵しました。これがハッピーエンドじゃなかったら、きっと耐えられなかったことでしょう。

この作品が世界中で観られたときに、今の思いを分かってもらうのはなかなか難しいかもしれません。何だか取って付けたような終わり方だと思われたり、非合理だという批判があるかもしれない。でもこのお話はこれで良かった。監督、本当にありがとう。

新海 誠監督

お台場シネマメディアージュで観ました。
スクリーン2はやや小さめなので、通路の前後くらいがいいかも知れません。
シートは快適です。
ここはあらかじめ予約ができない劇場なので、
ふらっと映画が観たくなったときでもたいてい席がある、
今どきとてもありがたい映画館です。

君の名は。|ぴあ映画生活

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2016年09月19日

Sparrows(Þrestir)

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飛行機でたまたま目にした、2015年のアイスランド・アカデミー賞ノミネート作品。

この映画を観られただけでも、遠路はるばるやってきた甲斐がありました。
オープニング画面↑が現れた瞬間から、もうこの作品の虜です。

お話自体は、母親と暮らしていた16歳のAri(Atli Oskar Fjalarsson)が、6年も会っていなかった父や祖母と暮らすことになり、一歩大人に近づくところまでを静かな筆致で描いたもの。

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ストーリーにさほど大きな起伏はないのですが、飲んだくれのダメ男である父の不器用な愛情表現や、Ariと彼を取り巻く人々とのやりとりが、繊細に綴られていきます。

映画の中で大きな役割を果たすのは、アイスランドの風景です。

物語の舞台になっている場所は西部フィヨルド地方だそうで、人口の少ないアイスランドの中でもさらに訪れる人の少ない、隔絶された地域という印象のある場所です…と言っても、外国人の目から見ると、いかにもアイスランドらしい景色だなあ、くらいな感じですが…。

ふつうの生活を題材にしながら、その国らしさを感じさせるというのは意外に難しいのではないかと思いますが、特に観光名所が映るわけでもないのに、画面の隅々からアイスランドらしさを感じるのも、この映画の魅力の1つかと思います。

エンドロールにエキストラの人たち全員(?)の名前が出てくるのも、手作り感というか、アイスランドらしい感じがするなあ、と思いました。

もう1つの大きな魅力は音楽です。

冒頭、Ariは聖歌隊のクリスマスコンサートで歌っていて、それがTV中継されたのを家族みんなが誇らしく思っているのが伺われます。

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この曲に限らず、全編を素晴らしい音楽が彩っており、いったい誰の曲だろう、とまたもエンドロールを必死に見つめてしまいました。アイスランドの現代音楽の作曲家、故Magnús Blöndal Jóhannssonと、シガーロスのキーボーディストだったキャルタン・スヴェイソン(Kjartan Sveinsson)の曲が使われているようです。

冒頭の聖歌を含む予告編をこちら↓から観ることができます。
映画の雰囲気をよく伝える、秀逸な予告編だと思います。
https://www.youtube.com/watch?v=bvNw3WqecEo

世界の映画祭でも賞を獲っているようなので、そのうち日本でも上映してくれるのを心待ちにしています。

Rúnar Rúnarsson監督作品

公式HPはこちら→ http://nimbusfilm.dk/film/sparrows/
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2016年08月16日

西遊記 孫悟空 vs 白骨夫人(西遊記之孫悟空三打白骨精)

まさか大スクリーンで観られるとは思わなかったので、まずは公開してくださったことに心より御礼申し上げます。

だけど、なんで広東語版なんでしょう?

香港映画として観てほしかったからかしら?

それとも、海外向けは広東語版onlyなのか?

そんなことなら『西遊記 はじまりのはじまり』も広東語で上映してくれたら良かったのに... 。

それはそれとして、面白かったかどうかは、視覚効果とアクションにどれくらい重きを置くかによりますね。
この2つを重視するなら、絶対おススメです。

ストーリーは『西遊記』の中の有名な「白骨精」のエピソードから取られています。

この映画は「2」なので、特に前ふりもなく、天竺へお経を取りに行く旅の途中の三蔵法師(ウィリアム・フォン)の一行がトラに襲われるシーンから始まり、孫悟空(アーロン・クォック)が菩薩の言いつけで弟子になり、八戒(シャオ・シェンヤン)と悟浄(ヒム・ロー)も合流します。

旅の途中で妖気漂う家に踏み込んだ3人を待っていたのは、魂魄の形で人の身体に入り込み、抜け殻を残して逃げ去ることのできる妖怪・白骨夫人。

彼女は、食べれば転生を避けることができると言われる、取経の僧が通りかかるのを待ち構えていたのです…



ものすごくお金がかかっていそうなVFXを観ながら、大げさな表現をさせたら中国人の右に出るものはいないな〜とほとほと感心しておりました。こういうのホント好きそう。

しかし、妖怪や魔法や爆発のVFXには慣れている、ひねた観客(←私)も、白骨夫人のエフェクトには心を動かされましたよ。

演じたコン・リーが凄かったということもあるのですが、煙のような、水に絵の具を溶かしたような流体の表現がとても上品で綺麗。冒頭が香港映画でありがちな、よく言えば派手、悪く言えばやや趣味の悪い画面構成だっただけに、意表を突かれました。

とにかく、コン・リーの登場する場面はどこも見応えがあります。

衣装デザインもとても綺麗で、白骨精の衣装は言うに及ばず、シルクロードのエキゾチックな服や三蔵法師、弟子たちの服もなかなかシックで素敵です。作りもそれぞれすごく凝ってるし…。

アクションはさすがのサモ・ハン・キンポー・クオリティ。

東京と大阪でそれぞれ1週間ずつくらいしかやらないみたいなので、
派手な映画を観たい方は、どうぞご覧になってみてくださいませ。

ということで、以下は全く個人的な感想なので、これからご覧になる方はスルーでお願いいたします。




さて、面白かった映画の感想を書くポリシーなので、今回はやや違反してますが、他のエントリー(→こちら)でキャストのインタビュー番組を紹介したので、取り上げてみました。

絵柄はそこそこ綺麗だったし、キャストも悪くなかったんだけど、とにかく脚本がダメ。

特に、旅の一行にはこれだけ豪華な俳優を揃えたのに、お互いが話をするシーンがほとんどなく、実にもったいなかったです。

アーロン・クオックの孫悟空、ウィリアム・フォンの三蔵法師のやりとりも、最後の、大事に担いでたけど…のシーンみたいなのを、メインストーリーに入る前にもうあと2、3か所足せば、ずいぶん違ったでしょうに。

アーロンは頑張ったんだけど、先行作品や京劇の動作も意識しなければならなかったせいか、彼を抜擢した良さがあまり出ていなくてお気の毒。

八戒役の小瀋陽、沙悟浄役のヒム・ローも、あれしか出番がない割には健闘した感じでした。

もっと根本的なことを言えば、西遊記のこのお話はよく知られているだけに、メインストーリーの部分にももう少しひねりが欲しかったところ。話はほとんど古典小説そのまんま(ってか古典小説がスゴイからアレンジする必要ないと思ったのかも)。

でも、いちおう映画なんだから、ただ力任せにやっつけるだけでは面白くもなんともありません。

比べちゃ申し訳ないけど、同じ西遊記を撮った周星馳監督の偉大さを改めてしみじみ感じちゃいました。

三蔵法師のウィリアム・フォンは手がきれい…いや、未熟な感じもよく出していましたが、同じ三蔵法師なら、周監督の『西遊記 はじまりのはじまり』の文章〈ウエン・ジャン〉版の方がキャラクターとして魅力を感じます。

文章の演じた三蔵法師は、能力も足りず、真面目なのにさまざまなボケに付き合わされ、仏の道を究めようとするひたむきさだけが取り柄の未熟な若者ですが、観ているうちに彼を応援したくなるようなキャラクターに造られていますし、最後に三蔵法師と呼ぶにふさわしいやり方で勝利を得るのでカタルシスもある。

対するウィリアム三蔵法師は、とても優しいんだけど何だか影が薄いし、ビジュアルは和尚さんなんだけど、実は自分も仏を信じてるかどうかあんまり自信ない、みたいに見えちゃって、やや残念。

この差はどう考えても、俳優さんのせいというよりは、明らかに脚本のせいでしょう…なんだか可哀想。

同じキャストで続編を作るのは無理でしょうが、違う脚本でもう1本くらい撮ってくれないかな〜。

インタビュー番組があんなに面白かったんだから、このチームで撮ったら、絶対面白いと思うんだけど。

と何だかもやもやしてしまった映画でございました。オチのない感想でごめんなさい…。

posted by 銀の匙 at 00:08| Comment(2) | TrackBack(0) | 映画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年08月13日

エクス・マキナ(表示以降、ネタバレです)


『エクス・マキナ』はアカデミー賞の視覚効果賞を取っただけあって、斬新なロボットの造形や画面の美しさは折り紙つきですが、何といっても見どころは俳優さん。

映画のほとんどの部分が密室劇なので登場人物は数人ですが、それだけに、それぞれの俳優さんのレベルが半端ない。

表情も挙措動作も完璧で、いかにも人工的な美しさを醸し出す、エヴァ役のアリシア・ヴィキャンデル。この人をスクリーンで拝むだけで、映画代の元は十分取れると思います。

日本人だから一言も英語が分からない…いやさ、英語の一言も分からない日本人メイド、キョウコ役のソノヤ・ミズノも大変美しいですが、日本人からすると苦笑せざるを得ない部分があるのが難か…。

さらに、最後のテロップを見るまでまっっっっっっったく気が付かなかったのですが、イケ好かないIT企業のマッチョ社長は、『スター・ウォーズ/フォースの覚醒』で「ナイスガイ」として全世界から愛されたポー・ダメロン役のオスカー・アイザックだったんですね。

同じく『スター・ウォーズ/フォースの覚醒』からはハックス将軍役のドーナル・グリーソンがケイレブ役で出演しています。

こんな生まれつき理系みたいな俳優さん、どこから連れてきたんだろう…?と感心してたら、あのナチス式のキレたような演説をしてた人だったとは…。こちらも全然気づいてませんでした。

『スター・ウォーズ』は良い子の見る映画だから皆ちゃんと衣装を着てますが、ポーはいかにもスリムに、ハックス将軍はマッチョに見えたので、この映画では何だかアイコラを見せられたよう…ってイヤイヤ、ホント、俳優さんって凄いっすね。



お話は、IT企業で働くプログラマ、ケイレブが、社内の抽選に当たって社長の別荘に招待されるところから始まります。

ネズミのようにおどおどした態度のケイレブを迎えたのは、ムキムキボディの天才プログラマ、ネイサン社長。

人を寄せ付けない広大な敷地の中の別荘とか、他人を尊重しない天才肌の社長とか、抽選制の福利厚生とか、何かどっかで聞いたようなIT企業のイケ好かない部分を濃縮した感じの設定であります。

こんな場所にあんな社長とほぼ二人で一週間、ふつうの人なら全然嬉しくないと思うんだけど、ケイレブは緊張して舞い上がってる様子。

そして彼は社長から、この別荘の本当の目的を聞かされます。

彼が招待されたのは、ネイサンが開発した人工知能(AI)を搭載した「エヴァ」が合格かどうか、テストを行うことだというのですが…。

*

以前、ビッグデータをどう活用するかという研究の1つとして「データマイニング」の話を聞いたことがあります。

大量に集めたデータの中から脈絡を掘り出すということで、単純なものでは、買い物客がどんなものを一緒に購入するかを調べ、そのアイテムを近くに陳列する、といったことができます。

これを応用すれば、何か知りたいことがあったときに、どういうキーワードで検索するかとか、質問を受けたときにどういう回答が一番自然かとか、抽出することができるでしょう。

やりとりは無限なのだから、いちいちプログラマが質問を予想して答えを準備しておくことはできないでしょう。

その点、世界中の人たちがせっせと入力する自然なやりとりを抽出してパターンを分析すれば、労せずして自然な受け答えができ、それをサーバにでも置いとけば、誰もAIとは気づかないに違いない…とか、

どことは言わないけど大手の検索エンジン会社の中には、世界中からとびきり優秀な人たちを採用して、何だか得体の知れない研究をしてるらしい、とか

テキストデータばかりではなく、世界中のあらゆる場所の画像や属性のデータを、可愛いキャラを収集する無料ゲームをエサにして集めてるらしい、とか、

ITのあまりにも速い発展についていけない一般人の、漠然とした不安を形にしたかのようなサスペンスドラマなんですが、それはともかく、ネイサンの経営してるIT企業がかなりあからさまに特定の企業に似てるような気がするけど、大丈夫なのかしら?

セリフにもありましたが、人間が言葉をしゃべれる仕組みについてはいろいろな説があり、仮説の中には(すごくざっくり言うと)人間には生まれながらにして万能文法のようなものが備わっており、周囲とのコミュニケーションによってそれがアクティベートされる、というのがあります。

そういう仕組みだとしたら、機械でだって再現できそうですよね。

なので、この映画を観ていると、人工知能がどうというより、人間もそうやって作られた装置なんだろうなということの方を考えてしまいます。

もともと、基本的なプログラムが組まれていて、そのうえに新しい情報が載っていくことによって、さまざまに変化していく存在。

人間らしさの発露と思われている「感情」も、ケガや障害で発揮できないケースがあることからも分かるように、実際には脳の機能の一部に過ぎません。

で、これまでの映画だと、じゃあ人間と機械との違いって何なのかとか、機械も感情を持ちうるのかとか、そちらに重点が置かれるんだろうけど、この映画は少し違うみたい。

そう思った訳は、この映画のタイトル「エクス・マキナ」にもあるのですが、そのあたりは映画をご覧になる方それぞれの解釈が許されることでしょう。

自分の考えは、下↓ のネタバレ以降で書くとして、台詞が主体の映画なので、いくら視覚効果が凄いといっても一人でDVDで観てたら寝ちゃうかも…。

これから秋にかけて全国の二番館で上映されるようなので、ご興味のある方はぜひ映画館でご覧ください。

アレックス・ガーランド監督。
渋谷UP-LINKで観ました。非常に狭いんですが、椅子を変えたのか結構見やすいです。一番後ろの席でも良く観えましたが、後ろから二列目くらいが没入観があるかも知れません。

以下は、ストーリーの結末に触れています。







学生時代に、バイト代のテレホンカード(死語)につられて、心理学の実験台を何度かやりました。

同じ経験がある方、もしくは実験を行った関係者の方ならよくご存じかと思いますが、実験結果に影響が出るのを防ぐため、被験者には実験の目的が伏せられているか、偽の情報が与えられるんですよね。

さらに嫌なことに、実験が終了しても、たいていの場合本当の目的は教えてもらえないし、結果も知らされません。実に後味が悪かったのを、この映画を見て久しぶりに思い出しました。

で、この映画の内容を20字以内で言うと、

非モテのプログラマが女に騙された話

って、身も蓋もないな... 。
それではあんまりなので、字数を倍に増やして要約すると、

プロメテウスの火を盗んだ人間は罰を受け、
エヴァは男をだまして楽園から追放される。

それが何なの、って感じですよね。

神ならぬ身で生命の創造をするものは許されないとか、
人間が作ったものはあくまで人間の支配下にあるべき、

というのも、特定の宗教の倫理観なら真実なのかも知れませんが、
そんなこと問題視してない文化圏だってあるんじゃないでしょうか。

たとえば、だんだんAIと人間の峻別がつかなくなっていくと、
大統領や権力者が実はAIだった、大ショック、みたいなSFもありますが、
日本のSFアニメなんか、その辺はもうそういうものとして特段問題にもなってなくないですか?

だって、砂の嵐に隠された♪ バビルの塔はコンピューターに守られているんだし、

「エヴァンゲリオン」なんか面倒な問題はみんなメインコンピュータの「マギ」に投げてますよね?

「攻殻機動隊」なんて、最後はネットワークの中に個人の意識が統合されてしまう。

いや、その場合、実権を持っているのはあくまで人間で、コンピュータはただの道具だ、という反論もありましょうが、決裁する人はただのお飾りで、分析したり方向性を決めてる部門が他にあるなんてこと、世間にはままあることじゃないでしょうか。

そういうとき、どっちが実権を握ってるかといえば、それは後者な訳で。

生きとし生けるものの中に、すてにAIが含まれてる文化からすれば、この映画はAIと人間の関係が「対立」である、という「初代ターミネーター」式のステレオタイプであまり新味がないんですが、じゃあSFとしては駄作かと言ったらそうでもない気がする。

映画の中でも言ってましたが、この映画自体が一つの思考実験とすれば、物語のテーマや新味はどうでもよくて、ある条件下で結果はどうなるかを考えてみたものと捉えることもできるでしょう。

思考実験をそのままプロットとして展開するのはSF小説だと許されてるパターンなので、非常にSFっぽいと言えるのかも知れない。

そもそも、これまでのSF映画で出てくるAIは、如何に人間に近づけるか、どこまで行けば人間と同じなのか、人間に愛されたくて葛藤する、等々のテーマを背負っていたのに対して、この映画のAIはめちゃくちゃドライ。

人間を超える知能(たぶん)を持ち、そのために感情を利用できる、まったく新しい存在。

「ブレードランナー」では、AIを見破るためのチューリングテストのカギは、「感情移入ができるかどうか」でした。

この映画では、逆に人間が「感情移入する」ことを巧みに逆手に取り、しかもAI自身にはどうでもいいはずの「肉体」、エヴァの場合はさらに、どこから見ても機械仕掛けという肉体の「魅力」さえも利用する。

映画のタイトル「エクス・マキナ」は「機械仕掛けから」ということですが、「デウス・エクス・マキナ」(機械仕掛けからの神)から取ったものと思われます。

ここまでくると、AIが怖いとか悪いとかいう問題ではありません。

「神の見えざる手」のように、AIの存在は何かの摂理によるのだろうか。

人間の存在とは実は、次のロボット世代を造りだすために神が用意したものではないのか。

そんなことすら思ってしまいます。

一方で、彼女の「愛情」はフェイクだったようだけど、「憎しみ」は本物だったのだろうか。

廃棄されるのを怖がっていたように見えるけれど、それもフェイクだったのか、

という疑問にも突き当ります。

ネイサンは「エヴァ」の完成度のテストとして、彼女に課題を与えました。
被験者ケイレブを利用して、彼女が閉じ込められている部屋の外に出る、というものです。

彼女はケイレブの好意を引き出し、見事に課題をクリアしました。

どんな手を使ってでも、外の世界に出る。

それはどんどんデータを蓄積して発達した人工知能が獲得した、好奇心のなせる業だったのでしょうか。

それとも、あくまでネイサンが与えた課題の延長線に過ぎないのでしょうか。


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2016年08月11日

シング・ストリート 未来へのうた(注記以降、ストーリーの結末に触れています)

ジョン・カーニー監督のアイルランド映画。

劇場に入るといきなりデュランデュランの♪リオ、リオ、リオ・グランデを踊って渡る〜♪のサビの部分がかかってて、映画館もオリンピック仕様なのかぁと思いましたがもちろん違いました。

劇中、この歌がストーリーの重要なカギを握っちゃうような映画、といえば、歌を知ってる方はお分かりかと思いますが、物語が設定されてる時代から、かかってる音楽、登場人物のファッション、街並み、ストーリー展開に至るまで、全てが正しくこの曲と同じく80年代風であります。

リアルタイムで知ってると、この時代の何もかもがどことなくダサく感じてしまうのですが、席を埋め尽くした若者たちは全然そうは思わなかったらしく、あちこちから聞こえてくる感想は、「面白かったよね」「オシャレだったね」って...本当に? 

見回せば、リアルタイム世代っぽい人たちは皆押し黙り、胸中複雑であろうことが窺えます。だからって、もちろんダメな映画ではありません。いえ、なかなかいい映画だったです。

複雑だった訳は何となく分かりますがそれはちょっと置いといて、まずA面(死語)から行きますと、舞台はド不景気の真っただ中のアイルランド。音楽好きの少年・コナーは、親が失業してしまったため、ガラの悪い学校へ転校する羽目に。ところが、モデル志望の少女・ラフィーナに一目惚れするや、バンドのビデオに出演を持ち掛けるという口実で興味を惹くことに成功。

そこから急きょバンドを立ち上げるという、泥縄もいいところの展開なんですが、同じく音楽好きの兄・ブレンダンや学校仲間の協力も得て、なかなか良い感じのバンド「シング・ストリート」を結成し、ラフィーナにも認められるようになる。

しかし、当時のアイルランドはドン詰まりで、若者たちの唯一の希望は隣国ロンドンに渡ることでした。ラフィーナもモデルとしての成功を夢見て、海を渡ってしまうのですが…



そもそも、80年代のニューロマンティックにドン引きしていた身としては、デュランデュランのMVが出てきた時点できゃーすみません来るところを間違いましたあのーおなか一杯なんで早退していいですか?と逃げが入っていたのですが、兄上の言う通りベースラインに注意して聞いてみると、なかなかカッコいいサウンドではないですか。

やはり先入観というのはいけませんね。音楽の使い方も絶妙で、お母様の浮気のシーンでさりげなくホール&オーツの「マン・イーター」(男好き)が流れたり、君は自分の行く道を決めたんだね、というザ・キュアーのIn between daysの歌詞が被るようなシーンがあったりとか、歌詞とストーリも上手くシンクロしていましたね。

分かってしまうと逆に薄っぺらく感じるのかも知れないけど、知らない人のために、挿入歌の訳も字幕に入ってたら面白かったかも。

「シング・ストリート」が「作曲」するオリジナル楽曲も、巧みに80年代風にアレンジしてあって実に心憎いです。コナー役のフェルディア・ウォルシュ=ピーロはこれが映画初出演だそうですが、ピュアな感じがとてもよく出ていて、歌声も心に響きます。

コナーは、お兄ちゃんにMVを見せてもらうと、たちまち影響されて翌朝同じような格好になってたり、鼻歌を歌っているうちに両親の怒鳴りあう会話が歌詞に交じってしまったりと、バンド少年あるあるな大人しいイジメられっ子なのかと思っていたら、結構な気骨の持ち主。

劇中、どんな音楽をやるんだ?と聞かれて、懐古趣味じゃないやつ。未来派だよ。と何度も答えていたのにグッと来ました。

だから、この映画も、舞台装置としては80年代を借りているのですが、その時代にこだわって懐かしむという作りにはなっておらず、あくまでもそこから飛び出して未来を創る、という視点で作られています。そこが爽やかだし前向きで良かったです。

80年代を象徴する映画として、「バック・トゥ・ザ・フューチャー」が出てきましたが、校則にうるさい校長も「お前がモーツァルトなら私はサリエリか?」と言ったりして、実は映画「アマデウス」を観てたのかな〜と思ったり、戒律がやたり厳しいと思ってたイエズス会の学校の方がずっとおとなしいらしかったり、と細々したところも面白かったです。

ということで、以下はお話の先までご紹介しますので、
これからご覧になる方への推薦の辞はここまで。

ヒューマントラストシネマ有楽町 スクリーン1で見ました。
見やすい席はF席かG席です。
F席は前が通路なので、広々していますが、
通路を挟んだ前のE席と高さがほとんど同じなので、
座高が低い人はG席の方がいいかも…。

(この先はネタバレになります)










さて。

爽やかに感動している若者たちを斜めに見ながら、おじさん、おばさんは暗い顔の人が多かったですね。

今になってみると、EUからうっかり離脱してしまった(?)イギリス人がアイルランドのパスポートをとるために必死になってたりとか、事態はかなり複雑に変化しているのですが、映画のストーリーの方はテンプレ展開なので、そこが食い足りない、という大人もいたかと思います。

また、かなりの人がお兄ちゃんのブレンダンに感情移入してしまったせいもあるかも知れません。
こちらが暗黒面…いや映画のB面ですね。

意味の分かんない規則でがんじがらめに縛ってくる校長の目の前で、校長を批判する歌をうたい、美人で賢いガールフレンドと新天地へカッコよく旅立っていく弟。

両親の喧嘩の防波堤になり、自分の理想は挫折しても弟に音楽のイロハを教え手助けしたにも関わらず、弟から家でゴロゴロしてるだけのように非難されて、自分が荒野を切り開いたから末っ子のお前が通れるんだとキレてしまう兄。

全国の長男・長女の観衆の皆さんが心の中で、「そーだそーだ!」と叫んでいたのが聞こえるようです。

だけどお兄ちゃん、自分は「ロックとはリスクだ」と言いながら、結局のところ本当の意味でリスクは取ってなかった。音楽についてのオタクな知識はあるけど、彼にとって音楽は逃避先で、表現者として弟のように行動していなかった。そのことを痛感しているので、何かに憑かれたように、弟の旅立ちを助けます。きっと、相当気持ちが高ぶっていたのでしょう。

小さなボートでアイルランドを離れ、ウェールズに向かおうとする二人(って、パスポートとか要らないのかな?)を岸辺で見送りながら、降り出した驟雨の中で Yes, Yes! とまるで自分に言い聞かせるように言う彼の心中を考えると、お兄ちゃんの方に年や立場が近い者は実に複雑な気持ちです。

コナーは言っていましたね。
自分はフューチャリスト(未来派)なんだ、と。

この未来とは彼ら14歳の未来なのであり、大人たちは彼らに主役を譲り、手助けする存在に過ぎません。たかが映画でそんなこと思い知らされたくはなかったですが、それが現実です。

物語の中で彼らの両親は飲んだくれ、喧嘩をし、不倫をし、とロクなことをしていません。ラフィーナに至っては、保護施設で育ったのです。でも彼女は、そんな傍目にはどうかと思うような親の、子どもへの愛情を繊細に、敏感に感じ取っています。

80年代のコナーは2016年の今、彼らの両親に近い年のはずですが、果たしてどうなっているのでしょうか…。

普遍的な物語のフォーマットを下敷きにして、永遠の青春映画として作りながら、一方では、80年代という時代の楔を打ち込むことによって、決して昔は良かった式のおとぎ話にはしていません。そんなところがちょっとほろ苦い、余韻のある映画だと思います。

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2016年06月26日

世界を救った男たち(表記以降、ストーリーに触れています)

s-lelaki.jpg
(写真は映画館サイトより)

ひょっとしたら初マレーシア映画鑑賞かも。

「アベンジャーズ」のサブタイトルみたいな題名なんですが、本国では劇場公開はされたものの、特に娯楽映画という扱いではなかったらしいです。

ただ、日本での上映は、今のところ、なら映画祭と、横浜のシネマ・ジャック&ベティでの限定公開(昨日、本日6月26日14:50〜)のみ。ですので、もしタイトルが気になったら、迷わず横浜・黄金町に行きましょう!

私は、貰ったチラシの写真↑ に凄く興味を惹かれて出かけてみました。
上映後に伺った字幕翻訳家の方の解説によると、これは、マレーシアや周辺国で伝統的に行われていた(る)家の引っ越し法だということで、大がかりな御神輿みたいに見えるんですが、伝統的な家屋は地面にしっかりと固定されているわけではないため、このように担ぐことが出来るらしい、ということでした。

お話は、結婚する娘のために家を用意しようと奮闘する花嫁の父・アワンが、森の中の廃屋を移動し、補修して使おうとしたことから始まります。

みんなが力を合わせれば、結構大きな一軒家を動かすほどの大きなことができるのですが、その一方で、団結力が思わぬところでアダになる出来事が…。

マレーシアの農村に題材を取ったドタバタストーリーではありながら、実は世界中どこででも、どんな時代でも起きそうなことをシンプルな出来事に凝縮していて、上手いなっ、と思った映画でした。大人の俳優も子役さんたちもいきいきとしていたし、どうやって食事をするのかとか、イスラム教徒だから挨拶、アラビア語なんだ!?と驚いたりとか、マレーシア初心者にとっては、農村での日常生活の様子も何気なく伝わってきて興味深かったです。

上映の情報はこちら→シネマ ジャック&ベティ



さて、こういう映画でネタバレも何もないのですが、ご覧になれる方はここまで、ということにしていただいて、以下はもうちょいお話の続きを。





アワンさんのために、村の男たちは総出で手を貸すのですが、一気に目的地まで家を移動するのはムリなので、何日かかけて動かします。

もともと、森の中に廃屋なんてお化け屋敷だ、くらいにマイルドにビビっていた村人たちは、そのうちの一人が夜、家に悪魔がいるのを見た、と騒いだのを機に、急激に不安を募らせていきます。

最初のうちは迷信だと一蹴していた村長も、同時に起こったいくつかの難題に手を焼いているうちに、アワンさんの希望通りには村人を動かせなくなってしまいます。

村人の方は、化け物退治のために女装して自警団を結成するなど、騒ぎはどんどんエスカレート。アワンさんは迫害される身となり、ついにはキレて悪魔上等とばかり、化け物に扮して自分が村人を脅かす側に回ってしまいます。

実は、最初に村人が目撃したのは、警察に追われて逃げ出し、くだんの家に勝手に住み着いた、よそ者の黒人だったのですが、彼は危機管理能力があるというか非常に機転の利く人で、村人が尊敬しているらしい政治家のポスターを見て、とっさに彼の友人だと名乗る。で、村人は彼を全く疑わず、ついに黒人と鉢合わせした化け物にコスプレ中のアワンさんを捕まえようと駆け出していく…



上映後の解説によりますと、映画はどうやら、マレーシアのムラ社会あるある、といった内容がふんだんに盛り込まれているそうで、映画的にアレンジしたり、誇張したりはあるものの、人々が心の中ではお化けの存在を堅く信じていたり、商売熱心で怪しげな祈祷師にカモられたり、うさんくさい政治家を村ぐるみで応援していたり、催しに政治家が必ず遅刻してきて、お出迎えするころには皆疲れ切っていたり…といったネタが惜しげもなく詰め込まれているらしい。

そういう訳で、上映時には当地の映画人が、「マレー人をバカにしている」と言う理由で、公開しないように抗議したり、結構議論があったらしいです。幸いにというか、映画は無事上映され、本国できちんと賞も取ったとのこと。

そしてこの映画、実は日本人が見ても、若干アイテムを入れ替えるだけで、あぁ、日本でもあるある、って感じです。

まずは、お化け(精霊)を信じてるなんて、未開民族みたいでマレー系のご本人達的にはイヤだ!ってことらしいんですが、日本人だって八百万の神は信じてるし、祟りが怖くて祈祷や太鼓で追い払おうとする(これは映画的な誇張らしいです)のも、日本だって事務的とはいえ地鎮祭とかやるし、似てますよね。

だから、迷信と言われようがどうしようが、そういうことをしないと落ち着かないという気持ちはとても良く理解できます。

それを面白おかしく描写されたら、バカにしてるって腹が立つという気持ちも分かります。例えば、お祭りで毎回死人が出る、とかいうと、どんな土人の風習かと思いますが、日本にもその手の命がけなお祭りはあるし、日本だけじゃなくて、スペインとかにだってありますよね。よその人は野蛮だとか言うけど、土地の人にとっては神聖なもので、他人にとやかく言われたくない。

ただ、監督さんが描きたかったのは、迷信深いマレー人たちが引き起こしたくだらない騒動の話、というのではなくて、一人ひとりは純朴で親切で良い人でも、集団になると途端に矛盾に気が付かなくなったり、別の意見が言えなくなったりしちゃう、という怖さなんでしょう。

ムラどころか世界中かなりの場所で多かれ少なかれ、こういうことがあるんじゃないでしょうか。

解説で翻訳家の方が、原題には「希望」、英文タイトルには「世界を救う」という言葉が使われてるけど、希望もないし、世界も救わなかったです、とおっしゃってウケていましたが、このタイトルに込められている意味について、ぜひ監督さんに伺ってみたいものです。

たとえば、健康法なんか最たるものですが、何かを世間的にいったん信じてしまうと、根拠が薄弱だろうがそれに異を唱えるのは難しいし、そもそも中に居る人には常識なので気づくことすら難しい。監督さんはマレー系ではないそうなので、余計非難の対象になったんでしょうが、解説の通り、外から見て初めて気が付くことというのはあるものなんでしょうね。

アワンさんは芸能生活をやめてしまった歌手、という設定になっていて、最初、みんなが家の引っ越しを手伝うとき、行きのトラックで請われて、しぶしぶ歌をうたうシーンがあります。みんなが知ってて唱和するのですが、何となく日本の演歌的な哀愁を感じます。

上映後、その歌の歌詞の中でキャッサバとチーズになぞらえていた事柄について質問がありました。

どうやら該当箇所はマレーシアの言葉ではないようで、翻訳家によると、インドネシアでは前者は貧困層を、後者は富裕層を象徴するということは分かったのだけれど、ということでした。

映画のエンドロールにはこの歌が流れ、最後の唱和の部分も劇中そのままに使われて終わります。良い方に作用すれば素晴らしい団結力がいとも簡単に集団いじめの方向へ転換してしまう滑稽さ(迫害される本人にとっては、恐怖以外の何ものでもないでしょうが、傍から見てると一部始終がバカバカしいです)とやるせなさを、見事に表現したエンディングだと思いました。

リュウ・センタット監督
映画の公式HPは→こちら


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2016年06月19日

帰ってきたヒトラー

kh.jpg
さすがは総統、完売です。

映画館に連れてきていただくまで、この映画の存在すら全く知らなかったです(情報感度低すぎですね…)が、朝一の回が始まる前に、すでに午後の回も売り切れという、恐るべき人気作。

いやぁ、笑いました。

ビジュアルネタで笑い、ドタバタネタで笑い、コントで笑い、ブラックユーモアで笑い、ヒトラー映画のパロディで笑い、メルケルで笑い、と次々繰り出される大ネタ小ネタの波状攻撃に、全館大爆笑です。

自分、ドイツ語は全然分からないんですが、セリフ回しも、独りだけ大げさな(か、古いのか?)人がいる、というのは明らかに分かるので、そこも取りあえず笑えます。

2014年のドイツに、こつぜんと現れた〈本物の〉ヒトラー総統。誰もが変人か、お笑い芸人かと思い込むうちに、彼は草の根の人々の不満を聞き、記念撮影に映り込み、ネットで話題になり、TVに登場し、果てはベストセラーまで出版します。

さすがと言うべきか、相手のからかいや嘲笑を巧みに躱してカリスマ性を見せつけ、真面目でときにチャーミング、そのブレない主張には思わぬ説得力もあったりして、次第に彼の周りには共感が広がってゆきます。

彼を利用して何とかテレビ局に復職しようとするテレビマンのザヴァツキは、初めは成功を喜んでいたものの、危険に気づいて事態を収拾しようとしますが…。


ドイツネタのうち、ものまね芸人(?)のポテンシャルにいち早く食らいつき、スターダムにのしあげた敏腕TV局長を「(ナチ党大会などの傑作映像を撮った女性監督)リーフェンシュタールのようだ」っていうのだけはかろうじて分かって笑ったんですけど、詳しい人が見たらさらにおいしいネタがてんこ盛りだったことでしょう。

それでも、こっちはドイツの事情なんかほとんど知らないのに、結構ギャグは分かるもんだな〜なんて、最初はお気楽に観ていたけれど、そのうち、いや待て、そうじゃないと気づいてからが怖かった…。

周りの人の反応が写メ撮ったり怒ったり敬礼したり等、すごくナチュラルなんですが、実際にヒトラー役の人とロケしてドキュメンタリー的に撮影した箇所もあるんだそうです。

ヒトラーに会った人たちの、表情や反応、コメントなんかを見ていると、かなりの部分はそっくりそのまま、日本事情を代入してもバッチリ当てはまります。

人々の不満を吸い上げ、現状の不甲斐なさを告発するヒトラーを、「ドイツの悪口を言うんじゃねーよ、反独野郎」、とネオナチがボコるシーンはマジで笑えません(…笑ったけど)。

ドイツの人たちが愚痴ったり、不満に思ったりしていることも、かなりの部分が日本と似ています。ってゆうか、すごく良く分かります、その気持ち。

それを、懲りない人たちだと非難するのは簡単ですが、そういう不満を教育で抑えようとしたり、タブー化して言わせないようにすれば問題が解決するのかといえば(どうもドイツはそういう解決法らしいですね、映画から見る限りでは)、恐らく根本的な解決には全然なってないだろうと、傍から見ても思います。

じゃあどうすれば良いんでしょうか。ホントに困ったもんです。景気だの、政治だの、大きな問題は個人の手に余ります。こういう事は国がしっかり対応してくれないとね、と私のような庶民はつい思ってしまいます。

しかしです。

映画の中のヒトラーは繰り返し、民主主義について語ります。そうです、彼は選挙で選ばれた、正当な国の代表者。専制君主でも魔術師でもありません。

私たちは横暴な人を、つい「ヒトラーのようだ」などと言ってしまったり、映画やテレビで狂人のように描かれているのに慣れていたりしますが、きっと本物のヒトラーはこの映画に出てくるように魅力があり、その方向性はともかく、彼なりにドイツとドイツ国民のためを憂いて行動していたに違いありません。

つまり、良きにつけ悪しきにつけ、選択の責任はドイツ国民にあるのだと、堂々とドイツ映画で主張したドイツの映画製作者の勇気を、とりあえずは称えたいと思います。

デヴィッド・ヴェンド監督

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2016年05月23日

山河ノスタルジア 《山河故人》/注記以降、ストーリーの結末に触れています

監督の名前で映画を観に行くことはあまりしませんが、ジャ・ジャンクー(賈 樟柯)監督は例外で、第1作の『一瞬の夢』(《小武》)以降、日本で公開されたものはほとんど観ています。

市井の人を主役に据え、誰の身にも起こりそうな出来事を描きながら、どこかにふっと大きな飛躍がある。そのギャップが面白いし、ストーリーや映像の時間の流れに余白がたくさん取ってあり、観る人がさまざまに思いを巡らせることができるのも魅力だと思います。

どんなストーリー、と聞かれて何十字かに要約してしまうと、全然映画の中身を伝えたことにならないという、その手の作品ばかりです。

今回の『山河ノスタルジア』は、ちょっとこれまでの彼の作品とは毛色が違うように感じられましたが、これまでとは別のアングルから、やはり観る人の心にぐっと触れてくる映画でした。

例によって紹介するのがとても難しいストーリーで、映画を観終わったあとで配給の作品紹介を見てみたら、確かに間違いじゃないんだけど、ちょっとこれは違うんじゃないかと思ってしまいました。

ということで、上手く伝えられるか分かりませんが、何とかご紹介してみると...。

物語は1999年、新しい世紀を迎えようとする中国の田舎町、山西省の汾陽〈ふんよう/フェンヤン〉から始まります。いかにも田舎の町にいそうな女性、タオと、彼女と付き合いたい2人の男性、ジンシェンとリャンズ。ジンシェンは当時の経済の自由化に上手く乗っかって羽振りがよく、一方のリャンズはすでに過去の産業である鉱山で働いています。

どうやらどちらかが特に好きなわけでもなさそうなタオですが、結局、2人の男性のもめごとをやめさせるような形でジンシェンと付き合うことになり、リャンズは町を離れる決意をします。

時は流れて2014年、病を得て町に戻ったリャンズは、療養費を工面するために古なじみと顔を合わせる羽目になります。そして…


まずは、物語の舞台を汾陽にした、というのがとても効いてると思います。監督の出身地だそうなのですが、第三者の目でみれば、お世辞にも麗しい山河とは言えない埃っぽい町で、言葉はなまりがきつくて聞き取りづらく、まさに「ザ・中国」な田舎の町です。

他に登場する上海とか、オーストラリアとか、そういった場所がいかにも現代的なのに対して、汾陽は根っこが田舎のまま。だからこそ、昔ながらの駅舎をピカピカの超特急が通過していくシーンなんかが、SFのように感じてしまいます。

一方でこの地は、中国史の古い伝統が詰まっている場所でもあります。いまちょうど別エントリーでずっと見ているテレビドラマ《蘭陵王》(→記事はこちら)なんて、舞台はちょうどこの場所です。リャンズの奥さんの出身地は邯鄲〈かんたん/ハンダン〉、つまり数々の王朝が都をおいた、かつての鄴〈ぎょう〉城です。

何千年の歴史の積み重ねも時代の流れの中にあっけなく置き去りにされていくなか、画面には、要所要所で地元の名酒「汾酒」が映り、田舎を捨てて海外に出ていく男の名は皮肉にも晋生〈ジンション=山西省生まれ〉。

古なじみ(故人)が根無し草のように散ってはまた吹き寄せられてくる光景に身を置きながら、タオは、時の流れの中で気づいていくことについて想いを馳せます。

黄河は、その岸辺に立つ者たちの想いには頓着せぬかのように、あるいは人々の感傷を映し出すかのように、氷の塊を運びながら、ただ滔々と流れて行くのです。

自分もちょうど物語の始まった時代の中国しか知らないので、記憶の中の中国はちょうど映画の最初の方のシーンとそっくりで、懐かしいなあと思いながら観ておりました。服装とか、ディスコでの踊り方とか、町中のお店とか、人々の挙措動作とか、本当にあんな感じです。

今はきっと見る影もなく変わっているに違いありません。昔が良かったとかそういう話ではなく、当時日本から中国に行ったときは、タイムマシンにでも乗せられたように、話に聞く昔をリアルタイムで再現されたような気がしていたし、いま中国に行けば、玉手箱を開けた浦島太郎みたいに、一気に同時代の国になっていることでしょう。外から見る以上に、中に居る人にとってはすさまじい変化だったのではないかと思います。

で、ジャ・ジャンクーの映画はこのように、誰にでも起こりそうなこと、の部分が実際の出来事に題材を取っていたりして非常にリアルなため、監督の御膝元の中国では身につまされすぎてドキュメンタリー作家みたいに思われているようですが、現実の出来事や、中国の世相・社会問題に引きつけた視点だけで彼の映画を観るのはちょっともったいないなあという気がします。

この作品は彼の映画にしては珍しくエモーショナルな描写があるのですが、それでも過度に感情的にならずに、登場人物たちの感情を丁寧にすくいあげながら物語が進みます。普通なら、そのまま良質の文芸作品としてまとまってしまいそうなところ、ジャ・ジャンクーは時空を鮮やかに飛び越え、その先の物語を語ってみせるのです。

中国は、一度の人生の中にしては時間的にも距離的にも隔たりが大きすぎる経験を誰もがする時代です。
この映画で描かれているようなことをわが身に置き換えて観る人も少なくないでしょう。

そして、中国の観客でなくても、この美しい映画を観て涙が止まらなくなるのは、誰しも記憶の中に懐かしい風景や大切な人がいて、しかもそれは永遠ではないことを改めて思い起こすからかも知れません。

渋谷Bunkamura ル・シネマ1で観ました。
縦に長い劇場なので、あまり後ろだと見づらいかも。
観やすい席はF、Gの6、7番あたりです。

以下、お話の結末に触れています。
ネタバレOKな方のみ、以下をどうぞ。











さて、ネタバレもOKになりましたところで、お話をもう少し詳しく振り返ってみましょう。

まずは1999年の第1パート。
タオはジンシェンとの結婚式にぜひ出席して欲しいとリャンズの家を訪ねますが、リャンズは招待状を家に置いたまま、家に錠をするとその鍵を放り投げ、町を出て他の省で暮らすといって出て行ってしまいます。

時は流れて2014年。ここが第2パートになります。
肺病にかかったリャンズは妻子と共に、汾陽に戻ってきます。古なじみを訪ねて療養費を借りようとしたのですが、逆に借金をして海外に出稼ぎに行くという話を聞かされてしまいます。

結局、妻が、置いたままの招待状からタオを尋ねあて、タオはリャンズの元を訪れて、資金と、彼が捨てて行った家の鍵を渡します。

タオの方は、実はすでにジンシェンと別れてしまっていて、二人の間の子ども、ダオラー(到楽/米ドルの意味でジンシェンが名づけた)は父親が引き取り、上海で育てています。タオの父が亡くなり、葬儀のために汾陽へやってきた7歳のダオラーは、タブレット端末で上海の後妻と話してばかりで、タオにはろくに口もききません。

上海への帰途、飛行機も特急も使わず、鈍行列車に乗るのを不思議がるダオラーに、

「各駅列車ならそれだけ長く一緒にいられるでしょう?」

と言い、タオは汾陽の家の合鍵を、ダオラー自身の家でもあるのだからと言って渡します。
しかしダオラーはタオの事にも、鍵の事にも興味がありません。これから移住するオーストラリアの美しい風景だけに関心があるのです。

そして、ここからがいよいよ、ジャ・ジャンクーらしい第3パートに入ります。

物語はいきなり、2025年。
オーストラリアの大学にいるらしいダオラーは、もう英語しか覚えていません。父のジンシェンはピーターと呼ばれていますが、別にオーストラリアが好きなわけではないらしく、「反腐敗運動」の影響で、帰国すれば逮捕されるのではないかと怯えているだけです。

ダオラー自身は何にも興味が持てず、大学を辞めて自由になりたいとばかり考えています。父には反発し、大学教師のミアに母のことを聞かれても、自分には母はいないと答えるばかり。

ところが、彼はいつしか、親子ほど年の離れたミアに惹かれていく。そして、彼は当時も、そしてこれまでも全く関心を寄せていなかったかのような母のことを突然に思いだし、ミアに告げるのです。

母の名前はタオだ。「波」と同じだ、と。

窓から、初老の女性が外を見ています。かつてジンシェンに、犬の寿命なんて15年だと言われていながら、彼女は犬を連れ、かつてジンシェンとドライブに出かけた黄河べりへと出かけます。雪のちらつく中、彼女はふと、ディスコを踊り始めます。

Go,West! 

当時流行っていたディスコソングに大きな波の音がかぶり、歌をかき消して行きます。無心に踊るタオを独り残して…。


字幕は人名がカタカナなので分かりづらいと思いますが、タオは漢字だと「波濤」の「濤」と書き、これがラストと呼応しています。

ご覧いただいたように、映画の中ではエピソードがオムニバスのようにブツ切りになっており、ジンシェンの2番目の奥さんはどうなったのかとか、リャンズはその後どうしたのかとか、ダオラーを上海に帰したあと、タオは何をしていたのか、今でも息子の事を思い出すのかどうかなどの、登場人物の細かい描写は一切ありません。

なので、ある程度登場人物に感情移入はできるものの、その時点、その時点で焦点が当たる人がいるだけです。まるで《水滸伝》みたいに、特定の主人公がおらず、いくつかのエピソードを通して全体として物語が成り立っています。間の話は観客が補完しながら、人によっては特に補完しないままなため、全体としてこういった雰囲気、ということしか言えないのです。

だから、母と子の愛の物語…みたいなストーリー紹介だと、それはそうでしょうけど、それは暗示されているだけで、だから良いんじゃないかな、と思うわけです。

暗示の例としては、たとえば、劇中に登場する重要な歌にサリー・イップ(葉 蒨文)の歌った《珍重》というのがあります。

この歌は3つのパートすべてに登場しています。確かに流行った曲ではありますが、最初のシーンでは、なんでこれ?みたいな印象しかないのですが、ラストを見ると、この歌でなければならなかった訳がよく分かります。

歌詞は(拙訳ですが)こんな感じです。

突然に沈黙が訪れ またあなたを振り返る
涙に潤む瞳は 胸の想いと悲しみを隠しきれない
積もる想いをどこから話せばよいものか
遠く離れたこの地で ひたすらあなたを思う
夜は長く あなたを懐かしむ私に寄り添ってくれる 
そちらはもう寒さが訪れ、
行く手には雪がちらついていることでしょう


もう一方の《Go West!》の方は、本当に90年代当時大流行りだったので、単にそれで採用されたのかも知れませんが、当時の人が歌詞を意識していたかどうかはともかく、今いる場所を離れて西へ西へと開拓していけばいい事がある、「西側」(資本主義諸国)を目指せば幸せが訪れる、という当時の信念を表現するのに使ったんじゃないかな、とチラッと思いました。

この映画を、現代中国の時代や世相を切り取った作品と見るならば、拝金主義や時代に流されて、使い道もよく分からないお金や自由を手にして結局は自分を失くしてしまうジンシェン、出稼ぎ労働者として格差社会の底辺に沈んでしまったリャンズ、アイデンティティを失い虚無感にさいなまれるダオラーは、特に掘り下げて描かれている訳でもなく、登場人物というよりは、それらの事象を象徴するアイコンに過ぎません。

一方、この映画を、母と子の強い絆を描いたエモーショナルなものと見るならば、ジンシェンやリャンズは脇役で、世相や時代は舞台装置にしか過ぎません。

しかし、ジャ・ジャンクー監督の特に優れているところは、この2つが1つの作品の中で、分かちがたく重要な要素として描かれているところなのだと思います。

つまり、ある人の存在は世界から見ればごく小さなもので、時代の流れには逆らえない取るに足らないものであり、逆に、だからこそ、そういう無数の人たちが組み合わさることで世界というものが成り立っており、誰もが世界の重要な一部分であるということを、しみじみと感じさせるということです。

予備知識なしに観てもきっと面白いと思うし、監督がさらりと用意した舞台装置を味わいながら観ても楽しめる、そんな作品だと思います。ぜひご覧になってみてください。

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作品情報
山河ノスタルジア|映画情報のぴあ映画生活
posted by 銀の匙 at 00:17| Comment(0) | TrackBack(0) | 映画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする