2016年03月31日

アイリス・アプフェル 94歳のニューヨーカー

映画を観にいったり感想書いたりしている場合じゃないのですが、お時間ある方には絶対観ていただきたいと思い、取りあえず推薦の辞をば。

ファッション業界に大きな影響を与えた女性のドキュメンタリーと聞いて、ファッションデザイナーか、元モデルさんか、ファッション評論家の話なのかな?と思ったら、意外やアイリスさんはそのどれでもありませんでした。

2005年、彼女が84歳のときにニューヨークのメトロポリタン美術館で開かれた個展は、衣装コレクターとしてのもの。つまり、ファッションはお仕事ではなく趣味なのです。それで個展の構成から出品物まで全て仕切り、しかも評判が評判を呼んで大人気だったというからスゴい。

ちなみに、この展覧会を企画した、美術館側の責任者ハロルド・コーダさんというこれまたステキな方が出てくるのですが、開催予定だった別の展覧会がポシャッてしまい、急遽何か代わりの展覧会をということで、知人のアイリスさんを思い出してお願いしたんだとか。

天下のメトロポリタン美術館の展覧会なら、通常は相当な期間をかけてキッチリ準備するんでしょうが、こんなお金も準備時間も宣伝費用もかかってない代打の展覧会が大ヒットで、嬉しいけど何か複雑って表情でした。分かる、その気持ち…。

さて、話は戻ってアイリスさん。本職はインテリアデザイナーだそうなので、もちろんデザインセンスは抜群なのでしょうが、彼女の着こなしはスタイリッシュとかいうのではなく個性的で、コレクションする服や小物の選び方も独特です。

映画には、彼女がハーレムの何てことない普通のお店に出向いて、店主とやりとりしたり値切ったりして慎ましやかにお買い物をするシーンが出てきます。あらいいわね、と注目するアイテムを見ると、マジでそれ、買ってどうするの...?みたいな妙なデザインばっかりなんですけど(←素人の見解ですすみませんすみません)、さらにそれに輪をかけて妙ちきりんなデザインの安っぽい(「ぽい」っていうか値段も日本円で500円くらいなので本当に安い)アクセサリーを足すと、あら不思議。

最初からそういう風にデザインされたとしか思えない、ステキなコーディネートの完成です。

柄 on 柄とか補色保護色何でもござれとか、上級すぎてマネするのは到底無理ですが、組み合わせの仕上がりを見ると、単に二次元の色あわせや柄あわせを超えた、彫刻的なセンスを感じます。

しかし、ファッションセンスより何より、アイリスさんが本当にスゴくてリスペクトすべきなのはそのお人柄。手仕事を愛し、後進を育てるのに力を注ぐなど仕事熱心で、手を動かして物を創らないタイプのデザイナーには批判的なものの、誰もが認めるセンスの持ち主なのに、他の人のイケてないファッションを批判したりしないし、発言は常に的を射ているけれど上品なユーモアがあり、一緒に仕事がしたくなるようなことしか言いません。

着ているものがいつも楽しげなところとか、記憶力抜群のところとか、せっせと綺麗なものを集めているところとか、年上の旦那様のカールさんといつも一緒でとても仲良しなところとか、「珍しい鳥」というあだ名そのもののアイリスさん。こんな風に年を取れたらいいなぁ…。

公式サイトはこちら↓
http://irisapfel-movie.jp/

角川シネマ有楽町で見ました。
前の人の頭がやや気になるけど、なかなか見やすい劇場です。
2016年3月現在、飲み物は自販機しかありません。
見やすい席はI列、J列、K列の8,9番あたりです。

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2016年02月06日

放浪の画家・ピロスマニ(ストーリーに触れています)

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(画集の表紙)

ジョージア(元グルジア)の画家、ニコ・ピロスマニについての映画。

この画家のことは、セルゲイ・パラジャーノフ監督の『ピロスマニのアラベスク』という作品で知りました。人々の生活や牛、ロバなどの家畜、宗教儀式、伝統など幅広い題材を描きながらも、どこかイコンを思わせる静謐な画風の画家です。

映画は、極端なまでに様式化され、切り詰めた表現で、彼の半生を語ります。風景も、人々の様子も、構図も、全てが彼の画の中から抜け出してきたようです。

セリフも少なく、キャンバスの中に物語を見るように、何が起きているかはある程度、観る人が補わなければなりません。その余白の多さがまた、束縛を嫌ったピロスマニの生き方に合致しているようにも思えます。

両親を早くに亡くして、親戚の家に世話になっていたピロスマニ。冒頭のシーンは、彼の朗読から始まります。イエスが弟子に命じてロバと子ロバを引いてこさせ、その背に上着を敷いてまたがり、エルサレムの門をくぐると、人々は口々に、あの方はどなただろう、と噂し合う、という聖書の一節です。

続くシーンでは、美しい調度に囲まれた部屋のソファの上で、高価そうな衣装に身を包んだ若い女性が泣いています。どうやらピロスマニは、引き取ってもらって姉弟のように可愛がってもらったその娘に恋してしまい、家を出る羽目になったようです。

それから町に出て、鉄道関係の仕事をして小金を貯め、友人と一緒にミルクやバター、ハチミツなどを商う店を始めます。

その店は粗末な木造の小屋ですが、入り口にはピロスマニの描いた牛の絵を掲げ、それがロケーションや素朴な店の造りにとてもよく合っていて、美しさに溜息が出ます。

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買い物に来る人たちも、身なりは素朴ですが、風景や店にマッチした独特の美しさがあります。

ピロスマニはその後、姉夫婦のせいで損をして(というほどでもないですが)、商売をやめ、町の居酒屋の壁に画を描いては酒や食事をふるまってもらうという生活をしています。

作品をたまたま見かけた画家が気に入り、彼の絵を買い画壇に推すものの、素人絵画だとけなす批評が新聞に出て、町の人からも冷たくあしらわれるようになってしまう。

彼はそれでも、自分は描きたい絵を描くと宣言しますが、失意は誰に目にも明らかでした。

復活祭の日、貧窮し、衰弱する彼の元へ御者が現れます。狭苦しいさしかけ部屋のような場所に転がっているピロスマニを見て、何をしているんだ、とたずねると、彼は「死ぬところだ」と答えます。御者は、「何を言っているんだ、今日は復活祭だよ」というと、彼を援け起こし、馬車に乗せます。

石畳の道を、彼一人を乗せた、幌のない馬車が進んでいきます。冒頭の朗読を思い起こさせるこのシーンで、映画は終わります。

強いていえば…出てくる人出てくる人、みんなヒゲおじさんで見分けがつかなかったんですけど初心者には(爆)、派手なストーリー展開も豪華なセットも全くないのに、全編、この素朴で調和の取れた画面が素晴らしく、微動だにせず見入ってしまう映画です。

ギオルギ・シェンゲラヤ監督
グルジア語版による再上映。

UPLINK渋谷で見ました。
割合大きめの部屋での上映で、予約もできて
ありがたかったです。
この映画館は、美容師さん割引や
バースデー割引(月に関係なく、誕生日に割引)など、
各種割引制度があり、定価で観る人いるのだろうかと疑問に思うほどです。
実験的な映画も臆せず上映する志の高い映画館。
学割以外はそんなに安くしなくてもいいから、
映画ファンのために、いついつまでも頑張って欲しいです。

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2016年02月01日

マッド・マックス 怒りのデス・ロード(表示以降 ネタバレ)

2015年のナンバーワンは、やはりこの作品で決まりですかね。
終わったかなと思ったら再上映を繰り返して、2016年2月5日まではTOHOシネマズ新宿、六本木ほかで上映しています。

*2016年2月末、4D上映も復活! 通常館のリバイバル上映もある模様。未見の方、ロスに苦しんでいる方、お近くでやっていないかチェックしましょう!

見逃していた方もぜひ観ましょう! 絶対後悔させません!
入場料を2倍払ってもお釣りが来ます!

原題の Mad Max:Fury Road を「怒りのデス・ロード」に変換した辺りからもうタダもんじゃねえ感ありあり。

アホもここまでやればご立派、てな作品なのかと思っていたら、そんな甘いもんじゃなかった。とにかくもう、すべてのシーンがすがすがしいほどバカ丸出しで、でも、物語の中では全員がどシリアスという、『300』路線のさらに斜め上を行ってる映画です。

この手の映画を見慣れないせいか、設定からデザインから着てるもんから動作まで、すごく細かいところも全ての要素が激しくオリジナルな世界観でとっても新鮮だったんですけど、カスタムカーとかが趣味の皆様には普通の光景なのかしら??

でもいくら魔改造といっても、後部座席にギター男を乗せてるってのは聞いたことないけど…。

こんな映画でもストーリーというのは一応あり、「北斗の拳」みたいな荒廃した世界(ってきっとマッドマックスがオリジナルで「北斗の拳」の方が後追いなんだろうけど)の、ある谷間の砦で、水と食料を独占して君臨する「イモータン・ジョー」の元から、イイ女6人が逃げ出そうとする、というのが基本線。

主人公のマックスは至ってマトモな人で、何で「狂気の」マックスっていうのか、前作を全然知らない私にはさっぱり分かりませんでしたが、彼を捕まえて砦につないでいた「ジョー」の手下ども(ウォー・ボーイズ)っていうのが本気でイカれており、さらには、彼らに加勢する連中だの、敵対する連中だの、とにかく全員イカレています。

他の形容詞を忘れてしまいそうなほど乱暴でイカレた連中しか出て来ませんが、描写は基本「アクション」の枠に収まっており、残忍だとか生理的にダメだとかって感じがしないのが救いです。(メタボがキライとかヘビメタが我慢ならない、とかいうメタ関係にアレルギーのある場合を除く)

出てくる男は全てダメダメで、女はイケてるのが一体誰の機嫌を取りたいんだか非常にナゾですが、だからたぶん女性が見ても腹は立たないでしょう。

刀折れ矢尽きても、何とか女たちを守ろうとするシャーリーズ・フュリオサ・セロンお姉様の傍らで、前半は特にウォー・ボーイズの輸血袋代わりに使われて、自分ひとりスタコラ逃げようとするマックスの不甲斐なさがやたらと強調されているのですが、後半も引き続き、過度にイイ人にならずに推移するところに非常に好感が持てます。

音楽もご機嫌で、こんなとんでもない映画なのに、2時間楽しく過ごせるでしょう。
劇場鑑賞が間に合う方は、お早めに。

それにしても、血液型がこんなに重要だったなんて…。

以下、ネタバレです。



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最初のワンシーンから開いた口がふさがらない、こんなトンデモない話のくせに、最後がハッピーエンドだというのが一番口あんぐりでしたよ。

逃げる側、追う側とも多大な犠牲を出して、全員ズタボロで、一筋の希望を胸に女たちが目指した緑の地は、今や見る影もなくなっている…呆然と立ち尽くすフュリオサお姉様の後ろ姿。それでも気を取り直し、未知の世界へ向かおうとする女気溢れるお姉様。

さすがフロンティア精神のある人たちは違うね(ってこれはオーストラリア映画だったっけ?)、お姉様、私もついていきます!と感動してたら、そこであまりこれまで役に立ってたとも思えないマックスが、砦に戻ろうと言い出す。

「狂気の」マックスってこれか〜! とハタと膝を叩いてしまいました私。だって、逃げるだけでもこんな酷い目に遭ったのに、帰ろうなんて正気の沙汰じゃない。

しかし、フュリオサお姉様はしばし黙考のあと、ファイト!一発!とばかりにマックスと握手する。…お姉様がいらっしゃるなら、私もついて行きます!

そこから後の展開が滅茶苦茶で、もう何がなんだか分かりませんでした。分かる必要全くないですが、いい意味で。

でも、終わり良ければ全ていいのだ!

久々に、この面白さは文字には出来ないな〜と思った快作でした。


ギンレイホール(飯田橋)で観ました。
昔ながらの入れ替えなし制、複数本立て。
作品セレクションの評価が高く、
たまたま見た併映作品が面白かったという声がよく聞かれます。
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2016年01月19日

神なるオオカミ(表示以降、ネタバレ注意)

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写真はチラシから

フランスの巨匠・ジャン=ジャック・アノー監督の中仏合作映画。ロードショーはならず、「未体験ゾーンの映画たち2016」での限定公開となりました。

文化大革命の時代。北京の大学生・陳陣(チェン・ヂェン=Chen Zhen/ウィリアム・フォン)は、楊克(ヤン・クー=Yang Ke/ショーン・ドウ)と共に内モンゴルに下放されます。厳しくも美しい自然と、モンゴル族の生き方に惹かれるチェン。ことに、草原で出会ったオオカミに魅了されたチェンは、長老や現地の人たちの忠告も聞かず、こっそりオオカミの子を飼いならそうとするのですが…。

刻々と変わる空と広々とした草原が織りなす自然描写や、本当にその場で何年も生活しているような、キャストたちの騎馬シーンは見ごたえ十分。オオカミに象徴される自然とのぎりぎりの折り合いで成り立ってきた暮らしがあっけなく壊れていくさまに、感慨を覚えずにはいられません。

前作《后会有期》(いつか、また)《黄金時代》では微妙に役に嵌っておらず、主役が別の俳優さんだったらもっと良い映画になったんじゃないか…とかつい思ってしまった(ごめん!)ウィリアム・フォンですが、今回は、いかにもではありますが、純粋で未熟な知識青年を危なげなく演じていました。たま〜に60年代というよりは30年代的な表情になってるときがあったり、これで大学生ってのはちと苦しい、と思うカットもなくはなかったですけど…。

注目すべきは彼の声の演技で、ナレーション的なセリフも含め非常に良かったです。ちょこちょこはさまるモンゴル語は、上手いのかどうかは分かりませんけど現地にしばらくいるとこんな感じに混ぜこぜで話すようになるんだろうなっていう雰囲気が良く出ていました。コンビ役のショーン・ドゥは役柄その人にしか見えない好演。モンゴル族キャストもさすが本場の貫禄です。

ということで、以下はネタバレというか、個人的な感想です。

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基本、面白いと感じた映画について感想を書くようにしているのですが、今回は例外です。いちおうウィリアム・フォンの主演作品なので、資料(?)として、ということでエントリー。

頑張って作った映画だというのはよーく分かったんですけど、ハッキリいって残念な作品だと個人的には思いました。

ロケ地も良かったしキャストも好演しましたが、ニューエイジっぽい作品によくある、少数民族に肩入れして環境問題を扱ってみました的な映画に感じてしまったし、いかんせん、お話が弱かった。

オオカミと人間の関係を語る長老の言葉は重みがありましたが、言葉と行動とに微妙な齟齬が感じられ、全くのフィクションではなく実在の内モンゴルを舞台にしているだけに、お話の世界観に、どこまで現地の人の見方が反映されているのか疑問だという感じもしました。

物語的に弱かったと思う理由の一つには、主人公チェンの行動が一貫して唐突であることが挙げられます。オオカミに魅せられた原因になったはずのシーンも、あれでどうして?って感じだったし、なぜそこから子オオカミを育てることに考えが及ぶのか、セリフでは説明してたけど飛躍がありすぎです。素直そうな人柄なのに、野生の動物を、しかも牧羊地で飼うなんて、必然性も薄く誰が考えても問題が起きそうな事柄になぜ固執するのかも理解しづらい…。

彼は現地の人や文化の理解者を自認していたけれど、結果的には、他所から来て土地の自然や習慣を破壊する人たちの一員に過ぎなかった、ということなんだろうと納得はするものの、それを見せるためのご都合主義の展開に見えてしまう。

つまりは主人公の扱いが中途半端。彼に感情移入させていれば、彼が採った愚かな行為にはもっとインパクトがあっただろうし、ニュートラルな立場に置いておくなら、彼の行動自体にもっと必然性を持たせないと、異分子が異端な行動に出ているとしか映りません。

原作を読んでないので分かりませんが、ここがお話のキモなんだから、もっと丹念に描写した方が良かったんじゃないでしょうか。

しかも、彼もヤン・クーも、最後には北京に戻ってしまいますが、そこもあっさりナレーションで片づけられているので、その直前の現地に骨を埋めそうな勢いとはギャップがありすぎて、いったい何なのこの人たち、という印象。2人とも悪くない演技だったのに、もったいない…。

もったいないついでに、もう1つ言うと、オオカミの描写もイマイチに感じました。いくつかのシークエンスはオオカミが主役になっています。演技をつけた本物のオオカミなのかも知れないけど、やりすぎな感じで、かえって不自然。

ラストシーンにCGで描いたと思しきオオカミ形の雲が出てきたりして、まさか、かなりのシーンがCGの拵えものかと思ってしまいました。せっかく自然が綺麗に撮れてるのに、そんなウソっぽいシーンを最後に持ってくるなんて、損ですよね。

まあここはひとつ割り切って、モンゴルの美しい自然とウィリアム・フォンの美声(とこの映画を観て初めて認識した)を堪能するってことでもいいのかもしれません。中身を良く理解している訳でもないくせに、言いたい放題で恐縮なのですが、良い素材を微妙にダメにしている感じが、何とも惜しかったので…。


ジャン=ジャック・アノー監督
ヒューマントラストシネマ 渋谷で見ました。
一番大きなスクリーン1は、結構見やすいです。
手前に通路があるI列で観ましたが、G,H列くらいのほうが迫力があるかも知れません。
まん前に人が居なければ、ですけど…。
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2016年01月16日

ミッション:インポッシブル/ローグ・ネイション(表記以降、若干ネタバレ気味)

ボケっとしてたら『マッド・マックス 怒りのデス・ロード』が上映終了寸前になっており、慌てて名画系の映画館に駆けつけました。人気作だから2本立ての2本目からは入れないんじゃないかという情報を得て、あまり乗り気がしなかった、1本目に上映された表題映画を観る羽目に。

そしたら、結構面白かったです、これが。

前作の『ミッション:インポッシブル/ゴースト・プロトコル』も、大変面白かったんですが、基本、アクション(とトム・クルーズ)で魅せるシリーズなので、どうせ同じような映画だろうし、わざわざ観にいくことないかな〜って思ってパスしていました。

しかも、このシリーズのもう一つの見せ場である、スパイグッズというかガジェットも、いまや現実世界の方が追い越してる印象があります。

『ゴースト...』のときは辛うじて先進的な小道具だった顔認識システムも、いまやコンビニや書店レベルで実装されてる始末。好むと好まざるとにかかわらず、もはや東京中がミッション:インポッシブル状態なのであります。

加えて、現実に紛争の相手がもはや国単位じゃなかったりとか、イギリスの諜報機関が公募制で採用試験をするっていうご時勢で、「スパイもの」ってカテゴリー自体に今や激しくムリがあり、しかも、前作でクレムリン壊しちゃった上にハリウッド映画大好きなロシアは良いお客さんだし、中国の観客はこのシリーズ大好きで出資もしてるし、ってことになると、どこをスパイ先に設定すればスポンサー(?)を怒らせないか&話がホントらしくなるのか実に悩ましい。

と、製作陣に成り代わりまして心配しておりましたが、なんと意外な国の名前が…。

ってことで、物語の主な舞台をヨーロッパに設定して展開します本作、冒頭のアンビリーバボーなアクションシーンからラストまで、一瞬たりとも飽きさせません。お近くで上映してましたら、ぜひ、ご覧ください!

以下、ややネタバレです。

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ということで、いろんな大人の事情が絡み合い、なかなか対決相手の設定が難しそうな本作でしたが、まさか
1回転半してイギリスとは…! はっはっは、こりゃユカイ。

もちろん、イギリスそのものが敵ということではなく、主人公イーサン・ハントが属するスパイ組織・IMFこそが、「シンジケート」なる偽スパイ集団をでっち上げた自作自演の問題組織と断罪され、解散させられそうになるというのが映画の大筋。

そして見所といったら、新ヒロインのレベッカ・不二子・ファーガソンに尽きるでしょう!

敵方の人間のように見えながら、イーサンが絶体絶命の危機になると、なぜか救いの手を差し伸べるナゾの美女イルサを演じます。アクションシーンもスゴイのですが、何しろイギリス人スパイの役なので、クイーンズイングリッシュが素敵すぎる!…と思ったらこの方、スウェーデン人なんですね。

最後は絶対イーサン・ハントが勝つんだから、ストーリーに意外性はゼロのはずなんですが、それでも不可能と思われるミッションをどうクリアするのか、結構、手に汗握って鑑賞してしまいます。

国家組織に属していようと、ならず者集団に属していようと、結局、構成員は使い捨てのコマ。相手を倒したつもりでも、またそれに代わる人物が必ず現れる、と言うイルサ。現実世界の出来事と重ねてみると、「ローグ・ネイション」(ならず者国家)というサブタイトルも皮肉たっぷり。

アクション、脚本、配役の妙に、大人の事情ならぬ大人のエスプリが効いた、なかなか魅せる作品です。

クリストファー・マッカリー監督

ギンレイホール(飯田橋)で観ました。
音がよく、アットホームな雰囲気の劇場です。
前後の人と席が互い違いになっているので見やすいです。
スクリーンはそれほど大きくありませんが、
後ろから3,4列目でもよく見えます。
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2016年01月11日

創造と神秘のサグラダ・ファミリア

1926年に亡くなった、スペイン・カタルーニャの建築家、アントニ(アントニオ)・ガウディ。

彼が設計したサグラダ・ファミリア教会は、有機的な見てくれもそうですが、建物としても未だ成長中なところが、まるで生き物のようです。

規模の壮大さもさることながら、戦争や政変、資金難などの原因が重なり、1882年の着工以来、130年以上経っても完成していません。

21世紀の今、とりあえずはスペインで戦争もなく、観光収入によって建築資金も確保されてはいるのですが、また別の困難が降りかかり、永遠に完成しないとすら言われています。

本作はこの未完のプロジェクトの現在を、歴史をさかのぼりつつ紹介していくドキュメンタリーです。

        *
      
映画が始まると、監督さんの心の声と思しきナレーションが流れるのですが、スペインの話なのにいきなりドイツ語なんで、ちょっとビックリです(監督さんがドイツの人なんですね)。まずはその口調が、そして、サグラダ・ファミリアの塔をキーとする映像が、どことなくヴィム・ヴェンダース監督の『ベルリン・天使の詩』を彷彿とさせる…と思いつつ、観ておりました。

実は、1980年代にこの建物を実地で見るチャンスがありました。春だというのに、バルセロナは昼になるとうんざりするような暑さに襲われるところで、現場周辺は埃っぽく、第一印象はゴタゴタした街にさらにゴタゴタした趣きを添える建物だなぁ、でした。

当時は、どうせシエスタしながらノンビリ造ってるんだろう…と偏見丸出しで思っていたのですが、設計したガウディを始め、かかわっている人たちは皆、建物の完成のために一身を投げ打ち精進していたにもかかわらず、一向に完成しなかった、ということが映画を観てよ〜く分かりました(汗)。

今は世界各国から一流の人材が集まり、共同して作業に当たっています。
映画は、建築にかかわるそうした人々のそれぞれの想いを追っていきます。

冒頭、この教会の構想の元になったと思われるモンセラの奇岩群と修道院の様子が映し出されます。圧政にも負けず、カタルーニャ文化のよりどころとなった場所です。その精神を受け継いだが故に、サグラダ・ファミリアの建築は幾多の困難にもめげず続けられてきたのでしょう。

ガウディは、生前にはプロジェクトが完成しないと判断し、一部分だけを先に完成させる方法を採用します。そこから後継者が何をすべきかを読み取るだろうと考えたのです。

建築プロジェクトに携わる日本人彫刻家・外尾悦郎は、ガウディの求めたものを体現しようと努力を重ねます。オリジナルを研究し、何を表そうとしたものなのかを深く探り、我を捨て、いかにガウディの考えに近づくかを真摯に追求する、いかにも日本人らしい律儀なアプローチだと感じました。

一方で、むしろ自分のスタイルを追求することで、時代精神を反映させるアプローチをとるスビラックスのような彫刻家も登場します。彼は彼なりに、ガウディから託された命題に応えたと見るべきでしょう。

他にも、さまざまなアプローチの仕方が登場しますが、このプロジェクトにかかわる人たちはそれぞれ誇りを持ち、基本、完成の方向へ向けて取り組んでいる点では一緒です。

ところが中盤、突然ちゃぶ台返しのような展開が待っています。

都市プランナーのマッケイは、サグラダ・ファミリアの建築を中止せよという署名運動があったことについて語ります。スペイン内戦で多くの資料が失われた後、コルビジェを初め200人もの著名人が、ガウディが完成させた部分を博物館として残して、これ以上の建設はやめるべきだと主張したのです。

確かに、設計者も設計資料もなく、勝手な解釈で増築していくのだとしたら、ガウディの作品としての価値が薄れてしまう、という考えがあるのも分からなくはありません。

加えてマッケイは、さまざまな思想信条の人たちが存在する現在、カトリック信者のよりどころとして建てられる教会ではなく、もっと今にふさわしい建物が作られるべきではないのかとも主張します。

彼ははっきりとは言っていませんが、恐らく、ガウディが現代の人であれば、教会ではなくてそういった建物を設計しただろう、という考えもあるのでしょう。とすると、これはこれで、ガウディの命題に応えたものとも言えます。

サグラダ・ファミリアというたった一つの建物を巡って多様な考えが繰り広がられ、どれもそれなりにもっともな意見なので、観てるこちらとしては誰の肩を持つべきか、だんだん困ってくるのですが、その中で、一番共感できるなあと思ったのは、建築家ではなくて音楽家の意見でした。

カタルーニャの音楽家ジョルディ・サヴァールはバッハを引き合いに出して言います。バッハの作曲した「ロ短調ミサ」の完成形はバッハの頭の中にしかない、と。

何百年も前に書かれたこの曲は、楽譜を読む人それぞれの解釈によって形を変えながら、演奏され続けることによって生きているのです。

「ロ短調ミサ」とは違って、サグラダ・ファミリアには楽譜にあたるものすら残っていません。逆に、そうだからこそ、この作品に皆が引きつけられるのでしょうか。映画終盤、宗教学者のパニッカーが語る言葉は示唆的です。

神秘がどこに在るかは示すことができない。
神秘は何者も内包していないからこそ神秘なのだ。

と。

いろいろと考えさせられつつも、サグラダ・ファミリアの映像を美しい音楽と共に堪能できる、ぜひ鑑賞をお薦めしたい作品です。

ステファン・ハウプト監督
94分 2012年作品
YEBISU GARDEN CINEMAで観ました。
小さな、でもおいしいコーヒーとフードを提供してくれるカフェスペースが併設された、大人な映画館。
よく通いましたが、数年前に閉館になってしまい残念に思っていたところ、以前の洒落た雰囲気はそのままに、ユナイテッドシネマの一員としてよみがえっていました。

居心地がよく、音響も素晴らしい。ずっと通いたい映画館です。

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2016年01月01日

スター・ウォーズ/フォースの覚醒 初回/リピート鑑賞前に(ネタバレなし/表示以降ストーリーに触れています)

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皆様、明けましておめでとうございます!

実は、旧年中最後に観た映画が『スター・ウォーズ/フォースの覚醒』で、新年最初に見た映画は『創造と神秘のサグラダ・ファミリア』だったんですが、素晴らしい映画だったので感想は改めてじっくり書くことにいたしまして、とりあえずは大ヒット上映中!の方から。

大晦日は2回目の鑑賞だったので冷静に観られたせいか(笑)、初見よりも素直に感動できました。
ぜひ、ぜひ、ご覧になってください。良かったと思った理由は↓1回目感想のエントリーに書いておきました。(→こちら。1つの記事の中に
ネタバレなし→
ストーリーややネタバレ→
重大ネタバレ、
という順にご紹介しておりますので、これから観る方は、ネタバレ注記以降は鑑賞後にご覧になることをおススメいたします)

まだ観ていらっしゃらない方!
予習は全く必要ありません! 観れば分かるように作られています。ぜひ、ご覧ください。
男性・女性とも楽しめるポイントがあるので、デートで観ようっていわれたら、
ええ〜っ?って言わないで付き合ってあげてくださいね。

ダニエル・クレイグファンの方は、ストームトルーパーの中に紛れてるそうなんで、どうか見つけてください! 全員同じ白いツヤツヤしたヘルメットとコスチュームなんで、なかなかわかりづらいと思いますが(笑)、声で分かります。

それから今回も、キメ台詞が登場しています。
知ってると面白いので、どこで言うか探してみましょう。

Garbage will do!(ポンコツでも、無いよりマシ)
シリーズに毎回出てくるホタテ貝みたいな宇宙船ミレニアム・ファルコン号は、毎回誰かにガラクタ、クズ、ポンコツ等といわれています。今回も例外なく…。

May the Forth be with you! (フォースと共にあらんことを!)
スター・ウォーズを観たことなくても、なぜか誰もが知ってるセリフ。

I have a bad feeling about this.(イヤな予感がする)
シリーズ中、常に誰かに悪い予感が…

Much to learn you still have
↑この通りではないのですが、意外な人の口から似たセリフが。

Mambo Jumbo(ちんぷんかんぷんの嘘っぽいもの)
ハン・ソロのセリフに出てきます。これは、シリーズ第1作目で演じた俳優さんが、セリフの意味がちんぶんかんぷんで(それでも名演だったから逆にスゴイけど)と言ってたあたりから取ったセリフなんでしょうか。

その他、字数制限の関係か、字幕が情報をやや圧縮している部分もあるので、耳もガッチリ澄ませて観ると、より楽しめることでしょう。

画面では、特にヒロインのレイが住んでいる砂漠地帯に転がっている残骸に注目してみましょう。物語が始まる前に大きな戦争があり、その時に撃墜されたり壊れたりした機械の残骸です。前の作品に戻って観てみたときに、ああ、これこれ!と思われることでしょう。レイが拾うヘルメットにも注目です。


すでに1回観て、もう一度観ようか迷ってる方!
リピート鑑賞のための予習としては、まずサントラを聴く。これですね。

今回のテーマは「スター・ウォーズのテーマ」とか「ダースベーダーのマーチ」とか、前作までの誰もが知ってる曲調に比べるとかなりおとなしいんですけど、その慎ましやかな感じがヒロインのレイによく似合っているし、主題を提示した後、広がる部分がザッツ映画音楽って感じで、とても味があると思います。

試し聴きしたい方はこちらから。(公式HPです)

レイのテーマ
https://www.youtube.com/watch?v=65As1V0vQDM

ジェダイステップス〜エンディング
https://www.youtube.com/watch?v=cUBUlKgsNK8

↑この曲の中にルークのテーマが現れた途端、ぐっと来るものがありますよね…。そして何事も無かったかのようにめちゃ明るくスター・ウォーズのテーマにつなげて、またレイのテーマが現れて…。

そして、前作でいよいよルークが旅立つとき、ルークのテーマはホルンが演奏してる(たぶん)ですが、今回もレイが旅立つ回なので、最後になるとテーマはホルンが演奏してる(たぶん)と思います。その辺も胸に迫るものがあります。

今回は2D、3D、IMAX、4Dで上映がありますが、ミレニアムファルコンとタイファイターの交戦シーンはIMAX用のカメラで撮ったそうで、視野いっぱいの戦闘シーンというのがすごかったです。

3Dならではの演出が面白いシーンもあるので、映像酔いしない方は3Dがおススメですが、予算が許せば、ぜひ4Dでもご覧ください。さらにいっそう他人事じゃない感じが味わえます(笑)

初めて4Dで観ましたが、背中を蹴られるエフェクト以外はとっても面白かったです。隣の席の男の子は、映画が始まる前のテストの段階で、椅子が動くから寝られないって彼女に向かって怒ってましたけど。

椅子が動くだけでなく、風が送られてきたり、フラッシュが焚かれたりといったエフェクトがありますが、話に入り込めるので、意外に邪魔に感じません。

ただ、私が観たTOHOシネマズ新宿のMX4Dは音響がイマイチでした。エンドロールシーンのすごく重厚なフーガの部分がじっくり聴きたかったのに..。たまたまかな。

あとは、続きを観るときのために、伏線を見つけとく、ってことでしょうか。
回収されるかどうか、分からないけど…。

それに、よく考えると不思議な部分もありましたよね。
==============
以下、ネタバレ込みです。

・そもそも「フォースの覚醒」って何
そう来ましたか…。でもいい質問ですね!(と逃げる)。
フォースについては映画の中でハン・ソロが説明してますが、フォースは存在しているけど、意識して使うということになると、誰でもができることではないらしい(フィンが「フォースを使いましょう!」とか気楽に言ってるけど、ハン・ソロがたしなめてますよね)。

では「フォースが覚醒する」とは何を意味するんでしょう。
誰かがフォースを使えるようになったってこと? まさかそれともフォース自体が…。

このタイトルこそが、作品最大の、そして最重要の謎ですよね。この意味がエピソード8で解明されるといいんですが…。

・ジャクーのシーンでルークの地図を渡す老人は何者?
 パンフによれば、ロア・サン・テッカという名前らしく、レイアの古い友人で、銀河の周縁を旅してきた探索者だそうなのですが...。

・レイの持ってる杖は何?
 パンフによれば、クォータースタッフという名前で、レイが廃品から手作りした武器らしい。

・レイが家族と言ってるのは誰?
 「フォースの覚醒」の流れを見るとルークのようですが、それなら家族といわずに父と言いそうなもんです。カイロ・レンはなんらかの形で彼女を知っているように見えますが…。

・なぜレイはジャクーにいるの?
 家族を待っているから、という説明になっていますが、彼女はそもそもジャクーの出身なんでしょうか。あるいはこのジャクーという惑星に何かがあるのか?

・ケッセル・ランを14パーセクで飛んだ→12パーセクだ!って、何で自慢なの?
 ケッセル・ランというのは、例によって劇中、何の説明もありませんが、文脈からしてそういう星域か、航行ルートのことでしょう。「パーセク」というのは距離の単位です。

「スター・ウォーズ」の中では、宇宙を航行するときはスピードが速くなるだけで物体をすりぬけたりはできないので、ある距離間を移動するときは、短いほど速く移動したという意味になります。

だから、ある地点からある地点までをギザギザと大回りして14パーセク分移動したのではなく、最短距離を通って12パーセクの距離で通れたってことは、ナビやパイロットの腕が障害物を小まめに避けられる腕があるということでもあるし、それだけ速く移動できることになるわけです。

エピソード4の音声解説でルーカス監督もそういうふうに説明していました。

・トリリアの大虐殺って何?
 私も知りたい。とりあえず、ラスターが一枚噛んでることだけは分かったけど(ってそれは映画観た人全員知ってますね( ^^;)。
 アニメかノベライズとかで出たエピソードなんでしょうか。
 映画本編の方では、いつか説明があるかも知れないし、「シャーロック・ホームズ」でホームズが名前を出すけど具体的にはよく分からない、「トスカ枢機官の急死事件」みたいなものかしら?

・ボー・ダメロンはどうやって助かったの?
 さぁねえ?
 (*゚□゚)==○) えーっつと、誰も周りに居なかったっていってたので、パラシュートが同じ砂漠でもかなり離れた場所に飛んでったんでしょうかね。それで、ジャクーにいる他のレジスタンスが助けてくれたとか?
パラシュートで脱出したにしては、ジャケットだけ残ってたのがナゾだけど、操縦中に暑くて脱いだのか?

・スター・キラー基地に吹っ飛ばされたヤラレ役の惑星は何?
 パンフによると、現在の共和国の首都でホズニアン・プライムというらしい。

・レイア姫の髪型
 昔のヘアスタイルはやめちゃったんですね。結婚したら髪型を変えるんだろうか?って思ったけど、ハン・ソロが「髪型変えたのか」って言ってたから、特には関係ないんでしょうね。最後、基地でミレニアムファルコンを出迎えた人たちの中に、同じ髪型の人がいて目だってましたが…(まさか、あれがキャリー・フィッシャーの実の娘さん?)

ちなみにあの髪型、フリーダ・カーロみたいだな〜と思っていたら、メキシコで革命時期に流行っていた女性の髪形をモデルにしたんだそうです。レイアは革命家だからだそうで…。エピソード3でパドメも同じ髪型にしてましたね。

・カイロ・レンの名前
 今回はダース○○じゃないんですね。新作の時代にはジェダイがいない(ルークを除いて)ように、暗黒卿もいないんでしょうか。
 最高指導者スノークに、レン騎士団を率いて…といわれていたので、「レン」の方はその関係でしょうか。じゃ、「カイロ」の方は何?
 ハン・ソロに「勉!」...じゃなくて、ベンって呼ばれてましたよね。ハン・ソロの息子だから、ベン・ソロなの?(じゃ、孫はボン・ソロ?) あるいは、オビ=ワン・ケノービがベン・ケノービと名乗っていたので、そこから取ったの?
 
・カイロ・レンのマスク
 コスプレ以外に特に意味ないように思うんだけど…マスクをするとかなり声が変わるので、ひょっとしてこの映画の時代では、吸うとアヒル声になるヘリウムガスは危ないから禁止されて、その代わりがマスクなんだろうか…(んなわけないよね)

・カイロ・レンの言う、「ダース・ベイダーから受け継ぐ」こととは?
 ダース・ベイダーのマスクを見ながら、そんなことを言っていましたが、具体的には何なんでしょうか。ベイダーはパルパティーンを倒して自分が取って変わろうとしていたので、そのこと? それともフォースにバランスをもたらす存在、ということ?

・アンディ・サーキスはどこ!!??
 「ロード・オブ・ザ・リング」でゴラムを怪演して以来、すっかりモーション・キャプチャー俳優になってしまったのでしょうか…今回、またもモーション・キャプチャーでスノーク最高司令官を演じてるんですけど。そもそもスノーク最高司令官て誰よ

まさか…まさかとは思うけど、ムーミントロルの一種じゃないですよね?

ちなみに、スター・キラー基地でハン・ソロと対峙したカイロ・レンは、ハン・ソロの元に戻りそうにも見えたのに、太陽が翳ると、一気にダークサイドに引き込まれたようにも見えました。あのシーンを観ながら、うっコレってオークやトロルの逆パターン?(オークは太陽の元では行動できず、トロルは太陽の光に当たると石になっていまう)とか考えてしまいました。ただ単に演出上の「あや」ですかね、あの描写は。

と、上手いことトロルつながりでまとまったところで、それでは、エピソード8でも、BB-8とフィン、ポー・ダメロンが活躍することを祈念しつつ、

2016年も、フォースと共にあれ!


「スター・ウォーズ/フォースの覚醒」を鑑賞しての感想は→こちら 



posted by 銀の匙 at 23:56| Comment(2) | TrackBack(0) | 映画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年12月19日

映画 スター・ウォーズ/フォースの覚醒(前半ネタバレなし/表示以降 ネタバレ厳重注意)

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皆様こんばんは。

ぎりぎり初日に見てまいりました、「スター・ウォーズ/フォースの覚醒」。

12月18日18時30分に世界同時公開となりますが、カウントダウンが行われるので来るようにと某所からの指令を受け、まずは六本木ヒルズ内の映画館へ。

日比谷駅を降りて、エスカレーターに乗った瞬間から、あたりはすっかりスター・ウォーズ鑑賞モード。新作について話し合ってる人からコスプレで劇場に向かう人まで多士済々です。

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談笑するファースト・オーダーの皆様

ストーム・トルーパーの皆様方がテラス席を囲んでお茶してる、というシュールな画を横目に見ながら階段を上ると、狭いピロティにはカウントダウンの電光掲示板が置かれ、C3-POとR2-D2が写真撮影に応じています。押し合いへしあいする入場者の6割近くがスター・ウォーズのコスチュームを着ているという異常な事態に(笑)。

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いったいどこの惑星かよくわからない

ここの劇場は奥のほうに小さなグッズ売り場があるのですが、誰も買い物をしていません。なんだか拍子抜けしつつも、パンフレットやBB-8グッズを買い漁りました。

無事カウントダウンが終わると、鑑賞のため、別の劇場に移動です。年末の○ソ忙しい時期の夕方六時半に映画なんか観られるわけないじゃんか、と、はなからチケット争奪戦をあきらめていたのですが、どうせ早くに来られるんなら初回を見れば良かった…。

しかし、鑑賞に選んだ劇場はIMAXだったので映像がド迫力だったうえ、なぜか外国のお客さん率が高くて、大変な盛り上がりを見せました。

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物語の鍵を握る茶つぼことBB-8(ビービーエイト)

六本木は場所柄か、どうしても「仕掛け先行」という感じが否めなかったし、入り口が狭いので、さっさとその場をどかないと迷惑、という雰囲気だったんですが、こっちは普通のシネコンでロビーが広かったので、久々に「映画館にお客さんが詰め掛けてる感」が堪能できました。おかげで売店が大混雑していて、BB-8のフィギュアつきドリンクカップを注文しようと並んだはいいけど、危うく本編に遅刻しそうになりました(いい大人が何やってんだか…)

都内のはずれのこの劇場には、コスプレをしてくる人もいなかったし、熱狂的なファンが集結してるわけでもなかったけれど、例の「ルーカスフィルム」のロゴが出た途端に、万歳をする人、拍手をする人、口笛を吹く人などお客さん大喜び。打ち解けた楽しい気分で映画が始まりました。そうよ、スター・ウォーズはこうじゃないと…。

肝心の本編のほうですが、試写で見た方から映像が素晴らしかったと聞かされていたとおり(ストーリーは教えてもらえませんでしたよ、もちろん!!)、まずは映像の出来のよさにビックリです。色彩、構図、動きともに完璧で、最近の映画にありがちなCGくささやノッペリした画面などは一切ありません。

色遣いは、定評のあった「オブリビオン」を彷彿とさせるものがありますが、エンドロールを観ていたら、アイスランドやアイルランドでもロケをしたようなので、背景の色の感じが似ているんでしょうね。

動きや構図でいうと、ことに冒頭、画面をどーんと宇宙船が埋める、お約束のシーンがありますが、過去作を踏襲しつつも斬新な構図で、おおっ!!スター・ウォーズの世界に還ってきた!と感激すること請け合いです。

ここ以外にも、乗り物関係は非常にリアルで、自分が操縦しているんじゃないかと錯覚するほど臨場感があります。メカ好きなら心奪われずにはいられないシーンも盛りだくさん。

このSFらしさ満点の映像美だけでも一見の価値ありです。できればぜひ、大きな画面で、そして3Dでご覧になってください!

こっちに向かって飛び出してくるとしか思えないスター・デストロイヤーとか本当に反則ですんで…。

それから、劇場で売ってるパンフは、一見写真ばっかりに見えますが、よく読むと結構細かい設定が拾ってあり、へぇー、こんなことまで細かく決めてあるんだ〜と感動ものなので、お好きな方はぜひどうぞ。

ということで、以下はネタバレです。

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ストーリーや各シーンの骨格は、基本、エピソード4に似ています。

ファースト・オーダーが勢力を広げ、レジスタンスが必死の抵抗を続けている時代。伝説の強いフォースの持ち主、ルーク・スカイウォーカーはなぜか忽然と姿を消し、彼の居場所を記した地図をロア・サン・テッカから受け取るため、レジスタンスのパイロット、ポー・ダメロンは砂漠の惑星・ジャクーの村に向かいます。

しかし、それを察知したファースト・オーダーは村を急襲。ダメロンはドロイドのBB-8に地図のデータを託し、囚われの身となってしまいます。

一方、ジャクーに住む生き物に捕まってしまったBB-8を助けたのは、レイという廃品回収業で糊口をしのいでいるうら若い女性でした。彼女はBB-8をレジスタンスの基地へ届けようとしますが…。

前半部分は、ストーリーの大枠は似ているものの、全くそれを感じさせない新鮮味に溢れています。新悪役、カイロ・レンが、光線銃をフォースで止める描写とか、スター・デストロイヤーの廃墟の中を逃げ惑うミレニアム・ファルコン、ダメロンが脱走兵フィンの手引きでタイファイターに乗り込み、脱出するシーンなど、まるで本当に自分がスター・ウォーズの世界の中にいて目撃しているようなリアル感があります。

新キャラクターのレイやフィンは生き生きとして好感がもてましたし、何と言ってもちょこまか動く茶つぼのようなBB-8の可愛らしさにはぐっと心をつかまれるものがあります(英語のセリフを聞いていると、himとかheとか言われているので、男の子らしい)。

カイロ・レン役のアダム・ドライバーもさすがは役者さん。スクリーンで見ると見栄えがして、なかなか化けますね〜。

レイが座り込むシーン、かぶるヘルメットに見覚えが…!そして、さりげなく画面に映る、ヘルメットに描かれたマークにも注目です。

後半はちょっと前作に似ているところが目立ちすぎて、ややデジャヴ感はあったのですが、それを上回る衝撃的な出来事が次々起こって面白かったです。

全体としてはとても良かったんだけど、これほどエピソード4に似てるのに、エピソード4にあった「静の部分」というか、哲学的な部分が影を潜めてたのは、ちょっと残念でした。

でも、それを補って余りあるド迫力。映画館で早いとこもう一回観よっと...。

さて、以下はストーリーの核心部分なので、これから見に行く方は絶対に読まないようお願いします。

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予告を見ても、何で昔の主要キャストである、ルーク、レイア、ハンソロ、チューバッカ、C3-PO、R2-D2が出てくるのか、さっぱり分からなかった本作ですが、見ればお話の核心は彼らが握っているんですね。

映画の冒頭、文字が流れていく部分のトップに、EPISODE Z と出てきますが、設定を借りただけではなく、因果は脈々と続いていくんですね。

新悪役のカイロ・レン、どうみたってダース・ベイダーのコスプレだろ、ってカッコなのですが、ファーストオーダーの黒幕らしき人物、スノーク最高指導者に、父親と戦うことは一番の試練だ、みたいなこと言われ、あっさりハン・ソロとレイアの息子であることが発覚します。

コイツがグレたおかげでルークは雲隠れし、フォースのバランスはむちゃくちゃになり、ハン・ソロとレイアは別居状態という、大は宇宙の秩序から小は家庭の平穏まで、影響力ハンパないセレブ2世なんですが、お子ちゃまらしく癇癪もちらしいという描写が何度も出てきます。

そんなすごい人にも見えないけどな〜、とマスクの下の弱っちそうな顔を見ると思うのですが(まるで、女みたいな顔を仮面で隠していたという蘭陵王のようです・笑)、祖父がダース・ベイダーと聞けば確かに納得。ご本人は、間にハン・ソロがかんだせいで情けない性格なんだとご不満の様子で、なんと、彼らの本拠地、スター・キラー基地に乗り込んできたハン・ソロと対峙したあげく、十字架型のライト・セイバーで刺し殺してしまうんですね…。

本作でハン・ソロは死ぬんじゃないか、いやいや、彼が出なくなったら続きもつまんないからチューバッカあたりが身代わりに死ぬんじゃないか、など数々のうわさはございましたが、まさか本気で殺るとは。

お年を召したレイア姫(現在は将軍)が、見慣れるうちにだんだん美人に見えてくる(失礼!)ので、ハン・ソロとのやりとりを期待していたこちらにとっては、ちと残念な展開ではあったのですが。

実は、前半部分では、盗まれた(っていうかたぶん借金のカタに差し押さえられた?)ミレニアム・ファルコンを、初見で飛ばしてしまうヒロイン・レイですが、計器類が広い範囲に配置されてて一人じゃ大変、という細かい伏線が張ってあり、ハン・ソロ亡き後は、そこにチューバッカが座って、すごく収まりがよい図になるんです。うぅ、監督、なんて冷酷なの。

とはいえ、父殺しのシーンが入って、一挙にお話はサーガの一員ぽくなってまいります。

ダース・ベーダー越えはムリだって思ってるでしょ、と初対面の女(しかし、過去に何かいきさつがあるらしいことが匂わされている)にズバリ指摘され、ただでさえガラスのハートがグサっと来てるところに、自分が弱い原因だと思いこんでる元凶の父親がノコノコ現れる。そりゃ、思わず刺しますわな。

これでもうカイロ・レンは、この後どんなに強くなろうと、ルークのような形で父を超えることは永遠にできなくなってしまった。実に興味深い展開です。

っていうか、映画の前半3分の2くらいまでは、過去のいきさつを織り交ぜつつも新鮮で、とても面白かったんですよ。「ポンコツでもないよりマシ」(by レイ)、「女は必ずウソに気づく」(by ハン・ソロ ってか、全く…)とか、「逃げようとする男の目だ」(by マズ・カナダ)とか、今後、人口に膾炙しそうな名せりふもたくさん登場したんだけど、終盤に来ると、またかよみたいなストーリー展開とまたかよな構図の連続。

惑星を破壊するスター・キラー基地とか、その対策会議とか、実際の対策法とか、エピソード4そのまんま。
これはちょっといただけませんでしたよ、前半が非常に良かっただけに。

それに、鳴り物入りで登場したキャプテン・ファズマがてんで弱いのにも失望いたしました。あっさりやられキャラだったドゥークー伯爵にもまだ及ばないとは(激怒)

脇キャラの扱いがイマイチなとこまで、前作を踏襲しないでよろしい。

してみると、今回一番新鮮な設定だったのは、ストーム・トルーパーにも中の人がいる、ってあたりでしょうかね。カイロ・レンははなから悪役だし、レイは少し葛藤があるとはいえ、基本は天才だし良い子。

とすると、普通のいい人ではあるものの、危険な場面になると心が揺れ動く凡人の代表としては、ファースト・オーダーに拉致られて、兵士をせざるを得なかったというフィン、ということになるでしょうか。

彼は冒頭の、村人を皆殺しにせよという命令を実行することができず、カイロ・レンに目をつけられてしまう。しかし恐らくそれよりも、村人から反撃された仲間のトルーパーが殺されてしまったことに衝撃を受けたのが、裏切りの最初のきっかけになったのでしょう。その辺も、正義に突き動かされて、というより人間らしいです。

やられ役はあくまでも悪で、観客の良心も痛まずにスカッと爽快、みたいなのではなく、実は正義のレジスタンスに撃たれて地面に転がっている兵士たちも、撃たれれば血を流す人間だったんだ…ということが、強調されないだけに、後でじわじわ来ます。

そもそもこの映画、光の勢力と闇の勢力が戦うのですが、どちらが良いということは、特に言ってない。フォースは宇宙に生きるすべてのものにあり、暗黒面と光の面の両面があるのです。バランスが崩れるということはあるけど、フォースにはどちらの面も存在するのがデフォルト。

だから、悪役って見方は正しくないかも知れないのですが、ともかく、この映画では機械やエイリアンも人間以上に重要な役回りを果たすので、兵士の中身が機械だからとか、エイリアンだからとか、クローンだからということは、決して倒していい理由にはならない。娯楽映画だから、そこを深追いしたりはしないけど、冒頭に敢えてこの描写を持ってくるあたりに、監督や脚本家をはじめ、この映画にかかわったひとの見識を感じます。

しかし、カイロ・レンよ。裏切り者って…
お前が言うな!


さて、もう一方の主人公・レイは、ジャクーで誰かが帰ってくるのをずっと待っているのですが、その願いがかなうことはなく、いつも一人ぼっち。

苦労して集めた廃品で、ようやく得たであろう食事をしながら、壁に刻み付けているしるしは、家族と別れてからの日数なのでしょうか。

親を亡くしたとはいえ、おじ・おばが居てくれたルークや、母のシミと暮らしていたアナキンよりもさらに過酷な運命の元に暮らしていたようです。

それでもグレずに良い子に育ったのに、いったいどういう子育てしたんだ、ハン・ソロとレイアは。

と、この先、2人は全宇宙の皆さんから恨まれる運命なのでしょう(そして、ハン・ソロ亡き後はレイア一人が…って、いや、そういう話じゃなさそうだけど)。

一方、いきなり登場した、チューバッカファンのご老体、マズ・カナダ女史にルーク遺愛(?)のライト・セーバーを渡され、いったんはそれを拒否してしまうレイ。いやにミレニアムファルコンが似合ってたし、強大なフォースの持ち主だし、カイロ・レンと戦う姿が兄妹げんかっぽくて、まさかまた双子?って思ってしまうのですが、果たして彼女は誰の血筋なんでしょうか。レイア?ルーク?いや、アナキンの隠し孫…?(笑)
あるいはアナキンの父に関係ある人…?(もうホビット並みに家系図がさかのぼりすぎて何がなんだか…)

ラストシーンが、断崖絶壁の孤島でルークにライトセーバーを手渡そうとするレイ、という、まさかここで終わりか〜!という、観客の阿鼻叫喚が聞こえるあからさまに途中のシーンなので、謎は次回に持ち越されるのですが、ここは“I'm your father”で全世界を驚かせた前作なみの衝撃を期待したいところですね。

(ちなみに、この幕切れのシーン、空撮の迫力も素晴らしかったし、音楽がめちゃくちゃイイ!
サントラの公式ページで聴けます↓
https://www.youtube.com/watch?v=cUBUlKgsNK8 )

てことで、エピソード8に露骨に続く!

なお、リピート鑑賞のお供に、「最初に出てきたおじいさん、ダレ?」「12パーセクって自慢?」など、素朴な疑問へのミニミニQ&Aつきの記事はこちらへどうぞ。

スター・ウォーズ/フォースの覚醒@ぴあ映画生活
posted by 銀の匙 at 03:44| Comment(2) | TrackBack(0) | 映画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年12月10日

スター・ウォーズ/フォースの覚醒 ジャパンプレミア

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スター・ウォーズの新作が来週公開されるのに先立ち、今日、ジャパンプレミアが開催されました。

すっかり夜の暗さになったころ、正面のスクリーンには、例のSTAR WARSのロゴがど〜んとアップになり、その周りの星をよく見ると、奥に向かって移動しているんですね…この時点でもう意味もなく感激している私。

続いて予告編が流されますが、パソコンの小さな画面で見ていたので、タイファイターやエックスウィングなど、見慣れた飛びものや戦闘シーンなんかの特大スクリーンでの迫力はひとしお。残骸のシーンも感涙ものです。

お約束どおり、ゲストはなかなか時間通りには現れないので、さらにおまけ映像が流れます。メイキングでしたが、これがまた大画面で見るといいんですよね...。ちゃんと作られたセット、ただでさえ大きいのにさらにでっかいチューバッカ(ハグされすぎて衣装(?)がすぐダメになっちゃうらしい)、コクピットなども迫力満点で目に飛び込んできます。

3回ほど繰り返しメイキングを見て、いやぁ飽きないな...と思っていると、ようやく六本木ヒルズのアリーナに沿って作られたレッドカーペットに、監督のJ.J.エイブラムス、ヒロインのレイ役・デイジー、ヒーローのフィン役・ジョン・ボイエガ、カイロ・レン役のアダム・ドライバーが登場。

ひとり登場するたびに、寒空の中、ずっと待たされてたオーケストラの皆さんが、景気よくファンファーレを轟かせる...のですが、なぜか演奏は毎度すぐ終わっちゃいます(もう少し演奏してあげてもよかったんじゃないでしょうか...)。

音楽がなくなると途端になんだか侘しい雰囲気が漂うのですが、ゲストは健気にも、CDのBGMをバックにテレビのインタビューに答えた後、カーペットの脇を埋めたファンと記念撮影に応じたり、サインをしたり、戻ったり、と時間をかけてカーペットを進みます。

自分が立っているところ以外で何が起こっているかはほとんどわかりませんでしたが、正面の大スクリーンにゲストの様子が映されるため、途中からはずっとそれを観ていました。

隙間からみた感じでも、レイ役のデイジー・リドリーが本当にかわいらしく、表情も豊かでステキでした。アダム・ドライバーは悪役だということをときどき忘れちゃうのか、おどけた表情をしてみせたりしてウケていました。

正面に来るとフォトセッションがあり、さらに、中央に高くしつらえられた舞台にせりあがって、会場のフォースを集める(?)というアトラクションが行われます。来場者にはライトセーバーならぬペンライトが配られており、すごいことに、フィンが青のライトセーバーを振るとみんなのライトも連動して青に、カイロ・レンが赤のライトセーバーを振ると赤に変わる、という地味にハイテクな仕組みでお客さんを驚かせていました。

舞台の上には、ゲストのほかに、新型ストームトルーパーの皆さんや、R2-D2,そして新ドロイドのBB-8(ビービーエイト)が登場しました。

R2もいつもどおりの動きで人気者でしたが、会場のどよめきを誘ったのはBB-8。

旧シリーズの次の世代のお話らしいので、科学技術も進んでいるんでしょうが、半球と球の組み合わせで出来たBB-8がコロコロと移動する可愛らしい様子にすっかり魅せられてしまいました。やっぱ買おうかな、リモコンBB-8。ああっ、ダメダメ、フォースの暗黒面に堕ちてはッ!(と意味もなく苦悩してみたり)

最後はレイが日本語で「フォースと共にあらんことを」と祈願して〆ました(日本人でも噛みますよね、このセリフ。よく頑張りました)。

印象的だったのは、落ち着いた感じのファンが多かったことですね。コスプレで来たり、写真をあしらったボードを用意してたりと熱狂的ではありましたが、サインをもらったら皆ちゃんとお礼を言ってたし、自然にニッコリしたりととても感じが良かったです。ゲストや演出について「なんて良い人なの…」とか、「よく出来てるね…」など、好意的なコメントが多かったのも、大人な感じでした。

今回ばかりでなく、毎回、この手のイベントに参加すると思うのですが、ファンサービスとプレス発表を同時にやるというのはあまり得策じゃないんじゃないでしょうか。プレスを優遇しすぎるとファンは見えないし、ファンサービスを主体にすると、記事用の写真は撮りにくいし。

オールドファンが多い映画ならファンは大切にすべきだし、大作ならば宣伝も大事でしょう。
だったら、この手のイベントは一回だけではないらしいので、分けたらよかったのに。

関係者の皆様、どうかご一考ください。

では、12月18日の公開日を楽しみに。
その日風邪を引かないように、May the Force be with you!
posted by 銀の匙 at 23:52| Comment(4) | TrackBack(0) | 映画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年11月22日

ひそひそ星(注意表記以降、ネタバレです)

本日(2015年11月21日)開幕の第16回東京フィルメックスのオープニング。日本の園子温<その しおん>監督の傑作です。

クロージングのジャ・ジャンクー「山河故人」とどちらにするかさんざん悩みました。何しろ、ジャ監督の大、大、大ファンなので...(両方観れば?というご意見は嬉しいですが、時間の都合上、片方しか選べなくて)。

結局、ジャ監督の作品はきっと劇場公開もあるだろうと思ったのと、上映後、園監督によるQ&Aがあると聞いて、こちらにしてみましたが、当日の情報によれば、「ひそひそ星」は2016年5月から、シネマカリテで公開されるそうです...。

「山河故人」も頼みますよ〜! チケット、売り切れたでしょ〜!!!


と、「星に願いを」しておきます.............................。
(追記:お願いが通じたのか、《山河故人》は邦題『山河ノスタルジア』として全国ロードショー中です!
感想は→こちら

さて。

この「ひそひそ星」、冒頭から自主制作映画の雰囲気満載の作品です。

オープニングは、水道の蛇口から、一滴一滴、しずくが落ちてくるシーン。

水曜になり、木曜になり、土曜になり...と日にちが進むにつれて、水をやかんに入れたり、マッチでガスコンロに火をつけ、お湯を沸かしたり、それでお茶を飲んだり。きちんと蛇口は閉めたけど、しばらくすると、また、ぽたん、ぽたんと水が漏れる音が。

ほうきとちりとりでのお掃除、大して幅のない畳の雑巾がけ。

狭い部屋の狭い台所で淡々と繰り返される日常。

この部屋の住人らしい、たった一人の女性が顔をあげると、学校の校内放送用の設備みたいな、古ぼけた機械装置が置かれた前方の窓からは、見渡す限りの星空が広がります。

あどけない子どもの声で、コンピュータが進路を告げます。

そう、ここは大宇宙の真っ只中の、ちっぽけなレンタル宇宙船の船内。

鈴木洋子さんは星々を巡って、人間たちの発送した荷物を届けているのです。

届け先はどこも、荒涼として寂しい惑星ばかり。人類はもはや絶滅の淵にあり、ほとんど見かけることはありません。

10数年もかけて送る荷物の箱を持ち上げてみると、何か軽いものが転がるような音や、粒状のものが移動するような音がします。そっと中を覗くと、そこにはフィルムの断片が入っていたり、たわんだ紙コップが1個入っていたり、使いかけの鉛筆が1本入っていたり…。

瞬間に物質を転送できる装置もあるのに、なぜ時間をかけて宅配便を送ったりするのか。洋子さんには理由が分かりかねています。

人類が固まって居住する惑星では30デシベル以上の音を出すことは禁じられています。音量計をセットして、降り立つ洋子さん。

ひそひそ声で受取人を探してあるきますが、歩く道の両側に人の気配は感じるものの、通路の両側の障子に遮られ、シルエットだけで姿は見えません。ヨーヨー遊びやボール投げ、ピアノを弾く少女、お誕生日のお祝い会、お葬式…進むにつれて、賑やかな、そしてノスタルジックな風景が、走馬灯のように流れていきます。

ついに探し当てた受取人は、荷物の中身を見た途端に、家族と共に泣き崩れているらしいことがシルエットで分かりますが、それは届けた洋子さんの預かり知らぬところ。

離陸する船の中で洋子さんは、前の惑星で受取人のおばあさんから買ったタパコに火を点けて、遠くを見やるのでした。その目には...。

* * *

上映終了後、監督はいくつかの質問に、答えると陳腐になるから言わない、と返事をしたり、感性で撮っているので理詰めでは答えられない、と返事をしたりされていました。確かに、言葉にしたとたんに矮小化したり、ズレてしまったりしそうな繊細なシーンが続く作品です。

なので、できることならぜひ、監督の感性を直接体験していただければと思います。

以下は感想ですが、お話の内容に触れていますので、これからご覧になる方はここまで。
















よろしいでしょうか?

映画の冒頭には協力者への献辞が置かれています。

福島県双葉郡浪江町、
福島県の仮設住宅に居住する方々…。

洋子さんの降り立つ荒涼とした星々は、被災した地域だったのです。
陸に上がった船、破壊された堤防、崩壊したショッピングセンター、雑草の生い茂る街並み。
しかし、廃墟のような、打ち捨てられた光景の中に、ついさっきまで人々が生活していた痕跡が、はっきりと見て取れます。

そうした背景を念頭に映画を観ると、それぞれのシーンが象徴する事象が、痛いほど心に突き刺さってきます。

何年もかけて届く、第三者にはゴミにしか見えない漂流物が思い出の品であったり、昨日まで一緒に暮らしていた人が残したものは写真だけであったり、実感できない線量計の数字が重大な意味を持たされていたり…。

砂浜にぽつんと取り残されたタバコ屋のおばあちゃんが、これまた取り残されたタンスから受け取りのハンコを取り出す。ごくごく日常の動作が行われる、非日常な光景…。

被災地のドキュメンタリーとはまた別の形で、フィクション仕立ては人の心を動かす表現であると思います。
実は、園監督は被災地のドキュメンタリー映画も撮影しており、今回はそのときに協力してくださった方々に出演を依頼したそうです。

しかし。

それでは、このお話は被災を寓話としてセンチメンタルに描いたものなのか、というと、どうもそれだけではないように思います。

続くQ&Aの質問で、私が一番驚いたのは、このお話の脚本も、絵コンテも、1990年にはすでに作られていた、というところでした。予算の関係で実現できず、続く25年間、引っ越しのたびに、段ボールに詰めたこの作品の絵コンテをもって移動していたそうです。

当時は、ロケ地の候補は夢の島だった、とのこと。

なるほど、それで合点がいきました。

ただ、夢の島を背景にしていたら、お話全体が抽象的で、観念的になり過ぎていたことでしょう。

人類が繰り返し行う過ち。
一瞬にして破壊されうる日常というもの。
取り立てて大きなイベントがなくても、それこそつまらない平凡なものにも宿る思い出というもの。
そして、記憶をかけがえのないものと感じ、大切にするという感情。

これらを説得力をもってスクリーンに描きだすことができた事で、同時に、被災地の記憶を強く観る者に引き寄せる事が出来たように思います。

劇中では、ほとんどの音が宇宙空間の静けさとひそひそ声だけ。
画面はモノクロームで、宇宙の闇が大半を支配しています。

だからこそ、蛇口からしたたる水滴や、蛾が立てる羽音、靴にはさまった空き缶の立てる音、地面をこする木の枝の音など、ちょっとした音に敏感になりますし、地上に降りてほんの一瞬、破壊された窓の外に見える、青い海、白い波、見渡す限りの雑草の緑のカラー画面のまぶしさが目に焼き付きます。

このシーンだけには一瞬、音楽も流れ、気持ちが昂るのを感じます。

人間の穏やかな暮らしを破壊しつくした後、自然は残酷なまでに美しくそこにある。

この景色をアンドロイドの洋子さんを通して私たちが見ているのだとしたら、人間の想いを理解できない、とモノローグで語った洋子さんも、実はこの想いを共有しているのでしょう。

物語の中盤、彼女は届け物をした先で、自転車を引く奇妙な人間に出会います。

つぶれた空き缶の音が気に入っているからと、靴に空き缶が挟まったままの男に、飲みに行こうと(どこへ?!)誘われ、また今度的なことを言うと、「早く戻ってきてよ、死んじゃうからさ」と言われて、ナンパから逃げるように宇宙船を離陸させる洋子さん。

子どもみたいな声のコンピューターに「ああいうのがタイプなの?」と言われて表情一つ変えませんが…。続いて起こる一連の出来事が、この指摘は図星だったと暗示しているかのようです(笑)。

彼女は、なぜ人間が時間をかけて、はるかな距離を超えて、彼女にとってはガラクタにしか見えないようなものを送るのか、理解できないと言います。

しかし、彼女自身はなぜか、最新式の設備を積んでいながら内装は限りなくレトロなこの船が気に入ってレンタルしたと言う。

もうその時点で、つまり、宅配を始めた時点で、彼女には時間と距離への感傷、記憶をいとおしむという感情が理解できていたのだと私は思うわけです。

ラストシーン、彼女は宅配用の箱に、つぶれた空き缶を入れてそっと蓋を閉めます。その荷物は、彼女の目に浮かんだ涙と共に、確実に観客の心に届くことでしょう。

ソクーロフに刺激を受けた…と語る監督のお答えを聞きながら、私の脳裏には、四畳半の汚い下宿屋で、大家のばあさんだのカップ麺だの、サルマタケなんて妙なキノコと一緒に暮らしているさえない青年の日常を描いた「男おいどん」というマンガが浮かんでいました。

その衝撃の最終話(正確には外伝)では、主人公の子孫は相変わらず四畳半に住んでいて相変わらずの日常を送っているんだけど、周りは摩天楼に囲まれててそこだけレトロ空間が取り残されているっていう…(!)。ごくごく身の回りのことを描きながら、SFの底力みたいなものを感じさせる作品でした。

園監督は別にSFをすごくやりたくて撮ったわけではないと思いますが、結果として、この作品は、ミニマルでありながら壮大なスケールを持つ、SFマインドにあふれた作品になっていると思います。

いつの時代にも通じる普遍的な物語でありながら、21世紀のいま、日本でなければ撮れなかったであろう傑作です。


2016年5月〜
シネマカリテ(新宿)にて公開予定

そのほかの映画に関するエントリーは→こちらから、
フェイバリット映画100のリストは→こちら です。

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2015年05月02日

神々のたそがれ/アレクセイ・ゲルマン監督作品

*いちおう、ネタバレなんですけど、ストーリーが分かったらつまらないという作品ではないので、ご安心ください。いちおう、結末に当たる部分は分けておきます。

そろそろ上映が終わっちゃう〜と焦ったら、角川シネマ新宿で5月15日までの追加上演が決定したそうですね(ほっ)。

このお話、ロシア映画には珍しく、主人公がセリフで割合はっきりテーマについて語るのですが、それだけに、見終わった後でその意味するところをだらだら だらだらと考えてしまう。

3時間映画を観て、何とか気持ちが落ち着くまでに、その10倍くらい時間がかかる。今もときどき考えてしまうので、100倍くらいかな…ということで、時間が取れるときにご覧になるのをお勧めいたします。

私なんか、観終わったあと熱が出てしまいました。
原題通り、「神さまもつらい」だろうけど、観客もつらいよ。

観終えた直後は結構辟易していたのですが(長いしね)、久しぶりに観ておいて良かったと言える映画でしたので、お時間が取れる方にはぜひとお勧めいたします。ただ、後でも書きますが、もしDVDが出たら、DVDでも観てみたい作品です。

さて。

タルコフスキー監督の映画『ストーカー』、ソクーロフ監督の映画『日陽はしづかに発酵し…』の大・大・大ファンな私は、同じストルガツキー兄弟のSFを原作とした、この『神々のたそがれ』にも大いなる期待を寄せておりました。

あの世界に3時間、さぞや至福の時間だろう…と思ったのですが、観てみたらとにかく徹底的にぐちゃぐちゃ、ねちゃねちゃ、どろどろとして、モノクロの画面には常に雨、血のり、その他言うもはばかる何かが降っており、その時点で、うっ、しまった、同じ原作者で唯一コケた(と私は思ったけどロシアでは大人気だったらしい、)予告だけが面白くて本編はイマイチの『囚われの惑星』の方のパターンか…?と後悔するも、よく考えたら、『ストーカー』だって、画面はいつも何か湿気っぽかったですもんね…。

と気を取り直して、お話を見てみますと、これがロシア映画にしては割合単純。

舞台は、とある惑星。ちょうどルネサンス初期にあたる、まさに文明が花開こうとする直前の状態と見込まれて、地球からは調査団がやってきます。

ところが王都アルカナルでは、そんな期待を裏切るかのように、王権守護大臣、ドン・レバの命令下、知識人や賢者、技術者が連行され、処刑される事態が進行しています。

地球からやってきた調査団の一人、ドン・ルマータは、この奇妙な状況に上手く適応しており、周りからは神の子孫として畏怖され、王国随一の剣士として一目置かれる人物です。彼はドン・レバとそれなりの関係を保つ一方、知識人や技術者を匿ったりもしています。

強靭な肉体と何ものをも怖れない勇気を持つ、まさに神のようなドン・ルマータ。彼は何百人もと決闘して相手を殺さず、ただ相手の耳だけを取った、と言われていました。しかし、その彼が唯一怖れていた事が、ついに起こってしまいます。そして…。

どこか遠い世界から響いてくるような歌声を背景に、スクリーンのこちら側でも感じられる臭気、殺戮と裏切りの凄惨さに満ちた映画ではありますが、1ショット、1ショットの構図や光の完成度が異常なまでに高く、動画と静止画の印象が恐らく全然違う作品なのではないかと思われます。

その意味では、DVDでじっくり観てみたいですね。

観ている間は、どうしても画面の美しさの方よりも凄惨さの方に気を取られてしまいますが、グロテスクな物語と動きを注視しているうちに、意識下に働きかけてくる、美しい音と構図の世界が映画に奥行きを与え、忘れがたい印象を残すのかと思います。

ユーロスペース(渋谷)2Fのユーロライブで観ました。
普段はシアターとして使われています。スクリーンを少し高めの位置に
設定しているので、やや後ろの席の方が見やすいと思います。
音響、観やすさとも大変良い劇場です。

以下は、お話の核心部分に触れておりますので、ストーリーが分かってしまってもよい、という方のみどうぞ。






ソ連時代のSF作品を下敷きにしているということは、この作品の土台は、キャメロン監督の『アバタ―』と同様だ、ということです。

つまり、どこか異世界に舞台を借りて、現実世界を風刺している、ということですね。(『アバタ―』の感想は→こちら

しかも、『アバタ―』はあくまで、観る人にはそう観える、という程度に留めているのに対して、『神々のたそがれ』ではそれを思いっきり分かるようにセリフに出しています。

言論が自由なはずのアメリカの作品では、現実批判が過ぎれば制作会社や観客が離れてしまうからあまり露骨にはできず、ロシア映画ではそうした方が受け入れられやすい、とは皮肉なものです。ま、『アバタ―』の場合には、娯楽作品でテーマを余りあからさまに出すのは品がない、あるいは、観方はあくまで観客に委ねたい、と監督が思ったのかも知れませんけど。

『神々のたそがれ』では、恐らく原作から引き継いだものと思われますが、理不尽な知識人狩りという形で、権力者の暴挙を正面切って批判しています。

それに加えて、結局、権力を打倒してみたところで、次の権力者がそれに取って代わるだけ、というやるせない現実を、ドン・ルマータ自身がセリフで語ります。

彼は、反乱軍の首領であるアラタを匿いますが、権力者に対して暴動を起こそうとするアラタに、「弱い者が団結して強い者を倒しても、弱い者の中で少しはましな者が権力を握り、さらに弱い者を抑圧するだけ」という趣旨のことを言います。

ドン・ルマータの力を借りて反乱を起こそうとしていたアラタは、それを聞いて一計を案じ、ルマータの女を闇討ちする。

それまで相手を殺すことのなかったルマータは、女の死に抑えが利かなくなり、誰か俺を止めてくれ、と言いながら、自分の屋敷に押し寄せる捕縛者たちを虐殺してしまう。

全てが終わってみると、あたりはアラタも含めた死体の山。調査団のメンバーが現れてルマータに地球に帰るよう促しますが、彼は聞かずに、ひとこと、

“Бoг Трудно”(神は つらい)

と言います。

原作のタイトル“Трудно быть богом”(神として在ることは難しい)に呼応するセリフかと思われます。

自分でやっといて、「つらい」は、ないんじゃないの?

…とは思うものの、彼は彼なりに苦悩していました。

高名な知識人、ブタフを何とか探し出し、この問題への答え(常に権力者が弱い者を虐げることへの解決策)を聞くのですが、思ったような返事は返ってきません。ブダフを打ち捨てて、答えも得られないままに、このラストシーンになだれ込むのですが、じゃ、彼はどうすれば良かったのか。

皇帝や貴族の圧政に耐えかねて革命を起こせば、革命政府が庶民を圧迫する。それではと、革命政府を打倒してみれば、マフィアやニューリッチ層が庶民を圧迫する世の中が出現する…そんな現実にいらだち、そして、自らも、現実の前には何の役にも立たない、あるいはもっと状況を悪化させるかもしれない知識人である、作家や監督の苦悩が目に見えるようです。

自分を神の高みに引き上げてしまえばなおのこと、解決からは遠ざかる。

そして月日は経ち、万能の神の位置からも転げ堕ち、衰えたドン・ルマータの前に、残酷ながらも美しい、ロシアの冬を思わせる景色が広がっている。まるで物語は冒頭にもどり、円環が閉じられたように…

観終えて何日も経つのに、何度も振り返って考えてしまう、そんな映画です。

ぴあ映画生活
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2015年04月12日

いつか、また/后会无期(後會無期)ネタバレです

*コメントいただいたので追記しました。
*「蘭陵王」に関する記事は、→こちら からどうぞ。

*朗報 本作で名演技を見せたジャ・ジャンクー監督の映画『山河故人』が『山河ノスタルジア』の邦題で2016年4月23日よりル・シネマを皮切りに全国ロードショー公開されます! 公式HPは→こちら

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(劇場でいただいたポストカードより)

中国の若手小説家、ハン・ハン(韓寒)が脚本、初監督をつとめた2014年の作品。

敬愛するジャ・ジャンクーが出演してるのと、別エントリーでご紹介してますテレビドラマ・「蘭陵王」(→記事はこちら)で主役を演じたウィリアム・フォン(馮紹峰)が出演しているということで観てみました。

全編、苦笑に次ぐ苦笑の連続で、かなり腹筋鍛えられました
(何でみんな笑わないんだろう…。かなりツボったんですけど…)。

笑わせる気は特にないんでしょうけど、エンディングに
「タバコは健康に悪いです」(劇中、ウィリアム・フォンが止まることなく吸っている)とか
「ヘルメットは正しくかぶりましょう」とか、
注意書き(?)の字幕が出るのさえツボに嵌りました。

オフビートというか、分かる人には分かる、という感じの、どこかジム・ジャームッシュ監督の作品を思わせる映画で、いかにもミニシアターで好まれそうな作品なのに、中国では初登場1位、並みいるハリウッド大作を押しのけて、年間興収11位を獲得したらしい。

中国のお客さんもなかなかやるね!ということなのか、あるいは「超弩級」のスターばかりを集めた映画なのでウケたのか…まぁ前者と思っておきましょう。

中国の東の果てのある小さな島で生まれ育ったダメ男3人組。そのうちの1人が西の果ての小学校に転勤することになり、残りの2人が車で赴任先まで送っていく、という顛末を描いたロードムービー。

ウィリアム・フォン(馮紹峰)は、本土で車を衝動買いして島に戻ってきた、元漁師/元タクシー運転手/元警備員のハオ・ハンを演じています。

登場した瞬間から、ダメだこりゃ…と思ってしまうのは、ビジュアルのせいか演技力のおかげなのか理由はあまり追及したくありませんが、とにかく、中国ではよく見かけるタイプのような気がする、ある種の非常に典型的なダメ男のパターンを見事に体現しています。

豪快でこなれたようにふるまいながら、ある意味純朴というか、深いとこまで考えずに痛い目を見るという、観てて気の毒ではありますが、実に興味深い役どころです。

しかし残念ながら、ウィリアム・フォンはどうも今ひとつハオ・ハンのキャラクターを掘り下げきれなかったみたいに感じました。元々キャラクターが合ってなかったのか、造形に無理があったか、何ともいえませんが、彼はハオ・ハンにはなりきれてなかったと私は思う。

その点、上には上がいるといいますか、共演者のチェン・ボーリン(陳柏霖)に勝ちを譲った感じでしたね…ま、こちらの方が恐らく主役なので、比較してもしょうがないのかもしれませんが。

彼の役は、ダメというより、いかにも「うだつが上がらない」という感じの小学校教諭、ジャン・ホー。

ハオ・ハンは、彼のことをよく分かってると思い込んでいたみたいですが、一見情けなくみえて、ジャン・ホーには芯の強いところがあり、旅が進むにつれて、豪快に見えて内面がもろいハオ・ハンと、だんだん立場が逆転してきます。そのあたりのバランスの妙もなかなか面白い。

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(劇場でいただいたポストカードより)

ハオ・ハンには長いこと文通している女性がおり、旅の途中でわざわざ彼女に会いに行きます。例によって、いかにももう相手は自分のもののような強気な態度なのですが、そこでとんでもない事がわかる。

彼はずっと父親が台風のなか漁に出て遭難したと思い、英雄視していたのですが、なんとそう見せかけて、父親は別の土地にいた女と娘の元へ舞い戻り、かといって息子の事も気になって、娘に文通させて様子をうかがっていたらしい。しかも、その後、酔ったあげくの寝タバコによる火事で亡くなる、というオマケまでついており、ハオ・ハンは何ともバツの悪い思いをさせられることになる。

物語も終盤になって、ハオ・ハンとジャン・ホーは、ヒッチハイクで拾った男に騙されて車を乗り逃げされてしまう。ハオ・ハンはあいつの話は全部作り話だと怒り狂いますが、ジャン・ホーは、あいつの話にだって真実はある、と言う。

実際のところ、ハオ・ハンはどこに行っても自分を助けてくれる友達がいる、みたいな大きな事を言い、文通相手の事もいかにも自信ありげに話すけれど、自分が拾った犬さえついてきてくれないし、文通相手だってあんな有様。

ついには、彼のほぼ唯一の長所だった楽天的なところも、「楽天的というのは、物事を考えずに適当にごまかしてるということ」だと勝手に悟ってしまい、犬をジャン・ホーに譲るときも、犬が生涯の友達になってくれる、みたいな感動的な事を言ってみたにも関わらず、、ジャン・ホーに「犬の寿命はせいぜい十数年だ」と冷静に返されると、「人の絆よりは長い」と言い放ってしまう(そして、お互い犬を譲り合ったあげく、犬について行く人を選ばせたところ、さんざん世話をしたハオ・ハンにではなく、ジャン・ホーについていってしまうというトホホな結末に…)。

つまりは、本人が本当だと思っていた話も、なぜか思っていた方向とは違う、皮肉な方へ、皮肉な方へと流れていってしまう訳です。真実ではないのだから、じゃあハオ・ハンは嘘つきなのかというと、もちろん、そういう事でもない。

衝動買いって言ったって、いきなり高価な(ですよね?)フォルクスワーゲンを買うなんて、ハオ・ハンはまさか本土で危ない仕事でもしてたんじゃ…とか、国境付近で車を盗まれちゃって、あのあとお互いどうやって目的地に着いたんだろう(あるいは着かなかったんだろう)とか、いろいろ不思議に思う箇所があるのに、その辺のエピソードは全く回収されず、っていうか何事もさらさら回収する気さえなさげで、脚本自体が「なるようになるさ」的な雰囲気を醸し出しています。

しかしもちろん、この映画の魅力は「なるようになるさ」ってなところではありません。

むしろ、この映画の妙味は、いかにも気の利いたセリフを散りばめてみました、みたいなところが鼻につく脚本で観客を幻惑しながらも、話をロードムービーにありがちな、友情賛歌にも人間賛歌にも主人公の成長物語にも持ち込まず、「もうきっと会わないでしょう」というタイトルに象徴される、どこか突き放した、後は自分で考えといて、とでも言わんばかりのところにあるんじゃないでしょうか。

別れたあとには、一期一会でもう会わないかも知れないし、また会うかもしれない。

私の大好きなジャ・ジャンクーの映画のテイストに近いものがあり、ロケット打ち上げのシーンみたいな、オマージュ的なシーンとか第一、ジャ・ジャンクーその人が出てきちゃったり、するのですが(短い出番ではありましたが、はっきり言って、彼が一番、この映画の雰囲気に合ってたし、演技も一番上手かったんじゃないかと思う)、もう少し全体がくっきりしたトーンで出来ているのが、今風な感じがします。

予定調和で終わったかに見せて、何気なく付け足したラストシーンも秀逸。

こんな俳句みたいな映画、よくぞ作ったものです。

いや、参りました。

* * *
以下は、コメントへのお答えからの追記です。映画終盤の内容について触れています。
ちなみに、映画に出てきた子犬(マダガスカル)との後日譚については→こちらの記事の中のインタビューをどうぞ
*

この映画のラストシーンは、ハオ・ハンが車を運転しながら、ジャン・ホーに向かって自分では気が利いてると思う一言を話すシーン。で、その直前のシーンは、ジャン・ホーが島に戻ったときの船内のシーンです。

数年後のジャン・ホーが出てきた時点で、ここからラストシーンになるんだろうなと思っていたので、ひょっとしたらひょっこりジャン・ホー以外の誰かが再登場するのではないかと思い、目を皿のようにして見ておりました。

でも、お話の流れとしては、あそこでハオ・ハンが出ないのが正しいですよね。画面にも実際、出てこなかったと思います。

ただ、1つ面白い説があって、それは、もともとの台本では、船内のテレビ画面にジョー・チェン演じる周沫が大スターになって映ったあとその上に、「国境付近で麻薬シンジケート「青蛙」逮捕。麻薬王は逃亡中」という文字ニュースが流れる予定だった、というものです。

なるほどと思う一方、そうやって決着をつけちゃうと、余韻がないなぁ、とも思います。

ハオ・ハンはどうなったか分からない。ただ、私たちの知っている、ムダに強気でハオ・ハンらしい回想で終わる、車内でのラストシーン、私はとても好きですね。

* * *
公式サイトは→こちら
ぴあ http://cinema.pia.co.jp/title/167328/

シネマート新宿でみました。
上映は2016年4月17日まで。大阪でも上映中です。
そのあと、愛知、福岡など全国数か所で上映があります。

そのほかの映画に関するエントリーは→こちらから、
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2015年03月14日

イミテーション・ゲーム(表示以降、ネタバレです)

s-イミテーションゲーム.jpg
↑観に行った映画館で、公開記念としていただいたポストカードから

(ネタバレ表示以降は、映画後半の内容に触れています)

アラン・チューリングを知ったのは映画『ブレード・ランナー』でだったかと思います。まさに、今回のこの映画のタイトルの指す内容が関係しており、とても興味を惹かれたのを覚えています。

彼が亡くなったときに、そばにかじりかけのリンゴが落ちていたので、アップルコンピューターはこの「人工知能の父」に敬意を表し、かじりかけのリンゴを会社のロゴマークにしたという話も聞きました(定説は「かじる」と単位「バイト」のシャレってことらしいですが)。

2012年は彼の生誕100年ということで雑誌『数学セミナー』でも特集が組まれたりして、(わたし的には)かなり盛り上がっておりました。

で、今回の映画は彼の自伝的な話だと聞き、かなり期待して観に行きました。

物語の舞台は、1950年代のイギリス。ケンブリッジの数学者、アラン・チューリングの家に泥棒が入ったとの隣人からの通報を捜査していた警察は、被害者であるはずのチューリングの非協力的な態度に疑問を抱きます。調査を進めるうち、彼らは、チューリングが戦時中に何らかの機密にかかわっていたこと、その記録が完全に抹消されていること、そして全く予想外の罪状に行き当たります。

第二次世界大戦中のイギリス。交戦相手のドイツは、AMラジオで簡単に傍受できる暗号(と暗号機)・エニグマを使って、神出鬼没の攻撃を行っていました。

ケンブリッジ大学のフェロー、数学者のアラン・チューリングは暗号解読のチームに加わり、エニグマの暗号を解読する機械の設計を始めます。しかし、資金不足や周囲の無理解、チューリング自身の人好きのしない性格などが災いして、解読までの道のりは困難を極めました。

彼を採用した軍部、そして同僚の解読チームからも孤立し、スパイの疑いまで掛けられたチューリングでしたが、その数学の才能を見込んで新たに採用した才媛・ジョーンの助けもあり、何とか作業を続けられることに。

しかし、ようやく完成し、チューリングが「クリストファー」と呼んだその機械によって暗号が解読されると、解読チームには新たなる試練が降りかかります。それは、解読成功を悟られないため、敵であるドイツはもちろん、自国をも欺き、助かるはずの人命も犠牲にしなければならないというジレンマでした...。

ミステリーというほどの謎解きはないんですが、脚本が良くできてたし、それ以上に、彼の生涯を知らない場合、事実自体が結構驚きの展開かも知れません。軍事機密にかかわったばかりに陥った、ジョーンとの理不尽で切ない関係は女性のお客さんにアピールしそうですね…。

池袋HUMAXシネマズのスクリーン2で見ました。
スクリーンが高い位置にあるため、後ろの方が見やすいです。

席のことはともかく、収容人数が多い割にアクセス方法は2基のエレベーターしかなく、エレベーター待ちの人が外の歩道へあふれてしまい、何かあったらパニックになりそうで怖い劇場でした。開演ギリギリになって階段を開放したので何とか間に合いましたが、この状況が改善されない限り、できればもう行きたくありません…。

作品紹介ページ http://cinema.pia.co.jp/title/164839/

ということで、ミステリーというよりヒューマンドラマとして及第点だったこの作品、欲を言えば…

(以下、作品の後半内容に触れています)
(当初、折りたたんで表示していたのですが、リーダーだと読めないそうなので、スペースをあけて下に続きます)



(以下、ネタバレです)





アラン・チューリングが生きた時代、イギリスでは同性愛が違法とされていたそうです。冒頭の捜査のシーンは、実はチューリングがかかわった男娼が泥棒の手引きをしたことが、そもそもの発端でした。この事件で同性愛者ということが露見したチューリングも逮捕、ホルモン療法により「矯正」され、結局、青酸化合物による自殺で亡くなったとされています。

映画のエンディングでは、彼の名誉回復について紹介され、自伝としては文句ない仕上がりだったんですが、私としては、よし、ここから盛り上がるぞ!と思った部分があっさり終わっちゃったのが、ちょっと残念でした。

この映画のほとんどの部分はエニグマの暗号を巡ってのドラマで、仲間との諍いや和解であるとか、暗号の解読後、それを悟られないために、神ならぬ身で「命の選別」をしなければならない葛藤だとか、ジョーンに危険が及ばないよう遠ざけたはずが、誤解された上に彼女自身はチームに残るという全然意味のない展開になってしまったこと(しかし、恐らく彼女はそれでも、最後まで彼の最大の理解者だったのが救いといえば救いでした)、などなど、確かに興味深くはあります。

だけど、チューリングの最大の功績は別にエニグマを解読したことじゃないですよね…。

劇中、いみじくもカンバーバッチ演じるチューリングが、「あんたたちには理解できない」と、彼がしようとしていることを邪魔立てする人々を切って捨ててます。

映画ではそれは暗号を解読する機械の意義を理解してない、ということなんだと思いますが、実際に彼の考えたものは、単に暗号を解読するだけのものではなかった。彼は、まだコンピュータが発明される前だというのに、思考する機械、つまり、AI(人工知能)のことを考えていたわけです。

今ようやく、プロ棋士を負かすような人工知能のプログラムができてきたところですから、ずいぶん時代を先取りしていたことになります。

この映画のタイトルになった「イミテーション・ゲーム」には、映画の中では、諜報部が行った虚虚実実の駆け引きであるとか、チューリングが同性愛者であるという秘密を隠すために取った行動(収監されれば研究が続けられなくなってしまうので)であるとか、ジョーンにわざと自分を誤解させるようなことを言ったりとか、ということが含まれているんでしょう。

しかし、元々はチューリング・テスト、つまり、機械に人間とそっくりの返答を返させて、質問者に相手は人間だと思い込ませる、という模倣ゲームを指しています。人間と思わせることができれば、その機械は思考する、知性があるという事ができる。

きわめて単純明快に示された命題ですが、この問いを見ればすぐに、知性とは何か、思考するのが人間(あるいは生き物)だとしたら、では、人間(生き物)とは何か、と考えざるを得ません。

人間と機械の差はあるのか、あるとしたら何なのか…。その問いは映画『ブレードランナー』(と、その原作であるP.K.ディック作の『アンドロイドは電気羊の夢を見るか』)に接続しています。

人類の代わりに危険な作業を行う業を背負ったレプリカント(人造人間)たち。彼らはあまりにも人間にそっくりで、感情移入の度合いのテストをしてもほとんど見分けがつかない。植えつけられた偽の記憶を自分の過去と思い込み、死を恐れ、恋をする。彼らを処刑するために送り込まれた捜査官さえ、相手が、そして自分が人間なのかレプリカントなのか分からなくなってゆく…『ブレードランナー』で描かれたのはそんな情景でした。

数学上の貢献は映画では分かりにくいから触れなかったにしても、人工知能の方を出さずに暗号解読の方ばかりクローズアップされると、チューリングならずとも、何も理解ってない…となじってしまいそう。

親友クリストファーの死、自身の愛情の傾向、婚約者との別れと彼の研究テーマには、きっとリンクするところがあったに違いないのに。

人とは違うということを生涯意識させられたチューリング。一方で、同じことができれば、男女の隔てを気にしなかったらしいチューリング。セリフの中でも、これらのことが織り込まれていたし、せっかく取り調べのシーンで良いところまで行ったのに、実に惜しかった…。

感情移入できないのが機械なら、感情移入に乏しいチューリングは人間じゃないのか? いや、もちろんそんなことはありません。しかし、彼には「思考」こそが重要だった。いつかは「思考」する機械が出来ると彼は確信していた。「思考」するということに、すぐに「感情」の要素を絡めてしまう、他の人々にはできない発想だった。それはもしかしたら、彼が自分が感情移入に乏しいということを自覚させられた上で考え付いたことかもしれないし、そうじゃないかも知れない。

映画の取り調べシーンでは、彼は自分が人間らしいかどうかにこだわっているような感じに描写されていたけれど、実際はどうだったのでしょう。彼にとって、「人間らしい」ことは問題だったのでしょうか。そもそも「人間らしい」とは何なんでしょうか。

次にチューリングの生涯を映画化するなら、ぜひそのあたり、ご一考ください!

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2014年12月12日

チェイス!(表記以降、ネタバレ注意)

インド映画はスターが出てなんぼ、という話を聞きましたが、この映画はまさにそれ。

主役でもないのに、大スター様=アーミル・カーンが座布団総ざらえして、風のように去っていきました。
さすが「Mr.パーフェクト」と呼ばれるだけはある(唖然)

劇中、アーミル率いる「インド大サーカス」のオーディションに現れたヒロインは、5分の間、審査するアーミルが一度でも目をそらしたら不合格、と言い渡されるのですが、この映画、150分の上映時間中、1秒たりとも目が離せませんでした。合格!合格です!

アメリカはシカゴの街で興行する「インド大サーカス」。しかし、銀行から融資が受けられなくなり、団長は自殺、残された息子・サーヒル(アーミル・カーン)は復讐の想いを胸にシカゴに戻ってきます。父の跡を受け継ぎ、「インド大サーカス」を復活させる一方、父を破滅に追いやった銀行を襲い、信用を墜して廃業に追い込もうと画策します。

犯行現場に残された声明から、犯人がインドにかかわる人物とみなされ、インドから腕利きの刑事ジャイ(アビシェーク・バッチャン)とそのパートナー、アリー(ウダイ・チョープラー)が呼ばれ、犯人解明へと動き始めますが…。

陸、河、空(!)と縦横無尽にシカゴの街をかけめぐるバイクバトル、シルク・ドゥ・ソレイユばりの、芸術的でゴージャスなサーカスシーン、サーヒルと家族の絆など見どころ満載。インド映画にはお約束の歌とダンスのシーンもありますが、サーカスのシーンに組み込まれているので、すんなりお話に溶け込んでいます。

そして何と言っても見どころはアーミル・カーン。刑事役のバッチャン(←主役はこっち)がデカいのか、アーミルが小柄なのか分かりませんがかなり身長差があるのに、向かい合っても全然負けてないのが凄すぎる。耳の形も面白いし。

しかしながら、私のハートをわしづかみにしたのはスター様ではなく、根拠レスな自信家で、見た目ニンジャ・タートルズそのもののアリー様。

女にだらしなく、言う事だけはオレ様なビッグマウス野郎かと思ったら、音でバイクの種類を当てる(結局ヲタク好きだってこと?)だけでなく、A級バイク乗りであることが判明。このギャップがたまりません!

子ども時代のサーヒルを演じた子役の男の子や、サーヒル・パパ、ヒロインのアーリアもとても魅力的。

お話の方も、大胆なサーヒルの智謀や、死をも欺くトリック、バッチャンとの頭脳戦など鮮やかなストーリー運びで飽きさせません。

しいて難を言えば、全体的に上品で、インド映画らしい「ありえね〜!」感に欠けてたところでしょうかね…。でもでも、男性が観ても女性が観ても面白い映画だと思うので、ぜひ冬休みにご覧になってください。おススメいたします。

以下はストーリーのネタバレになりますので、未見の方はご注意ください。

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では続きをどうぞ

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2014年10月25日

息もできないほど/我想和你好好的(ネタバレです)

中国映画週間2014で見ました。李蔚然(リー・ウェイラン)監督作品。

実は、全く違う映画を観る予定だったのですが、手違いで入れなくなってしまい、代わりに取ってもらいました。お礼に感想を書いておきます。全然見る予定がなかったので事前に話さえ知らなかったのですが、とても面白かったし、良い映画でした。

今週はウィリアム・フォン強化週間なのか、アン・ホイ監督の《黄金時代》(→感想はこちら)と併せて2本も主演映画を観ちゃいました。それだけたくさん映画に出てるってことか、人気があるってことか…。


以下、結末までのあらすじを書いていますのでご注意ください。




お話の舞台は現代の北京。

停まってる車にいきなり乗りこんできて「出してよ」と命令する女。運転席にいた男は「オレは運転手かよ」と怒っているのですが、「車を壊されたくなかったら出すな」という男が現れるにいたって、いきなりカーチェイスが始まります。何とか振り切って車を止めた途端、女は礼も言わず、至極当然のごとく車を降りて、タクシーに乗って去ってしまう。

何だこりゃ。

すると今回はウィリアム・フォンは運転手の役なのか…?あるいはあの女の子のアッシー君(古いですね)なのかしら、と思っていると、次のシーンではスタジオみたいなところにいて、広告の撮影を見学している。じゃ、撮影助手の役なの…?でも、特に仕事らしいことはしてないし…。

で、その広告に出てた女の子を「送っていって」と言われて、初めて昨日の女の子だと気づく。ってことはあの子は彼女でもなんでもなかった(面識さえなかった)ってことか。まさか後で女の子に指摘された通り、“骗子”(詐欺師)の役…?

と、最初のうち、何だか話がよく呑み込めなかったのですが、だんだん分かってきたのは、彼(蒋亮亮 ジャン リャンリャン)は広告会社に勤めるしがないコピーライターで、女の子(喵喵 ミャオミャオ)はブレイク寸前の女優さんらしいということ。

送って行った帰りにミャオミャオとご飯を食べて、そのお姉さんが出てるお店で“灰姑娘”(シンデレラ)とかいう出来損ないのフォークソングみたいな歌を歌わされたりして、すっかり気に入られたらしい。

北京で流行の最先端っていうと、オシャレでこういう感じなんだな〜と、あか抜けてない頃が好きだった者にはちょいと寂しさも感じられますが、映像も部屋の中など、わざとフラットに撮ったり、街中の景色を最近流行りのミニチュア風に撮ったりして、とても洗練された感じです。

ついでに言うと、エンドロールを見ると提携先としてネット企業がずらりとならんでいたり、タイアップと称してノキアと組んでたり(なので、劇中の携帯は呼び出し音もノキア)、パソコンの中の画像が提携先のフィギュアだったりと、よくも悪くも広告畑出身の監督さんらしいメディア戦略も垣間見え、そのあたりも現代的だなと思ってしまいました。

さて、亮亮がちょうど引っ越そうとしていたところに、手伝いを買って出て、荷物と一緒にそのまま新居に来てしまった喵喵。なんだかいい雰囲気になったところで、いきなり元カノ、梅梅(メイメイ)が現れ、自分の置いて行った弦(彼女は古典音楽家)を探そうと、引っ越し荷物の山を漁り始めます。慌てるでもなく、のほほんと応対する亮亮。これまで付き合ってきた女の子の名前を並べ立てた挙句、自分は“不主动、不拒绝、不负责”(誘わない、拒まない、責任は取らない)って主義だとのたまう。

結局、二人はなし崩し的に同棲を始め、よくもこんな男の元に留まろうと思ったもんだ...と呆れたのもつかの間、喵喵の方も人の事は言えない行状で、まあ、ある意味お似合いのカップルではあります。

ところが、喵喵の方はかなり本気になってしまう。亮亮は、(彼のできる範囲内で)誠実に対応はしてるのですが、元カノとの関係もゆるいし、良く言えば女の子に優しいので、喵喵はだんだん不安にかられるようになり、携帯の履歴をみたり、元カノの写真を燃やしたり、だんだん常軌を逸してくる。

さすがの亮亮もキレてしまい、大家さんの前で大ゲンカをして飛び出し、下まで降りたところで喵喵から電話が来る。上を見て、と言われて振り向くと、18階の部屋から今にも飛び降りそうな彼女が見える。慌てた亮亮は電話口で説得しながら階段を駆け上がってるのですが、最後には毛沢東まで持ち出して忠誠を誓わされる、ここの対話が笑えます。

しかし、勝利を収めた喵喵のエキセントリックな行動はますますエスカレートする一方。彼女がテレビドラマのロケで3か月留守にすることになると(字幕では出てなかったけど“横店”に行く、と言ってましたね。そこは日本でいえば太秦の撮影所みたいなところで巨大なロケ地。《蘭陵王》もそこでロケしたそうです)、亮亮は空港で「旧正月には両親に合わせよう」とか言い出したりして、心のこもったお見送り。しかし彼女が出かけた途端、笑顔満開で同僚とクラブへ繰り出し、自由を満喫…しようとしたら、そこへ喵喵からの電話が…。

家にいるという嘘はもちろん見破られ、次の日帰宅すると、なんと家には喵喵の姿が。彼女の束縛はだんだんきつくなり、カードの残高を調べられたり、家には隠しカメラを仕掛けられていると知って、亮亮は「お前は頭がおかしい!」と言い捨て、今度こそ飛び出してしまいます。

追いかけてきた彼女に、上着は私が買ってあげたものよ、と言われれば上着を脱ぎ捨て、ズボンも私が買ってあげたと言われてズボンも脱ぎ捨てて逃げる亮亮が哀れ…もうこうなると自業自得とかって言ったらカワイそう。

ランニングとパンツ姿でタクシーに乗り込み、タクシーの運転手に「お客さん…行動芸術(パフォーマンス・アート)かい?」って言われるのがまた笑える(中国では“行動芸術”と称してストリーキングが流行ってるらしいので…)けど、本人はそれどこじゃありません。

同僚に頼んで逃げ込んだ先にも、結局喵喵が現れ、もはやホラーの域に達したところで、彼女は言います。「別れるから最後に送って行って」
そして二人は最初会ったときと同じように、無言で車に乗る…。
  *
車を壊され、冒頭から放送禁止用語を叫びまくる亮亮に、いったい中国の映倫ってナニを検閲してるんだろうと驚きを禁じ得ないこの映画、ウィリアム・フォンが嫉妬に狂った女に悩まされる不実な男の役を演じてるのを2本続けて見たことになるんですが、いったい何の意図が? いかにもそういうことしそう、という理由で決めたキャスティングなのでしょうか(謎)。

ていうか、中国の女の人ってこういう人が多いのか?

でも、多かったら映画にはならないでしょうから、それほどでもないんでしょうけど(と思いたい)。

倪妮(ニー・ニー)演じる喵喵は金持ちのぼんぼんに、オレに囲われないか?と持ちかけられて断ってますが、そういうのはイヤだと思ってるくせに、自分の方は実質上、亮亮を囲っ(“包养”)てて、相手もそれがイヤだということがどうしても分からないらしい。

原タイトル(《我想和你好好的》)通り、せっかく、お互い相手に良くしようと思っているのに、手にしたものを失いたくないあまりに、却って失ってしまう愚かな女の役、一歩間違えばただの怖いひとで終わりそうなところ、女王様然とした態度の裏に純情可憐な心を秘めた、倪妮のツンデレ演技が光っております。

亮亮の方も彼女が好きで、合わせようといろいろ努力はするものの、手を洗えだのなんだの、あれこれ指図されて反抗したくなる気持ち、分かるなぁ〜。

終盤では、“一点儿自由都没有”ちょっとの自由さえない、“像个囚犯”囚人みたいだ、と思ってしまう。もうこれはラブストーリーとかっていうより、尊厳を懸けた人間の戦いの様相を呈しております。

邦題の『息もできないほど』は「息もできないほど」愛してるのかと思わせて(喵喵の方は、あるいはそうかも)、「息もできないほど」束縛されてるという意味だったとは、なかなかやりますね。

亮亮は玄関先でやいのやいの言われ、ガラス瓶を自分の頭で叩き割って出勤してしまい(ドリフかよ…。これよく時代劇とかで、失敗した人がわざと自分を殴ったりするのに似てる)、プレゼンの時に頭から血を流してるのに気付いたときの茫然とした表情は、実に忘れがたいものがあります。

ちなみにこのプレゼン、コピー案から推すと“中国移動”(チャイナモバイル)の広告だったみたいですね。プレゼンが行き詰まり、代案を出せと言われて亮亮はノートに、“我能!”(オレならヤれる!)ってヘタウマ(?)なでっかい字で書いてますが、喵喵のために書いた手書きのお手紙とはだいぶ筆跡が違うような…。

亮亮は、不安がる喵喵に子どもを作ろうと提案し、「良いママになる自信がない」と言われると、じゃあ歳を取ったら誰が面倒みてくれるんだ、と聞く。“我伺候你”(私がお世話をするわ;かなり「かしずく」に近いニュアンス)と言われると、“那你先死了呢”(君が先に死んだらどうするんだ)…この問いへの答えが「毒殺するわ」なのが笑えるんですけど、その辺にいくらでもいそうな、こんなどうしようもないくらい普通の(情けない)男(そして、やっぱり劇中でお料理したりしている)の役に、ウィリアム・フォンは本当にピッタリです。

一つだけ言わせていただくと、オフィス勤めであろうコピーライターのくせに、ずいぶん日焼けしてるのが気になるんですが、広告をロケして撮ってるからかな。あと、最初から最後までものすごく眠そうで、働き過ぎじゃないかと、ちょっと心配です。会社勤めも大変ですね、どうかご自愛ください!

*ちなみに、ウィリアム・フォンさんへのインタビュー番組は、テレビドラマ「蘭陵王」を1話ずつ楽しむ記事→こちら で途切れ途切れにご紹介しております。この「息もできないほど」製作中のエピソードは第11話の記事→こちら に登場します。よろしければどうぞご覧ください。 


プリンスシネマ シアター1で見ました。
こじんまりしてますが、とてもいいシートです。
見やすい席は、D、E列あたり。
posted by 銀の匙 at 09:34| Comment(4) | TrackBack(0) | 映画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

黄金時代 The Golden Era/アン・ホイ(ストーリーの内容に触れています)

感想を書くと約束したので、ちょっと「蘭陵王」はお休みして映画の話題を…(ウィリアム・フォンが出てるので、関係はあるといえばある)

香港の女性監督、許鞍華(アン・ホイ)の作品。六本木で行われた東京国際映画祭で見ました。

1930年代に活躍し、31歳で夭折した女性作家・蕭紅(シャオホン)の生涯を描いた作品です。

アン・ホイの作品を見たのは《客途秋恨》以来、2作目なんですが、ザ・文芸作品な感じといい、全体に歯切れが悪くてもやもやしてるところといい、観終わった感じが良く似ています。(《客…》は70年代の大分を舞台にした映画なんですが、いちばん心に残ったのは、どてっ腹にでかでかと「JR」と書かれた列車が通過するシーンでした...トホホ)

映画は、いきなり、死んだ蕭紅がこちらを向いてモノローグをしゃべるシーンから始まります。いかにも作家らしい、常人にはない雰囲気。演じる湯唯(タン・ウェイ)の人物造形は実に見事です。

舞台は彼女の幼年時代の回想へ、そして酷薄な父の元を離れ、ハルビンの街へと舞台を移していきます。蕭紅は、決められた結婚を振り切って弟や家族をどん底に追いやり、自らは捨てた婚約者を頼るという、腺病質の割に、やることが大胆な人。でも映画では薄幸そうなビジュアルのおかげか、恋多き女でも悪女みたいでもなく、どちらかというと、むしろ成り行き任せな印象を受けます。

当時、結婚は親同士が決めるもので、当人たちの意思は全く尊重されませんでした。その時代の、革命に身を投じた人たちの話を読んでいると、ひょっとして自由恋愛したいがために革命に参加したんじゃないかと思われる人もちらほらと…。

さて、頼った相手が蒸発してしまい、宿代が払えずに閉じ込められた彼女の元へ、作品を読んでその才能を見込んだ作家、蕭軍(シャオジュン)が訪ねてきます。その後、二人は、“二蕭”と称され、作家カップルとして知られる存在になるのですが…。

日中戦争の戦火の迫る中、ハルビンから青島へ、そして上海、重慶、延安へと、流浪の人生を送る蕭紅。彼女を取り巻く、魯迅、丁玲、端木ら、近代の詩人や作家たちは、皆、劇中、突然カメラを向き(かなりドキッとするのですが)、まるでインタビューに答えるように蕭紅について語ります。

一人の作家の伝記でありながら、こうした体裁をとることで、映画全体が作り物めいて、切れ切れに寸断された印象を受けます。また、租界―中国でありながら外国が「借りている」(実際には「占領」しているのですが)場所―の建物内のシーンが多いのも、中国の中なのに異国のような、どことなく現実ばなれした感じを受けます。

なので、この作品はドキュメンタリー的に撮ろうとしたというよりは、蕭紅の意識の流れを映像化したというのに近いと思われます。画面がとても綺麗なので飽きずに見られるものの、観客を何とか突き放そうとする映画を3時間は、なかなか辛いものがございました。ただ、その距離感こそが、この映画の評価すべき点の一つでしょう。

さて、主要な登場人物がカメラに向かって訥々と語る中、最も重要な人物であるにも関わらず、そういうシーンが一切ない不実な男、蕭軍。蕭紅の才能に惹かれたくせに、彼女の方が才能が上だと周りに言われると、浮気はするわ、女は殴るわ、カメラの方を向くのは、浮気してるときと魯迅先生に手を振ってるときだけという、ロクでもない男(なんか、この人こういう役多くないですか?)。

もちろん、蕭紅が好きになるほどの人なので、素敵なところもいろいろあるんですけど、自分で軍隊に入ったりして、どちらかといえば武闘派というか、けっこう粗暴なところもある、いわゆる“東北大男子漢”だったらしい。映画の青年っぽいビジュアルは、ひょっとしたら蕭紅の心の中の姿を映像化したのかも…(笑)。

演じる奇跡の40歳(←四捨五入しちゃダメダメ)、ウィリアム・フォン(馮紹峰)は、やればできるじゃん、ちゃんと北方訛りでしゃべってはいるのですが、何かどこか東北男子の感じがしないのは、なぜなんでしょう…。声が細いせいですかね…? コーヒーの飲み方とか、物の食べ方とかで東北の人らしさを出して頑張ってはいるんですが、女を殴ったら返り討ちに遭いそうだからか、曰く言い難い微妙な間違い感が…。

蕭軍はゲリラ戦に参加するためにいったん蕭紅と別れ、のちに西安で再会します。ところがそこで、二人は永遠に別れてしまう。別れる間際、蕭紅と、彼女を気遣う端木、いきなり現れた蕭軍の三人で、おそらく第三者の目からは相当な修羅場が展開されているはずが、蕭紅の目から見ているせいか、蕭軍のやることがどことなく間が抜けて、可愛らしい感じさえします。

ここは、蕭軍と端木、それぞれが遺した記録を基に、二通りの成り行きを続けて再現していて、蕭軍は別れ話を聞いたとたんに、ものすごい勢いで顔を洗って、いきなりかなだらいの水を被ってみたり、かと思うと、端木の回想通り、二人の前で、誰かを殴り殺しそうな勢いなのに、置いてあったアコーディオンをいきなり取り上げて弾いてみたり、実験的なシーンで面白かったです。

蕭紅の作品は、他の同時代の作家たちと違って時局と一線を画していたため、発表当時は広く受け入れられたわけではなかったようですが、後世高く評価されています。その辺の微妙なニュアンスを映画化できたのも、香港出身のアン・ホイ監督ならではなのかも知れません。

ついでにいうと、魯迅や蕭紅は日本とも縁があり、映画でも中国専門書の内山書店が出てきたり、神保町が出てきたり、夏目漱石の話題や日本人作家の訪問シーンがあったり、蕭紅は日本留学時代を「黄金時代」と呼んだりしています(日本に居たことが理由ではなかったみたいですけど)。

《客途秋恨》で描いたように、監督さんのお母様が日本の方だそうで、日中戦争や香港占領などのシーンと合わせて、上手くバランスの取れた扱いになっていると思います。

芸術家同士、あるいは似た才能を持つもの同士の結婚で起きる葛藤や、文壇の複雑な人間関係への倦怠感、作品そのものよりゴシップが噂のタネになってしまうことに対するやるせなさ、創作と時局など、巧みに織り込んでおり、いろいろと考えさせられる作品です。

追記:この《黄金時代》の解釈について、ウィリアム・フォンが答えているインタビューを見ました。彼は、「創作をする上では、(お金にも困らず、静かな環境にあった)日本留学時代は黄金時代だったかも知れないけれど、彼女は親しい人から離れて、うら悲しい寂しさの中にいた。貧しくはあっても、蕭軍と暮らしたハルピン時代こそが彼女の「黄金時代」だったはずだ」と言っています。

確かに、ナレーションで流れる彼女の言葉にはどこか強がっているような、皮肉にも(遠く異国にいるという)こうした境遇こそが黄金時代なのだ、と言っているようなニュアンスが含まれてると思います。が、一方では、一人の作家として、愛する人からも離れ、全てが背景に退いてしまったような奇妙な解放感が黄金時代と感じさせたのではないかとも思います。創作とは、結局は孤独な行為なのですから…。



六本木ヒルズ シアター2で見ました。
段差が大きく、見やすい劇場です。通路の後ろになるH列か、画面に没頭したいならF列かG列がいいかも。
posted by 銀の匙 at 02:29| Comment(0) | TrackBack(0) | 映画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年09月14日

大いなる沈黙へ―グランド・シャルトルーズ修道院

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その昔、ツァイ・ミンリャン(蔡明亮)監督の『愛情万歳』という映画を、劇場で見たことがあります。お話自体はフィクションで現代ドラマなのですが、BGMが全くない。監督の狙いはともかく、映画に音楽がないのが、こんなに辛いとは…。音楽がない分、画面を注視せざるを得ないし、劇中の音が必要以上に大きく聞こえ、ハイヒールの音とか、頭に刺さってくるようで苦痛でした。全く拷問のような映画でしたね、あれは…。

それなのに、さらにセリフまでないという、こんな映画を観てしまうあたり、自分の学習能力のなさに呆れますが、基本、『愛情万歳』と同じだなぁと、まずは感じてしまいました。

音がないので、起きてようと思えば、画面に食いつくしかない。

しかも、『愛情…』の方には一応、ストーリーらしきものはありますが、こちらはドキュメンタリーなので、特にシーンの間に脈絡がある訳ではありません。フランスの険しい山中にあるカトリックの男子修道院。その中の修道士たちを、ひたすら映し出していくドキュメンタリー作品です。

修道士たちは、特定の場合を除いて会話が許されていません。祈りを捧げる彼らの周りを、しかし、時には耳障りな雑音が取り巻いています。音源の方は映らないので、いったい何なんだろうと気になるのですが、彼らの日課を追っていくうちに、隣の部屋で薪を割ってる音だなとか、食事を運んでる音だなとか、察しがつくようになる。そうしてだんだん、観ている方も祈りの中へ入っていくのです。

画面にじっと集中していると、外界の光や降りしきる雪など、ちょっとした変化に敏感になってきます。目は修道士たちをじっと見つめながらも、半分瞑想をしているような状態になり、いつのまにか、観ている自分も、この修道院の時間を共有していることに気が付くのです。

清貧を旨とする生活ながら、食事の量は意外に多いし(さすがフランス)、自足自給という訳でもないらしく、ラベルの貼られた果物を食べてたり、貫頭衣みたいな昔風の修道衣の足元は、登山靴みたいなものを履いていたり、飛行機に乗ることもあるようだったりと、意外に現代的だと思う瞬間もあるのですが、映画のパンフレットを観ると、一日のうち、何をいつから何時間やる、というような日課が厳格に定められているそうで、その点は全く中世の修行僧と変わらない生活のようです。それでも修道士たちは、人嫌いという訳ではなさそうで、なかなか無邪気だったり、お茶目だったりする面もある。

日曜の散歩の際だけ、交わすことを許される会話は、和やかながらウィットに富んだもので、なるほどだからこそ、普段に沈黙を課すというのも分かるような気がしました。人と話すことで得られるものは多いですが、自分と対話することでしか得られないものも多いのでしょう。

そして、信仰をもつ人ならば、神と相対することは極めて個人的な行為であり、逆に言えば、神と対話しようとするとき、他の人の援けは借りることができない。そういった意味の厳しさも感じ取ることができる、美しい3時間でした。

フィリップ・グレーニング監督
posted by 銀の匙 at 22:55| Comment(0) | TrackBack(0) | 映画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年09月10日

超高速!参勤交代

今年(2014年)見た映画の中ではブッチギリでお薦めの作品。
まだ観られる地域の方、映画館でぜひぜひっ!

8日もかかる江戸からの参勤交代を終えて、やっと故郷、湯長谷〈ゆながや〉藩に帰ってきた藩主たち。これで少しはノンビリできる…と思った矢先に、まさかの参内命令が!

どうやら、金山発見の誤報を真に受けた御庭番が幕府要人に注進したらしく、5日以内に参内して申し開きをしなければ、藩はお取りつぶしの危機に。

しかし、弱小藩ゆえ、ようやく終えたばかりの参勤交代で蔵は空っぽ、時間も足りない。

ほとほと困り果てた藩士たちの前に、怪しげな忍びの者が現れ、自分が山道を案内すれば5日で江戸までたどり着けると言い出す。そして知恵者の家老、相馬(そうま)がそろばんを弾き直し、たった7人で立派な大名行列に見せかける奇策をひねり出す…。

中国の時代劇を見たばかりのところで、これも久しぶりに日本の時代劇を見ました。コメディですが、セットや衣装は本格派。きらびやかではないものの、素材感が本物っぽいしつらえは、さすが松竹映画。

前半は軽〜い感じで始まるものの、中盤からの殺陣も本格的。特に藩主・内藤政醇を演じた佐々木蔵之介の居合のシーンはカッコいいのなんのって…。所作や発声も武士らしくピタッと決まっていました。

家老の相馬はじめ、藩士たちも愛すべき人物ぞろい。せりふがお国言葉なのも良いですね。アイドルグループからの出演者もいたそうですが、あまりにも良い具合に馴染んでいて、言われなきゃ分かりませんでした。

出てくる地名が高萩、土浦、取手…とJR常磐線沿線の大きな駅名と同じなんですが、昔からの宿場町だったとは知らなかったです。

湯長谷藩は、現在でいえば福島県いわき市にあたるとのこと。弱小藩が見せる意地と郷土愛、現代へのメッセージも発信しつつも、さりげない程度に留めている脚本の匙かげんも良いですね。

公式HPを見ると、(残念ながら7月中旬までだったようですが)日本語字幕のついた上映もあったんですね。とても良質のエンターテイメントなので(忍者も大量に投入してますし)、ぜひ海外でも広く上映して欲しい映画です。

公式HPはこちら

角川シネマ新宿2で観ました。
スクリーンが高い位置にあるので、どの席もあまり見やすくありません。
強いていえばD列5あたりか…。段差がない映画館って見づらいな…。

そのほかの映画に関するエントリーは→こちらから、
フェイバリット映画100のリストは→こちら です。

posted by 銀の匙 at 23:38| Comment(2) | TrackBack(0) | 映画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年08月27日

ホドロフスキーのDUNE

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いきなり蘭陵王から飛んで申し訳ありませんが、いつまで上映してるか分からないので、こちらの話を先に。

「DUNE 砂の惑星」はデヴィッド・リンチ監督版を観たことがありますが(あれはあれで、なかなかの怪作だった)、まさかホドロフスキーが映画化しようとしてたとは知りませんでした。

本映画には、ホドロフスキー監督本人の語りにより、結局は製作されなかったSF大作『DUNE』の企画、進行、そして挫折が描かれています。

ホドロフスキーは、このドキュメンタリーの語りで分かる通り、映画は芸術である、という信念を強く持った人。その変人っぷり 作家性を如何なく発揮する題材として、SFの金字塔を映画化することを決意。世界を、人々を変える映画にするとの意気込みで、製作を開始します。

彼はまず、自分のイメージを実現するためスタッフや演じ手を探すのですが、その基準は「魂の戦士である」ということ。そして彼の元に集結したのは、アーティスト・スタッフとしてフランスのバンド・デシネ界を代表する作家・メビウス、『トータル・リコール』のダン・オバノン、『エイリアン』のH.R.ギーガー(彼の描いた要塞の絵はホントに凄かった)、俳優として作家のオーソン・ウェルズ、画家のダリ、そして音楽にピンク・フロイドなど、錚々たるメンバー。

御年80を過ぎた監督が、口角泡を飛ばしながら熱っぽく語る『DUNE』の世界。宇宙のかなたにある、不毛な砂の惑星と、そこを故郷とする人々の物語。ほとんど完璧に近い形で仕上げられた、メビウス画の絵コンテが、冒頭のシーンはじめいくつか登場しますが、完成してたらどんなに凄かったか、一観客として悔しくて涙が出そうなほどの素晴らしさ。

ホドロフスキーは『DUNE』の企画に全ての情熱を注ぎこみ、ウェルズやダリの出演依頼を取り付けるために機知を駆使し、才能ある人々を思いっきり巻き込んで企画をまとめあげ、絵コンテはハリウッドの各映画制作会社にばらまかれます。

しかし、予想される膨大な製作費を負担しようという映画会社は、ついに現れず、計画は頓挫。ホドロフスキーはじめ、この映画に主演するために12歳からありとあらゆる武術の訓練を施された彼の息子や、全てを投げ打って彼の元にはせ参じたドノバンなどは再起不能かと思われるほど打ちのめされます。

インタビューでは、ホドロフスキーは口を極めて、金しか興味のない、会計士や弁護士の集まりであるハリウッドの制作会社を呪う訳ですが…確かに彼の『DUNE』が素晴らしい作品であることは間違いないけど、ま、映画会社の重役が、何百億とかかる12時間のSF超大作をこの危なっかしい人に委ねることに躊躇するのは、そりゃ凡人なら分かりますわな。

ということで、無責任な観客としてはどうしても観たいけど、当事者だったら絶対手を出さないであろうこの作品は、永久に日の目を見ませんでした...という結末なのかと思ったら、どうやらそうでもないらしい。

美しく装丁され、製本され、各映画会社に配られたこの絵コンテを、どういう経路かは知らないけど見た人たちがいて、彼らはこの素晴らしい作品に影響を受けて新たな映画を製作したり、いったん挫折したスタッフたちも、別の映画にかかわっていったりして、ないはずの作品が、じわじわと影響力を広げていくのです。

この幻の映画のラストシーンはとても感動的。主人公のポールは、結局、敵対勢力に殺されてしまうのですが、その刹那に「自分は死なない」と言い出す。彼が殺されると、彼の精神が人々に伝わり、皆が「私がポールです。彼は死なない」「私がポールです。彼は死なない」と口々に宣言し始める。そして砂の惑星だったデューンは緑の惑星となり、他の星々を変えるべく、旅立っていく…。

ポール役を演じるはずだった、監督の息子(『エル・トポ』に出てましたね)は、インタビューに答えて、穏やかな口調で言います。「この映画は、完成すれば人々の意識を変える映画になるはずだった。でもこの映画でも、物語と同じことが起こったんだ。今、いろいろな映画を観れば、それが叫ぶ声が聞こえる。「私が『DUNEだ』」「私が『DUNEだ』」と」

私はホドロフスキーも原作の「DUNE」も好きなので、このドキュメンタリーを大変面白く見ましたが、そうじゃない方にもぜひご覧いただきたいです。志を高く持つということは、高い代償も払わなければなりませんが、それを埋め合わせるだけの価値がきっとある、ということを体得できると思います。

公式サイトはこちらです。

作品情報=ぴあ http://cinema.pia.co.jp/title/163541/
posted by 銀の匙 at 23:31| Comment(0) | TrackBack(0) | 映画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年06月15日

僕の無事を祈ってくれ

一番好きな映画は何?と聞かれたら、たくさんあるし優柔不断なんでとても返事に困るんですけど、でも、必ず挙げるであろう、1988年のカザフスタン映画。

上映権が切れたと聞いていたので、もう二度と観られないだろうと勝手に悲観していたら、2014年.オーディトリウム渋谷で開催された、ソビエト・フィルム・クラシックスで再上映してくれました!

当時はニューウェーブだったこの映画も、もはやクラシックなのね(泣)。しばらくぶりに観て、ダサく感じたらどうしようかとドキドキしてましたが、時を経ても古びないどころか、今だから分かるその尖りっぷりに痺れました。

カザフスタン共和国最大の都市、アルマ・アタ(はロシア語だそうで、いまはカザフ語のアルマトゥイって呼び方が普通らしい)に帰ってきたモロ。演じるヴィクトル・ツォイはロックバンド「キノ」のボーカリストで、いかにもロッカーって感じの立ち居振る舞いなんですが、それにしちゃ、公衆電話を掛けるときの節約法が、セコかった(あるいはまさか、当時はこういうのがカッコよかった、のでせうか)。

どうやら、まずは古馴染みのスパルタクスから貸した金を取り立てようとしてるらしいのですが、相手はからっきし意気地なしで、ネズミのようにおどおどとモロの姿に怯え、梁の上に登ってまで隠れようとする始末。モロはこういう輩には取り合わないポリシーらしく、うっちゃっておいて、射撃場へと向かいます。

そこで華麗な射撃の腕を見せているのが、どうやら元恋人らしいディーナ。父親の別荘(ダーチャ)に泊まらせてくれ、というモロの頼みに、別荘は手放してしまったと言い、彼女は自宅の部屋の鍵を手渡します。

再会してよりを戻すかに見えた2人ですが、モロはディーナの秘密に気づいてしまう…。

鑑賞しながら、カザフスタンも例外なく80年代だったんだな〜と、改めて、漏れなく地球を覆う文化のグローバル化に感じ入ってしまいました。監督さん、きっとブルース・リー映画に感化されてるだろな〜とか。

それでも、当時のカザフスタンの事情がよく反映されているのか、東アジア系、中央アジア系、ロシア系etc.と得体の知れない出自の登場人物たちが違和感なく配置されてはいますし、相変わらず配列がバラバラな時間軸といい、少しくたびれた建物や街並み、小道具をさばく独特の映像センスといい、いきなりナレーションが物語を仕切り始めたり、線画が登場したりといった映画文法の不思議な活用といい、ロシア映画(と言うのは正確じゃないかも知れないけど、とりあえず)の独自性も色濃く滲み出ています。

劇中のテレビ映像だと思ったシーンが回想シーンだったり、主人公の心境を重ね合わせていたりと、よく見ると造りも凝っています。

強そうな名前の割に、追手に怯えて自らを檻の中に閉じ込めてしまうスパルタクスや、ディーナを利用する冷酷冷徹な悪の巨魁かと思えば、水がなくなってもなおプールに隠れようとする医師、ようやく立ち直るのかと思いきや、依存から抜け出せないディーナ。

ニヒルに見えて、そんな弱い者たちを見捨てられないかのようなモロが、魅力的に見えてくるんですね…。

海が見たいと懇願するディーナを連れて出かけた場所(アラル海?)は、いかにも海辺の風景なのに、水は干上がり、ひび割れた砂漠のような場所。打ち上げられたクジラのように、陸で朽ちていく鋼鉄の船が鎮座しています。

以前二人が来たときは、ひょっとしたらここも海辺だったのかも知れません。しかし、希望を託して来てみれば、まるで別の惑星のような広漠とした風景になっています。この時点ですでに、不吉な未来の予感がするのですが、そんな中でも、モロは全く飄々としています。風に転がる草や、頭上を通り過ぎる飛行機、荒れ果てた「海の家」、こうした全ては絶望のアイコンなのに、あるいはそうだからこそ、独特の美しさを持って観る者に迫ります。

物語の舞台となる場末のカフェバー、廃墟のような動物園、古びた家具が並ぶアパート、空中庭園のある病院、どれもが常識ではとても美しいと言える代物ではないのに、激しく惹きつけられてしまいます。まるで、ナレーションの「これから美しい物語をお聞かせします」という言葉の暗示にかかったかのように…。

音の使い方も独特で、冒頭のKINOによるオープニングの歌も内容と巧みに被ってきますし、ラジオの音として流れてくるプロコフィエフの「ロミオとジュリエット」や、アパートのシーンやプールのシーンに被ってくる、ドイツ語、イタリア語講座の音声など、とても効果的で唸らされました。

ラストシーンも、日本でこれリメイクしたら絶対に主演は松田優作よねーとか余計なことを考えてしまうものの、バックに流れる歌とともに、美しく、強烈なインパクトを遺します。

主演のヴィクトル・ツォイは、まさにこの歌の通り、若くして交通事故でこの世を去ってしまいました。僕の無事を祈ってくれ…邦題にも取られた歌詞の、そして物語のラストとなるこの1行に、いつまでも響く余韻を感じています。本当に好きですね、この映画…。

オーディトリウム渋谷で観ました。ユーロスペースと同じ建物内にあります。こじんまりしたスペースですが、椅子はきちんとしています。今回の上映ではスクリーンが小さかったので7列目くらいが見やすかったですが、前に人がいると厳しいかもしれません。

作品情報=http://cinema.pia.co.jp/title/133527/
posted by 銀の匙 at 01:26| Comment(0) | TrackBack(0) | 映画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする