2015年05月02日

神々のたそがれ/アレクセイ・ゲルマン監督作品

*いちおう、ネタバレなんですけど、ストーリーが分かったらつまらないという作品ではないので、ご安心ください。いちおう、結末に当たる部分は分けておきます。

そろそろ上映が終わっちゃう〜と焦ったら、角川シネマ新宿で5月15日までの追加上演が決定したそうですね(ほっ)。

このお話、ロシア映画には珍しく、主人公がセリフで割合はっきりテーマについて語るのですが、それだけに、見終わった後でその意味するところをだらだら だらだらと考えてしまう。

3時間映画を観て、何とか気持ちが落ち着くまでに、その10倍くらい時間がかかる。今もときどき考えてしまうので、100倍くらいかな…ということで、時間が取れるときにご覧になるのをお勧めいたします。

私なんか、観終わったあと熱が出てしまいました。
原題通り、「神さまもつらい」だろうけど、観客もつらいよ。

観終えた直後は結構辟易していたのですが(長いしね)、久しぶりに観ておいて良かったと言える映画でしたので、お時間が取れる方にはぜひとお勧めいたします。ただ、後でも書きますが、もしDVDが出たら、DVDでも観てみたい作品です。

さて。

タルコフスキー監督の映画『ストーカー』、ソクーロフ監督の映画『日陽はしづかに発酵し…』の大・大・大ファンな私は、同じストルガツキー兄弟のSFを原作とした、この『神々のたそがれ』にも大いなる期待を寄せておりました。

あの世界に3時間、さぞや至福の時間だろう…と思ったのですが、観てみたらとにかく徹底的にぐちゃぐちゃ、ねちゃねちゃ、どろどろとして、モノクロの画面には常に雨、血のり、その他言うもはばかる何かが降っており、その時点で、うっ、しまった、同じ原作者で唯一コケた(と私は思ったけどロシアでは大人気だったらしい、)予告だけが面白くて本編はイマイチの『囚われの惑星』の方のパターンか…?と後悔するも、よく考えたら、『ストーカー』だって、画面はいつも何か湿気っぽかったですもんね…。

と気を取り直して、お話を見てみますと、これがロシア映画にしては割合単純。

舞台は、とある惑星。ちょうどルネサンス初期にあたる、まさに文明が花開こうとする直前の状態と見込まれて、地球からは調査団がやってきます。

ところが王都アルカナルでは、そんな期待を裏切るかのように、王権守護大臣、ドン・レバの命令下、知識人や賢者、技術者が連行され、処刑される事態が進行しています。

地球からやってきた調査団の一人、ドン・ルマータは、この奇妙な状況に上手く適応しており、周りからは神の子孫として畏怖され、王国随一の剣士として一目置かれる人物です。彼はドン・レバとそれなりの関係を保つ一方、知識人や技術者を匿ったりもしています。

強靭な肉体と何ものをも怖れない勇気を持つ、まさに神のようなドン・ルマータ。彼は何百人もと決闘して相手を殺さず、ただ相手の耳だけを取った、と言われていました。しかし、その彼が唯一怖れていた事が、ついに起こってしまいます。そして…。

どこか遠い世界から響いてくるような歌声を背景に、スクリーンのこちら側でも感じられる臭気、殺戮と裏切りの凄惨さに満ちた映画ではありますが、1ショット、1ショットの構図や光の完成度が異常なまでに高く、動画と静止画の印象が恐らく全然違う作品なのではないかと思われます。

その意味では、DVDでじっくり観てみたいですね。

観ている間は、どうしても画面の美しさの方よりも凄惨さの方に気を取られてしまいますが、グロテスクな物語と動きを注視しているうちに、意識下に働きかけてくる、美しい音と構図の世界が映画に奥行きを与え、忘れがたい印象を残すのかと思います。

ユーロスペース(渋谷)2Fのユーロライブで観ました。
普段はシアターとして使われています。スクリーンを少し高めの位置に
設定しているので、やや後ろの席の方が見やすいと思います。
音響、観やすさとも大変良い劇場です。

以下は、お話の核心部分に触れておりますので、ストーリーが分かってしまってもよい、という方のみどうぞ。






ソ連時代のSF作品を下敷きにしているということは、この作品の土台は、キャメロン監督の『アバタ―』と同様だ、ということです。

つまり、どこか異世界に舞台を借りて、現実世界を風刺している、ということですね。(『アバタ―』の感想は→こちら

しかも、『アバタ―』はあくまで、観る人にはそう観える、という程度に留めているのに対して、『神々のたそがれ』ではそれを思いっきり分かるようにセリフに出しています。

言論が自由なはずのアメリカの作品では、現実批判が過ぎれば制作会社や観客が離れてしまうからあまり露骨にはできず、ロシア映画ではそうした方が受け入れられやすい、とは皮肉なものです。ま、『アバタ―』の場合には、娯楽作品でテーマを余りあからさまに出すのは品がない、あるいは、観方はあくまで観客に委ねたい、と監督が思ったのかも知れませんけど。

『神々のたそがれ』では、恐らく原作から引き継いだものと思われますが、理不尽な知識人狩りという形で、権力者の暴挙を正面切って批判しています。

それに加えて、結局、権力を打倒してみたところで、次の権力者がそれに取って代わるだけ、というやるせない現実を、ドン・ルマータ自身がセリフで語ります。

彼は、反乱軍の首領であるアラタを匿いますが、権力者に対して暴動を起こそうとするアラタに、「弱い者が団結して強い者を倒しても、弱い者の中で少しはましな者が権力を握り、さらに弱い者を抑圧するだけ」という趣旨のことを言います。

ドン・ルマータの力を借りて反乱を起こそうとしていたアラタは、それを聞いて一計を案じ、ルマータの女を闇討ちする。

それまで相手を殺すことのなかったルマータは、女の死に抑えが利かなくなり、誰か俺を止めてくれ、と言いながら、自分の屋敷に押し寄せる捕縛者たちを虐殺してしまう。

全てが終わってみると、あたりはアラタも含めた死体の山。調査団のメンバーが現れてルマータに地球に帰るよう促しますが、彼は聞かずに、ひとこと、

“Бoг Трудно”(神は つらい)

と言います。

原作のタイトル“Трудно быть богом”(神として在ることは難しい)に呼応するセリフかと思われます。

自分でやっといて、「つらい」は、ないんじゃないの?

…とは思うものの、彼は彼なりに苦悩していました。

高名な知識人、ブタフを何とか探し出し、この問題への答え(常に権力者が弱い者を虐げることへの解決策)を聞くのですが、思ったような返事は返ってきません。ブダフを打ち捨てて、答えも得られないままに、このラストシーンになだれ込むのですが、じゃ、彼はどうすれば良かったのか。

皇帝や貴族の圧政に耐えかねて革命を起こせば、革命政府が庶民を圧迫する。それではと、革命政府を打倒してみれば、マフィアやニューリッチ層が庶民を圧迫する世の中が出現する…そんな現実にいらだち、そして、自らも、現実の前には何の役にも立たない、あるいはもっと状況を悪化させるかもしれない知識人である、作家や監督の苦悩が目に見えるようです。

自分を神の高みに引き上げてしまえばなおのこと、解決からは遠ざかる。

そして月日は経ち、万能の神の位置からも転げ堕ち、衰えたドン・ルマータの前に、残酷ながらも美しい、ロシアの冬を思わせる景色が広がっている。まるで物語は冒頭にもどり、円環が閉じられたように…

観終えて何日も経つのに、何度も振り返って考えてしまう、そんな映画です。

ぴあ映画生活
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2015年04月12日

いつか、また/后会无期(後會無期)ネタバレです

*コメントいただいたので追記しました。
*「蘭陵王」に関する記事は、→こちら からどうぞ。

*朗報 本作で名演技を見せたジャ・ジャンクー監督の映画『山河故人』が『山河ノスタルジア』の邦題で2016年4月23日よりル・シネマを皮切りに全国ロードショー公開されます! 公式HPは→こちら

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(劇場でいただいたポストカードより)

中国の若手小説家、ハン・ハン(韓寒)が脚本、初監督をつとめた2014年の作品。

敬愛するジャ・ジャンクーが出演してるのと、別エントリーでご紹介してますテレビドラマ・「蘭陵王」(→記事はこちら)で主役を演じたウィリアム・フォン(馮紹峰)が出演しているということで観てみました。

全編、苦笑に次ぐ苦笑の連続で、かなり腹筋鍛えられました
(何でみんな笑わないんだろう…。かなりツボったんですけど…)。

笑わせる気は特にないんでしょうけど、エンディングに
「タバコは健康に悪いです」(劇中、ウィリアム・フォンが止まることなく吸っている)とか
「ヘルメットは正しくかぶりましょう」とか、
注意書き(?)の字幕が出るのさえツボに嵌りました。

オフビートというか、分かる人には分かる、という感じの、どこかジム・ジャームッシュ監督の作品を思わせる映画で、いかにもミニシアターで好まれそうな作品なのに、中国では初登場1位、並みいるハリウッド大作を押しのけて、年間興収11位を獲得したらしい。

中国のお客さんもなかなかやるね!ということなのか、あるいは「超弩級」のスターばかりを集めた映画なのでウケたのか…まぁ前者と思っておきましょう。

中国の東の果てのある小さな島で生まれ育ったダメ男3人組。そのうちの1人が西の果ての小学校に転勤することになり、残りの2人が車で赴任先まで送っていく、という顛末を描いたロードムービー。

ウィリアム・フォン(馮紹峰)は、本土で車を衝動買いして島に戻ってきた、元漁師/元タクシー運転手/元警備員のハオ・ハンを演じています。

登場した瞬間から、ダメだこりゃ…と思ってしまうのは、ビジュアルのせいか演技力のおかげなのか理由はあまり追及したくありませんが、とにかく、中国ではよく見かけるタイプのような気がする、ある種の非常に典型的なダメ男のパターンを見事に体現しています。

豪快でこなれたようにふるまいながら、ある意味純朴というか、深いとこまで考えずに痛い目を見るという、観てて気の毒ではありますが、実に興味深い役どころです。

しかし残念ながら、ウィリアム・フォンはどうも今ひとつハオ・ハンのキャラクターを掘り下げきれなかったみたいに感じました。元々キャラクターが合ってなかったのか、造形に無理があったか、何ともいえませんが、彼はハオ・ハンにはなりきれてなかったと私は思う。

その点、上には上がいるといいますか、共演者のチェン・ボーリン(陳柏霖)に勝ちを譲った感じでしたね…ま、こちらの方が恐らく主役なので、比較してもしょうがないのかもしれませんが。

彼の役は、ダメというより、いかにも「うだつが上がらない」という感じの小学校教諭、ジャン・ホー。

ハオ・ハンは、彼のことをよく分かってると思い込んでいたみたいですが、一見情けなくみえて、ジャン・ホーには芯の強いところがあり、旅が進むにつれて、豪快に見えて内面がもろいハオ・ハンと、だんだん立場が逆転してきます。そのあたりのバランスの妙もなかなか面白い。

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(劇場でいただいたポストカードより)

ハオ・ハンには長いこと文通している女性がおり、旅の途中でわざわざ彼女に会いに行きます。例によって、いかにももう相手は自分のもののような強気な態度なのですが、そこでとんでもない事がわかる。

彼はずっと父親が台風のなか漁に出て遭難したと思い、英雄視していたのですが、なんとそう見せかけて、父親は別の土地にいた女と娘の元へ舞い戻り、かといって息子の事も気になって、娘に文通させて様子をうかがっていたらしい。しかも、その後、酔ったあげくの寝タバコによる火事で亡くなる、というオマケまでついており、ハオ・ハンは何ともバツの悪い思いをさせられることになる。

物語も終盤になって、ハオ・ハンとジャン・ホーは、ヒッチハイクで拾った男に騙されて車を乗り逃げされてしまう。ハオ・ハンはあいつの話は全部作り話だと怒り狂いますが、ジャン・ホーは、あいつの話にだって真実はある、と言う。

実際のところ、ハオ・ハンはどこに行っても自分を助けてくれる友達がいる、みたいな大きな事を言い、文通相手の事もいかにも自信ありげに話すけれど、自分が拾った犬さえついてきてくれないし、文通相手だってあんな有様。

ついには、彼のほぼ唯一の長所だった楽天的なところも、「楽天的というのは、物事を考えずに適当にごまかしてるということ」だと勝手に悟ってしまい、犬をジャン・ホーに譲るときも、犬が生涯の友達になってくれる、みたいな感動的な事を言ってみたにも関わらず、、ジャン・ホーに「犬の寿命はせいぜい十数年だ」と冷静に返されると、「人の絆よりは長い」と言い放ってしまう(そして、お互い犬を譲り合ったあげく、犬について行く人を選ばせたところ、さんざん世話をしたハオ・ハンにではなく、ジャン・ホーについていってしまうというトホホな結末に…)。

つまりは、本人が本当だと思っていた話も、なぜか思っていた方向とは違う、皮肉な方へ、皮肉な方へと流れていってしまう訳です。真実ではないのだから、じゃあハオ・ハンは嘘つきなのかというと、もちろん、そういう事でもない。

衝動買いって言ったって、いきなり高価な(ですよね?)フォルクスワーゲンを買うなんて、ハオ・ハンはまさか本土で危ない仕事でもしてたんじゃ…とか、国境付近で車を盗まれちゃって、あのあとお互いどうやって目的地に着いたんだろう(あるいは着かなかったんだろう)とか、いろいろ不思議に思う箇所があるのに、その辺のエピソードは全く回収されず、っていうか何事もさらさら回収する気さえなさげで、脚本自体が「なるようになるさ」的な雰囲気を醸し出しています。

しかしもちろん、この映画の魅力は「なるようになるさ」ってなところではありません。

むしろ、この映画の妙味は、いかにも気の利いたセリフを散りばめてみました、みたいなところが鼻につく脚本で観客を幻惑しながらも、話をロードムービーにありがちな、友情賛歌にも人間賛歌にも主人公の成長物語にも持ち込まず、「もうきっと会わないでしょう」というタイトルに象徴される、どこか突き放した、後は自分で考えといて、とでも言わんばかりのところにあるんじゃないでしょうか。

別れたあとには、一期一会でもう会わないかも知れないし、また会うかもしれない。

私の大好きなジャ・ジャンクーの映画のテイストに近いものがあり、ロケット打ち上げのシーンみたいな、オマージュ的なシーンとか第一、ジャ・ジャンクーその人が出てきちゃったり、するのですが(短い出番ではありましたが、はっきり言って、彼が一番、この映画の雰囲気に合ってたし、演技も一番上手かったんじゃないかと思う)、もう少し全体がくっきりしたトーンで出来ているのが、今風な感じがします。

予定調和で終わったかに見せて、何気なく付け足したラストシーンも秀逸。

こんな俳句みたいな映画、よくぞ作ったものです。

いや、参りました。

* * *
以下は、コメントへのお答えからの追記です。映画終盤の内容について触れています。
ちなみに、映画に出てきた子犬(マダガスカル)との後日譚については→こちらの記事の中のインタビューをどうぞ
*

この映画のラストシーンは、ハオ・ハンが車を運転しながら、ジャン・ホーに向かって自分では気が利いてると思う一言を話すシーン。で、その直前のシーンは、ジャン・ホーが島に戻ったときの船内のシーンです。

数年後のジャン・ホーが出てきた時点で、ここからラストシーンになるんだろうなと思っていたので、ひょっとしたらひょっこりジャン・ホー以外の誰かが再登場するのではないかと思い、目を皿のようにして見ておりました。

でも、お話の流れとしては、あそこでハオ・ハンが出ないのが正しいですよね。画面にも実際、出てこなかったと思います。

ただ、1つ面白い説があって、それは、もともとの台本では、船内のテレビ画面にジョー・チェン演じる周沫が大スターになって映ったあとその上に、「国境付近で麻薬シンジケート「青蛙」逮捕。麻薬王は逃亡中」という文字ニュースが流れる予定だった、というものです。

なるほどと思う一方、そうやって決着をつけちゃうと、余韻がないなぁ、とも思います。

ハオ・ハンはどうなったか分からない。ただ、私たちの知っている、ムダに強気でハオ・ハンらしい回想で終わる、車内でのラストシーン、私はとても好きですね。

* * *
公式サイトは→こちら
ぴあ http://cinema.pia.co.jp/title/167328/

シネマート新宿でみました。
上映は2016年4月17日まで。大阪でも上映中です。
そのあと、愛知、福岡など全国数か所で上映があります。

そのほかの映画に関するエントリーは→こちらから、
フェイバリット映画100のリストは→こちら です。

posted by 銀の匙 at 22:13| Comment(14) | TrackBack(0) | 映画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年03月14日

イミテーション・ゲーム(表示以降、ネタバレです)

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↑観に行った映画館で、公開記念としていただいたポストカードから

(ネタバレ表示以降は、映画後半の内容に触れています)

アラン・チューリングを知ったのは映画『ブレード・ランナー』でだったかと思います。まさに、今回のこの映画のタイトルの指す内容が関係しており、とても興味を惹かれたのを覚えています。

彼が亡くなったときに、そばにかじりかけのリンゴが落ちていたので、アップルコンピューターはこの「人工知能の父」に敬意を表し、かじりかけのリンゴを会社のロゴマークにしたという話も聞きました(定説は「かじる」と単位「バイト」のシャレってことらしいですが)。

2012年は彼の生誕100年ということで雑誌『数学セミナー』でも特集が組まれたりして、(わたし的には)かなり盛り上がっておりました。

で、今回の映画は彼の自伝的な話だと聞き、かなり期待して観に行きました。

物語の舞台は、1950年代のイギリス。ケンブリッジの数学者、アラン・チューリングの家に泥棒が入ったとの隣人からの通報を捜査していた警察は、被害者であるはずのチューリングの非協力的な態度に疑問を抱きます。調査を進めるうち、彼らは、チューリングが戦時中に何らかの機密にかかわっていたこと、その記録が完全に抹消されていること、そして全く予想外の罪状に行き当たります。

第二次世界大戦中のイギリス。交戦相手のドイツは、AMラジオで簡単に傍受できる暗号(と暗号機)・エニグマを使って、神出鬼没の攻撃を行っていました。

ケンブリッジ大学のフェロー、数学者のアラン・チューリングは暗号解読のチームに加わり、エニグマの暗号を解読する機械の設計を始めます。しかし、資金不足や周囲の無理解、チューリング自身の人好きのしない性格などが災いして、解読までの道のりは困難を極めました。

彼を採用した軍部、そして同僚の解読チームからも孤立し、スパイの疑いまで掛けられたチューリングでしたが、その数学の才能を見込んで新たに採用した才媛・ジョーンの助けもあり、何とか作業を続けられることに。

しかし、ようやく完成し、チューリングが「クリストファー」と呼んだその機械によって暗号が解読されると、解読チームには新たなる試練が降りかかります。それは、解読成功を悟られないため、敵であるドイツはもちろん、自国をも欺き、助かるはずの人命も犠牲にしなければならないというジレンマでした...。

ミステリーというほどの謎解きはないんですが、脚本が良くできてたし、それ以上に、彼の生涯を知らない場合、事実自体が結構驚きの展開かも知れません。軍事機密にかかわったばかりに陥った、ジョーンとの理不尽で切ない関係は女性のお客さんにアピールしそうですね…。

池袋HUMAXシネマズのスクリーン2で見ました。
スクリーンが高い位置にあるため、後ろの方が見やすいです。

席のことはともかく、収容人数が多い割にアクセス方法は2基のエレベーターしかなく、エレベーター待ちの人が外の歩道へあふれてしまい、何かあったらパニックになりそうで怖い劇場でした。開演ギリギリになって階段を開放したので何とか間に合いましたが、この状況が改善されない限り、できればもう行きたくありません…。

作品紹介ページ http://cinema.pia.co.jp/title/164839/

ということで、ミステリーというよりヒューマンドラマとして及第点だったこの作品、欲を言えば…

(以下、作品の後半内容に触れています)
(当初、折りたたんで表示していたのですが、リーダーだと読めないそうなので、スペースをあけて下に続きます)



(以下、ネタバレです)





アラン・チューリングが生きた時代、イギリスでは同性愛が違法とされていたそうです。冒頭の捜査のシーンは、実はチューリングがかかわった男娼が泥棒の手引きをしたことが、そもそもの発端でした。この事件で同性愛者ということが露見したチューリングも逮捕、ホルモン療法により「矯正」され、結局、青酸化合物による自殺で亡くなったとされています。

映画のエンディングでは、彼の名誉回復について紹介され、自伝としては文句ない仕上がりだったんですが、私としては、よし、ここから盛り上がるぞ!と思った部分があっさり終わっちゃったのが、ちょっと残念でした。

この映画のほとんどの部分はエニグマの暗号を巡ってのドラマで、仲間との諍いや和解であるとか、暗号の解読後、それを悟られないために、神ならぬ身で「命の選別」をしなければならない葛藤だとか、ジョーンに危険が及ばないよう遠ざけたはずが、誤解された上に彼女自身はチームに残るという全然意味のない展開になってしまったこと(しかし、恐らく彼女はそれでも、最後まで彼の最大の理解者だったのが救いといえば救いでした)、などなど、確かに興味深くはあります。

だけど、チューリングの最大の功績は別にエニグマを解読したことじゃないですよね…。

劇中、いみじくもカンバーバッチ演じるチューリングが、「あんたたちには理解できない」と、彼がしようとしていることを邪魔立てする人々を切って捨ててます。

映画ではそれは暗号を解読する機械の意義を理解してない、ということなんだと思いますが、実際に彼の考えたものは、単に暗号を解読するだけのものではなかった。彼は、まだコンピュータが発明される前だというのに、思考する機械、つまり、AI(人工知能)のことを考えていたわけです。

今ようやく、プロ棋士を負かすような人工知能のプログラムができてきたところですから、ずいぶん時代を先取りしていたことになります。

この映画のタイトルになった「イミテーション・ゲーム」には、映画の中では、諜報部が行った虚虚実実の駆け引きであるとか、チューリングが同性愛者であるという秘密を隠すために取った行動(収監されれば研究が続けられなくなってしまうので)であるとか、ジョーンにわざと自分を誤解させるようなことを言ったりとか、ということが含まれているんでしょう。

しかし、元々はチューリング・テスト、つまり、機械に人間とそっくりの返答を返させて、質問者に相手は人間だと思い込ませる、という模倣ゲームを指しています。人間と思わせることができれば、その機械は思考する、知性があるという事ができる。

きわめて単純明快に示された命題ですが、この問いを見ればすぐに、知性とは何か、思考するのが人間(あるいは生き物)だとしたら、では、人間(生き物)とは何か、と考えざるを得ません。

人間と機械の差はあるのか、あるとしたら何なのか…。その問いは映画『ブレードランナー』(と、その原作であるP.K.ディック作の『アンドロイドは電気羊の夢を見るか』)に接続しています。

人類の代わりに危険な作業を行う業を背負ったレプリカント(人造人間)たち。彼らはあまりにも人間にそっくりで、感情移入の度合いのテストをしてもほとんど見分けがつかない。植えつけられた偽の記憶を自分の過去と思い込み、死を恐れ、恋をする。彼らを処刑するために送り込まれた捜査官さえ、相手が、そして自分が人間なのかレプリカントなのか分からなくなってゆく…『ブレードランナー』で描かれたのはそんな情景でした。

数学上の貢献は映画では分かりにくいから触れなかったにしても、人工知能の方を出さずに暗号解読の方ばかりクローズアップされると、チューリングならずとも、何も理解ってない…となじってしまいそう。

親友クリストファーの死、自身の愛情の傾向、婚約者との別れと彼の研究テーマには、きっとリンクするところがあったに違いないのに。

人とは違うということを生涯意識させられたチューリング。一方で、同じことができれば、男女の隔てを気にしなかったらしいチューリング。セリフの中でも、これらのことが織り込まれていたし、せっかく取り調べのシーンで良いところまで行ったのに、実に惜しかった…。

感情移入できないのが機械なら、感情移入に乏しいチューリングは人間じゃないのか? いや、もちろんそんなことはありません。しかし、彼には「思考」こそが重要だった。いつかは「思考」する機械が出来ると彼は確信していた。「思考」するということに、すぐに「感情」の要素を絡めてしまう、他の人々にはできない発想だった。それはもしかしたら、彼が自分が感情移入に乏しいということを自覚させられた上で考え付いたことかもしれないし、そうじゃないかも知れない。

映画の取り調べシーンでは、彼は自分が人間らしいかどうかにこだわっているような感じに描写されていたけれど、実際はどうだったのでしょう。彼にとって、「人間らしい」ことは問題だったのでしょうか。そもそも「人間らしい」とは何なんでしょうか。

次にチューリングの生涯を映画化するなら、ぜひそのあたり、ご一考ください!

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2014年12月12日

チェイス!(表記以降、ネタバレ注意)

インド映画はスターが出てなんぼ、という話を聞きましたが、この映画はまさにそれ。

主役でもないのに、大スター様=アーミル・カーンが座布団総ざらえして、風のように去っていきました。
さすが「Mr.パーフェクト」と呼ばれるだけはある(唖然)

劇中、アーミル率いる「インド大サーカス」のオーディションに現れたヒロインは、5分の間、審査するアーミルが一度でも目をそらしたら不合格、と言い渡されるのですが、この映画、150分の上映時間中、1秒たりとも目が離せませんでした。合格!合格です!

アメリカはシカゴの街で興行する「インド大サーカス」。しかし、銀行から融資が受けられなくなり、団長は自殺、残された息子・サーヒル(アーミル・カーン)は復讐の想いを胸にシカゴに戻ってきます。父の跡を受け継ぎ、「インド大サーカス」を復活させる一方、父を破滅に追いやった銀行を襲い、信用を墜して廃業に追い込もうと画策します。

犯行現場に残された声明から、犯人がインドにかかわる人物とみなされ、インドから腕利きの刑事ジャイ(アビシェーク・バッチャン)とそのパートナー、アリー(ウダイ・チョープラー)が呼ばれ、犯人解明へと動き始めますが…。

陸、河、空(!)と縦横無尽にシカゴの街をかけめぐるバイクバトル、シルク・ドゥ・ソレイユばりの、芸術的でゴージャスなサーカスシーン、サーヒルと家族の絆など見どころ満載。インド映画にはお約束の歌とダンスのシーンもありますが、サーカスのシーンに組み込まれているので、すんなりお話に溶け込んでいます。

そして何と言っても見どころはアーミル・カーン。刑事役のバッチャン(←主役はこっち)がデカいのか、アーミルが小柄なのか分かりませんがかなり身長差があるのに、向かい合っても全然負けてないのが凄すぎる。耳の形も面白いし。

しかしながら、私のハートをわしづかみにしたのはスター様ではなく、根拠レスな自信家で、見た目ニンジャ・タートルズそのもののアリー様。

女にだらしなく、言う事だけはオレ様なビッグマウス野郎かと思ったら、音でバイクの種類を当てる(結局ヲタク好きだってこと?)だけでなく、A級バイク乗りであることが判明。このギャップがたまりません!

子ども時代のサーヒルを演じた子役の男の子や、サーヒル・パパ、ヒロインのアーリアもとても魅力的。

お話の方も、大胆なサーヒルの智謀や、死をも欺くトリック、バッチャンとの頭脳戦など鮮やかなストーリー運びで飽きさせません。

しいて難を言えば、全体的に上品で、インド映画らしい「ありえね〜!」感に欠けてたところでしょうかね…。でもでも、男性が観ても女性が観ても面白い映画だと思うので、ぜひ冬休みにご覧になってください。おススメいたします。

以下はストーリーのネタバレになりますので、未見の方はご注意ください。

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2014年10月25日

息もできないほど/我想和你好好的(ネタバレです)

中国映画週間2014で見ました。李蔚然(リー・ウェイラン)監督作品。

実は、全く違う映画を観る予定だったのですが、手違いで入れなくなってしまい、代わりに取ってもらいました。お礼に感想を書いておきます。全然見る予定がなかったので事前に話さえ知らなかったのですが、とても面白かったし、良い映画でした。

今週はウィリアム・フォン強化週間なのか、アン・ホイ監督の《黄金時代》(→感想はこちら)と併せて2本も主演映画を観ちゃいました。それだけたくさん映画に出てるってことか、人気があるってことか…。


以下、結末までのあらすじを書いていますのでご注意ください。




お話の舞台は現代の北京。

停まってる車にいきなり乗りこんできて「出してよ」と命令する女。運転席にいた男は「オレは運転手かよ」と怒っているのですが、「車を壊されたくなかったら出すな」という男が現れるにいたって、いきなりカーチェイスが始まります。何とか振り切って車を止めた途端、女は礼も言わず、至極当然のごとく車を降りて、タクシーに乗って去ってしまう。

何だこりゃ。

すると今回はウィリアム・フォンは運転手の役なのか…?あるいはあの女の子のアッシー君(古いですね)なのかしら、と思っていると、次のシーンではスタジオみたいなところにいて、広告の撮影を見学している。じゃ、撮影助手の役なの…?でも、特に仕事らしいことはしてないし…。

で、その広告に出てた女の子を「送っていって」と言われて、初めて昨日の女の子だと気づく。ってことはあの子は彼女でもなんでもなかった(面識さえなかった)ってことか。まさか後で女の子に指摘された通り、“骗子”(詐欺師)の役…?

と、最初のうち、何だか話がよく呑み込めなかったのですが、だんだん分かってきたのは、彼(蒋亮亮 ジャン リャンリャン)は広告会社に勤めるしがないコピーライターで、女の子(喵喵 ミャオミャオ)はブレイク寸前の女優さんらしいということ。

送って行った帰りにミャオミャオとご飯を食べて、そのお姉さんが出てるお店で“灰姑娘”(シンデレラ)とかいう出来損ないのフォークソングみたいな歌を歌わされたりして、すっかり気に入られたらしい。

北京で流行の最先端っていうと、オシャレでこういう感じなんだな〜と、あか抜けてない頃が好きだった者にはちょいと寂しさも感じられますが、映像も部屋の中など、わざとフラットに撮ったり、街中の景色を最近流行りのミニチュア風に撮ったりして、とても洗練された感じです。

ついでに言うと、エンドロールを見ると提携先としてネット企業がずらりとならんでいたり、タイアップと称してノキアと組んでたり(なので、劇中の携帯は呼び出し音もノキア)、パソコンの中の画像が提携先のフィギュアだったりと、よくも悪くも広告畑出身の監督さんらしいメディア戦略も垣間見え、そのあたりも現代的だなと思ってしまいました。

さて、亮亮がちょうど引っ越そうとしていたところに、手伝いを買って出て、荷物と一緒にそのまま新居に来てしまった喵喵。なんだかいい雰囲気になったところで、いきなり元カノ、梅梅(メイメイ)が現れ、自分の置いて行った弦(彼女は古典音楽家)を探そうと、引っ越し荷物の山を漁り始めます。慌てるでもなく、のほほんと応対する亮亮。これまで付き合ってきた女の子の名前を並べ立てた挙句、自分は“不主动、不拒绝、不负责”(誘わない、拒まない、責任は取らない)って主義だとのたまう。

結局、二人はなし崩し的に同棲を始め、よくもこんな男の元に留まろうと思ったもんだ...と呆れたのもつかの間、喵喵の方も人の事は言えない行状で、まあ、ある意味お似合いのカップルではあります。

ところが、喵喵の方はかなり本気になってしまう。亮亮は、(彼のできる範囲内で)誠実に対応はしてるのですが、元カノとの関係もゆるいし、良く言えば女の子に優しいので、喵喵はだんだん不安にかられるようになり、携帯の履歴をみたり、元カノの写真を燃やしたり、だんだん常軌を逸してくる。

さすがの亮亮もキレてしまい、大家さんの前で大ゲンカをして飛び出し、下まで降りたところで喵喵から電話が来る。上を見て、と言われて振り向くと、18階の部屋から今にも飛び降りそうな彼女が見える。慌てた亮亮は電話口で説得しながら階段を駆け上がってるのですが、最後には毛沢東まで持ち出して忠誠を誓わされる、ここの対話が笑えます。

しかし、勝利を収めた喵喵のエキセントリックな行動はますますエスカレートする一方。彼女がテレビドラマのロケで3か月留守にすることになると(字幕では出てなかったけど“横店”に行く、と言ってましたね。そこは日本でいえば太秦の撮影所みたいなところで巨大なロケ地。《蘭陵王》もそこでロケしたそうです)、亮亮は空港で「旧正月には両親に合わせよう」とか言い出したりして、心のこもったお見送り。しかし彼女が出かけた途端、笑顔満開で同僚とクラブへ繰り出し、自由を満喫…しようとしたら、そこへ喵喵からの電話が…。

家にいるという嘘はもちろん見破られ、次の日帰宅すると、なんと家には喵喵の姿が。彼女の束縛はだんだんきつくなり、カードの残高を調べられたり、家には隠しカメラを仕掛けられていると知って、亮亮は「お前は頭がおかしい!」と言い捨て、今度こそ飛び出してしまいます。

追いかけてきた彼女に、上着は私が買ってあげたものよ、と言われれば上着を脱ぎ捨て、ズボンも私が買ってあげたと言われてズボンも脱ぎ捨てて逃げる亮亮が哀れ…もうこうなると自業自得とかって言ったらカワイそう。

ランニングとパンツ姿でタクシーに乗り込み、タクシーの運転手に「お客さん…行動芸術(パフォーマンス・アート)かい?」って言われるのがまた笑える(中国では“行動芸術”と称してストリーキングが流行ってるらしいので…)けど、本人はそれどこじゃありません。

同僚に頼んで逃げ込んだ先にも、結局喵喵が現れ、もはやホラーの域に達したところで、彼女は言います。「別れるから最後に送って行って」
そして二人は最初会ったときと同じように、無言で車に乗る…。
  *
車を壊され、冒頭から放送禁止用語を叫びまくる亮亮に、いったい中国の映倫ってナニを検閲してるんだろうと驚きを禁じ得ないこの映画、ウィリアム・フォンが嫉妬に狂った女に悩まされる不実な男の役を演じてるのを2本続けて見たことになるんですが、いったい何の意図が? いかにもそういうことしそう、という理由で決めたキャスティングなのでしょうか(謎)。

ていうか、中国の女の人ってこういう人が多いのか?

でも、多かったら映画にはならないでしょうから、それほどでもないんでしょうけど(と思いたい)。

倪妮(ニー・ニー)演じる喵喵は金持ちのぼんぼんに、オレに囲われないか?と持ちかけられて断ってますが、そういうのはイヤだと思ってるくせに、自分の方は実質上、亮亮を囲っ(“包养”)てて、相手もそれがイヤだということがどうしても分からないらしい。

原タイトル(《我想和你好好的》)通り、せっかく、お互い相手に良くしようと思っているのに、手にしたものを失いたくないあまりに、却って失ってしまう愚かな女の役、一歩間違えばただの怖いひとで終わりそうなところ、女王様然とした態度の裏に純情可憐な心を秘めた、倪妮のツンデレ演技が光っております。

亮亮の方も彼女が好きで、合わせようといろいろ努力はするものの、手を洗えだのなんだの、あれこれ指図されて反抗したくなる気持ち、分かるなぁ〜。

終盤では、“一点儿自由都没有”ちょっとの自由さえない、“像个囚犯”囚人みたいだ、と思ってしまう。もうこれはラブストーリーとかっていうより、尊厳を懸けた人間の戦いの様相を呈しております。

邦題の『息もできないほど』は「息もできないほど」愛してるのかと思わせて(喵喵の方は、あるいはそうかも)、「息もできないほど」束縛されてるという意味だったとは、なかなかやりますね。

亮亮は玄関先でやいのやいの言われ、ガラス瓶を自分の頭で叩き割って出勤してしまい(ドリフかよ…。これよく時代劇とかで、失敗した人がわざと自分を殴ったりするのに似てる)、プレゼンの時に頭から血を流してるのに気付いたときの茫然とした表情は、実に忘れがたいものがあります。

ちなみにこのプレゼン、コピー案から推すと“中国移動”(チャイナモバイル)の広告だったみたいですね。プレゼンが行き詰まり、代案を出せと言われて亮亮はノートに、“我能!”(オレならヤれる!)ってヘタウマ(?)なでっかい字で書いてますが、喵喵のために書いた手書きのお手紙とはだいぶ筆跡が違うような…。

亮亮は、不安がる喵喵に子どもを作ろうと提案し、「良いママになる自信がない」と言われると、じゃあ歳を取ったら誰が面倒みてくれるんだ、と聞く。“我伺候你”(私がお世話をするわ;かなり「かしずく」に近いニュアンス)と言われると、“那你先死了呢”(君が先に死んだらどうするんだ)…この問いへの答えが「毒殺するわ」なのが笑えるんですけど、その辺にいくらでもいそうな、こんなどうしようもないくらい普通の(情けない)男(そして、やっぱり劇中でお料理したりしている)の役に、ウィリアム・フォンは本当にピッタリです。

一つだけ言わせていただくと、オフィス勤めであろうコピーライターのくせに、ずいぶん日焼けしてるのが気になるんですが、広告をロケして撮ってるからかな。あと、最初から最後までものすごく眠そうで、働き過ぎじゃないかと、ちょっと心配です。会社勤めも大変ですね、どうかご自愛ください!

*ちなみに、ウィリアム・フォンさんへのインタビュー番組は、テレビドラマ「蘭陵王」を1話ずつ楽しむ記事→こちら で途切れ途切れにご紹介しております。この「息もできないほど」製作中のエピソードは第11話の記事→こちら に登場します。よろしければどうぞご覧ください。 


プリンスシネマ シアター1で見ました。
こじんまりしてますが、とてもいいシートです。
見やすい席は、D、E列あたり。
posted by 銀の匙 at 09:34| Comment(4) | TrackBack(0) | 映画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

黄金時代 The Golden Era/アン・ホイ(ストーリーの内容に触れています)

感想を書くと約束したので、ちょっと「蘭陵王」はお休みして映画の話題を…(ウィリアム・フォンが出てるので、関係はあるといえばある)

香港の女性監督、許鞍華(アン・ホイ)の作品。六本木で行われた東京国際映画祭で見ました。

1930年代に活躍し、31歳で夭折した女性作家・蕭紅(シャオホン)の生涯を描いた作品です。

アン・ホイの作品を見たのは《客途秋恨》以来、2作目なんですが、ザ・文芸作品な感じといい、全体に歯切れが悪くてもやもやしてるところといい、観終わった感じが良く似ています。(《客…》は70年代の大分を舞台にした映画なんですが、いちばん心に残ったのは、どてっ腹にでかでかと「JR」と書かれた列車が通過するシーンでした...トホホ)

映画は、いきなり、死んだ蕭紅がこちらを向いてモノローグをしゃべるシーンから始まります。いかにも作家らしい、常人にはない雰囲気。演じる湯唯(タン・ウェイ)の人物造形は実に見事です。

舞台は彼女の幼年時代の回想へ、そして酷薄な父の元を離れ、ハルビンの街へと舞台を移していきます。蕭紅は、決められた結婚を振り切って弟や家族をどん底に追いやり、自らは捨てた婚約者を頼るという、腺病質の割に、やることが大胆な人。でも映画では薄幸そうなビジュアルのおかげか、恋多き女でも悪女みたいでもなく、どちらかというと、むしろ成り行き任せな印象を受けます。

当時、結婚は親同士が決めるもので、当人たちの意思は全く尊重されませんでした。その時代の、革命に身を投じた人たちの話を読んでいると、ひょっとして自由恋愛したいがために革命に参加したんじゃないかと思われる人もちらほらと…。

さて、頼った相手が蒸発してしまい、宿代が払えずに閉じ込められた彼女の元へ、作品を読んでその才能を見込んだ作家、蕭軍(シャオジュン)が訪ねてきます。その後、二人は、“二蕭”と称され、作家カップルとして知られる存在になるのですが…。

日中戦争の戦火の迫る中、ハルビンから青島へ、そして上海、重慶、延安へと、流浪の人生を送る蕭紅。彼女を取り巻く、魯迅、丁玲、端木ら、近代の詩人や作家たちは、皆、劇中、突然カメラを向き(かなりドキッとするのですが)、まるでインタビューに答えるように蕭紅について語ります。

一人の作家の伝記でありながら、こうした体裁をとることで、映画全体が作り物めいて、切れ切れに寸断された印象を受けます。また、租界―中国でありながら外国が「借りている」(実際には「占領」しているのですが)場所―の建物内のシーンが多いのも、中国の中なのに異国のような、どことなく現実ばなれした感じを受けます。

なので、この作品はドキュメンタリー的に撮ろうとしたというよりは、蕭紅の意識の流れを映像化したというのに近いと思われます。画面がとても綺麗なので飽きずに見られるものの、観客を何とか突き放そうとする映画を3時間は、なかなか辛いものがございました。ただ、その距離感こそが、この映画の評価すべき点の一つでしょう。

さて、主要な登場人物がカメラに向かって訥々と語る中、最も重要な人物であるにも関わらず、そういうシーンが一切ない不実な男、蕭軍。蕭紅の才能に惹かれたくせに、彼女の方が才能が上だと周りに言われると、浮気はするわ、女は殴るわ、カメラの方を向くのは、浮気してるときと魯迅先生に手を振ってるときだけという、ロクでもない男(なんか、この人こういう役多くないですか?)。

もちろん、蕭紅が好きになるほどの人なので、素敵なところもいろいろあるんですけど、自分で軍隊に入ったりして、どちらかといえば武闘派というか、けっこう粗暴なところもある、いわゆる“東北大男子漢”だったらしい。映画の青年っぽいビジュアルは、ひょっとしたら蕭紅の心の中の姿を映像化したのかも…(笑)。

演じる奇跡の40歳(←四捨五入しちゃダメダメ)、ウィリアム・フォン(馮紹峰)は、やればできるじゃん、ちゃんと北方訛りでしゃべってはいるのですが、何かどこか東北男子の感じがしないのは、なぜなんでしょう…。声が細いせいですかね…? コーヒーの飲み方とか、物の食べ方とかで東北の人らしさを出して頑張ってはいるんですが、女を殴ったら返り討ちに遭いそうだからか、曰く言い難い微妙な間違い感が…。

蕭軍はゲリラ戦に参加するためにいったん蕭紅と別れ、のちに西安で再会します。ところがそこで、二人は永遠に別れてしまう。別れる間際、蕭紅と、彼女を気遣う端木、いきなり現れた蕭軍の三人で、おそらく第三者の目からは相当な修羅場が展開されているはずが、蕭紅の目から見ているせいか、蕭軍のやることがどことなく間が抜けて、可愛らしい感じさえします。

ここは、蕭軍と端木、それぞれが遺した記録を基に、二通りの成り行きを続けて再現していて、蕭軍は別れ話を聞いたとたんに、ものすごい勢いで顔を洗って、いきなりかなだらいの水を被ってみたり、かと思うと、端木の回想通り、二人の前で、誰かを殴り殺しそうな勢いなのに、置いてあったアコーディオンをいきなり取り上げて弾いてみたり、実験的なシーンで面白かったです。

蕭紅の作品は、他の同時代の作家たちと違って時局と一線を画していたため、発表当時は広く受け入れられたわけではなかったようですが、後世高く評価されています。その辺の微妙なニュアンスを映画化できたのも、香港出身のアン・ホイ監督ならではなのかも知れません。

ついでにいうと、魯迅や蕭紅は日本とも縁があり、映画でも中国専門書の内山書店が出てきたり、神保町が出てきたり、夏目漱石の話題や日本人作家の訪問シーンがあったり、蕭紅は日本留学時代を「黄金時代」と呼んだりしています(日本に居たことが理由ではなかったみたいですけど)。

《客途秋恨》で描いたように、監督さんのお母様が日本の方だそうで、日中戦争や香港占領などのシーンと合わせて、上手くバランスの取れた扱いになっていると思います。

芸術家同士、あるいは似た才能を持つもの同士の結婚で起きる葛藤や、文壇の複雑な人間関係への倦怠感、作品そのものよりゴシップが噂のタネになってしまうことに対するやるせなさ、創作と時局など、巧みに織り込んでおり、いろいろと考えさせられる作品です。

追記:この《黄金時代》の解釈について、ウィリアム・フォンが答えているインタビューを見ました。彼は、「創作をする上では、(お金にも困らず、静かな環境にあった)日本留学時代は黄金時代だったかも知れないけれど、彼女は親しい人から離れて、うら悲しい寂しさの中にいた。貧しくはあっても、蕭軍と暮らしたハルピン時代こそが彼女の「黄金時代」だったはずだ」と言っています。

確かに、ナレーションで流れる彼女の言葉にはどこか強がっているような、皮肉にも(遠く異国にいるという)こうした境遇こそが黄金時代なのだ、と言っているようなニュアンスが含まれてると思います。が、一方では、一人の作家として、愛する人からも離れ、全てが背景に退いてしまったような奇妙な解放感が黄金時代と感じさせたのではないかとも思います。創作とは、結局は孤独な行為なのですから…。



六本木ヒルズ シアター2で見ました。
段差が大きく、見やすい劇場です。通路の後ろになるH列か、画面に没頭したいならF列かG列がいいかも。
posted by 銀の匙 at 02:29| Comment(0) | TrackBack(0) | 映画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年09月14日

大いなる沈黙へ―グランド・シャルトルーズ修道院

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その昔、ツァイ・ミンリャン(蔡明亮)監督の『愛情万歳』という映画を、劇場で見たことがあります。お話自体はフィクションで現代ドラマなのですが、BGMが全くない。監督の狙いはともかく、映画に音楽がないのが、こんなに辛いとは…。音楽がない分、画面を注視せざるを得ないし、劇中の音が必要以上に大きく聞こえ、ハイヒールの音とか、頭に刺さってくるようで苦痛でした。全く拷問のような映画でしたね、あれは…。

それなのに、さらにセリフまでないという、こんな映画を観てしまうあたり、自分の学習能力のなさに呆れますが、基本、『愛情万歳』と同じだなぁと、まずは感じてしまいました。

音がないので、起きてようと思えば、画面に食いつくしかない。

しかも、『愛情…』の方には一応、ストーリーらしきものはありますが、こちらはドキュメンタリーなので、特にシーンの間に脈絡がある訳ではありません。フランスの険しい山中にあるカトリックの男子修道院。その中の修道士たちを、ひたすら映し出していくドキュメンタリー作品です。

修道士たちは、特定の場合を除いて会話が許されていません。祈りを捧げる彼らの周りを、しかし、時には耳障りな雑音が取り巻いています。音源の方は映らないので、いったい何なんだろうと気になるのですが、彼らの日課を追っていくうちに、隣の部屋で薪を割ってる音だなとか、食事を運んでる音だなとか、察しがつくようになる。そうしてだんだん、観ている方も祈りの中へ入っていくのです。

画面にじっと集中していると、外界の光や降りしきる雪など、ちょっとした変化に敏感になってきます。目は修道士たちをじっと見つめながらも、半分瞑想をしているような状態になり、いつのまにか、観ている自分も、この修道院の時間を共有していることに気が付くのです。

清貧を旨とする生活ながら、食事の量は意外に多いし(さすがフランス)、自足自給という訳でもないらしく、ラベルの貼られた果物を食べてたり、貫頭衣みたいな昔風の修道衣の足元は、登山靴みたいなものを履いていたり、飛行機に乗ることもあるようだったりと、意外に現代的だと思う瞬間もあるのですが、映画のパンフレットを観ると、一日のうち、何をいつから何時間やる、というような日課が厳格に定められているそうで、その点は全く中世の修行僧と変わらない生活のようです。それでも修道士たちは、人嫌いという訳ではなさそうで、なかなか無邪気だったり、お茶目だったりする面もある。

日曜の散歩の際だけ、交わすことを許される会話は、和やかながらウィットに富んだもので、なるほどだからこそ、普段に沈黙を課すというのも分かるような気がしました。人と話すことで得られるものは多いですが、自分と対話することでしか得られないものも多いのでしょう。

そして、信仰をもつ人ならば、神と相対することは極めて個人的な行為であり、逆に言えば、神と対話しようとするとき、他の人の援けは借りることができない。そういった意味の厳しさも感じ取ることができる、美しい3時間でした。

フィリップ・グレーニング監督
posted by 銀の匙 at 22:55| Comment(0) | TrackBack(0) | 映画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年09月10日

超高速!参勤交代

今年(2014年)見た映画の中ではブッチギリでお薦めの作品。
まだ観られる地域の方、映画館でぜひぜひっ!

8日もかかる江戸からの参勤交代を終えて、やっと故郷、湯長谷〈ゆながや〉藩に帰ってきた藩主たち。これで少しはノンビリできる…と思った矢先に、まさかの参内命令が!

どうやら、金山発見の誤報を真に受けた御庭番が幕府要人に注進したらしく、5日以内に参内して申し開きをしなければ、藩はお取りつぶしの危機に。

しかし、弱小藩ゆえ、ようやく終えたばかりの参勤交代で蔵は空っぽ、時間も足りない。

ほとほと困り果てた藩士たちの前に、怪しげな忍びの者が現れ、自分が山道を案内すれば5日で江戸までたどり着けると言い出す。そして知恵者の家老、相馬(そうま)がそろばんを弾き直し、たった7人で立派な大名行列に見せかける奇策をひねり出す…。

中国の時代劇を見たばかりのところで、これも久しぶりに日本の時代劇を見ました。コメディですが、セットや衣装は本格派。きらびやかではないものの、素材感が本物っぽいしつらえは、さすが松竹映画。

前半は軽〜い感じで始まるものの、中盤からの殺陣も本格的。特に藩主・内藤政醇を演じた佐々木蔵之介の居合のシーンはカッコいいのなんのって…。所作や発声も武士らしくピタッと決まっていました。

家老の相馬はじめ、藩士たちも愛すべき人物ぞろい。せりふがお国言葉なのも良いですね。アイドルグループからの出演者もいたそうですが、あまりにも良い具合に馴染んでいて、言われなきゃ分かりませんでした。

出てくる地名が高萩、土浦、取手…とJR常磐線沿線の大きな駅名と同じなんですが、昔からの宿場町だったとは知らなかったです。

湯長谷藩は、現在でいえば福島県いわき市にあたるとのこと。弱小藩が見せる意地と郷土愛、現代へのメッセージも発信しつつも、さりげない程度に留めている脚本の匙かげんも良いですね。

公式HPを見ると、(残念ながら7月中旬までだったようですが)日本語字幕のついた上映もあったんですね。とても良質のエンターテイメントなので(忍者も大量に投入してますし)、ぜひ海外でも広く上映して欲しい映画です。

公式HPはこちら

角川シネマ新宿2で観ました。
スクリーンが高い位置にあるので、どの席もあまり見やすくありません。
強いていえばD列5あたりか…。段差がない映画館って見づらいな…。

そのほかの映画に関するエントリーは→こちらから、
フェイバリット映画100のリストは→こちら です。

posted by 銀の匙 at 23:38| Comment(2) | TrackBack(0) | 映画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年08月27日

ホドロフスキーのDUNE

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いきなり蘭陵王から飛んで申し訳ありませんが、いつまで上映してるか分からないので、こちらの話を先に。

「DUNE 砂の惑星」はデヴィッド・リンチ監督版を観たことがありますが(あれはあれで、なかなかの怪作だった)、まさかホドロフスキーが映画化しようとしてたとは知りませんでした。

本映画には、ホドロフスキー監督本人の語りにより、結局は製作されなかったSF大作『DUNE』の企画、進行、そして挫折が描かれています。

ホドロフスキーは、このドキュメンタリーの語りで分かる通り、映画は芸術である、という信念を強く持った人。その変人っぷり 作家性を如何なく発揮する題材として、SFの金字塔を映画化することを決意。世界を、人々を変える映画にするとの意気込みで、製作を開始します。

彼はまず、自分のイメージを実現するためスタッフや演じ手を探すのですが、その基準は「魂の戦士である」ということ。そして彼の元に集結したのは、アーティスト・スタッフとしてフランスのバンド・デシネ界を代表する作家・メビウス、『トータル・リコール』のダン・オバノン、『エイリアン』のH.R.ギーガー(彼の描いた要塞の絵はホントに凄かった)、俳優として作家のオーソン・ウェルズ、画家のダリ、そして音楽にピンク・フロイドなど、錚々たるメンバー。

御年80を過ぎた監督が、口角泡を飛ばしながら熱っぽく語る『DUNE』の世界。宇宙のかなたにある、不毛な砂の惑星と、そこを故郷とする人々の物語。ほとんど完璧に近い形で仕上げられた、メビウス画の絵コンテが、冒頭のシーンはじめいくつか登場しますが、完成してたらどんなに凄かったか、一観客として悔しくて涙が出そうなほどの素晴らしさ。

ホドロフスキーは『DUNE』の企画に全ての情熱を注ぎこみ、ウェルズやダリの出演依頼を取り付けるために機知を駆使し、才能ある人々を思いっきり巻き込んで企画をまとめあげ、絵コンテはハリウッドの各映画制作会社にばらまかれます。

しかし、予想される膨大な製作費を負担しようという映画会社は、ついに現れず、計画は頓挫。ホドロフスキーはじめ、この映画に主演するために12歳からありとあらゆる武術の訓練を施された彼の息子や、全てを投げ打って彼の元にはせ参じたドノバンなどは再起不能かと思われるほど打ちのめされます。

インタビューでは、ホドロフスキーは口を極めて、金しか興味のない、会計士や弁護士の集まりであるハリウッドの制作会社を呪う訳ですが…確かに彼の『DUNE』が素晴らしい作品であることは間違いないけど、ま、映画会社の重役が、何百億とかかる12時間のSF超大作をこの危なっかしい人に委ねることに躊躇するのは、そりゃ凡人なら分かりますわな。

ということで、無責任な観客としてはどうしても観たいけど、当事者だったら絶対手を出さないであろうこの作品は、永久に日の目を見ませんでした...という結末なのかと思ったら、どうやらそうでもないらしい。

美しく装丁され、製本され、各映画会社に配られたこの絵コンテを、どういう経路かは知らないけど見た人たちがいて、彼らはこの素晴らしい作品に影響を受けて新たな映画を製作したり、いったん挫折したスタッフたちも、別の映画にかかわっていったりして、ないはずの作品が、じわじわと影響力を広げていくのです。

この幻の映画のラストシーンはとても感動的。主人公のポールは、結局、敵対勢力に殺されてしまうのですが、その刹那に「自分は死なない」と言い出す。彼が殺されると、彼の精神が人々に伝わり、皆が「私がポールです。彼は死なない」「私がポールです。彼は死なない」と口々に宣言し始める。そして砂の惑星だったデューンは緑の惑星となり、他の星々を変えるべく、旅立っていく…。

ポール役を演じるはずだった、監督の息子(『エル・トポ』に出てましたね)は、インタビューに答えて、穏やかな口調で言います。「この映画は、完成すれば人々の意識を変える映画になるはずだった。でもこの映画でも、物語と同じことが起こったんだ。今、いろいろな映画を観れば、それが叫ぶ声が聞こえる。「私が『DUNEだ』」「私が『DUNEだ』」と」

私はホドロフスキーも原作の「DUNE」も好きなので、このドキュメンタリーを大変面白く見ましたが、そうじゃない方にもぜひご覧いただきたいです。志を高く持つということは、高い代償も払わなければなりませんが、それを埋め合わせるだけの価値がきっとある、ということを体得できると思います。

公式サイトはこちらです。

作品情報=ぴあ http://cinema.pia.co.jp/title/163541/
posted by 銀の匙 at 23:31| Comment(0) | TrackBack(0) | 映画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年06月15日

僕の無事を祈ってくれ

一番好きな映画は何?と聞かれたら、たくさんあるし優柔不断なんでとても返事に困るんですけど、でも、必ず挙げるであろう、1988年のカザフスタン映画。

上映権が切れたと聞いていたので、もう二度と観られないだろうと勝手に悲観していたら、2014年.オーディトリウム渋谷で開催された、ソビエト・フィルム・クラシックスで再上映してくれました!

当時はニューウェーブだったこの映画も、もはやクラシックなのね(泣)。しばらくぶりに観て、ダサく感じたらどうしようかとドキドキしてましたが、時を経ても古びないどころか、今だから分かるその尖りっぷりに痺れました。

カザフスタン共和国最大の都市、アルマ・アタ(はロシア語だそうで、いまはカザフ語のアルマトゥイって呼び方が普通らしい)に帰ってきたモロ。演じるヴィクトル・ツォイはロックバンド「キノ」のボーカリストで、いかにもロッカーって感じの立ち居振る舞いなんですが、それにしちゃ、公衆電話を掛けるときの節約法が、セコかった(あるいはまさか、当時はこういうのがカッコよかった、のでせうか)。

どうやら、まずは古馴染みのスパルタクスから貸した金を取り立てようとしてるらしいのですが、相手はからっきし意気地なしで、ネズミのようにおどおどとモロの姿に怯え、梁の上に登ってまで隠れようとする始末。モロはこういう輩には取り合わないポリシーらしく、うっちゃっておいて、射撃場へと向かいます。

そこで華麗な射撃の腕を見せているのが、どうやら元恋人らしいディーナ。父親の別荘(ダーチャ)に泊まらせてくれ、というモロの頼みに、別荘は手放してしまったと言い、彼女は自宅の部屋の鍵を手渡します。

再会してよりを戻すかに見えた2人ですが、モロはディーナの秘密に気づいてしまう…。

鑑賞しながら、カザフスタンも例外なく80年代だったんだな〜と、改めて、漏れなく地球を覆う文化のグローバル化に感じ入ってしまいました。監督さん、きっとブルース・リー映画に感化されてるだろな〜とか。

それでも、当時のカザフスタンの事情がよく反映されているのか、東アジア系、中央アジア系、ロシア系etc.と得体の知れない出自の登場人物たちが違和感なく配置されてはいますし、相変わらず配列がバラバラな時間軸といい、少しくたびれた建物や街並み、小道具をさばく独特の映像センスといい、いきなりナレーションが物語を仕切り始めたり、線画が登場したりといった映画文法の不思議な活用といい、ロシア映画(と言うのは正確じゃないかも知れないけど、とりあえず)の独自性も色濃く滲み出ています。

劇中のテレビ映像だと思ったシーンが回想シーンだったり、主人公の心境を重ね合わせていたりと、よく見ると造りも凝っています。

強そうな名前の割に、追手に怯えて自らを檻の中に閉じ込めてしまうスパルタクスや、ディーナを利用する冷酷冷徹な悪の巨魁かと思えば、水がなくなってもなおプールに隠れようとする医師、ようやく立ち直るのかと思いきや、依存から抜け出せないディーナ。

ニヒルに見えて、そんな弱い者たちを見捨てられないかのようなモロが、魅力的に見えてくるんですね…。

海が見たいと懇願するディーナを連れて出かけた場所(アラル海?)は、いかにも海辺の風景なのに、水は干上がり、ひび割れた砂漠のような場所。打ち上げられたクジラのように、陸で朽ちていく鋼鉄の船が鎮座しています。

以前二人が来たときは、ひょっとしたらここも海辺だったのかも知れません。しかし、希望を託して来てみれば、まるで別の惑星のような広漠とした風景になっています。この時点ですでに、不吉な未来の予感がするのですが、そんな中でも、モロは全く飄々としています。風に転がる草や、頭上を通り過ぎる飛行機、荒れ果てた「海の家」、こうした全ては絶望のアイコンなのに、あるいはそうだからこそ、独特の美しさを持って観る者に迫ります。

物語の舞台となる場末のカフェバー、廃墟のような動物園、古びた家具が並ぶアパート、空中庭園のある病院、どれもが常識ではとても美しいと言える代物ではないのに、激しく惹きつけられてしまいます。まるで、ナレーションの「これから美しい物語をお聞かせします」という言葉の暗示にかかったかのように…。

音の使い方も独特で、冒頭のKINOによるオープニングの歌も内容と巧みに被ってきますし、ラジオの音として流れてくるプロコフィエフの「ロミオとジュリエット」や、アパートのシーンやプールのシーンに被ってくる、ドイツ語、イタリア語講座の音声など、とても効果的で唸らされました。

ラストシーンも、日本でこれリメイクしたら絶対に主演は松田優作よねーとか余計なことを考えてしまうものの、バックに流れる歌とともに、美しく、強烈なインパクトを遺します。

主演のヴィクトル・ツォイは、まさにこの歌の通り、若くして交通事故でこの世を去ってしまいました。僕の無事を祈ってくれ…邦題にも取られた歌詞の、そして物語のラストとなるこの1行に、いつまでも響く余韻を感じています。本当に好きですね、この映画…。

オーディトリウム渋谷で観ました。ユーロスペースと同じ建物内にあります。こじんまりしたスペースですが、椅子はきちんとしています。今回の上映ではスクリーンが小さかったので7列目くらいが見やすかったですが、前に人がいると厳しいかもしれません。

作品情報=http://cinema.pia.co.jp/title/133527/
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2014年06月08日

スタフ王の野蛮な狩り

ちょうど今、オーディトリウム渋谷で「ソビエト・フィルム・クラシックス」と題した映画祭がおこなわれており、そのうちの1本として鑑賞しました。

1979年のソ連映画なんですが、第一印象はズバリ、レンフィルム製作の傑作「ロシア版シャーロックホームズ「バスカヴィル家の犬」」。

閉鎖的な村、しかも沼地で起こる事件といい、誰もが怪しく見えちゃう登場人物(ホームズと違って、ワトソン=主人公のベロレツキーさえ怪しく見えちゃうけど)といい、大筋がよく似ています。

20世紀初頭の、とある大雨の夜、沼地の村に民話の採集にやってきたという若き青年貴族学者・ベロレツキーは、雨宿りをしようと、とある屋敷のドアを叩きます。うら若く美しい女主人ナジェージダは、最初のうちこそ親しげに話をしますが、民話の採集の話になると突然席を外してしまい、執事にも女主人に失礼だとたしなめられてしまいます。

何が失礼だったのかも判然としないまま、夜中におかしな物音を聞いたベロレツキーが目撃したのは、女主人と老婆の、怪しげな悪魔祓いのような儀式。そして、一族が一堂に会しての、さらに怪しげな、女主人の成人式。祝いの客が帰ると、ナジェージダは成人式の贈り物として伯父ドゥボドフクが運び込んだ巨大な肖像画を罵倒し、気絶してしまいます。

目が覚めたナジェージダは執事に命じて、ベロレツキーにこの館と一族にまつわる呪いの話を聞かせます。かつてこの地方には、「スタフ王」と呼ばれる英雄がいました。農奴をはじめ誰もが彼を慕う中、彼女の先祖であるロマン・ヤノフスキーは快く思わず、ついに彼を亡き者にしてしまいます。「スタフ王」は12代先までお前の子孫を殺めるであろうという恐ろしい呪いの言葉を遺して消えてゆきました。

以来、ヤノフスキーの一族には変死や狂気が蔓延し、今に至るも、館にはおかしな物音が響き、沼地にはスタフ王に率いられた幽霊騎士たちが現れ、人間狩りを行うというのです。伯父から贈られた巨大な肖像画の人物こそ、彼女の偉大なる先祖であり、また呪いの源であるロマン・ヤノフスキーだったのです。ナジェージダもまた、この伝説に怯えており、幽霊騎士を見かけたり、館を走る小人を見かけたと口走ります。

昔は吸血鬼や狼男なども信じられていたし、見たという人もおりますよ、と学者らしい理性的な態度を崩さないベロレツキーでしたが、滞在を延ばすうちに沼地で何者かに発砲され、また、館の中でおかしな物音や人影を見聞きするようになります。この話は誰かが仕組んだものに違いないと周囲を疑うベロレツキーでしたが、彼が怪しんだ人物たちも沼地で次々と殺され、彼自身も幽霊騎士を目撃するに至ります。警察に乗り込んではみたものの、下手に動くと損をしますよと忠告される始末。

そして、かねて招待されていたドゥボドフクの館を訪ねると、ちょうど道化の一座が、人形劇を演じていました。演目はまさに「スタフ王」。その筋書きは、領主の美しい娘に横恋慕したスタフ王が、娘と館に隠された黄金を目当てに領主の首をはね、ひいては娘の首もはねてしまう、という、伝説とは真逆のお話でした。

ドゥボドフクの屋敷を叩きだされた道化の一座は、沼地で幽霊騎士に襲われ、あえない最期を遂げてしまいます。それを見た村人たちは…。

一体何が起こるのか先の見えない展開で、ゴシック趣味満点の設定といい、魑魅魍魎が湧き出てきそうな館の内部といい、サスペンス好きの皆様にはこたえられない内容なことはもちろん、こんな怪奇映画でなぜか全体に上品な雰囲気なのが実に不思議な味わいです。沈んだ色調の映像も美しく、見ごたえのある作品です。

ということで、サスペンスをネタバレすると面白くないので、これから観る予定の皆様はここまで。以下は観終わっての感想ですが、お話の結論部分に触れていますので、分かってもいいや、という方のみどうぞ。




以下、お話の核心部分に触れています。
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2014年05月19日

ウィズネイルと僕

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東京・吉祥寺のバウスシアターが閉館になるとのこと、ここでしか見られない作品も多かったし、爆音上映とか、面白い企画もやってて良い映画館だったのに、実に残念。

そのクロージング作品ということで観に行ってみましたが、もっと混雑してるかと思いきや、10数人のお客さんとまるでプライベート上映気分で鑑賞することになろうとは、ぐっすん。

ま、そういうしょぼくれた雰囲気が実に似合う映画ではございました。

「ウィズネイルと僕」というくらいだから、僕の方が主人公なんだろうけど、ラスト近くでステキな巻き毛を散髪してしまうのでなんかもう名前も憶えてないです(怒)。売れない役者で、しょぼくれた部屋でメガネをかけてると、いかにもなどん詰まり感が漂っていますが、どこかギリシャ彫刻のような感じの青年であります。

彼のフラットメイトが、同じく売れない役者のウィズネイル。彼ももうほとんど瀕死の状態なのですが、ハムレットとか演じたら確かに似合いそうな感じです。

この2人が、役は来ないわお金はないわ、お皿も洗わず台所に何が棲息してるかわからない状態だわ、酒も買えずにライターのオイルを飲むわ、家にはヤクの売人が勝手にのさばってるわで、もう好い加減行き詰まり、ロンドンを出て、どういう思考回路してるんだか良く分からないけど、空気の良い郊外で、一息つこうと思いつく。

そこで、ウィズネイルの羽振りのよいおじさん、モンティーに取り入って、彼のコテージの鍵を借り出すことに成功。

ところが、とことん生活能力のない2人のこと、田舎に行けば行ったで薪がなくて凍えそうだし、食べ物もないし、隣人には怪しまれるし(って実際怪しいのですが)、ロンドンにいたとき同様、あるいはそれ以上にしょぼくれた状態に陥る。

で、いい大人の男が2人して、密猟者に怯えたり、どうもその気(け)があるらしいモンティーおじさんから自業自得の仕打ちを受けたりと、とにかく話は最後まで全然華々しくならず、ビビり―2人組の、どこまで行っても情けない話なのであります。

そんなに落ちぶれてるくせに、役者だからかイギリス人だからか、スーツはパリッと着るし、(やることは超しょーもないのに)立ち居振る舞いは無駄にダンディなのが、これまた観る側をどっと脱力させるのであります。

ウィズネイルは肝心なところで逃げ腰だったり、責任逃れの嘘をついたり、突然キレたりと、確かにいろいろ困った人なんですが、ま、変人というほどでもないし、「僕」の方も他人の事はいえないロクデナシという、よくも悪くも突出したところのない似た者同士感が実に救いのない人物造形。

そしてこの2人がただダラダラしてるだけという、まるで『聖☆おにいさん』のキャラ立ってないバージョンのような(そういや「僕」は聖ペテロみたいと言われていましたっけ)、ほんと、ストーリーはどうでもいい映画です。観ながら何となく、同じイギリスの「さらば青春の光」という映画を思い出していました。

しかしまあ、特に意味などないのが人生なのであり、際立った出来事など起こらないのが日常であるわけで、この作品は、プラス、細かいディテールの積み重ねによって、一度でもイギリスに行ったことがある人なら、ああ、そうそう、こういう感じ…とピンと来るような、捉えどころのない空気感を見事に描き出しています。

自分で扉を閉めなきゃいけないフットパスの柵。雨の国の必需品、「ウェリントン」(長靴)。パブでの飲みっぷり。退役軍人の自慢ばなし。シェイクスピア。突然、部屋に座っている、どこの国から来たのかよくわからないような人物。シビルロウであつらえた背広。スノッブな中流階級。インテリア。午後のケーキ。突然の豪雨。

そして、ウィズネイル同様、いきなり放り出されてしまう寂寥感。

ある時代が終わり、新しい時代が始まっていく。しかし、自分は取り残されたまま。
それでも独り、大雨の中、シェイクピアを演じている…。

この映画をクロージング作品として選んだセンスに、惜しみない拍手を送ります。
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2014年05月15日

映画「アナと雪の女王」いっしょに歌おう(シング・アロング)版を観てきました

さて、今は昔のGW、全国60もの映画館で実施された、「アナと雪の女王」いっしょに歌おう版を観てまいりました。

シング・アロング版といえば、これも昔、イベントで観た「ロッキー・ホラー・ショー」の楽しさは格別で、今回も結構楽しみにしておりました。全員で延々「メサイア」を歌うだけ!というシング・インのイベントにも参加したことがあるし、9曲くらい楽勝よ(はぁと

しかしまあ、結論からいえば、「歌ってきました♪」じゃなくて、「観てきました」になっちゃいました(哀。

実は、不肖わたくし、せっかくの試みが成功して欲しくて、周りがどうあろうと断固として歌うつもりでおりました(私の美声で振り向かせてやるぅ、くらい思っていた・呆)。が、吹き替えとはいえ、やっぱり初見でシング・アロング版はなかなかハードルが高うございました。

なんか途中からアラゴルンみたいに鼻歌になってしまい、戴冠式で一人で歌うのってやっぱり寂しいよね、と珍しくも同情の念が沸々とわいたのであります。

お子さんが来ることを想定してか、コアなファンならどんな時間でも来ると思ってか、シング・アロング版は午前中に設定されてることが多くて、やっと見つけた夕方回の上映館は板橋のイオンシネマ。初めてきましたが、なかなか見やすい劇場でした。

客層は、ちらほらとカップルがいたものの、圧倒的に親子連れが多かったです。全9曲の挿入歌のうち、最初の歌は男性合唱なので誰も歌わず、その時点でかなり、会場のテンションが下がったように思います。

アナ(吹き替え版は神田沙也加が歌った)の「生まれてはじめて」は、ミュージカルナンバーが得意な人なら歌いやすい部類の曲ですが、お子さんには入るタイミングが難しい曲みたいで、サビの「生まれてはじめて〜音楽に乗り〜」のところから、ようやく歌声が聞こえはじめました。

私がいきなり歌ったんで、隣の席にいた連れはビビっておりましたが(あ、歌っていいって言っとくのを忘れてた)、映画のサウンドが大音量なんで、隣の人でもない限り、かなりの人数が歌っていてもほとんど聞こえません。看板曲の「Let it go」なんて、もっと皆歌うのかと思ったけど、意外におとなしかったです。オリジナルが低音だからか、これもお子さんには歌いづらかったみたいですね。

ロッキー・ホラー・ショーみたいに、入場する時点でいろいろ仕掛けがあれば、もっと盛り上がったかも知れません。六本木あたりで英語版を観れば、もう少し歌う人もいたのかな? 

でも、英語版はサビ部分はともかく、そこ以外のメロディに歌詞を嵌めて歌うのがかなり難しく、その点、母語だからってこともありますが、日本語の訳詩はとてもよくできていると思いました。

さて、そんな訳で、みんなでカラオケ大会の方はあまり盛り上がりませんでしたが、映画自体はなかなか楽しめました。オタク的に面白かった(→「指輪」ファンとしてみた場合の見どころはこちら)こともありますが、背景がきれいだったし、色遣いもケバケバしくなくていい感じでした。

そしてなんといっても、日本語版の立役者は雪だるまのオラフでしょう!
まるで狛犬のように、山寺さんの「ゴラム」ちゃんと並び立っております。

一歩間違えるとジャージャービンクス並みのウザキャラになりかねなかったところを、ピエール瀧さんのナイス吹き替えで素敵キャラに。あのしゃべりがあまりに気に入ったせいか、油断するとオラフ口調になるぅ〜。

ストーリーは大筋、「雪の女王」なんですが、雪の女王自身が助け出される役、というのがまさかの大逆転です。また、お姉さん、または妹さんがいる人なら、きっと身につまされるであろう描写が、狙ってるなーという感じでしょうか。

妹から見れば、いつもボス風を吹かせ、妹を叱るのが仕事化していて、周りからは何故か尊敬されている姉。姉から見れば、要領がよくて、ちゃっかりオイシイところをもっていき、自分の好きなようにふるまっても可愛がられる妹。姉の方は妹には言えない葛藤があるので、なおさら辛いところです。

触れたものを何でも凍らせてしまい、しまいには傷つけてしまうのを恐れている…って設定の割には、エルサおねーちゃんはなかなか乱暴です。ひょっとしてロボットものアニメを見すぎたのかも知れません(さもなきゃ、なんであんな怪物を…?)。妹のアナの方も、ホントに王女様か、オイ?というような言葉遣いや態度なので、似たもの姉妹ってところでしょうか。

それはともかく、お姉ちゃんは王位を継がなくちゃいけないので、妹ほどお気楽には過ごせません。
主題歌の「Let it go」の歌詞を見ると、同様の内容であっても、英語版の方が
「周りを気にしなくちゃいけない」お姉さん的立場の辛さがよく分かります。

Heaven knows I tried.
神様だけが知ってる、私が(隠すように)努力したってことを
とか、
Be the good girl you always had to be.
これまでのように、良い子でいなければ
とか、
Let it go, let it go. Can't hold it back anymore.
(ふさわしいふるまいという枷を)どこかにやってしまいましょう
魔法の力(と、自分を解放したいという思い)は、もう隠しておけない
とか、
I don't care what they're going to say.
気にしない、彼らが何て言おうと
The cold never bothered me anyway.
どっちみち、寒さなんて私には何ともなかったんだから
And the fears that once controlled me, can't get to me at all
私を縛っていた恐れは、もう私を捉えることはできない
That perfect girl is gone
完璧な女の子(だった私)は行ってしまった(もういない)
とかね。

日本語版の訳詞は上手いこと同内容を伝えてるんですが、
「私がどうしたいか」が主体になってるので、
ここまで空気読んでる・気ぃ遣いな感じは受けませんでした。

今は子どもの数も少ないから、お姉さん的な立場の子も増えてるだろうし、
わかるわかる〜と思う人も多いんじゃないでしょうか。
女性が共感しやすいように作ってるというのは、このあたりを指してるんでしょうかね。
かなり露骨ですけど…。

ま、スレてる観客にはこの辺はどうでも良くて、女の子2人は可愛いし、
アナはなかなかガッツがあるし、
絵は綺麗だし、スペクタクルな動きが面白いので、それで映画としてはもう十分です。

雪だるまはしゃべるんですが(エルサが魔法で作ったものだから)、トナカイはしゃべらないとか、
いちおう頑張ってるのは認めてあげましょう。

私が一番気になったのは…
(以下、お話の核心部分に触れておりますので未見の方は注意)
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2014年05月04日

ジブリ美術館と「星をかった日」

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(画像は美術館で買ったパンフレットの表紙です)

天気のよい日にぜひ行きたい、とかねがね思っておりました、東京・三鷹のジブリ美術館にようやく出かけることができました。

とは言っても、ここへ入場するのは2014年現在、ひと仕事。まずはコンビニ「ローソン」を探し出し、行きたい月の前月10日に、日時指定の入場券を購入しなければなりません。(購入の仕方は→ こちら)。ギリギリまで販売はしているみたいなので、平日なら直前まで予約はできるかと思いますが、基本、思い立ったらふらっと…が不可能な美術館、それがジブリ。

しかし、着いてみればそれも納得。平日だというのに(そして皆、切符を持っているというのに)入り口の前には入場待ちの行列ができています。これじゃ入場制限しないとケガ人が出そうです。

実は、日時指定券というのは、入場時間だけが規制されているチケットなので、選んだ時間から30分以内に入場しさえすれば、退場時間には制限がありません。そこで、相対的にお得な朝の回は、常に満員御礼状態となっているのです。

三鷹の駅からは「風のさんぽみち」という玉川上水脇の道を進めば正味20分ほど。ただ、ここは車道の脇に狭い歩道が設けられた普通の道なので、前をゆっくり散歩している人を追い越すのは難しく、結局、改札を出てから入場口まで、25分くらいかかってしまいました。

入場ゲートで入場券のチェックがあり、進むと受付があります。ここで、コンビニで発券した入場券をチケットに引き換えてくれます。チケットは映画のポジフィルムを使ったもので、他のお客さんとの良い話のタネになっていました。

建物は中も外も複雑な作りになっていて、いかにも子供が喜びそうです。子供の覗きそうな高さに開けられた小窓や、展示の前にしつらえられた足台なども、この美術館が考えるメインのお客さんが誰かを物語っておりますが、平日だったせいなのか、客層は8割おとなで、その半数以上が海外のお客さんという印象でした。

美術館なので入れ替えの展示もあるのですが、それは本当に小さなスペースなので、主には常設展示や建物の雰囲気を楽しむ美術館です。1階には常設展示と小さな映画館、2階にはアニメスタジオの再現とレストラン・中庭、3階には小さな図書室とショップがあり、どれも面白いです。

1階ではアニメーションの歴史と原理が、ひと目でわかるように紹介されています。この世にあるものはみな動いている…昔から人々は、動く絵を作りたいと願っていた、というあたり、心に響く展示です。

2階ではアニメスタジオは、再現された作業机にタップ(下絵とセルがズレないように固定するための道具)や下絵を置く棚、筆洗や筆などが並んでいるほか、たぶん日本アニメ系のアニメカラー(セルに色を塗る絵具。東映動画系のもあって、そっちは円筒形の入れ物だったと記憶してます。ビニール塗料なので、蓋をあけると物凄い匂いがするんですよね…さすがに美術館では蓋は閉まってたけど)、カメラを据え付けた撮影台など、昔ながらの道具が揃っていました。資料がみっちり詰まった本棚もあり、実家がアニメ屋さんだった私には懐かしい空間でした。今のアニメスタジオには行ったことないけど、みんなパソコンの画面に向かっているのかしら...?

全部ざっと見るだけなら30分もあればOKですが、絵コンテ(四コマ漫画みたいな、映像のための脚本)を眺めたり、原画をじっくり見たり、図書館で本を取り出したりしてしまうと、たちまち2時間3時間は使ってしまいます。図書館には宮崎駿監督がインスピレーションを受けた本が並んでおり、入り口のウィンドウには「指輪物語」が、寺島画伯の挿絵大フィーチャーで展示されていました。

レストランは1つ、他に食べ物の売店が1つあり、レストランが混むせいもあるのか、持ち込みのお弁当をテラスで食べてもよいことになっています。これは、お子さん連れには嬉しい点でしょうね。ショップはあまりの大混雑ぶりに恐れをなし、入るのをやめてしまいました。

テラスは井の頭公園に隣接しているのでとても気持ちがよく、「ザ・武蔵野」といった風景が満喫できます。ここで一日ぼーーっとしているのも良いだろうなぁ、とつい考えてしまいます。

さて、美術館の1階には土星座という小さな映画館があります。20分に1回、上映があるということでしたが、世界の名作アニメを上映するのかなとノーチェックだったところ、ジブリの短編を上映するというので慌てて列に並びました。前の上映が始まってからすぐ並んだというのに、凄まじい席取り合戦に負けて一番前の列になってしまったんですが、見やすいスクリーンで映画に没頭することができ、却ってよかったかも知れません。

その昔、「セロ弾きのゴーシュ」という長編アニメを見たことがあります。アニメだというのでお子さんがたくさん来ていたんですが、走り回ったり騒いだりと落ち着いて見られたもんじゃありませんでした。そのときの同時上映が宮崎監督の「パンダコパンダ」で、始まった途端、子供たちの食いつきが全く違います。短編だからってこともあるのかも知れませんが、最後まで皆食い入るようにスクリーンを見ていました。同じ監督の短編、これは期待できそうです。

映画は全部で9本あるようで、1か月おきくらいに1本ずつ入れ替えで上映されています。行ったときはたまたま「星をかった日」という作品でした。

観終わったあと、図書館でこの映画のプログラムを買いました。その説明によると、この作品は井上直久さんの「イバラード」を元に作られているとのこと。まるでポーランド映画かロシア映画のような、静かで美しい冒頭のシーンから、中原中也に激似(?)の主人公・ノナ少年、「紅の豚」のジーナに激似(?)のいい女、ニーニャ、目の前に広がる巨大な昼の月、相変わらずカエルの役から逃れられない大泉洋などなど、全てがツボに嵌るその世界は、たった16分とは信じられないほど深く、魅力的でした。

現時点では、ここ以外で観る方法がないのですが、入場料の1000円を払って観る価値は十二分にあります。「星をかった日」、もう1回観たい! 他にも、あのタモリさんが声の出演をしている「やどさがし」という作品もぜひ見てみたく(タモリさんの大ファンなので…)、すでに、また来ちゃおっと、と心に決めております。皆さまもぜひ、土星座の上映をチェックしてお出かけください。

さて、短編なのでストーリーを書くとネタバレ以外の何物でもないので、以下、未見の方はスルーしてくださいませ。続きを読む
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2014年01月01日

2013年に観た映画のベストはコレ:「サラゴサの写本」

明けましておめでとうございます。
今年もよろしくお願いいたします。

さて、旧年中も忙しいとか言いながら結構映画は観たのですが、感想を書き留めておくヒマが全くございませんでした。改めて備忘のために何を観たか振り返ってみると…

1月1日 ホビット 思いがけない冒険
ま、これはデフォルトなので、特にコメントの必要はないでしょう。。

1月14日 ホビット 思いがけない冒険
大雪の日にわざわざ観に行ったんでした。上映形式が他と違ってたので押さえておくかと…

1月26日 ホビット 思いがけない冒険
…だああぁあああああっつ!!!

はぁはぁ…失礼しました。それほど観てないと思ってたのに、年をまたいで同じ映画ばっかり観てたことに改めて気づきました。
気を取り直して、他に面白かった映画というと…

ロシアンカルト映画祭
日本初公開のプログラムは少なかった(なかった?)のではないかと思いますが、自分にとっては初見のものが多く、とても楽しめました。中でも『日陽はしづかに発酵し…』は本当に良かったです。
『両棲人間』だの『妖婆 死棺の呪い』『ドウエル教授の首』などなど、タイトルだけだと何だかなぁ…と思ってしまう作品も傑作ぞろいでした。

クラウドアトラス
アイデアは良かったし、劇中大切な役割を果たす「クラウドアトラス六重奏」も良かったんだけど、なんだか詰めが甘い感じの映画だったなぁ…。
でも、好きなシーンも結構あったので取りあえず元は取りましたという感じでしょうか。

セデック・バレ
昔、『イノセント』の展覧会を観に行ったときに、舞台芸術の種田陽平さんの新作がこの台湾映画で見られるというので、ずっと楽しみに待っていた作品です。結局お蔵入りしちゃったのかなと思っていたら、ついに日本公開に漕ぎ着けました。

台湾で起きた「霧社事件」を題材にして、台湾先住民の誇りをかけた戦いを描いた映画です。すごく乱暴にいうと、「インディアンが勝つ西部劇」みたいな感じ。先住民たちの行動は現代人からみると何でわざわざ…と思うところもありますが、むしろ彼らの心情は、後先考えずに特攻しがちな日本人にはかえって理解しやすいのかも知れません。

監督さんは(たぶん)漢民族の人だと思うのですが、劇中の日本人の描き方を見る限り、きっと先住民の描写も納得のいく方向になっているのではないかと推測します。例えば、現地で暮らす日本人女性が先住民女性を子守に雇っていて、「言わないと分かりゃしない。本当にグズなんだから」とこぼすシーンがあります。日本人はこんなこと言わないって? いえいえ、平成になっても日本人海外駐在妻から似たセリフを聞いたことがありますよ…他にも、先住民から慕われている警官の安藤さん。現地の人に良かれと思ってふるまっているのは分かるのですが、現代の目から見ると実は自分たちの価値観が最上だと思ってる超上から目線の人だったり、あるあるあるある、ってことばかり。(そして、時代が経つと、安藤さんみたいな人を、つい、現地に貢献した人なんて評価したりしてしまうんですよね…)。日本人の考え方やこだわりも、批判は抑えてあるがままに描写しようという姿勢に好感が持てますし、日本人俳優がきちんと演じているので、とてもリアルに感じました。

内容が内容だけに、相当スプラッタなのは避けられないのですが、先住民の考え方を表すにはすべて必要なシーンで、そこも含めて、日本人、先住民、それぞれの立場や思いに寄り添う形での映画になっていると感心しました。ただ漢民族の存在感はすごく薄く、実際当時そういう風だったのか、これほどの監督さんでも自分たちの立場をうまく表現するのは難しいのか、どっちなんだろうなって思いました。

日本人が出てくると当事者意識(?)が先に立つせいか、冷静に見られなくなってしまうかも知れませんが、
日本人のことをよく理解してくれていると思うし、一方、こういったことは近代以降、世界のあちこちで繰り返されてきたことなんだろうなあと思わせる、広がりもある内容です。

映画としてとても良い作品だと思うので、機会があったらぜひご覧ください。当時の日本人が作った集落をリアルに再現した、種田さんの素晴らしいセットもみどころです。

きっとうまくいく
好評なのも納得の1本。

オブリビオン
ぱっと見、大味なSFかと思いますが、しばらく噛みしめてると味が出てくる映画。

王になった男
「王子と乞食」の韓国時代劇バージョンのようなお話。いや、「影武者」か??
韓流に疎いせいか、主演の人は「なすび」さんに似てるなぁとかバチあたりなことを考えながら観ていました。韓流ばかりか韓国の歴史にも疎いんですけど、昔っから周りの国に翻弄される運命は変わらないらしくホントお気の毒。制作時、その辺りを訴えたい意図も少しはあったんでしょうか(ないでしょうね…)。
劇中には確か出てこなかったけど、主人公は日本史とも関係あるんですね。うーん。

風立ちぬ
見えないものを描けるのがアニメだとすると、風というのはまさにアニメ向けの素材ですね。零戦設計者の伝記だと聞いていたので、ドキュメンタリータッチなのかと思っていたら、すごくファンタジックな描写でちょっと意表を衝かれました。

サウンド・オブ・ノイズ
『風立ちぬ』と割と近い時期に観て、『風立ちぬ』と響きあうものを感じたスウェーデン映画。芸術至上主義者のやりすぎパフォーマンスを描く、とても気に入っている作品です。時間があるとき、別エントリーで感想を書きたいと思っています。

スター・トレック イントゥダークネス(重大ネタバレ注意)
お話的には大したことない映画だったのに、実は2013年、「ホビット」を堂々抜き去り、リピート回数最多を記録してしまったこの作品。何度も観た割に分かってないんですけど、最後にカーンが地球に戻ったのって、外の椅子に置き忘れた自分のコートを取りに帰るためだって理解で合ってますか?

あと、おっとこ前なスポックではありますが、死にかけた人に「長寿を祈る」指サインを贈るのはやっぱりどうかなと思います。

世界一美しい本を作る男
美術書専門の小出版、シュタイデルの社長さんに密着したドキュメンタリー。

RED レッド リターンズ
せっかく映画の日が休日だし、1000円だったら観てもいいや、って映画にしようと消極的な理由で選びましたが、映画らしい映画でとてもよかったです。

ポーランド映画祭
1作品の上映回数が少ないうえに、平日にしかやらないプログラムも多く、良作ぞろいだけに残念至極だった映画祭。それでも無理やり1本、前年の再映となった「サラゴサの写本」を観ました。

美しい挿絵が興味をそそる写本が主役の映画とあって、それだけでもうお気に入りマークが点滅しちゃうんですが、この写本を劇中で主人公が書くという流れが、LOTRファンにはたまらない展開なのであります(力説)。登場するエピソードや人物が魅力的なのももちろん、お話の中にお話が、そのお話の外にお話が、お話の外に抜け出そうとすると別の形で囚われてしまう…という映画の構造自体も考えさせられるという大変素晴らしい作品。モノクロで上映時間が3時間以上かかるのですが、観る価値は十分にありました。
この作品も、時間があったら別エントリーで感想を書きたいと思います。

今年2014年は「ブランカニエベス」の鑑賞からスタートしました。お正月休みに、ホビットの第2作を鑑賞の予定です。

それでは、また素晴らしい作品と出会える1年でありますように、
そしてブログをご覧くださった皆様にとって、良い1年となりますように!
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2013年12月01日

RED リターンズ

ポーランド映画祭を観ようと思ってた日曜日、予定の時間には家を出られなくなってしまい、ハタと考えました。そうだ、今日は映画の日!1000円ならアホ映画(失礼!)でも惜しくない!

という訳で、さっそくネットで予約を入れて、行ってみました『RED リターンズ』。全然期待してませんでしたが、期待以上。いやー、痛快痛快。アクションものはこうじゃないとね〜。

豪華キャストは伊達じゃなく、主役のブルース・ウィリスがヒーロー役にはまってるのは当然として、ジョン・マルコビッチ(上映中は、この俳優さん上手いけど知らないなーと思っていた)、アンソニー・ホプキンズ、キャサリン・ゼタ・ジョーンズなど豪華キャストをふんだんに使用。出演料だけで伊勢丹がビルごと買えそうです。一歩間違えばただの顔見世公演になりそうなところ、演技の上手さか脚本の妙か、全員、がっつりキャラが立ってます。

特にすごかったのがヘレン・ミレン。登場するとなぜかバックにヘビメタが流れ、チョウ・ユンファも真っ青の二丁拳銃と暴れん坊クールなお仕事ぶり、さすがシェイクスピア女優! 最後はヘレン女王様のドライバー役に成り下がってしまいましたが、イ・ビョンホンのドヤ顔も良い味だしてました。

こうなりますと、前作を見てないのが悔やまれますが、見てなくても困らないあたりがアクション大作のいいところ。ラストを見ると、なぁんだ、別にこの程度なら最初からふっ飛ばしちゃえばよかったじゃん…とつい思ってしまいますが、まぁその辺は何ですよ、80年代に比べると武器もデフレかもですからね。

ということで、お正月に楽しく映画を観たいなら絶対におススメします。あ、かなりバタバタ人が死にますので、その辺は1つよろしく…。

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2013年06月03日

映画『オブリビオン』(ネタバレ表示以降、未見の方は注意!)

最近のSF大作にしては2時間の上映時間はちょうど良かったですね。って、褒めるとこは、そこかい…な、感じですが、まずは映画館で観とけ、と、おススメしときましょう(何をエラそうに)。

前評判通り、背景も、登場人物も、極限までそぎ落とした映像がとてもスタイリッシュで綺麗。アイスランドでロケをしたと聞きましたが、薄い灰色、白、薄い緑が主体の地上の風景は大変美しく、雲の上にしつらえられたトム・クルーズの住居兼オフィスも本当に素敵です。

建物はセットで、眼下に映る光景はハワイの山上で撮影したものだとか。移りゆく雲、時間とともに変化していく空の色が素晴らしく、このあたりのシーンだけ編集して、ずーっと壁に投影しておきたいと思ったほどでした。

雄大な風景をバックにした追撃シーンも迫力があり、IMAXでの鑑賞がおススメです。

ヒロインのジュリアを演じたオルガ・キュリレンコは私のストライクゾーンの女優さん(誰も聞いてないですね、そんなこと。でもなぜか時々中島みゆきに似てるなーと思うこともあるんです…)。ただ、見た目あまりアメリカ人っぽくない彼女が、アンドリュー・ワイエスの絵の前に立って故郷を思い起こすシーンは、ちょっと違和感ありましたけど。

映画のぱっと見の印象は、いかにもお金のかかった、でもストーリーはいろんなSFをつぎはぎしたような作品、なんですが、観終わった直後から、じわじわと心に沁みるSF映画なんです。それは恐らく、もう一人のヒロイン、ヴィクトリアを演じたアンドレア・ライズボローの好演のおかげが大きいと思います。

お話の方も、単純なようでなかなか歯ごたえがあります。
ストーリーの「オモテ側」は、こんな感じです。

舞台は2077年の地球。エイリアンの侵攻に人類は勝利するも、その戦いのために月は破壊され、地上は地震や津波、また核兵器による汚染にさらされ、居住不可能な状態に。人類はタイタンへの移住を計画し、準備を進めていた。

しかし、計画の切り札である海水を使ったエネルギープラントは、常にエイリアン「スカヴ」の攻撃にさらされており、空中に浮かぶ、移住までの居住地「テッド」にある本部は無人偵察機ドローンによって、プラントを守っている。

なぜか5年前以前の記憶を抹消されたまま、トム・クルーズ演じるジャック・ハーパーは、ドローンの修理屋として地上に降り、地表高く作られた管制ルームで彼をサポートするヴィカとともに、たった二人、プラントを守っていた…

広大な地球をバックに男女二人だけが取り残され、故郷の大地も、かろうじて、放射能汚染地域の境界線に降りることができるだけ。頼りの本部「テッド」も、日没時には通信できなくなる。しかも、「テッド」とのやりとりは、いつも決まりきった言葉の往復…。

こんな美しくも寂しく、単調な生活が繰り返される中で、ヴィカのただ一つの希望は、あと2週間で任期が終わるということ。決まり通りの手順にしばしば違反するジャックをいつもはらはらしながら見守るヴィカ。

美しく、まるでアンドロイドのような彼女の表情は、無表情なのに何か必要以上のことを知っているような、不思議な雰囲気を漂わせています。

一方のジャックは、繰り返し繰り返し現れる記憶の断片に悩まされています。エイリアン侵攻前の地球、ニューヨークの雑踏の中で振り向く、長い黒髪の女性。エンパイア・ステートビルの屋上らしき場所の望遠鏡…。

そんなある日、地表に宇宙船が墜落するという大事故が起こります。どうやら、かつて地球からタイタンに向かうことになっていた調査船のようです。ところが、事情を知らないらしいドローンが、墜落機のカプセルで冬眠する生存者を攻撃しはじめます。ジャックは危険も顧みず、ドローンの攻撃を止めようとしますが…。


観終わった後も、いったいヴィカにはどんな記憶があったのか、繰り返し考えてしまいます。いつも伏し目がちで、指令を疑わないヴィカ。きっとジャック・ハーパーを心から愛していたであろうヴィカ。

サスペンスの謎解きや、ヒロイン・ジュリアと主人公ジャックの永遠の愛の影に隠れてしまった切ない彼女の物語こそ、この映画を記憶に留めるものにしてくれているのだと、つい思ってしまいます。




以下、ネタバレになりますので、ご覧になっていない方はご注意ください。





さて。


裏のストーリーの方は、つなぐもつなげたり、『月に囚われた男』+『ブレードランナー』+ひょっとすると『2001年宇宙の旅』+『ターミネーター』って感じでしょうか。

これは新鮮、という設定がなかったのが残念ではありますが、未来を描くと言いながら現代の問題にもつながる描写がされていること、お話の中で、いろいろな要素がそれなりに整合性が取れているので、SFとしては及第点だと思います。

結局、宇宙のどこかから現れた破壊機械(後の「テッド」)が、自らの取り込んだサンプル(NASAがタイタン調査のために送り出した探査機にのっていた、ジャックとヴィカ)を大量にコピーして地球を制圧、その後は、自らが海洋資源を利用するためにプラントを作ったものの、生き残った人類の破壊工作に遭い、防御のための無人攻撃機のメンテナンスをジャックのコピーが担っている訳です。

ところがコピーの方にもオリジナルの記憶は残っていたらしく、地球を周回し、60年ぶりに地上に呼び戻されたNASAの探査船の後部(破壊機械に取り込まれる直前にジャックが切り離した)で人工睡眠状態になっているジュリアを見て、ジャックの方はこれが夢の中の女性、そして妻だったと思い出す。

そして、管制タワーに連れ帰ると、ヴィカの方は規則違反だと強い拒絶反応を起こす。ま、単に嫉妬した、ということなのかも知れませんが、当初同じ探査機に乗っていた者同士、実はオリジナルのヴィカもジャックに思いを寄せていたのかも知れません。

どの程度記憶があるのかは分かりませんが、アンドレアが、知っていそうな、何も知らなさそうな、実に微妙な演技で、見る者に切々と迫るものがあります。

映画のストーリーの方は、このあたりを大げさに盛り上げたりせず、さらりと流しているのも、アクションものの分かりやすいSF+永遠のラブストーリーを観たい人にはそう観えるということで、面白い作りだと思います。

一方、SFの中身を見ていくと、どっかから究極の破壊機械が忽然と現れて…なんて話、唐突すぎてなんだかなー、なんですが、そんな凄いテクノロジーの割には、テッドの中身もドローンも人間の理解の範疇内なのが、怪しい感じなんですよね。

実は、テッドは宇宙の果てからやってきたのではなく、人間が秘密裏に作っていたものが、制御が効かなくなり、暴走を始めたのではないか…。そう考えると、いろいろと辻褄が合います。

第一、ドローンにしても、攻撃機能を備えた人工衛星にしても、すでに世の中に存在しているし、相手が誰かを考えもせず、無条件に殺戮しようとする兵士も存在します。ジャックも言います。ドローンではなく、ジャック自身が武器なのだと。あるいは、この作品の裏テーマは、こうした状況やこうした状況を引き起こす、人間への諷刺と見ることだってできるでしょう。

さらにもう少し、普遍的なテーマを探るならば、それはSF(そして文学)の一大テーマである、人間とは何か、ということに行き当たります。

ジャックは、地表に残された、美しい自然に囲まれた小屋の中に、死について書かれた本を大切に持っています。ジュリアと2人、歳を取り、だれにも知られることなく死んでいく…そんな将来像を語るという、決戦シーンの前によく置かれるお約束のシーンなんですが、この映画では皮肉にも、その直後に、ジャックは大量にコピーされた存在なのだということが発覚します。

ま、世界のヒーローとして彼が犠牲になるとしましょう。

でも、まだまだ「ジャック」は大量に存在してるんですよ。(感動のラストシーンにさえ、のこのこ出てきましたよね?)

トム・クルーズのファンにゃー嬉しいかも知れませんが、これは相当シュールな光景です。何せ、ジュリアを発見したジャックだって、オリジナルではないんですから、彼をジャックと認めるなら、ジャックは永遠に死なないし、取り換えの利く存在、まるで彼らが破壊しようとした機械のような存在ということになります。

ついにテッドに乗り込んできたジャックと対峙した人工頭脳は叫びます。クローンを作ったのだから、
私こそが神なのだ、と。そうだとすると、クローン(コピー)は人間ではないのでしょうか?

一方、同じ記憶、同じ身体を持っていても、経験が違うのであれば別の個体、とみなすのであれば、5年前以前の物事を忘却し、ジュリアとであったジャックはやはりジャックとは言えないのでしょうか。『トータルリコール』では、記憶をいったんなくした主人公は、記憶のなくなる前とはまるで正反対の人間になってしまうのですが…。

そういうわけで、「忘却」をタイトルに冠したこの映画、難解すぎてお客がついてこれない、という風には作っていないものの、なかなか味わい深いものがあります。他にもいろいろ解釈はできそうですね…


フェイバリット映画100のリストは→こちら です。


そのほかの映画に関するエントリーは→こちらから、
posted by 銀の匙 at 02:25| Comment(0) | TrackBack(0) | 映画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年06月01日

きっと、うまくいく 3 idiots

映画館では、「オレ、インド映画『ムトゥ』以来」みたいな話している人が多数いたように、残念ながら普段は見る機会の少ないインド映画。私も本当に久しぶりに見ましたが、さすが一般公開に踏み切っただけあって、老若男女、どなたにも楽しめる作品でした。

3時間と長尺なので(スルーされちゃいましたが「インターミッション」というテロップが出てましたので、地元で上映するときは折り返し部分で休憩が入るのでしょう)、笑って泣いて感動してたらあっと言う間でした。

ある日、いきなり母校、超名門のICE工科大に呼び出され、「勝ち組」チャトゥルの腹いせに付き合わされる羽目になった2人の同窓生、ファルハーンとラージュー。チャトゥルは、天才クラスメートのランチョーに忘れられない(爆笑ものの)屈辱を味わわされた怒りから、10年後の9月5日、すなわち今日、どちらがより成功しているか賭けをしよう、と言っていたのです。しかしその場にランチョーは現れず、なんとか今の自分の成功を見せつけたいチャトゥルと、親友を慕うファルハーンとラージューの2人は、卒業後忽然と姿を消したランチョーの行方を捜すことになります。

3人が捜すランチョーとは、気は優しくて機械オタクのナイスガイ(あんまりこういう組み合わせの人知らないけど)。Aal is well (何とかなるさ;うまく行くさ)が口癖で、学業優秀ながら正義感が強すぎ、あちこちでトラブルを引き起こしてしまいます。

彼と同室となったばかりに常に厄介事に巻き込まれてしまうファルハーンとラージューですが、そこはランチョーの機転と発明でいつもピンチを切り抜け、友情を深めていきます。ランチョーは学長をおちょくりつつも、暗記ばかりで本当の勉強をしようとしない、させない学生や学校の目を覚まそうと奮闘し、ついに首席で卒業したあと、忽然と姿を消す…というところまでが前半。ここで本来ならちょっと休憩が入り、後半にはあっと驚く展開が待っています。

工科大学生のバカ話というと、つい、「ビッグバン★セオリー/ギークな僕らの恋愛法則」を連想しちゃうんですが、こちらはセリフで笑わすというより、やんちゃで笑わすと言った感じでしょうか。理系男子あるある……的なノリは少ないものの、野郎だらけの宿舎であるある……ネタはバッチリ組み込まれ、青春ムービーにはつきもののロマンス、インド映画にはお約束のダンスシーンも盛り込んで、なおかつ細かい伏線をきっちり回収していくドラマ作りに脱帽です。

音楽はインド映画らしい、キャッチーで踊れるメロディのものばかりですが、舞台が現代の、しかも工科大ということで、アレンジがかなり現代風になっています。現代風といえば、サリーが似合えばよかった昔のぽっちゃり系ヒロインと違って、いまはイブニングドレスやジーパンなんかも颯爽と着こなせなければダメみたい。

聞いてて面白かったのは、現地語(ヒンディー語)と英語がちゃんぽんで出てくるところ。どんなときヒンディー語から英語にスイッチしているか注意してたのですが、あまりにシームレスなのでときどきいつ切り替わったか気が付かないほどです。英語の中にヒンディー語が混じってる(小学校の先生様:マスター・ジーとか)こともあるし。字幕大変だったろうな、と思ったら松岡環さんでした。ずっと前、個人でインド映画を広めるために奮闘していらしたときに、作品を見せていただいたことがあるのですが、今も変わらず頑張っていらっしゃるのに感動し、なんだか映画と重ねてみてしまいました。

感動といえば、悪役(?)っぷりが板についてた学長先生が、一番初めにランチョーから「宇宙でなんでペンが必要なんですか?鉛筆で書けばいいのに」と質問されて即答できず、一本とられた形になっていたのを、最後にキッチリ返してそのままにしておかなかったところが、とても科学者らしく、そして先生らしくてジーンと来ちゃいました。

ぜひ、ぜひ皆さまもご覧になってください。

シネリーブル池袋で見ました。ルミネの中にある小規模な映画館ですが、ラインナップがとても良いです。画面が小さいのがちょっと残念ですが、席は段差があってよく見えます。スクリーンがかなり上の方にあるので、I以降の席がおススメです。

以下、ネタバレになりますので、未見の方はご注意ください。






後半の、実は彼は大金持ちの養子で、主家の跡取りになりかわり…という展開が、なんだか『ムトゥ 踊るマハラジャ』でも見たなー(あっちは逆の立場でしたが)という感じでしたが、昔の日本の映画とか、韓流とかといっしょで、こういうのは鉄板ネタとして入ってるんでしょうか。あるいは、インドの庶民が見ると、カタルシスを得られる展開なのか、インドのことにとんと疎いのでよくわからないですが…。

今も階級社会なのか、仕事は好きに選べるのか、女の人もふつうに働いてるのかなどなど、知らない自分にもやもやしつつ見ておりました。出身地ネタも入ってたみたいでしたが、よく分からなかったのも残念。

ラストは、やっぱりねー、という感じでしたが(ペンネタも効いてましたね)、実は小学校の先生「のみ」というのでも良かったんじゃないかなと思います。それじゃチャトゥルにいっぱい食わせられないから観客は納得しないかな。優秀なら成功する、とランチョーは言ったけど、その成功が社会的地位とか、収入の額だといことなら、何だか彼の自由人っぽい言動と整合性がとれないような気がしました。

ま、収入は少ないけれど、好きな道を歩んだファルハーンのエピソードもあるし、ランチョーは結局、自分の好きなことが認められたということだし、これでいいのだ!
posted by 銀の匙 at 01:06| Comment(0) | TrackBack(0) | 映画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年03月19日

ロシアン・カルト その3

昨日書くつもりが、結局バラバラのアップロードになってしまいましたが、今回の特集上映で初めてみた作品がこちら、

妖婆 死棺の呪い

整理券もらうとき、どうしてもこのタイトルを口に出すのに抵抗があって…(笑)
はぁ、でも、ホラー映画ファンにはあまりお勧めできませんが、ロシア映画ファンにはぜひにとお勧めしたい作品です。確かにこの邦題の方がお客は入ると思いますが、ゴーゴリの原作通り、「ヴィー」にしといた方が、誤解は少なかったかも。

当初、ガチなホラー映画かと思ったので実はあまり見たくなかったんですが(連れがどうしても見たいというので仕方なく)、でも全然怖くなくて、雰囲気としては、そうですねぇ…「まんが日本昔ばなし」でお化けが出てくる回なんかの感じでしょうか。

その気で見れば、いろいろと見どころには事欠かない映画なんですが、特にすごいなーと思ったのは、棺桶美女が魔除けのために描いた円に阻まれ、ぐるぐる回りを回るシーン。当然CGなんてものはない上に、特撮じゃなくて「透明な壁がある」演技をしてるわけですが、これがパントマイムのお手本級に上手い!さすがロシアの女優さんは美人なだけじゃございませんね。

以下、内容について触れますので、これからご鑑賞予定の方は、スルーしてくださいませ!




さて、この作品、ソ連時代に作ったので天罰も怖くなかったのか、出てくる神学生も教会もかなりグタグタな感じですが、美化されてないぶん、実際きっとこんな感じだったんだろうなーと思わせるものがあります。

神学校も休暇に入り、校長先生のお説教もむなしく、(かなりトウのたった)神学生たちはやりたい放題。哲学専攻のホマーをはじめ、ワル3人組も羽目を外していますが、夕闇迫るころ、やっとたどり着いた農家で、泊めてもらおうと門を叩くと、中からはまるで妖怪のような老婆が…。

納屋に通されたホマーは老婆の妖術に嵌りますが、辛くも難を逃れ、老婆をメッタ打ちにして逃げ去ります。ところが瀕死の老婆はみるみるうちに、絶世の美女のビジュアルに。これがまた、ものすごく整った、お人形さんみたいな顔立ちの女優さんなんですよね…。

何食わぬ顔をして学校に戻ったホマーの元へ、地元の富農から、瀕死の令嬢のため祈祷をするようにとお呼びがかかります。逃げる気満々のホマーを阻止しようとする使いの男たちとのやり取りが、ロシア民話タッチでコミカルに描かれているのがなかなか面白い。民謡や農村の習俗などもふんだんに盛り込まれ、ロシア情緒が存分に味わえます。

さて、ついに逃亡もかなわず富農の前に引き立てられたホマー。令嬢はちょうど亡くなり、ホマーは生前名指しされたということで相当疑われていますが、とにかく遺言通り、3晩の間、棺桶が安置された教会で令嬢のために祈るようにと依頼されます。

いよいよ、村のひなびた木の教会で、3晩にわたる棺桶美女と神学生との対決が始まります。ドリフのコントもかくやと思わせる、朝が来るとバタっと閉まる空飛ぶ棺桶、キョンシー飛びが思わず笑っちゃう美女との一騎打ち、3晩の死闘(?)の末、ついに現れる怪物ヴィーなど、脱力ものの見どころ満載です。

神のご加護もあったのかなかったのか、ついに力尽きてしまったかに見えるホマーですが、本当はどうなったのか、この話自体が噂なのか、真相は全て藪の中、といった終わり方も、いかにも民間伝承を映画にしてみました感を醸し出して、なかなか良い感じです。

ちょっと「ピロスマニ」なんか思い出させちゃったりする色彩も味がある本作品、珍品とはいえおススメいたします。
posted by 銀の匙 at 23:43| Comment(0) | TrackBack(0) | 映画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

ロシアン・カルト その2

さて、前回に引き続きましてロシアン・カルト第2弾。

アエリータ
文芸大作の趣もあり、おススメの逸品です。これも以前、映画祭で見たことがあるのですが、すっかり忘れておりました。なんと1924年制作の無声モノクロ映画で、今回はピアノ伴奏がついており、それも含めて楽しめます。

お話は少々混みいっており、技師ローシが主人公のロシア革命後の混乱期である現実世界と、ローシが夢想する火星での幻想の世界が平行して進みます。

ある日、技師ローシは「アンタ オデリ ウタ」という不思議な文言の電文を受信します。まるで火星からのメッセージのようだ…。すっかり魅せられたローシは火星ロケットの研究をはじめるまでになります。研究が行き詰まると、彼は火星の様子を夢想します。そこには美しい女王がいて、地球の様子を好奇の目で見つめ、ローシ自身のことも気にかけている、と…。

現実世界では甘い新婚さんだったローシですが、ちょっとした行き違いから妻の不貞を疑い、ついに彼女に向かって発砲するという、取り返しのつかない罪を犯してしまいます。

執念深い刑事に殺人容疑で追い詰められたローシは、完成したロケットに乗り込み、火星へと逃げ出す羽目に陥ります。ついには、アエリータの愛を手に入れ、火星にも革命を起こして、虐げられた火星の人々を救いだした、はずだったのですが…。

あらすじからすると深刻な話っぽいですが、要所要所はコミカルで軽いタッチにまとめられています。とはいえ、モノクロならではの重厚な質感で描かれるロシア社会のリアルな描写と、ジャポネスクな衣装に身をまとう女王やアヴァンギャルドな舞台を思わせる火星の描写の対比が素晴らしいのはもちろんのこと、1920年代の雰囲気をそのまま味わうことができる貴重な作品です。

ピアノの伴奏は全くの即興だそうですが、演奏家の方は、「今回、必ず『インターナショナル』は使おうと思ってました」ということで、とても印象的に、ときに皮肉に、曲のモチーフを使っていらっしゃいました。

【以下、ネタバレです!】



この作品もかなり諷刺が効いていて、当時意図されていたかどうかはともかく、今日の眼から見ると、かなり思い切った内容に見えます。救護所に勤めながら、ブルジョワ生活についふらふらと惹かれてしまうローシの妻。彼女の不貞を責めながら、空想の中とはいえ、アエリータに靡くローシ。限られた物資をめぐる腐敗と不正。集団の都合で個人の邪魔をする革命というもの。とどのつまり、革命や戦争が生活の手段になっている赤軍戦士。

特に最後の、人々を煽って革命を起こし、政敵を抹殺したら自分が権力の座につこうとする女王のエピソードは印象的です。クーデターではよくあることなのかも知れませんが、皆が革命に酔っていたであろうこの時代に、現実の世界でだって革命も結局はこうなると見通していたのでしょうか。ここまで醒めて冷静に描けるものなのか、本当に脱帽です。

逆に、21世紀の今、自分に、自分のいま置かれた状況をここまで客観視しろと言われても、到底できません。後の世代の人から見れば、きっと何かに酔っていて、周りが見えていないんだろうということは、予測がつきますが…。

最後の「アンタ・オデリ・ウタ」
とは、広告ポスターに書かれたタイヤの商標名だったというオチも、もう空想にふけるのはやめて、祖国の建設に邁進することにするよ、といういかにもとってつけたような(当時は大まじめだったかもしれませんが)ローシの態度と考え合わせると、美しい理想も商業主義の前には膝を屈するという皮肉に思えて実にキョウレツです。

原作はSF作家、トルストイ(「戦争と平和」のトルストイとは別のひと)の作品とのこと。ちょっと読んでみたいです。








posted by 銀の匙 at 00:52| Comment(0) | TrackBack(0) | 映画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする