2005年03月17日

「王の帰還」劇場版

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以下ははいねさんの「LotR Spoiler News」に書かせて頂いた感想です。HPのバックアップ用記事です。劇場版初回・ネタバレ少々ありの内容となっております。ラストシーン中心の長い記事はこちらです。
同時期にかおる@ヨーレスのオババ様が書かれた感想はこちらです。
  


これまで同じ映画を複数回見ることは、滅多にありませんでした。ところがLotRに限っては、それこそ取り憑かれたように何度も見ています。一体なぜなのか。今回、ニュージーランドまで出掛けて「王の帰還」を都合6回も見ながら、ずっとそのことを考えておりました。

初回に見たのは12月20日、ニュージーランド最大の都市・オークランドの「Village Hoyts Queen St」というシネコンでした。深夜にもかかわらず満席です。さすが監督のお膝元だけあって、本編に先立ち、テレコム、ニュージーランド航空といったスポンサーが、LotRの名場面を巧みに使った広告を流し、気分を盛り上げてくれます。

本編を見るにあたり、原作はいったん置いて一個の映画作品として楽しむよう努めるつもりでしたが、いざ始まってみるとそんな誓いが思い出せないほど、映像に引き込まれてしまいました。ニュージーランドの壮大な自然がそのまま見せ場のシーン、一大史劇を観るようなスペクタクルなシーンが現れるかと思えば、メリーとピピンの別れの場面のように感情に訴えてくる場面も登場します。

とりわけ嬉しかったのは、脚本、演出、音楽、美術、俳優の演技など、すべての要素が調和していたことです。ストーリーの関係上扱いが大きくなくとも、それぞれのキャラクターにふさわしい見せ場が用意され、それらが大きな物語を織り成しているさまは、大小さまざまのピースがぴたりとはまってパズルが完成するような快感を与えてくれました。
戦闘シーンは凄惨で容赦のないもので、ピピンとメリー、二人のホビットの目を通して描かれ、単なる活劇に終わっていない点も評価できます。

執政家については、前作の消化不良気味なファラミアの描写に不満があったこともあり注目していました。今回は作品内で一応のまとまりがあったように思います。特に、問題になっていた食事シーンは前半の見せ場でもあり、シークエンス全体として見ると悪くないように感じました。
ジョン・ノブル扮するデネソールは、初登場のシーンにおいて、父子の情に流されすぎではと思わせつつも、「白の塔の眼は節穴ではない」に続くセリフで、執政としてそれなりの人物であることを伺わせます。
ところが、次の食事シーンに来て突如観客は悟るわけです。普通に見えても、この人は何かが決定的に狂っている。ジョン・ノブルの演技は複雑で、その行動が狂気なのか、ファラミアへの隠された愛ゆえか、どちらともとれる演出も冴えています。
白い都と黒の衣装のコントラスト、冷え冷えとした宮廷の描写から石の都に響く鐘の音まで、このシークエンス全体の編集、音楽、音響、美術のアンサンブルは絶妙で、第三部の良さが凝縮されているように思いました。

さて、ニュージーランドのお客さんの反応は、私の見る限りでは日本とあまり変わりません。拍手もしないし、歓声をあげたりもせず、おとなしい限りです。それでも、どの映画館でも笑い声が起こるシーンというのはありました。ギムリのギャグ、ガンダルフの"Get up!"、エオウィンの"I am no man!"(なぜここで皆笑うのか不思議だった)、そして、キリス・ウンゴルのシークエンスです。

キリス・ウンゴルといえば、「二つの塔」から「王の帰還」にかけて、モルドール・ルート最大の山場であり、泣けるに違いない!と期待していたところです。ところが案に相違して、先ほどまでと同じ映画かと疑うほどB級ホラー風味というか、昔なつかし東映の怪獣映画みたいな展開(そしてさすがと言うべきかハワード・ショワの音楽の、なんと場面に合っていることよ…涙)、しかもお客さんがまた、各シーンで遠慮なく笑うんですね。あまりのことに、こちらは椅子からズッコケそうになってしまいました。

主人公の絶対絶命の場面で反射的に笑っちゃうような絵をもってくるのは演出としてどうか、という以上に問題なのは、サムの心の動きと指輪の扱いです。使命をまっとうするか、一命を投げ打って主人の傍にいるか悩んだような描写もなく、危機が去った後、指輪をあっさりポケットから出されてしまうと(少しはフロドに渡すのを躊躇しますが)、本当にサムは主人に忠実だったのか、ファラミアの性格を変えてまで指輪の恐ろしさを強調したこれまでの演出ポリシーはどこへいってしまったのか、解釈に苦しみます。原作ではここでフロドが、献身的なサムさえも指輪を狙う者と見てしまうのがショッキングで、その変化は後のシーンへのステップにもなるわけですが、映画では類似のシーンが他にも用意されていますから、見る側はまたか、といった感じです。そのせいで、シークエンス全体が、ちょっとここらで見せ場を作っておくか、くらいのあってもなくてもいいような軽いものに変貌してしまったのが惜しまれます。

もう一つの問題は―これは皆様、大いに異論がおありかと思いますが―、物語中盤におけるイライジャ・ウッド(フロド)の演技です。前2作や他の出演作に比べておおよそ彼らしくなく、どうにもオーバー・アクト気味だったように思います。イライジャの演技については全く心配していなかっただけに、本当に意外でした。
私としてはむしろ、「二つの塔」でショーン・アスティンが見せた英雄的サム像の行く末が気がかりでしたが、意外に良かったです。今回良い役回りだったこともありますが、主人の危機にあっては勇敢なのに、根は平凡で素朴なホビットとして描かれていてほっとしました。
他にもモルドール・ルートの中盤は、ショットを飛ばして無理につないだような座りの悪い部分が散見され、クライマックスにも驚きが感じられませんでした。そんなこんなで、正直申し上げて初回には、ここで席を立って帰っちゃおうかなくらいにヘコみました。

ところがです。
物語が終盤に入ると、奇跡のように巻き返しが始まります。まずは滅びの山でついに何もかもが終わるところ。'And there was Frodo,...yet himself again...There was the dear master of the sweet days in the Shire.'という原作の記述そのままのシーンが展開します。原作を読んでいない観客は、この唐突なフロドの変化にちょっとムッとするかもしれませんが、ともかくこのシーンのアスティンとイライジャの演技は絶品です。ここ以降、短い時間にエピソードが詰め込まれ、観る側はついていくのが精一杯な感じはあります。ただし、かなりの改変はあるものの、驚くほど原作の味わいが残っているように思いました。原作は「指輪を捨てる」行為で物語が終わってしまうのではなく、その後も話が続いていくところが面白いのですが、映画の方も限られた時間ながら、そういうニュアンスが感じられます。

灰色港の手前、馬車のシークエンスでは、イライジャは全編を通して最高の演技を見せます。時間にしてわずか数十秒。まさに「エルフ的」な、超然とした雰囲気を漂わせながらも、痛みと悲しみ、情愛を込めた表情は、これまでのフロドの道のりを感じさせてくれる素晴らしいものです。

ラストシーンも余韻がありましたが、実は当初、おや、ハッピーエンドなのかしら、と思いました。「映画では」ガンダルフがピピンに語っているように、終わりは(恐らく)死を暗示しているのも関わらず、灰色港でのフロドの表情といい、エンディングの曲調といい、監督はあまり湿っぽい終わり方にはしたくなかったのだろうと思ったからです。ですから人によって、見る回数によっても、エンディング、ひいてはこの作品全体の受け止め方は変わってくることでしょう。初回は見終わって感動したいうより劇中のセリフ通り'It's done'、肩の荷が下りたような感じでしたが、回を重ねるにつれ、だんだん終盤の各シーンの「行間」やもっと前のシーンとのつながりが読めるようになってきたように思います。解釈が一つに定まらないところ、それがこの映画の一番の良さだと思います。

この映画は原作同様、ここさえつかめばOKという中心がありません。逆に、それぞれの細部にこそ、この映画の真髄があります。つい何度も観てしまうというのは、このへんに理由があるのかもしれません。もう一つ言うと、世界中の人から愛されている原作を下敷きにしながら、この作品にはなお、ピーター・ジャクソン監督の強烈な個性が感じられます。単なる名作映画の枠に収まらない毒気に、何かやめるにやめられない麻薬的な魅力があるようにも思います。
そうはいっても、原作はとても一つの映画的解釈だけで満足できるものではありません。バクシ版の「指輪物語」を見て映画化を決意したジャクソン監督のように、この映画を見た人たちの中から新しい「ロード・オブ・ザ・リング」が作られる日を、今から心待ちにしています。
(長文・ラストシーン中心の感想はこちら


★こちらの映画館で見ました↓
Village Hoyts Queen St。ニュージーランドのオークランドの目抜き通り、クイーンズ・ストリートにあるシネコンです。夜中まで開いているBorders New Zealandという書店やファーストフード店が併設されています。同じ建物内に巨大なスクリーンで見られる劇場もあったことを、帰国してから知り、ちょっと残念でした。

「王の帰還」(ネタバレあり・長大)

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(以下はHPのバックアップ用記事です)

映画全体の感想はこちら。決定的なネタバレはしない、ということで書いたので、ラストシーンについては書くことができませんでした。という訳で以下はこの長い長い映画の中の一番心に残った部分、ラストシーンを中心に書いたものです。読み返してみると、何だかセンチメンタルで変なんですけど、たまにはこういうのもいいかなと…。長文お許しください。
* * * * *
この物語のあらすじを一言でいえば、「主人公が指輪を捨てる話」ということになるのでしょう。だとすると、普通なら捨てるシーンがクライマックスで、成就すれば基本的に物語は終わります。ところが、原作の「指輪物語」ではその後に、「ホビット庄の掃蕩」という比較的長い章が登場するのです。これは(恐らく作者の意図したとおり)、読み手の予想の裏をかき、困惑させもします。

原作にこの章があるということはつまり、物語(またはフロド)にとって、指輪を捨てるという行為が物語の主眼ではなく、この章で起こることのために準備された、ということも考えられるのではないでしょうか。「ホビット庄の掃討」では、指輪戦争の余波によって、主人公の故郷であるホビット庄すら荒廃し、ホビット自身、同じ庄のホビットを相手に戦わざるを得なくなります。そんな中でフロドは一人、誰も傷つかないことを願い、敵であるサルマンやグリマを憐れみ、赦しを与えます。このくだりも、物語全体を締めくくる重要なモチーフです。だから、第一部の時のインタビューですでに、原作の「ホビット庄の掃蕩」に当たる部分が撮影されないことが言及されていたのは、原作をようやく読み終えた後では、大変不思議に思えました。

ところが、実際に第三部を見てみると、一つの指輪が滅ぼされた後も、原作未見の観客にとっては長すぎるであろうと思われるほど、ラストシーンまでは時間がかかります。そしてその中で、はっきりとした形ではないものの、この章のモチーフが織り込まれているのではないかと感じました。そのことを述べるまえに、もう少し映画のシーンを遡って見てみましょう。

* * * * * * * * * * * *
第三部を見ると、LotR全体がフロドを中心に組み立てられたものであることが、よくわかります。個々のエピソードが、フロドの指輪棄却を成功させる方向へと収斂していくのは勿論のこと、サムの描かれ方が抑え気味になっているのもそう思わせる一因です。原作では、彼は一時ではありますが、フロドの代わりに指輪をはめ、その誘惑に打ち勝ちます。少なくとも劇場公開版にはこのシーンはなく(あったとしたら、モルドールで指輪をはめて、なぜサウロンに見つからないのか理由を説明しなければならなくなるでしょう)、観客の前で、所有している指輪の魔力に抵抗して見せるのはフロドだけです。

第一部では、幽鬼の世界に身を置きながら、嵌めた指輪を「外す」という並大抵ではないことをしますし、
第二部では、ファラミアの手に渡ろうとする指輪を、自らの意思の力で隠します。
ただし、「抵抗している」描写は、俳優の演技に頼って表現しなければならず、映画ではいささか難しかったようです。どうしても誘惑されているシーンの方がわかりやすくて目立ちますし、内面の戦いは剣を振るうより過酷なのに、別ルートでの派手な戦闘シーンの描写の前にはかき消されがちでした。しかも、第二部の場合、いったん誘惑に屈してサムに剣を向けてしまうシーンがあるのでなおさらです(第三部の冒頭で、スメアゴルとデアゴルのシーンがあって、ようやく、剣を突きつけるシーンはこのシーンと対になっていたことがわかりますが…)。
第三部も中盤になると、フロドはほとんど動けないにも関わらず前に進もうとし、ここでやっと観客も、彼の意思の力を目に見える形で実感します。

キリス・ウンゴルのシーンではボロボロになりながら、フロドにはまだゴラムを思いやる余裕が少し残っています。このシーンを見て、フロドは優しくて強いなあとちょっとほろっと来ました。ついでにいうとここにも、映画ならではの工夫が見えると思います。映画のサムは、原作と違ってゴラムにあまり憐れみを見せません。このことが逆に主人公の長所を際だたせているし、映画のサムは指輪を嵌めなかったため、指輪所持者の気持ちを本当には理解できなかったことを示す意図もあるのでしょう。原作でフロドとサムの2人がもっている特性をどちらか1人に与えるのは、2人の総和で人物描写をしているためもあると思います。

映画では登場人物の性格をあまり複雑に描写していませんが、これは少ない持ち時間でたくさんの登場人物を出すための苦肉の策と、私には映りました。この映画で使える時間数から考えれば、本来なら登場人物はもっと整理しないと、とてもじゃないけど細かな心理描写はできません。ランキン/バス版の「王の帰還」と比較すれば、それは非常にはっきりします。ランキン/バス版はモルドール・ルート以外の描写はバッサリ切り、それでようやく原作の描写をある程度拾うことが出来ているのですが、1個の映画作品としてはあまりにも不完全です。

文章では小さな描写を積み重ねて微妙な心の動きを追うことができるのに対して、映画の人物描写はセリフではなくエピソード単位で追加しないと、観る側の頭は納得しても感情が納得しません。登場人物がそのような性格を持つに至った背景の描写も必要です。しかも、迷う、感動する、悲しい、といった心の動きに共感させるには、シーンのテンポを遅くするか、時間を長くとらなければならない。主要な登場人物全員にこれをやっていると、映画全体で見たときのテンポが悪くなる。しかし、なるべく原作に出てくる登場人物は出したい…となれば、思い切って一人一人の性格の幅は小さくし、映画の登場人物全体で、勇気や自己犠牲、崇高さといった要素を汲み取ってもらわざるを得ないでしょう。

話が脱線しました。
最後まで耐えに耐えても、フロドは結局、滅びの山で指輪を捨てることはできませんでした。彼はイシルドゥアと同様、指輪を自分のものだと宣言してしまいます(このときのフロドの表情をイシルドゥアと同じにする、という演出は余り感心しなかったけど…顔の作りが違いすぎて、同じ感情を表してるようには見えなかった…)。
なぜそうなったか。
指輪の魔力には誰も逆らうことができない、というのが原作、映画、ともに唯一の理由なのかもしれません。加えて原作を読んだ限りでは、サムとの比較において、フロドには指輪につけ入られる部分もあったのではないかと感じています。逆に映画では、指輪に向かって、まるで生贄のように自分を差し出してしまった印象を受け、彼の運命に涙しました。火口の上でまるで祈るようにうつむき、サムに答えて“I'm here, Sam”(僕はここだ、サム)と答えたときの表情に、オスギリアスでナズグルに向かって指輪を差し出したときの、恍惚とした表情を思い出したためでしょうか…。

火口の一連のシーンでのサムの表情はとてもよかった。彼は最後まで、指輪の行方ではなくて、フロドを心配していることがよく伝わりました。そこへ指輪への妄執によってか、あるいはTTTで指輪にかけた誓いによって吸い寄せられてきたのか、ゴラムが指輪を奪いに現れます。奪われあと、フロドは姿を現しますが、また指輪を取り返そうとする。ここは、指輪を滅ぼすという目的を忘れていなかったというのと、指輪に取り憑かれたままだったというのと二通り解釈できそうですが、私は後者だったと思います。原作にも火口付近で、指輪を争ってサムやゴラムを驚かすほどの力を見せる描写があります。また、ゴラムが指輪と一緒に溶岩の中に落ちたとき、フロドはかろうじて崖につかまっており、サムが手を伸ばすとフロドは一瞬ためらうような表情を見せる、ここでようやく我に返ったのではないかと思ったからです。一緒に映画を見た連れは、ここでもまだフロドは指輪に未練があったのだと言いますが…。彼はサムの“Don't you let go,Reach!”(放さないで、手を伸ばして)という呼びかけに応えてもう一度手を伸ばします。そこには、彼自身が助かりたいと思ったというより、原作でいうと、サムに言われるがままに火口から逃げる箇所と同じ心理が働いているように見えました。

外に出ると、フロドは完全に自分を取り戻し、戻ることはないであろう故郷のことを口にします。これは、滅びの山でサムが彼に語ったセリフをなぞっていると同時に、三部の冒頭でスメアゴルから失われてしまった人間らしい(ホビットらしい?)感覚を、取り戻したことを意味しているのでしょう。ついに解放された喜びに浸るフロドとは反対に、サムは泣きじゃくります。彼にとって、試練はすべて主人を助けるためのもので、自分のためではありませんでした。主人が救われた今、彼は元のとうもろこし畑から先へは一歩も踏み出せないホビットに戻ってしまい、心の奥に忘れていた平凡な自分自身の象徴ともいえる、「ロージーと結婚したい」というごく平凡な望みの封印を解いてしまったわけです。それを聞いたフロドは、

“I'm glad to be with you, Samwise Gamgee, here at the end of all things.”
(お前と一緒にいられて嬉しいよ、サムワイズ・ギャムジ―、ここで今、すべてが終わろうとするときに)

と慰めるかのように言います。 この言葉は、第一部のラストにフロドが言う“Sam. I'm glad you're with me.”を連想させます(こちらは、「お前が一緒に(ついて)来てくれて」ですね)。と同時に、フロドがサムをフルネームで呼んだときに、私が思い出したのはむしろ、こちらの言葉でした。

“I made a promise, Mr. Frodo, a promise. Don't you leave him, Samwise Gamgee, and I don't mean to.”
(僕は約束しました、フロド様。彼から決して離れるな、サムワイズ・ギャムジ―。だから、離れません)

第一部の旅の初めと、そしてフロドが単身モルドールへ向かおうとしたときにサムが言った言葉で、彼は最後までその誓約を忘れませんでした。だからフロドは、第一部でその言葉を聞いたときと同様にサムを抱擁して、先の言葉を言ったのだろうと思ったのです。この物語の中では、言葉による誓約はとても大切なものです。アラゴルンが最後に死者の王に、“I hold your oath fulfilled. Go, be at peace.”(誓いは果たされた。安らかに逝け)と言ったのと同じ意味があるのではないかと。だから、約束を最後まで守ったサムを誇りに思い(サムにとっては何よりの慰めになることでしょう)、彼と一緒にいられることが嬉しい、という意味も込められているのではないかと思います。

このようなサムの働きはもちろん、長いことフロドとサムの二人だけが知っていたことだったでしょう。それに結局、指輪を所持するという試練は、ガラドリエルが言ったように、最後までフロドだけに与えられたものでした。映画のサムは目立った栄誉を与えられることはありませんでしたが、少なくとも表面上は元の生活に帰り、新たな家族と安らぎを得ました。一方、映画のフロドは、この重荷を誰とも分かち合うことができません。「ホビット庄の掃討」が無かったので、ホビット庄は無傷なままに残されています。それに比べて、フロドの何と変わってしまったことか。故郷は救われたのに、彼にはどこにも帰るところがないのです。

緑竜館で乾杯するシーンでは、寂しげに乾杯する四人のホビットたちの姿に、ローハンで楽しそうにここのビールのことを歌うメリーとピピンの姿を重ねて、涙が流れそうでした。ローハンにいたときよりもむしろ、実際に戻ってきた後の方が故郷は遠くなってしまったように見えます。彼らの苦しい旅のことなど何も知らない村人たちに囲まれて飲むビールの味は、以前とはまるで違ってしまったのではないでしょうか。それでも他の三人は何とか元の生活に帰っていけたようですが、フロドの孤独と傷は深すぎて、到底、日々の暮らしで癒されるようなものではありませんでした。

彼はがらんとした屋敷の中で、こう思います。

How do you pick up the threads of an old life? How do you go on, when in your heart you begin to understand there is no going back? There are some things that time can not mend. Some hurts that go too deep,that have taken hold.
(どうすれば昔の暮らしに戻れるだろう、どうすればいい、もう心の底では「行って帰る」ことはあり得ないと知ってしまったら?時間をかけても癒せないものがある。受けた傷は深く根を下ろしてしまった)

机に向かって物語の続きを書くフロドの姿は、第一部のSEEでビルボが書き物をする姿につながります。しかし、同じことをしていながら、フロドしかいない袋小路屋敷は、きちんと片付いたどこか空虚な場所で、ビルボがいたときのような生気はまるで感じられないことに胸を衝かれます。

ビルボを見送って灰色港へ旅立つシーンは、映画の中でも最も心に残ったところです。フロドは、ビルボと二人で馬車に乗っています。まるで指輪を所持していた間に止められていた時が一気にのしかかってきたかのように、ビルボは年老いていて、記憶も定かではありません。そんなふうになっても、彼の指輪への思いは消えておらず、フロドに指輪を見せてくれと頼みます。その時フロドは、まるで感情をどこかに置き忘れたかのような表情で、指輪はなくしてしまった、と告げます。そうするとビルボは、“Oh,pity”と言います。願わくば、もう一度触れてみたかったのだが。その言葉を聞いた後のフロドの表情は、長く暗い試練を経て初めて到達できる境地を示していたと思います。

フロドにとってビルボは一番大切な身内であり、裂け谷で赤表紙本を見ながら交わした会話が示すとおり、憧れの存在でもありました。そんなビルボが裂け谷で指輪に取り憑かれたようなありさまになったことに、どれほどショックを受けたことか。原作では影はその場ですぐ消えうせたように書かれていますが、映画のフロドが内心どう思ったかは想像に難くありません。後にモリアで、彼はガンダルフにこう言います。

“I wish the ring had never come to me,I wish none of this had happened.”
(指輪が自分のところに来なければよかったのに。こんなことが何一つ起こらなければよかったのに)

この言葉の中には「ビルボが自分に指輪なんてくれなければ良かったのに」という意味も当然含まれているものと私は考えます。なぜなら、このセリフは、ゴラムを見つけたときの

“It's a pity Bilbo didn't kill him when he had the chance.”
(ビルボがあいつを殺しておいてくれなかったことは残念だった)

の後に出てくるセリフだからです。このときは、ガンダルフが“pity”という言葉をとらえて、フロドを諌めます。「残念だ(a pity)と言うが、その情け(the pity)こそが皆の運命を変えるかもしれない」。馬車でビルボが「pity」と言ったとき、フロドにはこの会話が思い出されたことでしょう。一度は指輪の虜になって初めて、フロドはビルボの妄執を本当に理解したのではないでしょうか。彼は哀しげに眼を閉じ、そして同情と愛情の念を込めてビルボに額を寄せます。この一瞬の表情に、私は原作の「ホビット庄の掃蕩」に匹敵する赦しを見ました。相手はサルマンではなかったけれど…。本当に素晴らしい表情でした。

フロドを演じたのがイライジャ・ウッドであったことは、この物語に神話的な色彩を与える上で、多大な貢献をしたと思います。もちろんバクシ版のアニメのように、見た目は平凡でも内に強さを秘めた人物造型にしたらもっと原作の意図に沿っていたのかもしれません。原作では、サルマンがフロドに「あんたは成長したな」というシーンもあり、主人公の成長が重要な要素でもあるのでしょう。映画では成長したというより傷ついて変わってしまったという面だけが強調された嫌いはあります。

それでも、イライジャの演じるフロドには、第一部の初めから、少年と青年のちょうどはざま、男性と女性の間、定命と不死の者の間の儚い存在、何かこの世のものならぬ雰囲気がありました。彼がフロドだったからこそ、第一部の冒頭でガラドリエルが暗示している通り、この話が単なる冒険物語ではなく、消え去ってしまった過去の記憶なのだということを視覚的にも示せたのだと思います。

第三部も終盤になると、彼はホビットというより、ほとんどエルフのように見えます。灰色港のシーンでサムに向かって赤表紙本を差し出すときの話し方、友人たちをじっと見つめる眼差しには、どこかガラドリエルを思わせるものがありました。第一部からここまでさんざん涙を流してきたのに、一番悲しいはずの別れのシーンでは、フロドは目を潤ませることすらしません。サムを抱擁したほんの一瞬、ちらりと悲しげな眼差しを向けるだけです。彼はその時点ですでに、ガンダルフがミナス・ティリスでピピンに話していたような、別の世界に住む人になっていたのでしょうか。

ここで思い出したのは、TTTのラスト、サムが自分たちの冒険が歌や物語になって語り継がれるかどうか、尋ねているシーンです。子供たちが父親に、フロドの冒険を聞きたいとせがんでいるところを想像するサム。フロドは、勇者サムワイズの話を忘れているよ、と言って笑います。原作ではキリス・ウンゴルの暗いトンネルの中で語られ、絶望的な状況の中でもくじけないホビットの強さを示す、とても好きなシーンでした。映画では、オスギリアスでの試練をなんとかクリアして、少しほっとしたところに置かれています。笑ったフロドにサムは、真面目な話をしているんだと抗議しますが、フロドはサムに向かって振り返り、自分もそうだ、と言います。この振り返った一瞬の、怖いほどの美しさは忘れられません。この時点ですでに、彼がサムの目の前に実在する人物ではないような錯覚すら覚えたものです。もはや、人々が、サムが語る、物語の中にしか存在しない人のように。

灰色港では、フロドは、すでに悲しみを超越したような表情で

“We set out to save the Shire, Sam. and it has been saved, but not for me.”
(僕たちはホビット庄を救うために出かけたね、サム。そしてホビット庄は救われた…だけど、それは僕のためではなかった)

と言います。あまりと言えばあまりな結論。サムは納得が行かず、泣きの涙で引きとめようとします。
しかしフロドは赤表紙本を彼に手渡し、終わりの方のページはお前の分だよ、と言います。そのページが尽きたとき、サムはどうするでしょうか。原作なら、フロドは、かつて一時とはいえ指輪所持者であったサムに対して、お前の番も来るだろう、と予言めいたことを言います。映画ならどうでしょう。赤表紙本を書き終えたとき、サムはようやく、彼自身の物語を生きることになるのではないでしょうか。家路をたどるサムの姿に重なってフロドは語ります。

“My dear Sam, You can not always be torn in two. You will have to be one and whole for many years. You have so much to enjoy,and to be, and to do...Your part in this story will go on.”
(サム、お前はいつも、二つに引き裂かれている訳にはいかないよ。ずっといつも一つで、完全な者でいなければ。心行くまで楽しんで、生きて、いろいろなことをするんだ。お前の物語は、続いていくのだから)

ここでtear in two、二つに引き裂かれる、とフロドが言っているのは何のことでしょう。原作を読むと、ホビット庄に帰ったあと、サムは自分の家庭をもって、一方でフロドの面倒を見ています。彼はずっと、フロドがこれほどの犠牲を払いながらそれなりの待遇を受けていないことに心を痛めていました。しかし、いざフロドからビルボに会いに行く最後の旅に誘われると、サムは、一緒に行きたいが、本当にいたいのはここ(家族のもと)だけで、二つに引き裂かれるような気持ちがする、と言うのです。こう言われることを予期しているフロドが可哀想で、読むたびにどうにもやり切れないシーンですが、映画ではこういう描写はありません。

それではサムは何と何に引き裂かれるのでしょう。フロドを懐かしむ気持ちと、今の家庭を大事にする気持ちでしょうか。私は、サムが体験した指輪戦争の出来事と、サムがこれから生きなければならない現実の生活という意味かなあ、とおぼろげながら思っています。ラストシーンで彼は、遠いまなざしをしながら、“Well...I'm back.”いま戻ったよ、と言い、過去を後ろ手に閉めるように、ドアを閉じます。サムは起こったことを忘れることはないでしょう。それでも、彼はその後、ホビットらしく生きていけるのではないかと、そんな感じがしました。

一方、フロド自身は輝くばかりの笑顔を残して、海の彼方へ去ってしまいます。アラゴルンの母ギルラインが(SEEで)「私は自分のために望みをとっておかなかった」と語ったのと同じく―フロドは、他人の幸せのために自らは犠牲になりました。あの笑顔は、残された者を祝福しているかのように見え、また、すべての痛みから解き放たれて、すでにこの世にいない人のようにも見えます。それでも、見送る者に背を向ける直前の表情は、第一部の最後に“Sam. I'm glad you're with me.”といった時と同じ、元のままの彼らしく、何だか少しほっとしました。

原作を読んだときには、あまりにも悲しくて、最後の数ページは涙なしに読み進めることができなかったものですが、映画の方は原作とはまた違った味わいがあったとでもいいましょうか。原作には、メリーとピピン、サムが泣いていたことは書いてありますが、フロドの表情については何も書かれていません。ですから、フロドが笑顔を見せるとは考えてもいなくて―というかフロドがどんな表情をしているか考えたこともなかった―良い意味で意表を衝かれました。そして、どこか他の場所へ行かなければならないのなら、せめてそこでは幸せに暮らして欲しいという気持ちをかきたてられました。とても悲しかったけれど…。

ロード・オブ・ザ・リング3部作

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(ビルボの書斎内の記事のバックアップです)映画化のニュースを目にしてから足掛け3年、ようやく最終章を見ることができました。
自分にとって、これほど語りたくなる映画も、語るのが難しい映画も初めてです。

そもそも、原作『指輪物語』を手にしたこともなかった自分にとって、「ロード・オブ・ザ・リング」はまったく未知の物語でした。にもかかわらず、製作発表時にネットに上がったほんの数点のスチルにさえ、激しく惹かれるものを感じました。そして、いよいよ映画館で第一部の予告を見てみると、一番心を動かされたのは、画面を埋め尽くした兵士たちが一瞬にしてなぎ倒される場面の映像でした。

その絵は「ファンタジー」という言葉から想像する甘くて夢のような世界とはまるで違う、動かしがたい神話か、冷徹な歴史の一コマのように見えました。期待は裏切られることはなく、第一部の冒頭では「予言」と題された音楽が流れ、ガラドリエルのナレーションが静かに、映画の結末を暗示します。これから語られる物語は、全て失われてしまったものなのだと。

この、冒頭のナレーションに関して、第一部のDVDのコメンタリ―で主演のイライジャが語る内容は示唆的です。もともとこの部分をフロドが語るヴァージョンもあったけれど、使われなくてよかった。それでは終わった冒険の話になってしまう――彼のコメントは、話の先がわかって興を殺ぐという程度の意味だったかも知れません。それはともかく、映画はフロドの冒険譚にも、彼の成長物語にもならずに済みました。第三部でフロドが記録の書き手であったことが明らかになるけれど、映画全体の語り手はやはり、彼ではありえません。彼の残したものは、伝えられるうちに歴史になり、伝説になり、そして神話に、やがては誰一人定かには知らない遠い記憶のようなものになってしまう。この寂寥感が三部を通じて流れ、映画を一つにまとめているように思います。

 このように、おとなしく作っていれば文科省推薦間違いなしの格調を備えながらも、監督はこの映画を一つの枠に閉じ込めることはしませんでした。凝りに凝ったディテールから辟易するほどの演出、ホラー、ゴシック、ラブロマンスなどジャンルは横断的にミックスされて何もかもが過剰なうえ、俗悪な部分はとことん俗悪、かといって娯楽作に偏することもせず、微妙なバランスの上に成り立っているのが優れて現代的で、興味深かったところです。長さがそれを可能にした、とは言えるかもしれませんが、凡百の監督なら素材の偉大さに負けて、自らのよって立つスタンスを捨ててしまっていたことでしょう。ただし、それをやったらハリウッドの雇われ監督の仕事と一緒です。原作は原作で面白く、映画は映画で面白い、というのが一番理想的なパターンだと思うんですが、しかし、ピーター・ジャクソン監督は、敢えて原作あってこその映画化という一線は崩しませんでした。もっと大胆な解釈を見せてくれても面白かったという気もします。

中国語に「仁者見仁、智者見智」ということわざがあります。仁を重んじる人は、何を見ても仁を見いだし、智を重んじる人は、何を見ても智を見いだす、というほどの意味です。物の見方は人それぞれ、という風にもとれましょうし、穿った言い方をすれば、物の見方によって相手を知ることができる、とも取れましょう。そう思いつつ「LotR」三部作を見ると、たとえばオークや怪物が跋扈するグロテスクなシーン、悲惨極まりない戦闘シーンは生き生きしていて、PJ監督が嬉々として付け加えたシーンのように見えます。しかし、実は原作を読み返してみると、この手の描写は少なくないのに驚きます。読んでいるときは無意識のうちに避けていたのでしょうか。変な言い方ですが、改めて原作の中に潜む一面に光を当ててもらったような気がしました。

とはいえ、最終章の「王の帰還」は、原作の制約にしばられ、限られた時間の中に詰め込めるだけエピソードを詰め込んだ感もなきにしもあらず…、それでもなお『ロード・オブ・ザ・リング』はPJの作品であり、ジャンルと表現の幅を広げたエポック・メーキングな作品だと言えるでしょう。

2005年02月06日

【revised】「ロード・オブ・ザ・リング 王の帰還」SEE版

ネタばれ注意とはいいつつ、日本版が発売される前だったため何となくぼかしておりました、「王の帰還:特別編集版」DVDの感想。コメンタリー等を見て、元記事に追加致しました。緑の字が追加部分です。
記事はこちらです。

2004年10月06日

ロード・オブ・ザ・リング交響楽(2004年9月22日@ロンドン)

交響楽パンフ

映画「ロード・オブ・ザ・リング」のための音楽を作曲者みずから6楽章のシンフォニーにまとめ、それをロンドンで2日間だけ演奏するというので、わざわざ出かけて参りました。

実はこの8月に、東京でも同趣旨の演奏会があったのですが、指揮は違う人でしたし、第一、演奏がほとんど聴くに耐えないレベルだったので、まあ、あれよりはましだろうと思っておりました。(なお、2004年12月の東京でのコンサートについては、こちらにちらっと感想を記しました)

演奏会が開かれた9月22日というのは、指輪物語のファンにとっては特別な日です。
「ホビットの冒険」の主人公ビルボと「指輪物語」の主人公フロドの誕生日だからで、映画冒頭でもこの日を祝う盛大なパーティーのシーンがありました。そんな晴れがましい日にロンドンのロイヤル・アルバート・ホールで、映画と同じロンドン・フィルが演奏するとなれば、ひょっとしてゲストにクリストファー・リーくらい来ちゃうかも…?とミーハーな望みを抱くのも無理はない…ですよね?

アルバートホール

残念ながら、ゲストは誰も来ませんでしたけど、演奏は素晴らしいものでした。
総勢200人ものフルオーケストラとコーラスが一気に揃っただけでも、その迫力たるや圧倒されるものがあります。久々に、指の先まで音楽に浸る喜びをたっぷりと味わうことができました。エルフ行軍のときの音楽や「旅の仲間」のテーマは、CDで聴くとちょっと俗っぽく、あまり好きではありませんでしたが、演奏会ではこれらのパートで音量MAXになり、これぞライブの醍醐味!という感じでとても良かったです。フルート、バイオリンなどソロ演奏はもちろん、女声合唱も厚みがあってさすがでした。

タクトは作曲者のハワード・ショアが自ら振り、これがなかなかの見ものでした。DVDなどで録音風景を見ていると、淡々と指示を出しているように見えますが、さすがは生演奏、メリハリの利いた力強い指揮ぶりに目が釘づけです。あまりにも力が入ったため、指揮台をがっつん!と痛打した音が響いた一幕もあり、背景に映るアラン・リーのイラストもそっちのけで見入ってしまいました。

思えば、ポピュラー音楽なら作曲した人の演奏を聞くのは当たり前ですが、オーケストラの場合、きちんとしたホールで現代の作曲家の演奏を、作曲家の指揮で通して聴ける機会はまれです。そういう意味でも貴重な機会でした。

とどめは最終楽章です。戴冠式のアラゴルンの歌をうたった男性歌手は、
日本公演とは違い、ばっちり鼻声でした(…わざと…?)。シセルの歌うInto the West
が柔らかく会場を包んだあと演奏は終わり、当然ながら満場の観客のスタンディング・オベーションとなりました。

演奏会

会場となったロイヤル・アルバート・ホールは円筒形をしており、音響のいいホールです。予約はホームページから簡単に入れることができ、日数があれば日本までチケットを郵送してくれます。

イギリスのホールの例にもれず、値段の高い席が見やすい席とは限りません。貴族様が後方に陣取った名残なのか、少し遠めのところの席種が高いのです(すりばち状になっているので、上の方が残響がいいのかもしれませんが…)。私が取ったのはアリーナで、2番目くらいに安いところでしたが、ショアの表情までばっちり見え、楽団員とは席の高さが同じだったため、音楽を全身に浴びることができました。ただ、今回アリーナには椅子が並べてありましたが、演目によっては立ち席になることもあるそうです。

今度の12月にはショアの指揮で日本再公演があるそうです。今度はロシアのオケと組むそうですが、さてどうなりますことやら…。