2016年11月06日

カゲロウデイズ in a day's

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(↑劇場でいただいたミニパンフレット。キャラクターデザイン集です&ムビチケ)

自分は映画関係者でもなんでもございませんが、ゼロから作品を作ることの困難さについては少しは承知しているつもりだし、特に鑑賞眼が優れているわけでもないので、「良くなかった」と思った作品の感想を書いても意味ないと思っているのですが、それにしてもこれはひどかった。

GIFアニメかと思うほど平板で簡単な動きしかないアニメを4Dや3Dにするなんて…。

そもそも、劇場で公開するレベルとも思えない。

それでもたくさんの人が関わっていたらしいことはエンドロールで分かったけれど、なぜこうなってしまったのでしょう。

話も途中から始まって途中で終わり。初見の観客のことは、一切関知していません、っていうか、ファンの皆さんはあれで満足なんでしょうか。イラストは上手いけどお話が作れない漫画家さんのマンガみたいでした。

webや紙媒体は面白かったので観に行ったんだけど、ガッカリしたというより、ビックリしました。映画しか観てない人に、この程度の作品なのかと思われたらもったいないと思わなかったのでしょうか。

すごく好意的に解釈すれば、webネイティブ世代のクリエイターの作品を、これまでのセルアニメ的な表現に押し込めようとしたことが、どだい間違っていたのかも知れません。

だったら、別に映画にしなくてもいいじゃない。
やりたい方向で頑張れ。

でも、もしまた映画を作るなら、次は新しいところを見せて欲しい。誰が悪かったのかはわからないけど、ファンだと思って観客をナメてはいけません。
本気出してください。期待しています。

TOHOシネマズ六本木で観ました。
スクリーン8がMX4Dの劇場です。スクリーンが小さめなので、
F列くらいが見やすいと思います。

ぴあ映画生活
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2016年11月02日

サーミの血/サーミ・ブラッド(表示以降、お話の結末に触れています)

【2016年9月16日〜劇場公開決定!】
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(↑ ノルウェーで購入した絵葉書より)

一昨年ノルウェーの北極圏を定期船で旅したとき、船が主催する、ヨーロッパ最北端への小さなバス旅に参加しました。

道すがら、地元のバスガイドさんは、昔からその地方に住んでいる、サーミという人たちのことを話してくれました。トナカイを放牧したり、漁業をしたりして生計を立てているそうで、彼らの歌う不思議なうたも聞かせてくれました。「ヨイク」という歌で、聴き手もトランス状態に陥りそうな、シャーマンのお祈りのうたのような感じでした。

バスは放牧地に立ち寄り、そこには民族衣装を着たサーミのおばあさんが一人、トナカイの傍らでぽつんと立っていました。ガイドさんに記念撮影をどうぞと言われ―おばあさんもそのために待っていてくれたのですが、何だか見世物扱いしているようで、複雑な心境でした。

第一、民族衣装を着ていることを除けば、サーミの人は、一般のノルウェーの人たちと特に変わったところはないように見えました。北極圏に住む先住民族はアジア系しかいないと思い込んでいた自分には、これはかなりの驚きでした。

がぜん興味が沸いたので、ベルゲンの街で船を下りたあと、サーミの人について書かれた本やCDなどを探したのですが、唯一の収穫は↑絵葉書だけ。残念に思っていたところ、サーミによるサーミの映画が上映されることを知り、鑑賞いたしました。

お話の舞台はスウェーデン。

サーミの老婦人・クリスティーナが息子に連れられ、妹の葬式に参列するためにやってきます。

しかし彼女はサーミとして扱われるのを嫌っているらしく、サーミは嘘つきで物盗りだと罵り、参列者である郷里の人々との語らいや、サーミの伝統行事に参加しようとする息子や孫娘を避けて、一人、ホテルに残ります。

参列者を見た他の旅行客たちは、食事の席でサーミについて噂し、「あの人たちはどこでもバイクで乗り入れる」「自然保護地域を破壊している」「サーミは自然と共生する人たちだと思っていたのに」等々と非難し、クリスティーナは我が意を得たかのように聞いています。

ディスコに興じる人々の間をさまよい、放牧地に向けてヘリコプターで出発する息子たちを、ホテルの窓からぼんやり眺めるクリスティーナ。その視線の先に、少女時代の思い出が蘇ります。

当時、スウェーデンでは同化政策がとられており、サーミの子供たちだけが通う寄宿学校ではサーミのことばは禁じられていました。

スウェーデン語を習い、本を読み、教師になることを夢見る賢い少女・エル=マリャは、自分のおかれた境遇に我慢できず、首都の高校に通いたいと願い出ますが、サーミには文明世界に適応する能力がない、街に出たら絶滅してしまうと教師に拒否されてしまいます。

外の世界に憧れるエル=マリャは、スウェーデン人の集まるダンスパーティーに潜り込み、教師の名・クリスティーナを名乗って、裕福そうな青年と知り合います。それをきっかけに彼女は家を出て、ウプサラの高校に入学することに成功するのですが…。

               *

少女時代のエル=マリャを演じたのはサーミの女性で、何よりも彼女がとても魅力的でした。八方ふさがりの状況の中で、何とかして自分の運命を切り開こうとする少女の冒険物語として面白く、彼女の姿に心打たれると共に、ルーツを捨てて生きることを選んだ彼女への複雑な思いも抱かせる、見事な作品でした。

東京国際映画祭で観ました。
上映後、アマンダ・ケンネル監督と主演のレーネ=セシリア・スパルロクによるティーチインがありました。ネタバレになりますので、OKな方はどうぞ以下もご覧ください。







冒頭、彼女の語った「嘘つきで物盗り」とは彼女自身のことに他ならなかったわけですが、彼女のおかれた状況からすれば、ある程度小狡く立ち回らない限り、境遇を変えることは絶望的でした。

パーティーに行ってしまった彼女をおいかけてきた妹に、スウェーデン人の少年たちから言われた侮蔑のことばをそのまま投げつけて、追い払おうとするわけですが、自ら差別する側に立って差別から逃れようとするその行動は褒められたものではないけれど、自分も同じ立場ならやってしまうかも知れない。

監督いうところの「サバイバル術」に長けていたために、彼女は意志を通すことができた。ホテルで他の宿泊客に語ったことが本当なら、彼女はその後、希望通り教師になり、サーミというルーツから逃れて成功したということになります。

しかし、老齢になって来し方を振り返ったとき、果たしてそれが理想的な生き方だったのかと彼女自身、忸怩たる思いがあったに違いありません。

誰もいなくなった教会で妹の遺骸に寄り添ったとき、彼女は捨ててきたルーツや過去とも、ようやく和解できたかのように見えました。

しかし、彼女がそんな思いをしなければならなかったのは、彼女自身のせいでは全くないのです。

ラストシーン、ヘリコプターで行くような放牧地へ、彼女は自らの力で登っていきます。そこは、昔ながらのテントが張られる一方で、非難された通り、大型のオートバイが何台も止められているところです。その印象的な光景に、自分の物差しで他者をはかり、圧迫することの愚かさをまざまざと見せつけられた気がします。

         *

上映が終わり、監督のアマンダさんと主演女優のレーネさんが登場し、ティーチインとなりました。

作品の素晴らしさに比例するように、熱心な質問がいくつも出されましたが、アマンダさんは余裕で、レーネさんは一生懸命、英語で答えてくれました。

レーネさんは普段はトナカイの放牧をして暮らしているとのことで、アマンダさんからはe-mailでコンタクトがあったそうです。今、放牧にはバイクや四駆が使われているということで、あの広大な地域を移動するのですから、そりゃあった方が便利ですよね。

映画冒頭の旅行客のセリフは、監督が本当に聞いたことを取り入れているそうです。

今、スウェーデンでは同化政策も改められ、レーネさんの世代はサーミであることに誇りを持っているといいますが、外野の人たちの考えは大して改まっていないように思えてなりません。

自然保護区を荒らしていると言っても、そこは元々サーミの職場だったのだし、そこでバイクを使うことを「サーミ特権(?)」のように非難するのはどんなもんなんでしょうか…じゃ、あなたたちのオフィスの周りを自然保護区に指定しますから、歩いて通ってね、出張も歩きですからね、と言ってやりたい…。

先住民族だからって勝手に「自然と共生してる」みたいなレッテルを貼られて、イメージ通りでないと嫌がられるっていうのも何なんだかな…バイキングの子孫なんでしょ、なんで手漕ぎ船に乗らないの。飛行機に乗るなんてあり得ない、と言ってやりたい…。

と思っていると、会場からは早速、チベットに行ったときに見た、チベットの人たちのおかれている状況に似ていると感じました、と言う発言が出ました。

するとすかさず別の方から、日本も昔、台湾や韓国を植民地にして、同じような政策を行っていました。そうした人たちはどういう意識を持つべきでしょうか、という強烈なカウンターが飛んできました。

相手の足を踏んだ人は、踏んだことを忘れてしまう。踏まれた人は痛さを忘れない、という言葉を一瞬思い出してしまいましたが、監督さんは少し考えて、静かに、こんな風に答えてくれました。

監督という仕事の良いところは、問いかけをすることはあっても、答えを提示しなくていいことです。映画とは、自分の前に立てた鏡のようなもの。自分のしたことを映し出し、自省を促して、前へと進んでいくのです。

もう一つの興味深い質問は、カメラの位置に関するものでした。

この映画は主演のレーネさんに貼りつくようにして撮られたショットが多いのですが、なぜでしょうか、という問いに対して監督は、

ヒロインのアップが多いのは意図的なものです。出来事を、他人事ではなく、彼女の目を通してとらえて欲しかったからです。だから、ほとんどのシーンに彼女の姿が映っています。

もう一つは、余計なものを排除するためです。この映画は1930年代を舞台にしているため、カメラを引くと、道端のリンゴ売りだとか、人々の衣装だとかといった、30年代の風景が入り込むことになります。そうすると、観客の関心が当時の風俗習慣の方に向いてしまう。それを避けるためです。

サーミの人びとを記録した学術映画や、人類学的な興味ではなく、ひとりの少女の物語としてこの映画を観て欲しい、という監督さんの意図が表現された演出だったのですね...これは、質問をした方もスゴイと思いました。

というわけで、かしこ可愛いサーミの少女・エル=マリャのド根性冒険物語を楽しみつつ、自らを省みさせる素晴らしい本作品、後日、日本公開もありそうだとのことですので、ぜひお見逃しなく!

ぴあ映画生活

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2016年10月31日

ソング・オブ・ザ・シー 海のうた

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(劇場でいただいたポストカード)

ケルト風の歌や音楽がふんだんに持ち込まれたアイルランドのアニメーション、と聞いて、観るしかない!!と出かけてみたら、なんとビックリ、日本語吹き替え版でした。

大人のための映画館で、1日1回夜の上映しかないんだから、原語版にしてくれればいいのに…、と思ったけどひょっとして字幕版がないのかしら???

ということで、ゲール語は聞けませんでしたが、なんかこうハッキリ思い出せないんだけど、すごく日本アニメ風のキャラクター(おじゃまんが山田くん…のわけないか)と、海や岩、森などの美しい背景美術の組み合わせが面白い作品でした。

とはいえ、まるっきりほんわかファンタジーというわけでもなく、自然の風景の中にゴミなんかもちゃんと描き込まれています。

また、上のポストカード↑にありますように、お話の設定にハロウィーンが使われており、妖精たちがオーロラに乗り、人の国から自分たちの住む世界へ帰る日として登場します。

日本では大人の仮装大会に変換されているため、迷惑としか感じないこのお祭りですが、この物語の中では異界と現世がひととき交わる「お盆」的な、神秘的で、しかしどこか懐かしい雰囲気で描かれています。
 
          *

灯台守の父と暮らす少年・ベンは、母の形見の巻貝の笛を大切にしていました。ベンは、妹・シアーシャの出産と同時に母を失ってしまったために、つい妹にいじわるばかりしてしまいます。

かねてから、子どもたちの境遇を心配していた祖母は、シアーシャが6歳の誕生日に一人で海に入ってしまった事件をきっかけに、子どもたちを街で育てることにします。街の暮らしが気に入らず、逃げ帰ることばかり考えているベン。

ハロウィンの日、兄から止められていたにも関わらずシアーシャが巻貝の笛を吹くと、仮装した3人組が現れ、「セルキーを見つけた」とシアーシャを連れていってしまいます...

          *

物語も絵同様、日本ではなじみのないユニークなモチーフと、どこか懐かしい神話・伝説のモチーフとがないまぜになって、不思議な世界観を作りだしています。

子供向けのアニメですが、お父さん、どうやってお母さんと知り合ったんだろう…とか、シアーシャはどうして最後にあの選択をしたんだろう…とか、大人が観てもちょっと考えさせられるところのあるアニメです。

ガーデンシネマ恵比寿で観ました。
トム・ムーア監督
http://songofthesea.jp/

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2016年10月24日

スター・トレック Beyond (ネタバレなし)

この秋の目玉はコレでしょう! と思って観に行きましたところ、期待にたがわず滅茶苦茶でした。

いくらBeyondだからって、Beyond過ぎ(むしろ「彼岸過迄」)。

そりゃそうですよね、(自分的に)口あんぐりランキング堂々第2位の『ワイルド・スピード』の監督さんだもの、当然3位もイタダキです(ちなみに、第1位は『マッド・マックス』)。

予告がこんなん(→ https://www.youtube.com/watch?v=IVoN9lT1AqQ )だったんで、あらまジャスティン・リン監督も大人になったのね(?)、ずいぶんシンミリした話になったこと、と思っていたら、もちろん違いました。

むしろ、こっちの予告の方が映画全体のイメージに近いです
(なぜ隠す・笑)

https://www.youtube.com/watch?v=XRVD32rnzOw

前後にそれらしいストーリーをくっつけて艤装していますが、この弾けっぷり、もはや、スター・トレックでもないし、SFですらありません(笑)。

じゃあ何かっていうと、まあ…エンタープライズ号を使った『ワイルド・スピード』かな。

アメリカでは映画館の3面を使って上映するマルチ・スクリーン版

https://www.youtube.com/watch?v=lDWIc4MGirE

というのもあるそうで、なるほどピッタリ。日本でも観てみたいなあ...。

話は3行どころか30字にまとめてもネタバレになりそうなんで、やめておきますが、1つだけ。

お姉さん、なんで英語がしゃべれるの?
 →家で勉強した 

ってふざけんなあああっ! どうして学校で10年英語を勉強した日本人より上手いのよおっ!と映画館で暴れそうになったけど、これが重要な(唯一の?)伏線だったのかなあ...と1週間経ってから気がつく私にSF映画を語る資格があるのでしょうか。

いや、ない。

とっちらかった感想になりましたが、強力におススメです。
予算の許す限り、デカい! 飛び出す! 劇場で観ましょう。

今回、全編にわたって活躍したアントン・イェルチンを偲びつつ。

posted by 銀の匙 at 08:28| Comment(2) | TrackBack(0) | 映画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年09月25日

君の名は。(表示以降ストーリーの結末に触れています)

東京ドームシティに「宇宙ミュージアム TenQ」というスポットがありまして、この夏、新海誠監督の展示があるというので行ってみました。

http://www.tokyo-dome.co.jp/tenq/exhibition/7/

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なぜ新海監督の展示に行ったかという話がちょっとややこしいのですが、今年行われた「ラ・フォルジュルネ・オ・ジャポン」というクラシック音楽の祭典のキービジュアルがとてもステキで。

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この絵を描かれたのは画家の四宮義俊という方なのだそうですが、なぜ採用されたかといえば、音楽祭のディレクター、ルネ・マルタンさんが新海監督の作品「言の葉の庭」のポスターに使われた四宮さんの作品を見て気に入ったから、という説明がされていました。
http://www.lfj.jp/lfj_2016/about/article_02.html

で、四宮さんが新海監督の新作にも協力されているということだったので見に行ってみたわけです。

スペースは小さめでしたが、映像美をじっくり堪能できる展示でした。(展示は2016年11月6日まで)

予告も上映されていて、それを見た感じでは恋愛ものにちょこっとファンタジーを絡めた、よくあるパターンのアニメなのかなと思って、こんなに映像が美しいのに、お話でガッカリしたらやだなぁと思いつつ、でも思いきって劇場に行ってまいりました。

大きなスクリーンで観る絵の美しさは格別でした。

空の色、自然の風景、街の情景。

ことに素晴らしかったのは、主人公のひとり・瀧〈たき〉が祠の中で何かに引き込まれていくようなシーン。色鉛筆で書かれたような不思議なタッチと色、観ているこちらまで引き込まれるような動きに文字通り息を呑みました。ここを観るためにもう一回映画を観たいくらい…。

ストーリーの方も、三葉〈みつは〉と瀧の主人公2人がとても好感のもてるキャラクターで、途中から思いっきり応援モードに入ってしまいました。ちょうど良い頃合いの長さの映画でしたが、この2人の微笑ましくも奇妙な日常(?)のエピソードをもっともっと観たかったなぁ...ホントに面白かった。

ずっと東京に住んでると、そんなに東京って憧れるようなところかな?といつも思うんですが(東京だって、高校生にとってのカフェ事情は三葉の故郷と同じですってば! 放課後にカフェに入り浸ってあんな高いパンケーキ食べてる高校生なんて滅多にいないって!)、ま、そこがファンタジーだって理解してあげるとしましょう。

日照時間だって長くないですよ!!!日当たり悪いんだからさ(笑)。

なんてツッコみつつも、観終わった後は良い歳して滂沱の涙で、恥ずかしくて席を立てなかったですよ。

それは、もちろん、主人公2人の物語に泣けたということもあるし、もうちょい別の意味もありました。
ただ、理由はネタバレになってしまうので、まだ観ていない方はここまで。

お話の内容が分かっても良い方は、どうぞ続きをご覧ください。











予告編を観て予想できたストーリーは、主人公の2人の心が入れ替わってしまうということと、彗星が関係ありそうだ、というところまででしたが、基本、推測通りに話は進んでいきます。

ヒロイン・三葉の住む、糸守町の全景が出てきたところで、誰もが、こりゃ隕石かなんかが落ちたクレーターのあとだろ...と思ったことでしょう。そして何度も繰り返される目覚めと夢。「時をかける少女」みたいだな、と思ってると、やはり彗星が墜ちて、町が消滅したという展開になってきました。

これは、「時をかける少女」みたいに、事件の前に何度もタイムリープして事態を打開しよう、という話になるか、萩尾望都先生の「金曜の夜の集会」みたいになるのかな(「金曜の…」のネタバレになるのでこの先は書きませんが、心打たれる素晴らしい作品なので、ぜひお読みになってみてください)、と思っていたら、そこはあまりややこしいことにはならずに、最終的には町も救われ、2人は再会できる、というハッピーエンドになっています。

観終わった後には心底ホッとするとともに、もしこの作品が10年前に作られていたら、エンディングはちょっと違っていたかも知れないな、と思いました。

瀧が、三葉のいた町が消滅すると知ったときに登場する、新聞や映像、犠牲者の名簿などの映像を観て、日本に長年住んでいる人ならきっと無意識に、恐ろしい自然災害の記憶が呼び覚まされるに違いありません。

大自然の脅威の前に、なすすべもない私たち。火山の噴火、台風、大雨、大地震、津波…21世紀の今さえ、大きな災害の前には集落1つ、村1つ、あるいは地域ごと、跡形もなくなってしまうことを、日本に住む人ならいつも心のどこかに感じているはずです。

私は東京に住んでいるので、小さいころから繰り返し繰り返し、関東大震災の恐ろしさを聞かされています。ひとたび地震がくれば、目の前のにぎやかな街もあっという間に崩れてしまうだろう。大きな火事も起きるかもしれない。そのときもし、自分が生き残って、親しい人が犠牲になったら?

そんなとき、もし災害の1日前に戻ることができて、皆を助けることができたら、どんなに良いか…。

無理だと分かっていても、3.11を経験した後でスクリーンの中でそれが観られたことに、とてつもなく安堵しました。これがハッピーエンドじゃなかったら、きっと耐えられなかったことでしょう。

この作品が世界中で観られたときに、今の思いを分かってもらうのはなかなか難しいかもしれません。何だか取って付けたような終わり方だと思われたり、非合理だという批判があるかもしれない。でもこのお話はこれで良かった。監督、本当にありがとう。

新海 誠監督

お台場シネマメディアージュで観ました。
スクリーン2はやや小さめなので、通路の前後くらいがいいかも知れません。
シートは快適です。
ここはあらかじめ予約ができない劇場なので、
ふらっと映画が観たくなったときでもたいてい席がある、
今どきとてもありがたい映画館です。

君の名は。|ぴあ映画生活

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2016年09月19日

Sparrows(Þrestir)

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飛行機でたまたま目にした、2015年のアイスランド・アカデミー賞ノミネート作品。

この映画を観られただけでも、遠路はるばるやってきた甲斐がありました。
オープニング画面↑が現れた瞬間から、もうこの作品の虜です。

お話自体は、母親と暮らしていた16歳のAri(Atli Oskar Fjalarsson)が、6年も会っていなかった父や祖母と暮らすことになり、一歩大人に近づくところまでを静かな筆致で描いたもの。

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ストーリーにさほど大きな起伏はないのですが、飲んだくれのダメ男である父の不器用な愛情表現や、Ariと彼を取り巻く人々とのやりとりが、繊細に綴られていきます。

映画の中で大きな役割を果たすのは、アイスランドの風景です。

物語の舞台になっている場所は西部フィヨルド地方だそうで、人口の少ないアイスランドの中でもさらに訪れる人の少ない、隔絶された地域という印象のある場所です…と言っても、外国人の目から見ると、いかにもアイスランドらしい景色だなあ、くらいな感じですが…。

ふつうの生活を題材にしながら、その国らしさを感じさせるというのは意外に難しいのではないかと思いますが、特に観光名所が映るわけでもないのに、画面の隅々からアイスランドらしさを感じるのも、この映画の魅力の1つかと思います。

エンドロールにエキストラの人たち全員(?)の名前が出てくるのも、手作り感というか、アイスランドらしい感じがするなあ、と思いました。

もう1つの大きな魅力は音楽です。

冒頭、Ariは聖歌隊のクリスマスコンサートで歌っていて、それがTV中継されたのを家族みんなが誇らしく思っているのが伺われます。

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この曲に限らず、全編を素晴らしい音楽が彩っており、いったい誰の曲だろう、とまたもエンドロールを必死に見つめてしまいました。アイスランドの現代音楽の作曲家、故Magnús Blöndal Jóhannssonと、シガーロスのキーボーディストだったキャルタン・スヴェイソン(Kjartan Sveinsson)の曲が使われているようです。

冒頭の聖歌を含む予告編をこちら↓から観ることができます。
映画の雰囲気をよく伝える、秀逸な予告編だと思います。
https://www.youtube.com/watch?v=bvNw3WqecEo

世界の映画祭でも賞を獲っているようなので、そのうち日本でも上映してくれるのを心待ちにしています。

Rúnar Rúnarsson監督作品

公式HPはこちら→ http://nimbusfilm.dk/film/sparrows/
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2016年08月18日

蘭陵王(テレビドラマ30/走馬看花編 第18話)

皆さま、こんにちは。

不肖わたくしは違いますが、世間様は楽しい夏休み。
帰省する方もいらっしゃれば、
旅行する方もいらっしゃるかも知れませんね。

どうせなら遠くに旅したいなあ、と思われた皆さま。
実は、日本にいながらにして、1400年前の北斉にトリップできる場所があるのですよ!

ってまたまた〜、レンタルDVD屋とかっていうのがオチなんでしょ?とお疑いを受けるのは、これまでの実績からして当然の報い(?)ではございますが、いえいえ、ちゃんとリアルなものです。

ひょっとしたら夏休みを利用して都内にいらっしゃる方もおられるかもと思い、急いでエントリーしました。なので、この記事はあとから内容を追記させていただくことがあるかと思いますが、とりあえず。

なお、私が知ってるのは東京のスポットだけですが、ちゃんと調べれば、日本で他にも北斉気分を体験できるところはあるのかも。

と、思わせぶりな前ふりから早速まいりましょう、第18話
なお、前回の第17話は→こちら から、蘭陵王関係のエントリーをご覧になりたい方は→史実編 または→蘭陵王のカテゴリー からご覧ください。

*

斉国の皇子・蘭陵王〈らんりょうおう/Lanling Wang〉=高長恭〈こう ちょうきょう/Gao Changgong〉=四爺〈スーイエ/Si Ye〉との婚儀を間近に控えながら、敵国・周の皇帝=宇文邕<うぶん よう/Yuwen Yong>=「余を仔ブタと呼んでも良い」陛下の、姪のやまいを治してほしいとの懇願にほだされ、周の宮廷に赴いた、天女・楊雪舞〈よう せつぶ/Yang Xuewu〉。

ミッションを無事果たしたうえ、宿敵であった宇文護を除くことにも貢献した天女に、宇文邕はますますメロメロです。

しかし、近衛兵に身をやつして密かに雪舞を見守っていた蘭陵王が、横取りを許すはずもなし。

国境近くまで2人を追ってきた宇文邕は引き際に、3年の間は斉を攻めないと約束し、停戦協定書を手渡します。

蘭陵王は「斉の民に代わって感謝する」と、それを受け取るのですが…


*

さて、爽やかに晴れました北斉の都・鄴〈ぎょう/Ye〉の朝。
時の皇帝・武成帝の御前で、四爺が停戦について報告しています。

古代、皇帝の御前での会議は、今みたいに午後いちでミーティング、って訳じゃなく、「朝議」という言葉がありますように、朝行われていました。

朝っていってもいろいろありますが、真面目な皇帝だと「日の出」に設定したため、都の端っこに住んでる大臣とかは参内するのに夜明け前から支度しなくちゃいけなかったらしい。

とはいえ、普通は「卯の刻〈うのこく〉」(朝6時くらい)に設定されていたらしく、出勤することを“応卯”といい、そのとき、ちゃんと出勤してるかどうか点呼を取るのを“点卯”といいました。

なので、今でも点呼や出勤時にタイムレコーダーを押すのを“点卯”といったりするそうです。

まさか6時出勤じゃないとは思いますけど…。

ってことで皆さん早起きして参集しておられる中、蘭陵王は宇文邕から預かった停戦協定を渡します。

皇帝はいちおう喜んでくれているのですが、でも普通、臣下が停戦協定なんかいきなり持ってきたら疑わない?

そもそも、毎朝“点卯”してるはずなのに、突然1か月無断欠勤したわけでしょう、弟の安徳王〈あんとくおう/Ande Wang〉=高延宗〈こう えんそう/Gao Yanzong〉=五爺〈ウーイエ/Wu Ye〉に託して説明はしたんでしょうけど、一体何て言い訳したのやら。

そんなの、本当の事を言えばいいじゃないか…とお思いでしょうが、王、王妃の身分で勝手によその国に滞在したり、あまつさえ、ディズニーランドに行ったりしたら、エライ人の逆鱗に触れるに決まっています。

しかも、この回にも出てきますが雪舞は婚礼を控えた身、親族の男性にだって接触してはいけないのですから…

そこへもってきて突然の停戦協定。使節として赴いたわけでもないし、ましてや皇帝でもないのに、蘭陵王に受け取る資格があるんだろうか…。

と、祖珽〈そ てい〉がこの場に居たら絶対ツッコんだと思うけど、誰も気が付かないのか華麗にスルーされているので仕方ありません。

皇帝はこのめでたい報せを御仏に感謝するため、寺院を建立しようと言い出します。

四爺が民の負担を思って難色を示すと、皇太子の高緯〈こう い/Gao Wei〉は「民の教化のため」「父君は頑固な頭痛を患っているが、仏寺を建立して軽快している」と言い出します。

ここで段紹〈だん しょう/〉太師が反対の理由として持ち出した、わが国では10人に1人が出家している、という話はあながち大げさでもなかったらしく、隣国・周でも同じ理由で困っていたようです。

史実の宇文邕もドラマ同様、神仏の祟りを恐れず「廃仏」を行いますが、おかげで後世の評判はさんざんで、「三武一宗の法難」なんて山○世界史の教科書にまで載っており、21世紀の日本の受験生からさえ、暗記の負担を増やしやがって…と呪われる始末です。

ちなみに「三武一宗」とは、中国史を通して仏教徒を迫害した4人の皇帝のことで、北魏の太武帝、北周の武帝、唐の武宗、後周の世宗のこと。

寺院を建立して今、民に恨まれるのが嫌か、
廃仏をして後々ワールドワイドにdisられるのが嫌か、
微妙なチョイスですね。

ともかく、この場は寺院建立を皇太子に任せることが決まり、蘭陵王には婚礼の祝いの品として、大玉圭〈けい〉一対が贈られます。

圭はオベリスクのような形をした平たい礼器で、それ自体になにか効能があるわけではありませんが、古くは伝説の帝・禹〈う〉が、治水で功績を挙げた功績により贈られたといわれる、由緒正しきお品です。一説には、長さを測る工具を象り、国を治める決まりを象徴しているとも言われます。

ご興味のある方はこちら↓の解説ビデオをご覧くださいませ。
http://v.youku.com/v_show/id_XMjk2MDEwMDg=.html

ということで、着々と婚儀の外堀が埋まっていくのですが、現代の庶民の結婚式さえ様々なしきたりが残ってるくらいですから、当時の婚礼の煩わしさは想像に難くありません。

蘭陵王のお屋敷には中央官庁から、儀式を司るお役目の官女たちが派遣されてきます。

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このお帽子がインパクトありますよね。少し形は違いますが、唐時代の俑(よう:土でできた人形)にも似たものがあります。

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4人はシンクロナイズドスイミングのように隊列を崩さず、入口で馬を洗っている下女に取次を頼むと、相手は挨拶もせず、マナーが全然なってません。

当然、礼部の人間としてはムカついています。

“早耳聞 四王爺待下人 太過ェ厚”
(かねがね 第四皇子殿下が 下々の者にお優しすぎるとは聞いていた)

“府上規矩 日漸松散”
(お屋敷の規律は 日ごとに緩んでいるとね)

“今日一見 果然 就連一個小丫鬟都這麼無禮”
(今日来てみれば 噂通り 卑しい下女まで無礼千万)

“聽說 這天女王妃 也是個不守禮法之人”
(聞くところでは この天女の王妃さまも 礼儀をわきまえぬお方とか)

“你們還記得嗎 皇上首次召見她”
(覚えておいでか 陛下に初めて拝謁した折に)

“她竟然為了一介百姓 讓皇上苦候多時呢” 
(一介の民草のために 陛下を長いことお待たせしたお人)

“無論如何 我們身負皇命” 
(我らは陛下からのご命令に従い 何としてでも) 

“定要讓四王爺的大婚”
(第四皇子のご婚礼を)

“一切按照禮法祖制而行
(代々のしきたりに則って進めねばならぬ)

一介の民草のために、陛下をお待たせした...とは、第11話(→こちら)で周との戦いから凱旋した折、わらじを縫って欲しいと頼まれて雪舞が参内に遅刻した、あのエピソードですよね。

もう7話も前のこと、ホントいつまでもくどくどと…。

しかし、しきたりを大事にする人たちには前例がとても大事なので、記憶力もいいのかも知れませんよね(棒読み)。

強権発動する気まんまんで家令に取り次いでもらってみれば、さっきの無作法な小娘が王妃殿下とは。

宮女四人は地面に這いつくばってはいますが、内心どんな悪態をついているか、知れたもんじゃありません。
それでもさすが言葉遣いは、

“有眼無珠”
(目が節穴でございました)

と殊勝なことをおっしゃっておられます。

こんなに礼儀にうるさいくせに、エライ人の前で帽子も脱がないのは不思議なんですが、当時の中国では帽子(冠)を被ってることが身分の証であり、礼儀だったんですね。その辺はおフランスと違います。

そして、這いつくばったが最後“平身”(おもてを上げよ)と言わないと、そのまんまらしいです。いつまでも言わなかったらどうするんだろう…?

みたいな実験はさすがにやらない雪舞ですが、それをいいことに、礼部の皆さんは公務執行に熱心なご様子です。職務柄ではあるのでしょうが、いったいナゼ?

と思っていると、宮女たちはググッと近づき、雪舞の髪型を整えると提案します。そしてその理由は、

“梳結鬟式髮式”
(結いあげたおぐしは)

“透露出巍峨瞻望的高貴”
(仰ぎ見るべき高貴なご身分を表します)

はい、そうですね。
たかが数十年の王朝で「代々のしきたり」なんて片腹痛いわ! と思ってしまいますが、たかが数十年だから、余計マナーにうるさいのです。

例えば、ヴェルサイユ宮殿。

あなたが王妃さまだったとしましょう。

ちょっと喉が渇いたから、水を飲みたい。

と、思っても、そこらのメイドさんを呼んでコップを持ってこさせる、みたいなことは出来ません。

王妃の用事を直接聞く侍女→水を持ってくる給仕係→台所に行く係→台所で水を汲む係…

と、バケツリレー状態でようやく水が届きます。

着替えともなれば、下着を渡す係と衣装を渡す係がバラバラなうえに、その場に身分が高い人が居合わせれば、その人が王妃に下着を渡す役を務めなければなりません。

かくして着替えもバケツリレー状態で、冬にそんな目にあったマリー・アントワネットは凍え死にそうになったとか。

あまりにもバカバカしく感じたのでしょうか、彼女は宮殿の女主人になるや、これらのしきたりを廃止してしまいます。それが悲劇の引き金になるとも知らずに....。

一方、蘭陵王府のばらは、まだ人の言いつけを聞かなければならない身分。

礼部の宮女たちに、
“不能留下一點話柄“
(物笑いの種になるようなことは避けなければ)

四王爺のために、と言われちゃうと、従う以外ないですよね。

“禮部侍女 真是出了名的難纏呢”
(礼部の女官は名うての手ごわさだわい…)
と、家令の王さんもタメイキです。

一方こちらはお気楽な四爺五爺ご兄弟。

なんで馬車に乗らずに歩く、皆に注目されるのが好きなの?

と五爺に聞かれて四爺は、しばらく都に帰ってなかったから懐かしい的なこと言っていますけど、庶民の街をこんなタカラヅカみたいなカッコして歩いたら、物見高い人々に取り巻かれて前に進めるわけないと思うのは私だけでしょうか。

黒マスクで変装して21世紀の上海を歩いていたって、スター様はパパラッチに追い回されているというのに、1400年前の娯楽に飢えてる田舎町で皆が見て見ぬふりしてくれるなんて、あり得ないでしょう!

しかし、あの兄弟にかかわったらヤベっ!と思われているのかエキストラの教育が行き届いているのか、道行くギャラリーからむしろ避けられてるような雰囲気の中、四爺は、

“看看有什麼好玩的東西 賣給雪舞啊”
(何か面白いものを 雪舞に買ってあげようと思って)

と言います。
 五爺が、兄上はいつも未来の“四嫂”(四兄のヨメ)の事を思ってるんだな、
とからかうと、嬉しそうにするのが良いですね。

“其實我就喜歡你四艘 無拘無束的性格“
(私はお前の義姉上の 何にもとらわれない性格が好きなんだ)

“比那些講究繁文縟節的大家閨秀 強多了。”
(些細な建前ばかり気にする良家の令嬢なんかよりずっと良い)

答える五爺の言葉を借りれば、このドラマの力関係は、

尉遅迥〈うっち けい〉<宇文邕〈うぶんよう〉<雪舞(せつぶ)

ですが、最上級はどうやら、

<礼部の官女

だったみたいですね。

二人が息抜きから戻ると、お屋敷には早速彼女たちが待ち構えています。

その「すぐやる」ぶりに、もう来たのか!と驚く四爺。

“四王爺 五王爺 請安”
(第四皇子、第五皇子にはご機嫌うるわしく)

と、お作法に則った正式な挨拶を受けると五爺は、

“在府內 叫五爺就可以了”
(屋敷では五の若様でよい)

と返します。すると官女は

“祖法禮制不可輕廢 侍女不敢造次”
(古くからのしきたりを 私めが軽々しくやめることはできません) 

と言います。

つまり、これまで聞きなれていた“四爺”“五爺”というのは実は簡素な呼び方で、正式には“四王爺”“五王爺”と呼ばなければならかったということですね。

さすがに“王爺”は皇族にしか使えませんが、“四爺”“五爺”なら、大店の坊ちゃんなどにも使える呼び方です。

ばらは何て呼んでもばらの香りがするとは言うけどね...と思っていると、そこへ突然チェブラーシカ登場…

当然、お気楽兄弟には大受けしています。
アシナ皇后の髪型ほどじゃないですが、この時代の髪型はまさに凶器ですね。
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全力でよけて〜っ!

ホント、妙な髪型ですが、実は日本でも当時のヘアスタイルの様子を知ることができます。
こちらの↓ 俑〈よう〉は、東京国立博物館所蔵の唐代のものですが、
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そっくりですよね。

これから毎日この髪型なんで、慣れてくださいって言われてもな…という顔をしている雪舞の手をひっぱって、サラメシならぬ王爺メシに移行する蘭陵王ですが…。

このちゃぶ台、ちょっと低くないですか?

セットの作り方間違えてるんじゃないかしら。

そうかと思うと、五爺はちょうどよさそうなんだけど…

よく見ると全員、ちゃぶ台から上の高さがバラバラ(笑)
きっと全員、座り方がバラバラなのに違いない。

なんか急に掘りごたつ式じゃない居酒屋に座らされちゃった外人招待客みたいな面持ちで、雪舞は食事時に後ろに誰か立ってるのって慣れないわ、とほっぺを膨らませています。

五爺は、
“金枝玉葉 王妃都是如此”
(高貴な王妃さまとはこういうものなのさ)
と相変わらずからかいモード。

《金枝玉葉》といえば、『君さえいれば/金枝玉葉』って、ベタなタイトルの香港映画がありましたよね。この映画では「至高の」という意味で、別に王族は出てこなかったと思うけど、香港では『ローマの休日』を《金枝玉葉》と訳しています。

さて、セレブリティな雪舞さまですが、危なっかしい手つきで青椒肉絲っぽいおかずに手を伸ばすと、「同じおかずに4回箸をつけてはなりません。」と官女の指導が入ります。

理由が「好みを知られると毒を盛られるから」

ってそんな、全部に毒入れられたらどうすんのよ。

仔ブタ陛下なんて、唯一のスープに毒を盛られたんだから、逃げようがないじゃないですか。

まったくこういうルールって...と呆れていると、さすが“上有政策、下有対策”(上に政策があれば、下には対抗策あり)のお国柄、皇子自ら、

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“這是本王夾的。不違反祖制吧。”
(これは余が箸をつけたのだ。しきたりには反していまい)
ってそんなヘリクツ…。

と思ったら、引き続き、第6話の阿怪を彷彿とさせるおかずあげっこ合戦が始まってしまいます。
なんだか和気あいあいで楽しそうですよね。

やっぱり、煩い礼儀作法なんかやめた方が…と思ってしまいますが、本当にそれでいいのでしょうか。

ではここで、もう一度ご登場いただきましょう。
ベルサイユに咲く可憐なばら、マリー・アントワネット王妃様!

史実の彼女はわずか14歳で、母である女帝マリア・テレジアの君臨するオーストリアから、ルイ15世が君臨するフランスへ嫁いで来ます。

ヴェルサイユ宮殿では何をするにも事細かに作法が決まっており、当時皇太子妃だったマリーは辟易していたそうですが、彼女がとりわけ嫌ったのは、見物人の前で食事をするというしきたりだったと言います。

当時、地方から宮廷を訪れる人は、王や王家の人々の食事風景を見物するのが楽しみだったんだそうです。

旭山動物園じゃあるまいし、

もぐもぐタイムかよ!?

と、外国から来た皇太子妃は相当ムカついていたようで、夫のルイ16世が即位し王妃となるや、次々としきたりを取りやめてしまいます。

事細かに厳格に守られたこれらのしきたりは、当然、ブルボン王家に代々伝わる格式のあるマナーかと思われるでしょうが、実際にはその多くは、太陽王・ルイ14世の時代に定められたものでした。

そう、煩いマナーは、絶対王政の身分制度の厳格さを下々の者に思い知らせるために作られたのです。

つまり、礼部の宮女たちの言ってることはいちいちごもっとも。
さしたる能力もないくせに自分の絶対的な権威を認めさせたいのなら、しきたりの守り手であることを、常に誇示していなければならないのです。

さもないといつかは貴族や庶民にナメられ、断頭台に一直線です。

若者がついつい校則を破りたくなってしまうのも、校則を絶対破らせまいという人たちがいるのも、その延長線上なのかもしれません。

制服の裏に龍虎の刺繍をしてみたり、古代中国の衣装に肩モールつけてみたりのささやかな抵抗は、無意識のうちに相手の設定した権威に逆らおうという本能の表れなのでしょう。

さて。

ありがちな学園ドラマのラストシーンみたいに、手に手を取って、お屋敷を抜け出す二人。

でも残念ながら、ドラマはここでハッピーエンドって訳じゃない。

踏雪の迷惑も顧みず、(横幅が)大物な将軍と王妃は、2人乗りして街を出ていきます。

大向こうから“四爺!”と声がかかると、ファンの声援かしらと思い込む、このバカップルを何とかしてください、

楽しそうな2人のドライブに声を上げたのは…

蘭陵王を陥れる計画に利用された、元皇后の元侍女、鄭児〈てい じ/Zhen Er〉。

官奴として彼女が働かされていたのは、皇太子が差配する寺院の建築現場。

このシーンを観て、つい、おおっ! と声が出てしまいましたが、この第18話の最初のシーンで皇帝が「寺院を建立する」と言ったとき、私は唐招提寺みたいな木造の建物を作るんだとばかり思っておりました。

そうそう、この時代に作られていたのは、石窟寺院なんですよね。

特に北魏の時代から、北斉になっても延々と作られていた「龍門石窟」は現在世界遺産に登録されているほどです。

当時これを造らされた人から見れば、貴重な財産と労力を費やしてこんなもの、バッカじゃね?と思うのは当然ですが、結局何百年かの後に、子孫に観光資源を与えてくれるのもこういう無駄遣いな訳で、どうせやるならとことんやった方がいいんじゃないかな...? と、現在進行中の壮大な無駄遣いを負担しなければならない都民の端くれとしては、北斉の皆さまの胸中お察し申し上げますでございます。

石窟寺院には壁画や彫刻が収められており、中国の彫刻芸術の頂点にあったのは、南北朝時代と言われています。なんせ需要がありますもんね。

東京では、雪舞のヘアスタイルのフィギュアをみることができる、上野の東京国立博物館(東博)や、青山の根津美術館に、北斉時代の彫刻が展示されており、間近に見ることができます。

こちらは東博の菩薩立像。

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説明書きを読むと…
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なんと北斉の文宣帝のために造られた像です。

お次はファッションの街・表参道駅から歩いて10分ほどの、根津美術館。エントランスに飾られておりますのは、

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北斉の塑像の数々。

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ってことで、博物館に行けば今でも簡単に北斉の人に会うことができるのです!

しかも、世界史の教科書で、ガンダーラ仏の写真などをご覧になった方はご記憶かと思うのですが、彫られているものは仏さまとはいえ、モデルはやっぱり現地住民でしょうから、顔つきが土地土地で違います。

「鎌倉や 御仏なれど 釈迦牟尼は 美男におわす 夏木立かな」

と与謝野晶子さんも詠んでいますように、仏さまによっては、現地の人の理想のタイプが反映されたお顔立ちのものもあるはず。

南北朝の歴史について書かれたこちらの本の表紙↓ もそうした彫刻の1つなんでしょうけど、「蘭陵王」ってこんな顔だちだったんじゃないかな…と私は密かに考えております

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『図説中国文明史5 魏晋南北朝』(創元社)より

今、この表紙の塑像に似てるタイプの人っていえば、例えば、北方男子代表の井柏然〈ジン ボーラン/Jin Boran〉とか…。
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彼が今、ウィリアム・フォンが別れたニーニーさんのステディだということなので、そこにも何となくご縁を感じる...

いえいえ、そんなゴシップ、どうでもよいのですが、この時点で仲良しも頂点の軍神と天女は、第9話で登場した蘭陵王の幼少期の家で、おままごとのような生活を始めます。

“從現在起 我不是爺 也不是蘭陵王”
(いまから、私は皇子でもないし、蘭陵王でもない)

“妳呢,也不是天女 也不是王妃”
(君も天女でも 王妃でもない)

そういう蘭陵王をからかって、雪舞は言います。

“看你這麼一副氣宇軒昂 炯炯有神的樣子”
(気品があって堂々としていて、目力のある立派な風采だから…)

“我就叫你 阿土”
(あなたのことは、「阿土」って呼ぶわね)

ここ、笑うとこですから!

“阿〜”っていうのは、親しみを込めて相手の名前につける言葉で、日本でいえば「おしん」の「お」にあたります。

で、「おしん」とかと同じく、“小〜”“老〜”なんかに比べると、やっぱりちょっとダサい雰囲気。

それでもって、“土”とは、田舎くさい、ということ。

“土土的 tu tu de”は「超田舎くさい」

“阿土 A Tu”は「田舎っぺ」

と、そういうことです。

こんなこと言われて田舎っぺ大将軍はどういうリアクションかと思えば、

“好,我看你一副冰雪聰慧的樣子”
(よろしい、じゃ、とっても頭がよさそうだから)

“ 我就叫你 冰兒。怎麼樣?”
(君のことは“氷児”と呼ぼう。どうだい?)

“冰兒 Bing Er”という名前自体には特別な意味はないですが、蘭陵王の言った“冰雪聰慧”という言葉から連想されるように、賢い、頭が切れるというイメージがあります。

日本のスマホのサービスに、女子高生AI(?)がお友達になってレスを返してくれる、「りんな」というのがありますが、中国ではそれに先立って同様のAIが開発されており、名前はずばり、「小冰」ちゃん。

命名の由来は分かりませんが、一般に賢い美少女が連想されるんでしょうね、きっと。

なので雪舞は、

“你怎麼不取一個難聽點的名字。我就叫你阿土呢”
(なんでもっとヘンテコな名前にしないの。私はあなたを“阿土”って呼んでるのに)

と抗議しますが、

“冰兒不是很好嗎。冰雪聰明 就這樣”
(氷児はいい名前だろ。頭が切れて賢い。決まりだ)

“你明明知道我會內疚。不不不 我叫阿草好了”
(私がやましい思いをするって知ってるくせに。だめだめ、“阿草”がいいわよ)

“阿草 A Cao”にも決まった意味はありませんが、「民草」というように、草には取るに足りないもの、という意味があり、また、「草書」という言葉があるように、いい加減とか大ざっぱという意味もあります。どっちにしても、カッコ悪い名前には違いありません。

四爺は、そんな名前で奥さんを呼ぶなんて嫌なのか、全然取り合ってませんね。
優しいのね。はははは。

そんな二人の夜ご飯は麺料理。
北方中国の主食は小麦なので、庶民の主食は今でも麺料理が中心です。
お焼きやクレープ、マントウ、麺など、外でも売ってますが、家庭でも普通に粉から作ります。

さすが、粉もん文化の発祥地!

しかし、阿土は浮かない顔をしています。

皇帝からお叱りを受けたのか、周が攻めてきたのかと気をもむ氷児に、
「めんどりが半日も卵を産まなくて…」と答える阿土。

そんなこと、と呆れる氷児に阿土は答えます。

“民以食為天 老母雞不下蛋 對我來說 就是最大的事了”
(民は食を以って天と為す。めんどりが卵を産まないのは
私にとっては一番の問題だ)


いやいやそれより私ども視聴者は、あなた方の衣装の方が問題なんですが、この服装はまさか例の…。

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しかし、すでに第10話は遠い過去になってる蘭陵王は、阿土丸出しでしゃべっています。

“我現在是阿土 管她誰當皇帝啊”
(今の私は阿土だよ。誰が皇帝かなんて関係ない)

漢文を習われた方ならピンと来るでしょうが、ここの台詞は、中国で古代から理想とされる政治について話しています。

《十八史略》にこんな話が載っています。

伝説の皇帝・堯〈ぎょう〉は、仁と徳を備えた立派な皇帝でしたが、即位して五十年、果たして自分がきちんと天下を治めているかどうか、疑問に思っていました。

そこである日、お忍びで町中に出てみると、歌をうたう老人に出くわします。

ここを原文でみると…

有老人、含哺鼓腹、撃壌而歌曰、
(老人あり 哺を含みて腹を鼓し、壌を撃ちて歌いて曰く)

日出而作 日入而息 鑿井而飲 耕田而食
(日出でて作し 日入りて息う 井を鑿ちて飲み 田を耕して食らう)

帝力何有於我哉
(帝力何ぞ我にあらんや、と)

老人がいた。
食べ物をほおばりながら腹鼓を打ち、地べたを踏み鳴らして歌うには、

日が出たら働き、日が沈んだら休む 井戸を掘って飲み、田を耕して食う

皇帝さまなんか わしに何の関わりもない

ここから「鼓腹撃壌〈こふくげきじょう〉」(よい政治が行われ、人々が平和で楽しむこと)という言葉ができました。

これは、「上善〈じょうぜん〉 水の如し」と一緒で、理想の政治は淡々として、無為〈むい〉であるべき、
という考え方に基づいています。

しかし、無為とは言ってますが、帝堯も太陽のような仁徳の持ち主ということで、率先垂範したので天下が泰平だったのです。

つまり、庶民の知らないところで、ハクチョウは水かきをしなくちゃ、ダメなんですよ。

いにしえの聖帝・堯とと同じ場所に国を構えた斉の皇子のくせに、♪おいらにゃ関係ねぇ♪ なんて庶民みたいなことを言ってどうするの。

そのブーメランは同じ放送時間内にたちまち返ってくるのですが、それはそのとき見るとして、一方の石窟寺院。

埃まみれの現場で、ズタボロになりながら働いている鄭児。

第17話までは、蘭陵王と宇文邕の動向が交互に描かれることが多かったですが、この第18話からは、いよいよ楊雪舞と鄭児が交互に描かれるようになっていきます。

鄭児を演じているのは、毛林林〈ニキータ・マオ/Mao Linlin〉さん。
ドラマではあまりに美人で近寄りがたい雰囲気ですが、
素顔は小粋なパリジェンヌっぽい、とてもキュートな女性です。

ということで、以下のインタビューは、ぜひ映像もご覧ください。
こちら

*

いま「蘭陵王」が放映されている関係で、たくさんの視聴者の方からいろいろなご意見をいただいてます。

このドラマはきっと人気が出るだろうとは思っていたんですけど、
ここまで熱心に観てくださり、反響が大きくなろうとは予想外でした。

いろいろなご批評について、私は聞かない、見ない、考えないというタイプではありません。
逆に、きちんと読んで、考えています。

なぜなら、視聴者の皆様が私にくださるご意見はとても大切ですし、的を射ていると思っているからです。微博には、私の至らない点について長大な論考の形でご指摘いただいている記事もあり、心から感謝しています。

ドラマに入り込んでしまって、リアルな事として受け止め、実際の私も鄭児のような人だと思っていらっしゃるご意見は、笑って見過ごせばよいのですから。

実は憎まれ役はこれがはじめてではなくて、賀軍翔〈マイク・ハー/He Junxiang〉と共演した《加油媽媽》(がんばれ、ママ)でも演じています。一度経験があるので、淡々と受け止めようという心の準備もしっかりできているんです。

それに、今ドラマはちょうど中盤。最後までご覧いただければ、どの登場人物についても、新しい見方をしていただけると信じています。このドラマでは誰もがそれぞれの辛さと悲しみを抱えているということを。

もう一度演じるチャンスがあったら、私はまた鄭児の役を選ぶと思います。私は彼女がとても愛おしいと思うし、すごいとも思う。愛のために全世界を敵に回す勇気を持っているんですから。

−鄭児は愛のために間違った道を選んでしまいました。 もしあなたの親友だったら、どうしますか。

すぐに止めます。
“硬拆一座廟 也不毀一椿姻緣” (祠を壊すことはあっても 夫婦の縁を壊してはいけない)とかって言いますけど、
もし一人の男性が世界のすべてになってしまったら、自分というものがなくなってしまいます。

私なら彼女を引っ張って、自分を見つめ直してもらいます。

欲しいものは何なのか どうしたいのか 周りにいる人たちの中で自分を分け与えて その愛の力で守る価値がある人 心を砕くべき人は誰なのか。自分のすることには責任が伴うのだと必ず忠告するでしょう。

−《蘭陵王》の中で、一番印象に残った演技は何ですか?

最期の部分でしょうね…あ、でもまだそこまで放送してないんですよね、言ってもいいですか?

あの部分については、(脚本家の)玉珊さんにとても感謝しているんです。

それから監督と、仲間たちにも。みんなで力を合わせた結果ですから。

もともとのオリジナルの脚本では、高緯〈こう い/Gao Wei〉と私が揃って死を迎えるとあるだけで、豊かに肉付けされたエピソードではありませんでした。

私は後ろ手にしばられているんですが、高緯はそれをゆるめて、手をさすってくれる。一人の男性が、命の瀬戸際に、こんな風にしてくれるなんて。

そのとき私は、その優しいしぐさに涙が滝のように流れてしまって、泣きすぎたので撮影がストップしてしまいました。

しかも彼は自分で考えて、お芝居を少し足したんですね。懐から「緯」という字が書かれた紙を取り出すんです。私たちが16歳のころ、まだ若かったときのものです。

歳月を遠く隔てて 私たちはすっかり変わってしまいました。

彼は暗君だし私は妖后。

だけど彼がその紙を取り出したとたん、私たちは戻れるんです。あの天真爛漫で、無邪気だったころに。

とても感動的なシーンで、私も心打たれました。

−共演したい俳優さんはいますか?

もちろんいますよ! すごく好きな俳優さんがいるんです。
でも向こうは私が長年彼を愛してるなんて知ってるわけないですけど。
私が好きなのは皆さんが「アイアンマン」って呼んでる、トニー(・スターク)なんです。

《復讐者連盟》(『アベンジャーズ』)でこんなセリフがあるでしょう。

敵が聞くんですね、
「お前からこのポンコツの鉄くずを除けたら何が残る」
「金持ちで慈善家でそのうえイケメンなところかな」
こんな風にちょっとヤンチャで、でも正義感にあふれているところが好きなの。

ですけど、まずはもうちょい英語ができるようにしないと共演どころじゃないですよね。さもないと私の言ってることも分かってもらえなくて意思の疎通ができないでしょうし。憧れの人のために頑張らなくちゃ。

(中略)

−鄭児は美の化身ですが、あなたが思う美とは?

そうですね、まず誠実なこと、ナチュラルで飾らないなら、女性としてすでに美しいと思います。いま、女性の目標はいろいろありますよね。欧米の女優さんだったり、韓国の女優さんだったり。

だけど、自分の持っているものを捨ててはいけないと思います。純粋で素朴なところをね。だってそれは得難いものだからです。

私はアリエル・リンがとても好きなんです。正直に言うと、彼女が出たドラマをたくさん見てはいませんし、しかも最初からラストまで見た作品もなかったんですけど、共演してから《我可能不會愛你》(『イタズラな恋愛白書』)を見て、すごく自然な演技だと感じました。

実際の彼女もとても誠実な人なんです。彼女は自分に必要なものが分かっていて、現場で撮影の合間に英語の本を読んでいます。留学の準備で。人にも優しいし、とても彼女が好きですね。

私はもちろん、自分の母も好きです。それは母が私の母だからだし、スーパーマンみたいに360度死角がなく、私を守ってくれます。とても愛してるし、私も母を守るでしょう。

―女優以外にしたい仕事はありますか?

そういえば子どもの頃はいろいろな事をしました。昔は絵を習っていたんです。そのあとひょんなきっかけで
演技の勉強をすることになりました。

北京に来てから仕事があまり順調ではなかったこともありました。

子ども番組の司会をしたり、現代劇に出演したり。学校での代表作は《三毛流浪記》で、私は男装して三毛を演じました。

もし将来チャンスがあれば、デザインにかかわる仕事がしてみたいです。
なぜって私には他に得意なこともないし、お芝居以外で、絵だけが少しだけ自信を持たせてくれるものなんです。将来、デザインにかかわれればいいですね。

―10月8日はお誕生日ですね。どんな風に過ごす予定ですか。

お仕事が入らないといいなあと思いますね。そうすれば自然に目が覚めるまでゆっくり寝ていられるので。

朝寝坊の心配をしなくてもいい、 こんな大事な一日に目にくまができてないかとか心配しなくていい。

誕生日に願い事をするとしたら、若さを保ちたいってことですね。
大事ですよ、特に女性にとっては。

年々、今年は26歳なんでしょ、27歳なんでしょ、と言われるのが耐えられなくなってくるんですよ。
ですから、今年のお願いとしては、年を取りませんように、ってことですね。


最後は、若手女優さんならではのやりとりだったですかね... 。

鄭児同様、とってもけなげなニキータですが、可哀想に、庶民にはやっぱりかなり役柄とだぶって誤解されてるらしく、ウィリアム・フォンのお母様は息子さんに「悪人の役だけはやっちゃだめ。毛林林も(高緯役の)翟天臨も悪者のイメージがついちゃったでしょ」と諭しておられました...(哀)

さて、物語の中の鄭児はといえば、世間知らずで純粋な部分がクローズアップされています。

のちのち、なんであそこまでストーカーをこじらせたんだろうかと、観ている皆がイライラすることになるんですが、つまりは彼女があまりにも世間が狭く、あまりにも純粋であったのがその大きな原因だということが、しっかり描写されています。

そして雪舞だって、世間を知らず純粋だったことは、鄭児とあまり変わらなかった。

だから、実はこの二人は、本当にちょっとした違いで、運命が分かれてしまったとも言えるんじゃないでしょうか。

…ですが、それは物語全体の重要なキーだと私は考えているので、現段階ではあまり突っ込まずに先に行ってみましょう。

鄭児は、同じ境遇の官奴の女性に簡単に心を許し、打ち明け話をしてしまう。

そういえば、こんな感じの人、他にもいませんでしたっけ?

別れ際、命を懸けて忘れ物を届けた相手に、お礼として、

「あまり簡単に人を信じるなよ」

というアドバイスだけを受け取って返されちゃった人が。

信じた相手が悪かった(いや、もう一人の人の信じた相手も相当悪かったですが)鄭児は、蘭陵王からもらった大事な金の細工物を失う羽目になってしまったうえに、言葉通りに逃げ出してみたもののそれは罠で、見張りの兵につかまってしまう。

なんかこう、鄭児が必要以上にツイてないのも、なぜか観てる人をイライラさせるんですが、物語の表面には出てこない、その理由に思い至ると、このお話は本当に良くできてるなーと改めて感動を覚えます。

それはさておき。

二人のために世界はある状態のバカップルのおままごとにはますます拍車がかかっております。

白山村で鍛えた雪舞…いや、氷児の鍼治療の腕前は確かなようで、卵は大豊作。

阿土は、天女の名もだてではないな、
これはちょっと“大材小用”だ、と少しからかうように言います。

“大材小用”というのは、大物をつまらない用事に使うという意味。
だから、ご自分で言ってはダメですよ!

日本語では「役不足」が適訳なはずなのですが、こう訳すと一般の人(⊃自分)は「力不足」の意味に取るケースが過半数(文化庁調べ)なので、訳語に使えません...。

さて、何が不足かはともかく、天女様は偉大だということは、阿土も認める紛れもない事実。しかし、お話はこれから先、どんどん雪舞を「役不足」の方向へ追いやっていくんですね。

ここは本当に何気ないシーンだし、特に大きな意味はないのかも知れませんが、第1話で蘭陵王と会ったのは、メンドリの江夫人が逃げ出したことからだったのを思い出すと、本作の周到な脚本家のこと、このシーンにもさりげなく伏線が張られているような気がしてなりません。

一億総活躍社会の21世紀日本でさえ、一般女性ならば早く孫の顔をみたいとせっつかれ、東宮妃ならばその存在価値は御世継ぎを産むこと、というシビアな事実から考えますに、1400年前の宮廷で、蘭陵王の言うような、何事にもとらわれない女性でいることは難しい。

このシーンは、中盤以降のドラマの成り行きを暗示すると共に、雪舞のこれから置かれる立場の象徴とも言えます。

一般論として良いか悪いかという話ではなく、幸せのかたちは本当に人それぞれ。

一人の子のよい母でいることが似合う人もいれば、
雪舞のように、民全体のために働くことを運命づけられた人もいる。

お屋敷の中に彼女を閉じ込めとくのが良いことなのか、それはこれからおいおい分かることでしょう。

聡明な氷児は、もちろん言わせっぱなしではありません。

“我這還好,待會啊 有個大齊戰神 有去賣雞蛋啦”
(こっちはまだマシよ。しばらくするとね、大斉国の軍神が、卵を売りに行くそうよ)

…ってことで、卵を売りに行く羽目になる阿土。

よくヤンキーが駐車場でやってるような姿勢で地べたにしゃがんでますね。

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この姿勢、もともとは田んぼのあぜ道で休むときのもの、と聞いたことあるんだけど、
いま試しにちょっと真似してみたら、疲れるんですけど! 休めないんですけど!(((( ゚д゚))) 
運動不足がヤバい…(悪い意味で)

阿土の方は、商売あがったりではあるものの、
向かいの屋台で親子が、

「停戦は蘭陵王のおかげ」
「本当に斉の国の“棟樑”(大黒柱)だよ」

と言うのを聞いて嬉しそう。

しかし彼らの間には、周に移住すれば、良田をもらえて、三年は税も免除される、という、宇文邕の新公約が知れわたっている様子。

“哪像咱們的高家皇帝 停戰之後 只知道建什麼鬼佛寺的”
(うちの高家の皇帝は似ても似つかないな 停戦したら くだらない寺を作るしか能がないなんて)

とまあ、言いたい放題。

宇文邕が停戦した狙いはまさにコレ。
産業を立て直して、国力もつけて、その後、斉を滅ぼそうという算段。

人口が増える=生産人口と兵隊の数に直結してた当時は(今でも基本、そのようですが)、民を引き付けておくことも結構大事だったみたいですね。

こっちの政治が良くないと思えば、さっさと国を乗り換えるドライさも(今でも基本、そのようですが)、長年の蓄積あったればこそ。

「鼓腹撃壌」なんて言ってないで頑張らないと、民に逃げられちゃいますよ、高家の旦那さま。

違った、今は阿土でしたね。
彼が、もしもホントに庶民だったら、実はこんな情けない人だったのかも…。
でも、しっかり者の奥さんがいるから、大丈夫。

ここはアリエルの声の演技がとっても可愛いので、ぜひぜひ中国語の音声でご覧くださいね。

“老闆 我要買蛋”
(店長さん、卵くださいな)

“老闆 laoban”というのは、お店のご主人のこと。だけど今は結構、ボスとか、シャチョーさん、みたいな意味でもよく使います。

どうみても“老闆”にゃー見えない阿土は浮かない顔をしています。 
そんな様子じゃ売れないわ、と雪舞に言われて、立ち上がり、笠も脱いで呼び込みをかけるのですが、

“來 買 買雞蛋”
(さぁ、買った買った、たまご…)

と、途中でふにゃふにゃに…。

五爺が煽った割には、蘭陵王って庶民に知られてないんでしょうか。

いや、そもそも、知られてなくたって、兜を脱いだら兵士が見とれるほどの美貌のはずなんだけど...。

雪舞はここでレジェンドのネジを巻きに入ります。

“你平時是怎麼鼓勵你的士兵們 打仗的呀 你的士氣呢 快”
(いつもはどうやって部下を激励して戦わせてるのよ あなたの士気はどうしたの、早く!)

と、ここで“加油”(頑張って)もらうために、文字通り燃料を補給してる氷児ですが、ウィリアム・フォンの顔が真っ赤なのは、

1)アリエルのアドリブだったのでビックリした
2)芝居です。演劇大学出の一流俳優様だもん、当然でしょ
3)アリエルに密かに喉輪を決められた

のどれでしょう?

やっぱ、オレンジのチークかな?

とにかく給油効果は絶大で、張震さんのいい声がさらにスケールアップ。

“這裡的雞蛋 最滋補!”
(うちの卵は栄養たっぷり!)

たちまちあたりは黒山の人だかりに。

ちなみに、押すな押すなの大賑わいのことを、中国語では“下水餃” (水餃子を鍋に入れる)
と言います。

特に海やプールが人でいっぱい、なんて時は鉄板のフレーズ。

確かに、水餃子をゆでると、鍋の中で押し合いへし合いプカプカ浮いてるので言いえて妙。

まさに夫唱婦随のエール交換で、がっぽり稼いだ二人。
阿土は、ほくほく顔です。

“我覺的我們應該去大吃一頓”
(ぱーっと景気よく食べに行かなくちゃ)

“慶祝我阿土的事業 飛黃騰達”
(阿土の商売が トントン拍子に行ったんだから)

“飛黃騰達”第16話でご紹介したトーク番組(→こちら)http://palantir2.seesaa.net/article/437126292.htmlで、アーロン・クォックの話の中に出てきた表現ですね。

そういや蘭陵王は以前、子どもを追い払おうと、大金を渡してたって実績がありましたね。

阿土になっても、治ってないな?

当然、しまり屋さんの氷児はそんなこと許しません。

“持家不易啊 哪能隨意吃喝”
(家計の切り盛りは大変なのよ 無駄遣いしちゃだめ)

“我先去買一些你愛吃的食材”
(あなたの好きな食材を買っておくわ)

“黃昏時刻 家裡見”
(夕方におうちで落ち合いましょ)

ん〜、氷児、いい奥さんになれるよ、と言うべきところで!
阿土は全世界の視聴者を代表してツッコみます。

“可是我記得你只會煮蛋”
(だけど君は確か ゆで卵しか作れないんじゃなかった?)

“哪有啊”
(そんなことないわよ)

籠でぶたれて物理的に距離が縮まったのをいいことに(?)阿土は雪舞の手を取っていいます。

“一個只會煮蛋 一個只賣雞蛋”
(一人は卵をゆでるしか能がないし、一人は卵を売るしか能がない)

“我們真是太配了”
(私たちは本当にお似合いだ)

“你在說什麼”
(何を言い出すのよ全く)

ご本人たちが言うまでもなく、実にお似合いのお二人さまと比べるかのように、寺院建築の現場では、鄭児がさらに悲惨な目に遭わされています。

人々は彼女に、どこかで聞いたような陰口を投げつけます。

「人を信じすぎる」 
「次に生まれてくるときは、もう少し賢くなるんだな」…

そして光と影の交差は、次の第19話でクライマックスに達します。

光あるところに、影がある。

人生の栄光と挫折を1話のうちに織りなす、次回・第19話→こちらのエントリーをお楽しみに。


posted by 銀の匙 at 01:34| Comment(10) | TrackBack(0) | 蘭陵王(テレビドラマ) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年08月16日

西遊記 孫悟空 vs 白骨夫人(西遊記之孫悟空三打白骨精)

まさか大スクリーンで観られるとは思わなかったので、まずは公開してくださったことに心より御礼申し上げます。

だけど、なんで広東語版なんでしょう?

香港映画として観てほしかったからかしら?

それとも、海外向けは広東語版onlyなのか?

そんなことなら『西遊記 はじまりのはじまり』も広東語で上映してくれたら良かったのに... 。

それはそれとして、面白かったかどうかは、視覚効果とアクションにどれくらい重きを置くかによりますね。
この2つを重視するなら、絶対おススメです。

ストーリーは『西遊記』の中の有名な「白骨精」のエピソードから取られています。

この映画は「2」なので、特に前ふりもなく、天竺へお経を取りに行く旅の途中の三蔵法師(ウィリアム・フォン)の一行がトラに襲われるシーンから始まり、孫悟空(アーロン・クォック)が菩薩の言いつけで弟子になり、八戒(シャオ・シェンヤン)と悟浄(ヒム・ロー)も合流します。

旅の途中で妖気漂う家に踏み込んだ3人を待っていたのは、魂魄の形で人の身体に入り込み、抜け殻を残して逃げ去ることのできる妖怪・白骨夫人。

彼女は、食べれば転生を避けることができると言われる、取経の僧が通りかかるのを待ち構えていたのです…



ものすごくお金がかかっていそうなVFXを観ながら、大げさな表現をさせたら中国人の右に出るものはいないな〜とほとほと感心しておりました。こういうのホント好きそう。

しかし、妖怪や魔法や爆発のVFXには慣れている、ひねた観客(←私)も、白骨夫人のエフェクトには心を動かされましたよ。

演じたコン・リーが凄かったということもあるのですが、煙のような、水に絵の具を溶かしたような流体の表現がとても上品で綺麗。冒頭が香港映画でありがちな、よく言えば派手、悪く言えばやや趣味の悪い画面構成だっただけに、意表を突かれました。

とにかく、コン・リーの登場する場面はどこも見応えがあります。

衣装デザインもとても綺麗で、白骨精の衣装は言うに及ばず、シルクロードのエキゾチックな服や三蔵法師、弟子たちの服もなかなかシックで素敵です。作りもそれぞれすごく凝ってるし…。

アクションはさすがのサモ・ハン・キンポー・クオリティ。

東京と大阪でそれぞれ1週間ずつくらいしかやらないみたいなので、
派手な映画を観たい方は、どうぞご覧になってみてくださいませ。

ということで、以下は全く個人的な感想なので、これからご覧になる方はスルーでお願いいたします。




さて、面白かった映画の感想を書くポリシーなので、今回はやや違反してますが、他のエントリー(→こちら)でキャストのインタビュー番組を紹介したので、取り上げてみました。

絵柄はそこそこ綺麗だったし、キャストも悪くなかったんだけど、とにかく脚本がダメ。

特に、旅の一行にはこれだけ豪華な俳優を揃えたのに、お互いが話をするシーンがほとんどなく、実にもったいなかったです。

アーロン・クオックの孫悟空、ウィリアム・フォンの三蔵法師のやりとりも、最後の、大事に担いでたけど…のシーンみたいなのを、メインストーリーに入る前にもうあと2、3か所足せば、ずいぶん違ったでしょうに。

アーロンは頑張ったんだけど、先行作品や京劇の動作も意識しなければならなかったせいか、彼を抜擢した良さがあまり出ていなくてお気の毒。

八戒役の小瀋陽、沙悟浄役のヒム・ローも、あれしか出番がない割には健闘した感じでした。

もっと根本的なことを言えば、西遊記のこのお話はよく知られているだけに、メインストーリーの部分にももう少しひねりが欲しかったところ。話はほとんど古典小説そのまんま(ってか古典小説がスゴイからアレンジする必要ないと思ったのかも)。

でも、いちおう映画なんだから、ただ力任せにやっつけるだけでは面白くもなんともありません。

比べちゃ申し訳ないけど、同じ西遊記を撮った周星馳監督の偉大さを改めてしみじみ感じちゃいました。

三蔵法師のウィリアム・フォンは手がきれい…いや、未熟な感じもよく出していましたが、同じ三蔵法師なら、周監督の『西遊記 はじまりのはじまり』の文章〈ウエン・ジャン〉版の方がキャラクターとして魅力を感じます。

文章の演じた三蔵法師は、能力も足りず、真面目なのにさまざまなボケに付き合わされ、仏の道を究めようとするひたむきさだけが取り柄の未熟な若者ですが、観ているうちに彼を応援したくなるようなキャラクターに造られていますし、最後に三蔵法師と呼ぶにふさわしいやり方で勝利を得るのでカタルシスもある。

対するウィリアム三蔵法師は、とても優しいんだけど何だか影が薄いし、ビジュアルは和尚さんなんだけど、実は自分も仏を信じてるかどうかあんまり自信ない、みたいに見えちゃって、やや残念。

この差はどう考えても、俳優さんのせいというよりは、明らかに脚本のせいでしょう…なんだか可哀想。

同じキャストで続編を作るのは無理でしょうが、違う脚本でもう1本くらい撮ってくれないかな〜。

インタビュー番組があんなに面白かったんだから、このチームで撮ったら、絶対面白いと思うんだけど。

と何だかもやもやしてしまった映画でございました。オチのない感想でごめんなさい…。

posted by 銀の匙 at 00:08| Comment(2) | TrackBack(0) | 映画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年08月13日

エクス・マキナ(表示以降、ネタバレです)


『エクス・マキナ』はアカデミー賞の視覚効果賞を取っただけあって、斬新なロボットの造形や画面の美しさは折り紙つきですが、何といっても見どころは俳優さん。

映画のほとんどの部分が密室劇なので登場人物は数人ですが、それだけに、それぞれの俳優さんのレベルが半端ない。

表情も挙措動作も完璧で、いかにも人工的な美しさを醸し出す、エヴァ役のアリシア・ヴィキャンデル。この人をスクリーンで拝むだけで、映画代の元は十分取れると思います。

日本人だから一言も英語が分からない…いやさ、英語の一言も分からない日本人メイド、キョウコ役のソノヤ・ミズノも大変美しいですが、日本人からすると苦笑せざるを得ない部分があるのが難か…。

さらに、最後のテロップを見るまでまっっっっっっったく気が付かなかったのですが、イケ好かないIT企業のマッチョ社長は、『スター・ウォーズ/フォースの覚醒』で「ナイスガイ」として全世界から愛されたポー・ダメロン役のオスカー・アイザックだったんですね。

同じく『スター・ウォーズ/フォースの覚醒』からはハックス将軍役のドーナル・グリーソンがケイレブ役で出演しています。

こんな生まれつき理系みたいな俳優さん、どこから連れてきたんだろう…?と感心してたら、あのナチス式のキレたような演説をしてた人だったとは…。こちらも全然気づいてませんでした。

『スター・ウォーズ』は良い子の見る映画だから皆ちゃんと衣装を着てますが、ポーはいかにもスリムに、ハックス将軍はマッチョに見えたので、この映画では何だかアイコラを見せられたよう…ってイヤイヤ、ホント、俳優さんって凄いっすね。



お話は、IT企業で働くプログラマ、ケイレブが、社内の抽選に当たって社長の別荘に招待されるところから始まります。

ネズミのようにおどおどした態度のケイレブを迎えたのは、ムキムキボディの天才プログラマ、ネイサン社長。

人を寄せ付けない広大な敷地の中の別荘とか、他人を尊重しない天才肌の社長とか、抽選制の福利厚生とか、何かどっかで聞いたようなIT企業のイケ好かない部分を濃縮した感じの設定であります。

こんな場所にあんな社長とほぼ二人で一週間、ふつうの人なら全然嬉しくないと思うんだけど、ケイレブは緊張して舞い上がってる様子。

そして彼は社長から、この別荘の本当の目的を聞かされます。

彼が招待されたのは、ネイサンが開発した人工知能(AI)を搭載した「エヴァ」が合格かどうか、テストを行うことだというのですが…。

*

以前、ビッグデータをどう活用するかという研究の1つとして「データマイニング」の話を聞いたことがあります。

大量に集めたデータの中から脈絡を掘り出すということで、単純なものでは、買い物客がどんなものを一緒に購入するかを調べ、そのアイテムを近くに陳列する、といったことができます。

これを応用すれば、何か知りたいことがあったときに、どういうキーワードで検索するかとか、質問を受けたときにどういう回答が一番自然かとか、抽出することができるでしょう。

やりとりは無限なのだから、いちいちプログラマが質問を予想して答えを準備しておくことはできないでしょう。

その点、世界中の人たちがせっせと入力する自然なやりとりを抽出してパターンを分析すれば、労せずして自然な受け答えができ、それをサーバにでも置いとけば、誰もAIとは気づかないに違いない…とか、

どことは言わないけど大手の検索エンジン会社の中には、世界中からとびきり優秀な人たちを採用して、何だか得体の知れない研究をしてるらしい、とか

テキストデータばかりではなく、世界中のあらゆる場所の画像や属性のデータを、可愛いキャラを収集する無料ゲームをエサにして集めてるらしい、とか、

ITのあまりにも速い発展についていけない一般人の、漠然とした不安を形にしたかのようなサスペンスドラマなんですが、それはともかく、ネイサンの経営してるIT企業がかなりあからさまに特定の企業に似てるような気がするけど、大丈夫なのかしら?

セリフにもありましたが、人間が言葉をしゃべれる仕組みについてはいろいろな説があり、仮説の中には(すごくざっくり言うと)人間には生まれながらにして万能文法のようなものが備わっており、周囲とのコミュニケーションによってそれがアクティベートされる、というのがあります。

そういう仕組みだとしたら、機械でだって再現できそうですよね。

なので、この映画を観ていると、人工知能がどうというより、人間もそうやって作られた装置なんだろうなということの方を考えてしまいます。

もともと、基本的なプログラムが組まれていて、そのうえに新しい情報が載っていくことによって、さまざまに変化していく存在。

人間らしさの発露と思われている「感情」も、ケガや障害で発揮できないケースがあることからも分かるように、実際には脳の機能の一部に過ぎません。

で、これまでの映画だと、じゃあ人間と機械との違いって何なのかとか、機械も感情を持ちうるのかとか、そちらに重点が置かれるんだろうけど、この映画は少し違うみたい。

そう思った訳は、この映画のタイトル「エクス・マキナ」にもあるのですが、そのあたりは映画をご覧になる方それぞれの解釈が許されることでしょう。

自分の考えは、下↓ のネタバレ以降で書くとして、台詞が主体の映画なので、いくら視覚効果が凄いといっても一人でDVDで観てたら寝ちゃうかも…。

これから秋にかけて全国の二番館で上映されるようなので、ご興味のある方はぜひ映画館でご覧ください。

アレックス・ガーランド監督。
渋谷UP-LINKで観ました。非常に狭いんですが、椅子を変えたのか結構見やすいです。一番後ろの席でも良く観えましたが、後ろから二列目くらいが没入観があるかも知れません。

以下は、ストーリーの結末に触れています。







学生時代に、バイト代のテレホンカード(死語)につられて、心理学の実験台を何度かやりました。

同じ経験がある方、もしくは実験を行った関係者の方ならよくご存じかと思いますが、実験結果に影響が出るのを防ぐため、被験者には実験の目的が伏せられているか、偽の情報が与えられるんですよね。

さらに嫌なことに、実験が終了しても、たいていの場合本当の目的は教えてもらえないし、結果も知らされません。実に後味が悪かったのを、この映画を見て久しぶりに思い出しました。

で、この映画の内容を20字以内で言うと、

非モテのプログラマが女に騙された話

って、身も蓋もないな... 。
それではあんまりなので、字数を倍に増やして要約すると、

プロメテウスの火を盗んだ人間は罰を受け、
エヴァは男をだまして楽園から追放される。

それが何なの、って感じですよね。

神ならぬ身で生命の創造をするものは許されないとか、
人間が作ったものはあくまで人間の支配下にあるべき、

というのも、特定の宗教の倫理観なら真実なのかも知れませんが、
そんなこと問題視してない文化圏だってあるんじゃないでしょうか。

たとえば、だんだんAIと人間の峻別がつかなくなっていくと、
大統領や権力者が実はAIだった、大ショック、みたいなSFもありますが、
日本のSFアニメなんか、その辺はもうそういうものとして特段問題にもなってなくないですか?

だって、砂の嵐に隠された♪ バビルの塔はコンピューターに守られているんだし、

「エヴァンゲリオン」なんか面倒な問題はみんなメインコンピュータの「マギ」に投げてますよね?

「攻殻機動隊」なんて、最後はネットワークの中に個人の意識が統合されてしまう。

いや、その場合、実権を持っているのはあくまで人間で、コンピュータはただの道具だ、という反論もありましょうが、決裁する人はただのお飾りで、分析したり方向性を決めてる部門が他にあるなんてこと、世間にはままあることじゃないでしょうか。

そういうとき、どっちが実権を握ってるかといえば、それは後者な訳で。

生きとし生けるものの中に、すてにAIが含まれてる文化からすれば、この映画はAIと人間の関係が「対立」である、という「初代ターミネーター」式のステレオタイプであまり新味がないんですが、じゃあSFとしては駄作かと言ったらそうでもない気がする。

映画の中でも言ってましたが、この映画自体が一つの思考実験とすれば、物語のテーマや新味はどうでもよくて、ある条件下で結果はどうなるかを考えてみたものと捉えることもできるでしょう。

思考実験をそのままプロットとして展開するのはSF小説だと許されてるパターンなので、非常にSFっぽいと言えるのかも知れない。

そもそも、これまでのSF映画で出てくるAIは、如何に人間に近づけるか、どこまで行けば人間と同じなのか、人間に愛されたくて葛藤する、等々のテーマを背負っていたのに対して、この映画のAIはめちゃくちゃドライ。

人間を超える知能(たぶん)を持ち、そのために感情を利用できる、まったく新しい存在。

「ブレードランナー」では、AIを見破るためのチューリングテストのカギは、「感情移入ができるかどうか」でした。

この映画では、逆に人間が「感情移入する」ことを巧みに逆手に取り、しかもAI自身にはどうでもいいはずの「肉体」、エヴァの場合はさらに、どこから見ても機械仕掛けという肉体の「魅力」さえも利用する。

映画のタイトル「エクス・マキナ」は「機械仕掛けから」ということですが、「デウス・エクス・マキナ」(機械仕掛けからの神)から取ったものと思われます。

ここまでくると、AIが怖いとか悪いとかいう問題ではありません。

「神の見えざる手」のように、AIの存在は何かの摂理によるのだろうか。

人間の存在とは実は、次のロボット世代を造りだすために神が用意したものではないのか。

そんなことすら思ってしまいます。

一方で、彼女の「愛情」はフェイクだったようだけど、「憎しみ」は本物だったのだろうか。

廃棄されるのを怖がっていたように見えるけれど、それもフェイクだったのか、

という疑問にも突き当ります。

ネイサンは「エヴァ」の完成度のテストとして、彼女に課題を与えました。
被験者ケイレブを利用して、彼女が閉じ込められている部屋の外に出る、というものです。

彼女はケイレブの好意を引き出し、見事に課題をクリアしました。

どんな手を使ってでも、外の世界に出る。

それはどんどんデータを蓄積して発達した人工知能が獲得した、好奇心のなせる業だったのでしょうか。

それとも、あくまでネイサンが与えた課題の延長線に過ぎないのでしょうか。


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posted by 銀の匙 at 13:48| Comment(0) | TrackBack(0) | 映画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年08月11日

シング・ストリート 未来へのうた(注記以降、ストーリーの結末に触れています)

ジョン・カーニー監督のアイルランド映画。

劇場に入るといきなりデュランデュランの♪リオ、リオ、リオ・グランデを踊って渡る〜♪のサビの部分がかかってて、映画館もオリンピック仕様なのかぁと思いましたがもちろん違いました。

劇中、この歌がストーリーの重要なカギを握っちゃうような映画、といえば、歌を知ってる方はお分かりかと思いますが、物語が設定されてる時代から、かかってる音楽、登場人物のファッション、街並み、ストーリー展開に至るまで、全てが正しくこの曲と同じく80年代風であります。

リアルタイムで知ってると、この時代の何もかもがどことなくダサく感じてしまうのですが、席を埋め尽くした若者たちは全然そうは思わなかったらしく、あちこちから聞こえてくる感想は、「面白かったよね」「オシャレだったね」って...本当に? 

見回せば、リアルタイム世代っぽい人たちは皆押し黙り、胸中複雑であろうことが窺えます。だからって、もちろんダメな映画ではありません。いえ、なかなかいい映画だったです。

複雑だった訳は何となく分かりますがそれはちょっと置いといて、まずA面(死語)から行きますと、舞台はド不景気の真っただ中のアイルランド。音楽好きの少年・コナーは、親が失業してしまったため、ガラの悪い学校へ転校する羽目に。ところが、モデル志望の少女・ラフィーナに一目惚れするや、バンドのビデオに出演を持ち掛けるという口実で興味を惹くことに成功。

そこから急きょバンドを立ち上げるという、泥縄もいいところの展開なんですが、同じく音楽好きの兄・ブレンダンや学校仲間の協力も得て、なかなか良い感じのバンド「シング・ストリート」を結成し、ラフィーナにも認められるようになる。

しかし、当時のアイルランドはドン詰まりで、若者たちの唯一の希望は隣国ロンドンに渡ることでした。ラフィーナもモデルとしての成功を夢見て、海を渡ってしまうのですが…



そもそも、80年代のニューロマンティックにドン引きしていた身としては、デュランデュランのMVが出てきた時点できゃーすみません来るところを間違いましたあのーおなか一杯なんで早退していいですか?と逃げが入っていたのですが、兄上の言う通りベースラインに注意して聞いてみると、なかなかカッコいいサウンドではないですか。

やはり先入観というのはいけませんね。音楽の使い方も絶妙で、お母様の浮気のシーンでさりげなくホール&オーツの「マン・イーター」(男好き)が流れたり、君は自分の行く道を決めたんだね、というザ・キュアーのIn between daysの歌詞が被るようなシーンがあったりとか、歌詞とストーリも上手くシンクロしていましたね。

分かってしまうと逆に薄っぺらく感じるのかも知れないけど、知らない人のために、挿入歌の訳も字幕に入ってたら面白かったかも。

「シング・ストリート」が「作曲」するオリジナル楽曲も、巧みに80年代風にアレンジしてあって実に心憎いです。コナー役のフェルディア・ウォルシュ=ピーロはこれが映画初出演だそうですが、ピュアな感じがとてもよく出ていて、歌声も心に響きます。

コナーは、お兄ちゃんにMVを見せてもらうと、たちまち影響されて翌朝同じような格好になってたり、鼻歌を歌っているうちに両親の怒鳴りあう会話が歌詞に交じってしまったりと、バンド少年あるあるな大人しいイジメられっ子なのかと思っていたら、結構な気骨の持ち主。

劇中、どんな音楽をやるんだ?と聞かれて、懐古趣味じゃないやつ。未来派だよ。と何度も答えていたのにグッと来ました。

だから、この映画も、舞台装置としては80年代を借りているのですが、その時代にこだわって懐かしむという作りにはなっておらず、あくまでもそこから飛び出して未来を創る、という視点で作られています。そこが爽やかだし前向きで良かったです。

80年代を象徴する映画として、「バック・トゥ・ザ・フューチャー」が出てきましたが、校則にうるさい校長も「お前がモーツァルトなら私はサリエリか?」と言ったりして、実は映画「アマデウス」を観てたのかな〜と思ったり、戒律がやたり厳しいと思ってたイエズス会の学校の方がずっとおとなしいらしかったり、と細々したところも面白かったです。

ということで、以下はお話の先までご紹介しますので、
これからご覧になる方への推薦の辞はここまで。

ヒューマントラストシネマ有楽町 スクリーン1で見ました。
見やすい席はF席かG席です。
F席は前が通路なので、広々していますが、
通路を挟んだ前のE席と高さがほとんど同じなので、
座高が低い人はG席の方がいいかも…。

(この先はネタバレになります)










さて。

爽やかに感動している若者たちを斜めに見ながら、おじさん、おばさんは暗い顔の人が多かったですね。

今になってみると、EUからうっかり離脱してしまった(?)イギリス人がアイルランドのパスポートをとるために必死になってたりとか、事態はかなり複雑に変化しているのですが、映画のストーリーの方はテンプレ展開なので、そこが食い足りない、という大人もいたかと思います。

また、かなりの人がお兄ちゃんのブレンダンに感情移入してしまったせいもあるかも知れません。
こちらが暗黒面…いや映画のB面ですね。

意味の分かんない規則でがんじがらめに縛ってくる校長の目の前で、校長を批判する歌をうたい、美人で賢いガールフレンドと新天地へカッコよく旅立っていく弟。

両親の喧嘩の防波堤になり、自分の理想は挫折しても弟に音楽のイロハを教え手助けしたにも関わらず、弟から家でゴロゴロしてるだけのように非難されて、自分が荒野を切り開いたから末っ子のお前が通れるんだとキレてしまう兄。

全国の長男・長女の観衆の皆さんが心の中で、「そーだそーだ!」と叫んでいたのが聞こえるようです。

だけどお兄ちゃん、自分は「ロックとはリスクだ」と言いながら、結局のところ本当の意味でリスクは取ってなかった。音楽についてのオタクな知識はあるけど、彼にとって音楽は逃避先で、表現者として弟のように行動していなかった。そのことを痛感しているので、何かに憑かれたように、弟の旅立ちを助けます。きっと、相当気持ちが高ぶっていたのでしょう。

小さなボートでアイルランドを離れ、ウェールズに向かおうとする二人(って、パスポートとか要らないのかな?)を岸辺で見送りながら、降り出した驟雨の中で Yes, Yes! とまるで自分に言い聞かせるように言う彼の心中を考えると、お兄ちゃんの方に年や立場が近い者は実に複雑な気持ちです。

コナーは言っていましたね。
自分はフューチャリスト(未来派)なんだ、と。

この未来とは彼ら14歳の未来なのであり、大人たちは彼らに主役を譲り、手助けする存在に過ぎません。たかが映画でそんなこと思い知らされたくはなかったですが、それが現実です。

物語の中で彼らの両親は飲んだくれ、喧嘩をし、不倫をし、とロクなことをしていません。ラフィーナに至っては、保護施設で育ったのです。でも彼女は、そんな傍目にはどうかと思うような親の、子どもへの愛情を繊細に、敏感に感じ取っています。

80年代のコナーは2016年の今、彼らの両親に近い年のはずですが、果たしてどうなっているのでしょうか…。

普遍的な物語のフォーマットを下敷きにして、永遠の青春映画として作りながら、一方では、80年代という時代の楔を打ち込むことによって、決して昔は良かった式のおとぎ話にはしていません。そんなところがちょっとほろ苦い、余韻のある映画だと思います。

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