2016年07月18日

蘭陵王(テレビドラマ29/走馬看花編 第17話)

はぁい、皆さま、いつの間にか端午の節句も終わっちゃいましたね。

…って今もう7(ひち)月じゃねーか、いつの話でぇ?って、ただでさえ周りを江戸っ子に囲まれてると月日が経つのが3倍速いんですけど(赤いのか?)、中国じゃ年中行事は農暦なんで、今年(2016年)の端午の節句は6月9日だったそうなんですよ。

端午の節句といえば五月人形ですが、「金太郎」や「桃太郎」に並んで、「蘭陵王」(雅楽の方ですが)っていうのもあるのに気が付きました。

へぇ、と思って人形屋さんのサイトを見ると、何とひな飾りの中に「蘭陵王」を突っ込んでるセットを発見。そんな、何でも増量すりゃ良いってものでもないでしょうに…。

かと思えば、「博多祇園山笠」(7月1〜15日)の舁(か)き山笠に「秀麗陵王鬼面勲(しゅうれいりょうおうきめんのいさおし)」なるものがあることをニュースで発見。

西日本新聞の記事にはちゃんと、

「女性のような顔立ちのため、鬼面を付けて戦ったという6世紀中国の蘭陵王の人形は、躍動感あふれるポーズが印象的。川崎さんは「今年は赤にこだわった。遠くからでもひと目で分かる鮮やかな色彩を見てほしい」と話した。

と、キャラの由来や色までガッツリ紹介されております。

さて、年中行事のうち、日付が移動する祝日になってる行事は旧暦1月の春節、4月の清明節、5月の端午節、8月15日の中秋節の4つ。

地方によって行事食に違いはありますが、メジャーどころで春節は餃子、清明節は草餅、中秋節は月餅を食べます。

じゃ、端午の節句には何を食べるか、というと、それはチマキ。

ちょうどこの時期、横浜中華街に行ったので頂いてまいりました。

なんで端午節にチマキを食べるか、は実際にはナゾなんですが、楚の政治家にして詩人・屈原<くつげん>が国を憂いて入水したとき、お魚のエサにならないように楚の人たちが河へチマキを投げ入れたのが始まり、というお話が伝えられております。

♪ち〜ま〜き食べ食べ、兄さんが〜
測ってくれた背の丈〜♪

なんて、のどかな光景が喜べるのも平和だからこそ。
権謀術数渦巻く1400年前の北周では、悲しい思い出にしかならないのでした。

それに、もう7月も半ばなんで、江戸っ子の本拠地・神田では、チマキじゃなくて、

「冷やし特バカ」

を食べる季節なんですよ。

私ゃ全国的にこのメニューは同じ名前なのかと思っていたので、非常に恥ずかしい思いをしたことがございますが…。

いえ、中国語の雪舞さまに認定されたあの方のかき氷、という訳ではございません。
じゃ、なんでしょうか?

が分かるかも知れないので、行ってみましょう、第17話

今回は割に短く終わってしまいました。インタビュー紹介等はまた次回以降ということで、サクサク参ります。

(〈蘭陵王〉関連の記事を最初からご覧になりたいかたは、右欄から蘭陵王のカテゴリーを選ぶか、または→こちらを最初から戻ってご覧ください。)

前回・第16話→こちらをご覧ください。

*   *   *

巫族〈ふぞく〉の天女・楊雪舞〈Yang Xuewu/よう せつぶ〉は、斉〈Qi/せい〉国の皇子・高長恭〈Gao Changgong/こう ちょうきょう〉=蘭陵王〈Lanling Wang/らんりょうおう〉=四爺〈Si Ye〉との婚礼を間近に控えた身でありながら、隣国の周〈Zhou/しゅう〉の皇帝・宇文邕〈Yuwen Yong/うぶん よう〉=仔ブタ(と呼んで、と自分で言ってた)陛下に、姪の病を治して欲しいと請われるがまま、都・長安(Chang'an/ちょうあん)の宮殿に滞在しています。

近衛兵に身をやつして周に潜入していた蘭陵王は、宮廷内に不穏な動きがあることを察知し、夜闇にまぎれて雪舞の部屋に現れるのですが…。


*   *   *

第16話からヘンタイまたぎで始まりました、冒頭シーン。

“變態”って言葉が中国語でも、さなぎが蝶になるぅ(はぁと)以外の意味で使われるようになったことは前回ご紹介いたしました。

よくも悪くも日本のサブカルが世界にダダ漏れの昨今、中国もその例外ではありません。言葉もどんどん知れ渡ってゆき、よくもこんなものまで…という言葉が漢字ならそのまま使われてたり、しっかり訳されてたりは当然として、あまりになじんで独自の意味が追加された言葉まであります。

特に解説は致しませんが、
“正太”“二次元”“眼鏡娘”あたりはそのまんま。
“姐姐控”“蘿莉控”は音訳が混ざってます。“控”「〜コン」の訳ですね。「シスコン」「ロリコン」…以下、数えきれないほどあります。

そのほか、ツンデレ“傲嬌”)、ドジっ娘“冒失娘”)あたりはちゃんと(?)翻訳ですが、スゴイのがこれ、

“殺必死”

意味、お分かりですか? 読みはコレ→ sha bi si

そう、サービス。でも、サービスはサービスでもサービスカットとかそっち方面に使うようですね…
まさに悩殺ってヤツでしょうか。

も一つ面白いのは“腹黒”
これは日本語そのままの「腹黒い」という意味のほかに、「小悪魔的な萌え」ってニュアンスも付け加わっているそうです。

そんな良い意味で腹黒(??)な皇帝の元からとっとと逃げ出そうとする蘭陵王。

私だ私だってあんた、オレオレ詐欺じゃないんだから、
名前くらい名乗ったらどう?

“你還猜不出我是誰阿?”
(私が誰かまだ分からないのか)

って言われてもさ。
このニヤけた二重あごのおっさんは誰なんでしょう?
マスクを取った後すらわかんないわよ。

思うにウィリアム・フォンさんはこの頃が一番栄養が良かったのではないでしょうか。
今はまた以前同様痩せ細って、御膝元のファンの皆さんのみならず、白骨精役の大女優コン・リーにまで、ちゃんと食べてるの?と心配されてたそうです。

s-ELLE2.jpg

(雑誌のカバー写真。2016年度ご本人さまの微博より。何だかどんどん若くなっていくような気がするけど気のせい?)

普通、写真に撮ると実物より膨張して見えますから、写真でさえ細く見えるなら相当なものでしょう…。

しかし、この時点ではまだ膨張気味の蘭陵王は尋ねます。

“想我嗎”
(私が恋しくなかった?)

“想”+○○は 〇〇を恋しく思う、会いたいと思う、という意味です。
第10話(→こちら)で宇文邕が、都にいる宇文護を思い起こしながら、

“宇文護現在必定是按捺不住”
(宇文護も待ちきれぬ思いだろう)

“朕也很想你呀”
(朕もそなたに会いたく思うぞ)

って言ってました(笑)。

そういや前回、ずっと離れたままだと死んじゃうとまで言っていてましたよね雪舞は。当然、ようやく再会出来て大喜び…なのかと思いきや、最初に出てきたセリフがコレ。

“你為什麼偷看貞兒洗澡”
(どうして貞児の湯あみを覗いたりしたのよ)

聞いた蘭陵王は不服そうな顔をしてます。ってそりゃそうだろ。
しかし雪舞は四爺の気持ちにはお構いなしの様子で、まるで相手が悪いような責めっぷり。

“你在這裡假扮多久了”
(いつから紛れ込んでいたのよ)

以前の回ならブチ切れてたかも知れないのに、周の同僚たちに揉まれたおかげか四爺はおとなしく答えます。

“我一直都偷偷跟著你”
(最初からそっと付けていたんだが)

どうもこのシーンの四爺は何だか表情がぼんやりしてて、
しかも相変わらず眠そうですよね…。

しばらく仮面に隠れて見えなかった間に中味が入れ替わってたりして…。
いや、そんな《宮》(『パレス〜時をかける宮女』)じゃあるまいし。

“你不知道你的身份 在這里很危險的嗎”

直訳すると、あなたの身分でここにいたらどんなに危ないか、分からないの?ということですが、意味するところは、敵国の皇子の身分でうろうろすんな、宇文邕に捕まったら目ぇくり抜かれっぞ、ってことですよね…あぁ、いえ、突然のことにパニックになってるのがよく分かります。

ってか、それを言うなら、あなただって敵国の皇子のヨメの身分でここにいるってご存知ですか? まさか、自覚がないのかな…?

まぁでも分かりますよね。すごく会いたいと思う気持ちの裏返しで、優しい言葉よりこういう態度に出てしまうっていうのは。

四爺もそれはもちろん分かっているので、当然のごとく、さあ帰ろうと促しますが、
当然、喜んで一緒に帰ってくれると思いきや、ここに残ると言い出す雪舞。

それを聞いて思わず後ずさりする四爺のリアクション、何度見てもおかしいです。

“每次他看到你的時候就像 就像沙漠里一隻野獸 渴了好幾個月了
看到了水 那麼飢渴 那麼淫穢”

(奴ときたら君を見るたび、まるで砂漠の獣が何か月かぶりに
やっと水を見つけたときのように 飢えたいやらしい様子をしているのに)


またもヒューズが飛んだ四爺は、言いながら一人で興奮してるんですけど、
ほんとこれ、前回雪舞が言ったように、相手の目ぐらいくり抜きかねないって。

しかし、そこはやけに冷静に返す雪舞。

“野獸不過是看到水 為什麼覺得淫穢呢?”
(獣は水を見つけただけでしょ?なんでいやらしいのよ)

ここの日本語吹き替えはとても上手いと思うのですが(ま、いつも上手いですが)、
「水」を「いずみ」と訳しています。

中国語でも“水”は「水」なんですが、“山水画”という言葉もありますように、
日本語で言う、河とか湖とかを指すことも多いんですね。

ここのセリフも、『スターウォーズ フォースの覚醒』の、砂漠の中に設置された水飲み場みたいなものではなく、オアシスとか、ちょっとした小川みたいなものがイメージされているはずなので、「水」ではなく「いずみ」と訳したのではと思います。(口の形とか、秒数とか、テクニカルな理由もあるのかも知れませんが…)

たった一文字のことですが、翻訳って大変だなあと思います。

と、視聴者が勝手に掘り下げていると四爺は、

“你不要跟本王深究這些 總而言之 他就對你有意思。
(そんなことは詮索しなくてよろしい。ともかく、
あいつは君に気がある)


と言い出します。
なんだ太っ腹は見てくれだけかぁ…と皆が見切っているのに、

“不要深究這些”
(そんなとこにツッコむな)

と言われてもねぇ…。

ちなみにここの四爺のセリフにある、

“意思”

という言葉はなかなか面白いです。

ここでは、“有意思”で「気持ちがある」=まさに「気がある」って意味なんですが、
同じ字面で「面白い(interesting)」という意味になることもあります。

この言葉を使ったテッパンの小話というのがありまして、こんな感じです。

エライ人が“紅包”赤い袋。ご記憶でしょうか、お年玉はこんな袋に入ってるんでしたよね)を渡されて…
 
“你这是什么意思?”  (これはいったい何の意味かな)  
 
“没什么意思,意思意思。”(何てことありませんよ、つまらない物です)  
 
“你这就不够意思了。”  (こんなことをしてもらっては困るな) 
 
“小意思,小意思。”   (ほんのちょっとした気持ちでして)   
 
“你这人真有意思。”  (あなたって人は本当に面白い人だな) 
 
“其实也没有别的意思。” (いえいえ、特に何かってことでもないんで)  
 
“那我就不好意思了。”  (じゃあ済まんがいただいとくよ) 
 
“是我不好意思。”    (お礼なんて却って申し訳ございませんですよ)

李安〈Li An/り あん〉とか祖珽〈Zu Ting/そ てい〉とか、しょっちゅうやってそう(笑)

忘れがちになりますが、そういや四爺は紅包をもらう方の立場の人だったんでした。
そして皆さまの予想通り、ここから先、四爺の自称は“本王”一点張りです。

“全天下人看得出來了 就是你沒有看出來”
(誰が見たって分かるのに、君だけが気づいていないんだ)

全天下人 (全世界の人)と来ましたね!そんな大げさな。あはははは。
雪舞もここぞとばかりに言い返します。

“你這是在醋意大發嗎?”
(それって巨大なヤキモチ?)

“醋”(酢)にヤキモチという意味があることは、第12回→こちら
でお話しましたね。

“我不管 反正你就是本王的 你就是本王的”
(何とでも言え とにかく君は私のものだ 君は私のものだ)

おやおや、いきなりこのお子ちゃまぶり、前回(第16話)で雪舞が宇文邕に話したことは本当だったんだ...と
、蘭陵王の豹変ぶりに驚愕する視聴者ですが、雪舞は慣れたものです。

王に対する庶民の態度とは思えないこの馴れ馴れしい態度、いやこれは宇文邕へのハッタリ君ではなく、ホントに日頃蘭陵王をつねっていたとしか思えない…

“現在才發覺 你的妻子有多麼國色天香了 是嗎”
(今ごろになって、あなたの奥さんは絶世の美女だったって気づいたんでしょ)

“國色天香”とは国を代表する名花という意味。百度先生によりますと、現代中国では国花は決めていないそうなのですが、この言葉の出来た唐代、それは“牡丹”を指していました。

「立てば芍薬、歩けば牡丹…」と、美女を花になぞらえるのは日中共通。

しかし中国語には、日本にはない“校花”という「名花」が存在します。
平たく言えば、ミス・キャンパスという意味ですが、必ずしもコンテストで決まるわけではなく、誰もが認める学校一の美女、を指すようです。

そんな“校花”を手に入れた男子は鼻高々、なのですが、当然、そんな特典を享受するにあたっては、考えようによっちゃ大変厳しい条件を耐え忍ばなければダメらしい。

その厳しい条件とは、“校花”はみんなのもの、という、暗黙の男子間ルール(笑)。
地域や年代によって違うのかも知れませんが、少なくとも北京ではそうでした。

私の直接知ってるケースは、当時としては珍しい、理系の才媛(写真を見せてもらいましたが、ホントにめちゃ美人)だったのですが、今はもういい歳をしたおばあちゃまなのに、表敬訪問と称してひっきりなしに昔のクラスメートが訪ねてきます。

そのたびに、旦那さんはニコニコしながらお茶を入れ、野郎共をもてなし、昔話に付き合わなければならないのです。

誰もが羨む学校一の美女と結婚できたってことは、旦那さん本人として嬉しくなくはなくないんでしょうけど(どっちだ)、延々そんなことに付き合わなきゃいけないなんて、疲れそう。

ましてや四爺のあの性格。ムリムリ…。

“開始擔心了? 你真可愛。”
(心配になった? 可愛い人ね)

1400年前にもそんなルールがあったのか、雪舞はしきりに四爺をからかいますが、どうやら必要十分条件を満たすことはできなさそうな四爺は、

“我不跟你說這些啊”
(この話はおしまいだ)

と話を打ち切ろうとします。直訳すると、もう君とこういった話はしませんよ、ということですね。

“我今天通知五弟 在邊關等我們”
(今日、五弟に国境へ迎えにくるよう知らせておいた)

この話を聞いたとたん、雪舞は四爺に抱きつきます。

“雪舞真的好高興”
(雪舞は本当に嬉しいの)
こう言って四爺を嬉しがらせておいて、

“就一天咱們回家了”
(あと一日いたら帰りましょ)

って要求を出すなんて、
雪舞も策士よのぉ…。

五爺まで呼んで帰国の手筈を整えてしまった以上は、最終兵器を出さないとお許しが出ない、とのとっさの判断だったんでしょうね。

ただ、さっきの優しい言葉が滞在を引き延ばすためのお芝居のように聞こえて、喜んだ四爺がちょっと可哀想な気がしますけどね…。

“求求你嘛 拜託你啦”
(ねぇ どうかお願いよ…) 

と、これも高一族直伝のおねだりワザを開陳されると、四爺はたちまちメロメロに。 
“這跟要挾本王有何區別 你知道我是拒絕不了你的”
(これじゃゆすりと変わらないな 
私に君の頼みは断れないんだから)


そんなこと言っちゃって、ホントに学習しないお人ですね。
いまこんな目に遭ってるのだって、元はといえば、第6話で阿怪を庇う雪舞のおねだりを聞き入れてしまったからではありませんか。

でもま、美女のおねだりを聞いて取り返しのつかない結果になるのは、中国史の伝統だからしょうがないか。

王の膝の上に侍ったまま、飲みホーダイで夏を滅ぼした末喜〈ばっき〉ちゃん。
酒池肉林の宴を催して、ゴージャス三昧で殷を滅ぼした妲己〈だっき〉ちゃん。
戦闘の合図の狼煙をお笑いのネタにして、周を滅ぼした褒姒〈ほうじ〉ちゃん。
名前不明だけど、ミンクのコートを貢がれて、敵を逃がしちゃった寵姫ちゃん。

など、など、など、など、さすが中国、人材豊富!

そういやこのドラマにも、先々国を滅ぼすおねだり寵姫ちゃんが登場するんだった。

しかしそこまでの予言はできないらしい天女の雪舞は、ニコニコと四爺を見送りながら、心の中ではおばあ様の予言した、

“兩狼互殺” (二匹のオオカミの死闘)

を思い出しています。

この二人、相手を思いやるあまり自分の心配事を相手に伝えない、という困った傾向があり、それが後々事態を悪化させていきます。これまでもたびたび、そういった例がさりげなく描写されていましたが、このシーンもその1つですね。

さて、雪舞の思いが呼び起こしたのか、仔ブタ陛下は来し方を思い、感慨にふけっております。

貞児のパパ・松本幸四郎…いや、宇文毓〈うぶん いく〉は史実でも宇文邕と仲がよかったとのこと。文武両道に長けていたとのことなので、きっとドラマ同様、宇文邕にもいろいろ教えていたのでしょう。

かわいそうに、死の床についたお兄様は、

“病入膏肓”(病、膏肓〈こうこう〉に入〈い〉る。もう助からない)

と話していますが、膏肓というのはツボの1つで、実際にはココが痛いからって死ぬわけではありません。

じゃ膏肓ってどこか、は意外に知られていませんが、背中の自分ではしっかり押せないところにあたり、肩甲骨〈けんこうこつ〉のちょうど上下の真ん中で、背骨側のヘリにあります。

ここのツボは胃酸過多とかダイエットに効くと言われていますが、要は、ストレスが溜まると痛むところなんですね〜。だからといって、むやみに押してはいけません。東洋医学は何でもそうですが、体質と症状によって処方が違うので、どこのツボを押したらいいかは人それぞれ。

動かしづらい場所なので、運動するとき意識して動かすくらいがちょうど良いのではと思います。

と、ヘルスケアに関するトリビアも虚しく、お兄様は(史実では息子の)貞児と弟の宇文邕を守るため、宇文護に毒を盛られても敢えて防がずに亡くなってしまいます。

隣の高一族同様、北周の宇文一族も血で血を洗う抗争を繰り広げたわけですが、宇文護は宇文邕からすると従兄にあたり、斉の皇太子・高緯〈こう い/Gao Wei〉にとっての蘭陵王と同じような立場の人なのです。

蘭陵王は建国の功労者の長子の子ですが、宇文護は建国の功労者の兄の子。一族の序列でいえば上の立場なのに、臣下の扱いなのは面白くなかったに違いありません。

宇文一族の出身でありながら臣下扱いの人として、ドラマでは他に宇文神挙〈うぶん しんきょ/Yuwen Shenju〉が出てきますが、川本芳昭先生の『中国の歴史5 中華の崩壊と拡大』によりますと、その他にも、鮮卑〈せんぴ〉族にはこんな習慣があったそうです。

「西魏二十四軍政制を見るとき(中略)…興味深い現象が見られる。それは各軍府の府兵はその軍府の長官の姓を名乗ったと考えられることである。

こうした習慣は胡族のもつ古い伝統に根ざすもので、自らが属する部族の長の名を自己の氏姓とするということが鮮卑や匈奴、烏丸などの北方民族の間では広く見られ、北魏の時代になっても受け継がれていた。」

「これは隋末のことであるが、隋末の英雄である李密が隋の煬帝を弑殺した宇文化及を非難して『卿はもともと匈奴の奴隷・破野頭の出である。それなのに父兄子弟はみな隋室の厚き恩を受けたのだぞ。…』と述べたことがある(隋書 李密伝)。」

「この李密の非難は、宇文化及の先祖の姓は破野頭といったが、その先祖が北魏の初めに宇文俟豆帰という人物に従属したので、のちその主に従って宇文氏を名乗ったことを踏まえているが(隋書 宇文述伝)、このことは北魏建国から200年以上たった七世紀初頭の時代にあっても、少なくともこうした主人の姓に従って自らの姓を名乗るという風習があったことを持ち出し、他人をからかうことが可能であったことを伝えている。」(274pp)


この場合、宇文氏に仕えた人が、主人の苗字をいただいて同じく宇文氏を名乗ったということになります。

日本で言えば、伊達家の家臣が、伊達の苗字を許される、てなとこでしょうか。

武将レベルでも相当な恩典ですが、これが皇帝の苗字ともなれば「国姓」としてそのステイタスたるや大変なもので、最大級の働きをした英雄に与えられることになります。

明代の終わり、清に抵抗して戦い、台湾からオランダを打ち払って有名となった鄭成功〈てい せいこう〉は、皇帝から明の国姓“朱”を賜ります。国姓を名乗るエライ人、ということで付いた呼び名が「国姓爺」〈こくせいや)。

歌舞伎の演目『国姓爺合戦』でも有名ですね。

一方、生まれついての国姓爺・宇文邕ですが、自分に兄上を毒殺させようなど“異想天開”だ、と泣き叫んでいます。

この言葉、日本語の「奇想天外」に当たるものだと思っていましたが、使われ方を見ると、どうやらちょっとニュアンスは違うみたいですね。

さて、お相手の宇文護の方ですが、すでに宇文邕を始末して皇位に付く気満々です。

皇帝のお召し物である金の“龍袍”にスダレ冠(第7話こちら に登場しましたね)をがっつり誂え、コスプレの用意も万端です。

もっとも、龍を刺しゅうした金や黄色の服が皇帝の衣装と定められたのはもっと後の時代のようですが…。ナショナル・カラーはですから、宇文邕のカラスルックが周的には正しいです。

で、ブラック皇帝陛下は朝ごはんに竜骨湯を召し上がるわけですが、医食同源の中華では、メニューにもいちいち効能があり、このスープは、

うつ病に効く

とされております。

何でそんなもの処方されてるんだか、うざいほどポジティブなのに…。
(あ、いつもそういうものを飲んでいるから鉄のメンタルなのか)

ところで、「竜骨」とはすなわち、動物の化石のことです。甲骨文字は、漢方にしようと竜骨を買った清代の学者先生が、そこに刻まれた模様を見て、これは文字だと気づいたことから発見されたとか。

何でも薬材扱いの困った習慣が、珍しくも良い方へ転んだ例ですね。

お飲物が貴重な古代の遺物かも知れないとはご存じない仔ブタ陛下、飲もうとレンゲを持ち上げたところに宇文神挙が来たので、実際には口をつけていません。

だから料理番がどっちの手先だろうと、きっと何ともなかったはずです。
お料理にがっつかないというのには、こんなメリットもあるのですね。

と、ティファニーのマナーブックを片手に鑑賞していると、お下品な方々が禁止事項ガン無視で乗り込んできます。

いまはそんなことないと思いますが、ひと昔前の中国の列車には、話に聞く日本の買い出し列車みたいに、ありとあらゆるものが持ち込まれていました。

ふとん、なべ、自転車などは可愛い方で、人の背丈ほどもある米袋とか(それ、手荷物っていうか普通)、ヤギとか(もちろん生きてるヤツね)、センザンコウとか(もちろん生きてるヤツね)、理解に苦しむアイテムも少なくありませんでした。

絶対ダメって繰り返し放送してるのに、花火を大量に持ち込む不届き者とか(天女さま、あなたのことです)。

当然、むくろもダメですよ!

と言ってみても、宇文護も不届き者なんで聞いちゃーいません。
そんな人たちに真顔で説教する宇文神挙はホントに怖いもの知らずというか何というか。

当然のごとく、手下どもに刀を突き付けられておりますが、よくも殺られなかったものだと…ぶるぶる(あまりに不自然なんで、実は最初見たとき、彼もグルなのではと思ってました。許して、宇文神挙!)

スープを飲んでもいないくせに、毒を盛られた…と、虫の息の宇文邕。皇帝だというのに俳優なみのスゴイ演技力です。つか仔ブタちゃん、その血糊はどこから…まさか『ズートピア』じゃあるまいし、ケチャップとかじゃないですよね。

それにしてもよく分からないんですが、宇文護はなんで今頃になって皇帝の座を狙い始めたんでしょうか。どうせなら宇文邕がもっと若いうちの方が良かったんじゃ?

とはいうものの、きっかけもなくクーデターを起こせば、さきざき歴史書にどう書かれるかは火を見るより明らか。

意外な気もしますが、こういう人たちは通信簿を気にする夏休み前の小学生みたいなマインドの持ち主だったようです。

小学生なのは宇文邕にも言える、というのはもうしばらくすると分かります。

ここで、宇文護は宇文邕に譲位の詔〈みことのり〉を出させようとします。宇文邕は寝殿に引っ込んでしまいましたが、李安はそこへサインした文書を取りに行くのを嫌がります。

宇文護の子分のくせに、なぜ肝心の詔を取りに行かないのかははっきり説明されていませんが、恐らく、宇文邕が「先」帝(笑)という身分になったとしても皇帝は皇帝、その身体(玉体)に触れたり、直接何かを受け取ることは、禁忌だったからだと思われます。

第8話(→こちら)でお話しました通り、直接声を掛けることさえ、本当は許されないくらいなんですから、いつもは遠く階段の上にいる皇帝陛下のお側へ、大冢宰ならぬ李安の分際で近寄ることなど考えづらかったのでしょう。

そんなら自分で行く(はぁと)と、さすがは宇文邕の想い人(笑)らしく、ずいぶん気軽に詔を取りに来た宇文護に刀をつきつける、仔ブタ陛下。

積年の恨み重なる従兄に“老狐狸”(悪賢い古だぬきよ)と呼びかけています。

おや、これまでは自分をオオカミに育ててくれたオオカミだと思ってたんじゃなかったでしたっけ。オオカミになったりタヌキになったり忙しいお人です。

ちなみに、中国語の“狐狸”は「キツネとタヌキ」ではなく、現代ではこの2文字で1語で、「キツネ」を意味します。

詐欺師一族としては、どっちもどっちのキツネとタヌキの化かし合い、なんでしょうけど。

ということで、キツネ(江戸前は油揚げ)とタヌキ(同天かす)両方入りの冷やしそば大盛りのことを、一部では「冷やし特バカ」と申します。

背筋も凍る夏の納涼メニュー、どうぞお試しあれ!

腹心が護ってくれるはずと信じていたのに宇文邕の計にはまり、自ら手にかけていたことを知り、大船どころか納涼屋形船に乗り組んだと悟った宇文護は、

“反間計…”(離間の策か)とつぶやいていますが、これは以前ご紹介した《孫子兵法》用間篇にある言葉です。

相手の力を削ぐために、大事な仲間と仲たがいさせようとする。

高緯に蘭陵王の悪口を吹き込んだ祖珽が企んでいると、第10話(→こちら)で雪舞がなじった計略ですね。

さあ、ついに宇文護を追い詰めた宇文邕。してやったりといつにもましてドヤ顔の特盛り状態です。とっとと決着を付ければいいものを、この後延々と過去のいきさつを語ります。

なんせあと放送時間が10分も残ってますしね。

ということもあるでしょうが、宇文邕としては、この後、本当の皇帝になるために、この場にいる全ての人(除:宇文神挙)が思っているであろう、

宇文邕はヘタレ
宇文邕は兄皇殺し
宇文邕は尉遅迥を見捨てた

という誤解をといておかなければいけないのでしょうね。
皆に思われているってことは、歴史書にもそういう記録が残ってしまうということでもありますし。

そうです。宇文邕も、通信簿に何て書かれるかを気にしなければいけない立場なんですね。

そして、我らが四爺も、スケールはやや小さいとはいえ、そこんとこの基本は一緒。何せ第9話(→こちら)で、史官に書かせるセリフのことまで皮算用してましたよね。

現代日本での存在感のなさからは想像がつきにくいことですが、古代中国で歴史を書く係の人は偉かったのです。

地位が高かったというだけではありません。地位の高さに見合うだけの、その根性が偉かったのです。

『春秋左氏伝』にこんなエピソードが伝わっています。

大史書曰 崔杼弑其君 崔子殺之 其弟嗣書 而死者二人 其弟又書 乃舍之 南史氏聞大史盡死 執簡以往 聞既書矣 乃還
(歴史を書く係である太史が「崔杼は自分の君主を殺した」と記録したので、崔杼に殺された。跡を継いだ弟も同じことを書いて殺され、死者は二人となった。するとその弟がまた同じことを書いたので、ついに赦された。

別の史官は太史たちが殺されたと聞き、「崔杼は自分の君主を殺した」という記録を残そうと竹簡(第16話参照)を持って駆け付けたところ、すでに史書に記されたと聞いて、帰っていった)


崔杼は、このドラマでいえば宇文護のような、当時の実力者です。彼が公位を簒奪したため、史官は簡潔にそう書きました。殺しても殺しても、次に史官になった者が記述を変えないので、ついには諦めた、という話です。

ま、殺された君主の方もロクな人じゃなかったのですが、それはまた別のところに書いてあります。毀誉褒貶は別にして、事実は事実として記録に残すというのが史官の仕事なのです。

この話は「太史の簡」という言葉になって残っています。意味は、どんな困難にあっても仕事をおろそかにしない、ということです。

だから第9話で四爺は史官に書かせるセリフなんか考えていますが、その通り書いてもらうのは、たぶんムリ。

史官のど根性といえば、中国でもっともよく知られた歴史家の1人、司馬遷のエピソードも思い出されます。

彼は当時の将軍をかばったために刑罰を受けますが、執筆中だった史書『史記』を完成させるためだけに生きている、書き終えたら極刑に処されようと構わない、と言い放った話は有名です。

こうまでして作られた書物に書かれた記録は、当然重きを置かれ、子子孫孫語り継がれると考えられています。

なので、後世、残った記録で自分の悪評が定まるのを恐れて、皇位を狙う者たちはウラの事実がどうであれ、表面的には禅譲が行われた(前任者に位を譲られた)と史書に書かせようとするのです。

何だかなーとお思いになるかも知れませんが、後世の評判を気にするのは、何も古代中国の話だけじゃありません。

たとえば、アメリカ初の黒人大統領オバマさん。

あらゆる意味で物議を醸してる後任選びのおかげか、すっかり影が薄くなりつつありますが、彼も任期の終盤を迎え、「どんなレガシーを遺すか」が注目されています。

レガシーとは遺産、この場合は業績ということですが、それはまさにのちの世に、何をした、どんな大統領だったと伝えられるかを意識することに他なりません。

で当然、記録のために回ってるであろうビデオカメラを意識しすぎたのか、宇文邕はセリフを引っ張り過ぎてしまい、その隙に貞児を人質に取られるという大失態を招いてしまいます。

宇文邕がどうなろうが(ヘタすりゃここでライバルが消滅してくれたらラッキーくらいに思っていたのかも)、

とにかくとっととこの場を立ち去りたい蘭陵王は、宮中の大混乱に飛び込もうとする雪舞に、

“這不關你的事”
(これは君には関係のないことだ)

と言いますが、もちろんそんなこと聞く雪舞じゃありませんって。

一方、貞児を放せとすごむ宇文邕に、

「取引できる立場ではなかろう」という声がかかります。
相変わらず上手い訳っすね。ここの原文は、

“討價還價”

値段の駆け引きをする、という意味です。

そこへ飛び込んでくる楊雪舞。突然の招かれざるゲストの登場に、当然、みんなはビックリです。

自己紹介も兼ねて、出た出た 雪舞のお得意、 

ハッタリ君!

何か物凄い魔法使いなのかしら?と、その場のみんなが思わず固まっていると、後ろからこっそり、蘭陵王が李安に近づきます。

ああ、李安〜! 後ろ後ろ!

四爺は何のためらいもなく、この場で最初に剣を振るったくせに、その後は左右をキョロキョロ見てるのが何ともはや。

その後、そんなに宇文邕の命令を聞くのが不服なのか、御意といいつつあからさまに不承不承で笑わせてもらいました。

しかし、笑ってる余裕もないこの場の宇文邕と宇文護。

最後の大逆転を賭けて、宇文護はこの一言を繰り出します。

“我是大周國的開國大將”
(私は周国開国の功労者だぞ)

你的父皇宇文泰 曾經下令 後代君王均不得殺之 你豈敢”
(そなたの父、宇文泰は、この先、皇帝といえども宇文護を殺めてはならぬと命をくだしたのだ。それを敢えて破ろうというのか)

父親に背くのか!とは、ダースベイダーがルークに投げつけそうなセリフですね。…

儒教社会、ましてや人の手本たる皇帝であれば、親の言いつけに背くことは重大な倫理違反な上に、開国の皇帝・宇文泰が下したのは、宇文護に、いわゆる“免死金牌”を与えるという命令で、これを無視することはできまい、という言わば二重の脅しです。

“免死金牌”とは、建国の功労者に皇帝が与える特権です。

“金書鐵券”“丹書鐵券”というのも基本的に内容は同じで、恩賞や特典をメダルや金属の板に書く、一種の契約書で、半分、またはいくつかに割って、割符の片方は他の人が持っていました(第7話→こちらで、祖珽が高緯に「勝ったも同然」という意味で“勝券在握”と言ってましたね)。

そこに、お前さんの働きで勝てたら、死罪に値することをやっても9回までは無効ね、とか、お前の子孫も死罪を免除してあげるよ、等々の約束事が書いてあるわけです。

なんでそんな面倒くさいことを…とお思いの方には、日本の戦国時代を連想していただければ分かりやすいと思うのですが、これから国を作るってことになれば代々の忠義者とかはいませんので、武将も当然、これやって何のメリットがあるわけ?と思っています。

なので、合戦とかで一番に斬り込んだり、勇猛な働きをしてもらったりしようと思えば、やっぱりインセンティブで釣るのが一番な訳です。

最初はご褒美や領地を約束した契約だった“鐡券”ですが、死罪を免じるという恩典がついたのが、ちょうどドラマの時代、南北朝だったと言われています。それには戦乱の時代ならではの切実な側面がありました。

これは第1話で雪舞のおばあ様も言っていましたが(→こちら)、兎を捕まえれば猟犬は始末されるのが世の倣い。

功労のあった将軍は、疑心暗鬼に駆られる新皇帝の側にいて、褒美を期待するどころか、場合によっては命の心配をしなければなりませんでした。

それが、のちのち皇位を簒奪するかもしれない親戚筋ならなおさらのことで、建国にあたって助太刀した他民族とかも同様です。

だから、皇帝は将軍や親戚や帰順してきた他民族の武将たちに、私も、そして後継者たちもあなたに危害は加えません、という約束を与えておくことで、頑張って働いてもらおうとするわけです。

これが簡単にひっくり返せるようなら、約束になりません。いくら皇帝でも、重要な約束を反故にするようならば家臣は離反するはずです。なので宇文護も、絶体絶命の瀬戸際にこの話を持ち出してきたのでしょう。

でも、いくら取り決めだって、自分の命が危ないときに、それを守ろうという皇帝もいないでしょうね…。

結局、宇文邕は剣を振るい、

“朕即天下”
(朕こそが天下だ!)

と宣言するに至ります。

ってことで、宇文護によるクーデターはどこぞと同様失敗に終わり、ひれ伏す皆さん。とりあえず、長安市民に被害が及ばなくて済みましたね、は良いんですが、ここで宇文護の付き人も全員どさくさにまぎれてバンザイ側に回ってるんですけど…。

とまあいろいろありましたが、西暦572年、“韜光養晦”(才能を隠して外に出さなかった)12年の忍耐を経て、宇文邕は実権を手にしました。これは史実も同様で、ツメを隠して12年、ボンクラ皇帝を演じてきたその演技力と知力はやはり大したものと言わざるを得ません。

宮殿内外の様子を報告する宇文神挙にいろいろ確認事項もあるだろうに、質問の2つめが、“那天女呢?”(で、天女はどうだ)ってあたり、まだ演技が抜けきってなかったのかも知れませんが。

宇文邕が雪舞の不在に気が付くまでにどのくらい時間がかかったのか分かりませんが、四爺と雪舞は夜になって、国境までたどり着いたようです。

が、五爺と落ち合う予定の旅館で馬を下りると、周りをぐるりと周兵に囲まれてしまいます。

こんなにいっぱい人が潜んでたのに気配さえ察知してないとは、大丈夫ですか、この将軍?

しかもそこへ、四爺的に二度と見たくなかったであろう、宇文邕が現れます。

“怎麼要走了 也不跟我說一下”
(出ていくというのに、一言もなしか)

お取込み中だったみたいですからね…。

“原來你 一直潛伏在周國”
(おまえがずっと周に潜伏していたとはな)

言われた蘭陵王は黙って宇文邕を睨んでいます。
宇文邕が蘭陵王を見るのはここまでで、後はずっと雪舞を見たままです。

“宇文邕 我知道你是好人 你放了我們吧”
(宇文邕、あなたが良い人だって知ってるわ。私たちを放してちょうだい)

言われた腹黒陛下は実に微妙な表情をしています。

“朕最害怕的 就是你走”
(朕がもっとも恐れることは、そなたが去っていくことだ)

続けて、その理由を述べられますが、そこのセリフはなんていうか、出来の悪いバラードの歌詞みたいです。“朕”だからまだ見てられるんですけど、主語を「僕」とかに変えたら、おやつのゆで卵を吹き出してしまいそうですよ。

我慢してご紹介しますと、

“從來沒有一個女子 可以不把朕當皇帝看
(これまでどんな女子も 朕を皇帝としてしか見なかったというのに)

卻又跟朕如此地沒有距離
(少しも距離を感じさせることなく)

讓朕毫無防備之心 吐露真言
(朕の心を開かせ 胸の思いを話させてしまう)

當你涉險去救貞兒的時候 朕第一次感到擔心
(そなたが危険を冒して貞児を救ったとき 朕は初めて怖れた)

從來沒有一個女子 可以讓朕如此地擔憂
(いままでこれほどまでに 案じた女子はいない)

朕 真的很想把你留在身邊”
(朕は何としてでも そなたを側に置きたい)

あの一連のゲス騒動でさえ起こらなかった、
婚約者の目の前で女をくどくという、あり得ないシチュエーション。

かくも長いセリフの間、蘭陵王は宇文邕を睨んだり目をそらしたりと
バリエーションをつけつつ反応してるわけですが、よくも黙ってたもんだ。

そりゃもちろん、台本にセリフがないからでしょうけどさ。

でも、中国の人は一般に、日本人みたいに人の話にひっきりなしに相槌打ったりしないみたいです。なので電話で中国人のお友達が愚痴って来たら、スピーカーフォンにしてずっとしゃべらしとけば特に問題ないらしい。お試しください。

逆に、てきとーに相槌を打つと、「私の話にさっき賛成したじゃない!」と言われて修羅場になったり、アメリカ人に至っては、頻繁に相槌を打たれると逆に「人の話をちゃんと聞かない」「こちらの話をやめさせようとしている」と不愉快に思う人もいるらしい。気を付けませう。

黙って聞いてたのは雪舞も同じですが、言わせておくと切りがないと思ったのか、いきなり話を打ち切る方向に持っていきます。

“我都要成為他地妻子了”
(だってすぐ私はこの人に嫁ぐのよ) 

ここに「どか〜ん」って効果音が入っているように聞こえるのですが、空耳でしょうか。

言われて、宇文邕はまるで今初めて聞いた話みたいに蘭陵王の方を見てますけど、周に来る直前の時点で、雪舞はちゃんと宇文邕にそう言ってましたよね?
都合の悪いことは、知らんふり♪ なのでしょうか。

それでも宇文邕は皇帝、当たって砕けろ♪ みたいなことはせずに、

“要是因為你 讓朕弄得跟土匪一般
那還真是貽笑大方
楊雪舞 你可要記著 對朕有過承諾
把朕當成是一輩子的朋友”

(もしそなたのために、盗賊のような真似でもしたら、
それこそいい物笑いの種だな。
楊雪舞よ 忘れるな 朕に約束したことを
朕と一生の友でいることをな)


さすがは陛下、民草のお手本なだけはあります。

“蘭陵王你也幫朕最不喜歡欠人情”
(蘭陵王 お前にも助けられた。
朕が何よりも嫌うのは借りを作ることだ)


とも言っていますが、どの時点で蘭陵王が助けたと分かったのでしょう。

太刀さばきか?

とにかく、宇文邕は約束を守る男。
捕虜は全員解放したし、自ら斉国まで雪舞を送り届けましたよ(誰も頼んでないけど…)。

どこかの誰かさんとは大違いですよね。

さらに何か虫の報せでもあったのか、こんなことを言い出します。

“但是在我有生之年 若你讓楊雪舞受傷離開你
朕在也不會讓她回到你的身邊”

(朕の目の黒いうちに もし雪舞が傷ついてお前の元を離れたなら、
二度と帰しはしないぞ)


蘭陵王も、理由は聞かずにまともに返します。

“對不起 就算天塌下來 你也不會再有這種機會了”
(悪いが、天が崩れてきたとしても 二度とそんな機会はないだろう)

そう言われた雪舞が、にっこりして蘭陵王を見るのもいいですね。

そこへ、長ゼリフの間に神挙が一生懸命書いたのか、停戦協定書が運ばれてきます。

“這份停戰協議 我替大齊的子民謝謝你”
(この協定書 大斉国の民に替わって礼を言う)

それはそうと、もらったものの重大さに比べて、片手で受け取ったり、返事の“謝謝你”(どーも)っての軽く聞こえるんだけど、どうなんでしょ。

真紅の大優勝旗を贈呈する」
「どーも」

レジオン・ド・ヌール勲章を授与する」
「どーも」

AKBのセンターを命ずる」
「どーも」

どーも違う…。

恐らく単純に喜んでいる雪舞とは違って、四爺はこの協定書の別の意味も、いちおうは考えているものと思われます。宇文邕は渡すときちゃんと言っていますが、政権が代わったばかりで不安定なので、国力を養うために停戦したい、ということは、力がついたら何してくるか分かったものではないからです。

私の一番好きなマンガ、藤崎竜先生の『封神演義』に、実に深〜い一言があります(このマンガ、いかにもな少年向けマンガと見せかけて、あちこちズブズブ深いところがあるのですが)。

お話の舞台は殷〈いん〉から周に替わる時代、今から3000年以上昔の、紀元前1027年ごろのこと。
(この周は一番古い時代の周。非常に長く続いた王朝のため、この周にあやかってか、中国史には何度も周という国号が登場します。宇文邕が皇帝をしている周もその一つなので、区別するため歴史上では「北周」と呼んでいます)

主人公の太公望・呂望〈たいこうぼう りょぼう〉(72才)は周を援けて、妲己〈だっき〉に乗っ取られた殷を滅ぼそうとします。

しかし、妲己ちゃんは恐るべき妖力と、スーパー宝貝〈バオベイ/戦闘アイテム〉を持つ狡猾な仙女でしかも美女でプリプリプリンちゃんと来てるので(え?)、太公望を初めとする仙人・道士たちが束になってもかないません。

お話も終盤(第17巻)、太公望は助けを得ようと、伝説の大仙人、太上老君〈たいじょうろうくん〉(?000才)を探しに出かけます。

面倒くさがりで滅多に起きてこない太上老君を何とか探し当てると、これがまたジャニーズ系の飛び切りなイケメンであります。

そもそもこのマンガ、主要な登場人物の年齢がだいたい60才以上〜3000才程度の超高齢者ばかりなんですが、主人公の太公望にしてから72才なのに、見てくれ16、7才の青少年に見えます…というところで、私はハタ、と膝を打ちました。

この話、元々が中国明代の古典小説なのに、内容も実は終盤まで、ほとんどマンガと一緒です。つまり、殷と周すなわち、神話と歴史の時代が交代する時期の史実をベースにしつつ、仙人・道士・人間・妖怪が入り乱れ、各々アイテムを駆使して相手を倒し、封神榜(打倒リスト)を完遂するというもの。

大事なことなので3回言いますけど、このファンタジーゲームそっくりなあらすじは、今から500年以上前に成立した原作(古典小説)通りなんですよ!

で、小説の挿絵は実年齢(?)にふさわしくおじいさんばっかりですが、マンガの方はイケてるビジュアルの登場人物ばかり。何でよ...?と思ったけど、そうだった、仙人・道士は不老不死、つまり、いつまでも若いんです! だから挿絵の方がまちがい。

何で今までそこに気づかなかったんだろう? そう思った瞬間、私はこのマンガのトリコに…。

あ、話が逸れちゃった。

そのイケメンな太上老君が最強というにはあまりにもダラダラしているせいか、太公望は自分のダラダラぶりを棚に上げて尋ねます。

「おぬし 妲己より強いか?」

太上老君はいつになくキリッとして答えます。

「彼女には決して負けない」

ここでページが変わって、次のセリフは、

「なぜなら 戦わないから!」

それを聞いた太公望は膝かっくん、となるわけですが、孫子の兵法のなんたるかを知り、ドラマもここまでご覧になった皆さまにはよくお分かりのことでしょう、この言葉の深さが。

そう、戦わなければ負けることはないのです。
そして、戦わないということは、いかに困難であることか!

このあたり、ちゃんと中国哲学の基本を押さえてオリジナルなお話にしてるところがまた素晴らしい。

このマンガ、またちょっと先で登場することになるので(え、まだやるの?)今回はここまでにしておくとして、宇文邕が実権を握って最初にしたことは、実にウルトラCなことでした。

いまこの不安定な国内情勢のまま攻められたら、下手すると国ごとなくなっちゃうかも知れません。
それを、いかにも恩着せがましく防いだわけです。さすが忍従12年は伊達じゃない!

そして、受け取る側の人にとっても、コイツは非常に悩ましいアイテムなのですが(宇文邕がくれた、ってことを差し引いても、四爺は実は受け取りたくなかったことでしょうよ…)、それは次回以降のお話。

宇文邕はじっと雪舞を見たあと目をそらして、

“在朕反悔之前你們走把”
(気が変わる前に去れ)

と言い、言われなくてもそうする、と書いてある四爺の背中を見送りつつ、

“好不容易找到懂朕心的人 朕卻不能把她留下”
(ようやく心が安らぐ相手を見つけたのに、そばに置けぬとは惜しい)

と独りごちます。

そのつぶやきを聞いてうなだれる宇文神挙。

あなたの心を分かっている人は、雪舞の他にもちゃんといるわ、仔ブタちゃん!
部下と奥様を大切にね! とエールを送って次回へ続くこちら


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2016年07月03日

18歳以上の皆さん、参議院選挙の投票に行きましょう

皆さま、こんばんは。
選挙日当日、仕事が入りそうだったので投票を済ませてきました。

どうせ自分が入れても入れなくても一緒とか、
誰にも期待できないとか、
民意に任せたら却ってヤバいこともあるじゃないかとか、
ネガティブ要素はもちろんありますが、
制度のよしあしは取りあえず置いといて、
昔の人たちが時間や労力、ときには命も投げ打って手に入れた選挙権、
投じた結果が未来をどう変えるか、きちんと考えることも含めて、
受け継いだ私たちが大事に使わなければ…。




posted by 銀の匙 at 01:38| Comment(4) | TrackBack(0) | 催し物 リマインダー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年06月26日

世界を救った男たち(表記以降、ストーリーに触れています)

s-lelaki.jpg
(写真は映画館サイトより)

ひょっとしたら初マレーシア映画鑑賞かも。

「アベンジャーズ」のサブタイトルみたいな題名なんですが、本国では劇場公開はされたものの、特に娯楽映画という扱いではなかったらしいです。

ただ、日本での上映は、今のところ、なら映画祭と、横浜のシネマ・ジャック&ベティでの限定公開(昨日、本日6月26日14:50〜)のみ。ですので、もしタイトルが気になったら、迷わず横浜・黄金町に行きましょう!

私は、貰ったチラシの写真↑ に凄く興味を惹かれて出かけてみました。
上映後に伺った字幕翻訳家の方の解説によると、これは、マレーシアや周辺国で伝統的に行われていた(る)家の引っ越し法だということで、大がかりな御神輿みたいに見えるんですが、伝統的な家屋は地面にしっかりと固定されているわけではないため、このように担ぐことが出来るらしい、ということでした。

お話は、結婚する娘のために家を用意しようと奮闘する花嫁の父・アワンが、森の中の廃屋を移動し、補修して使おうとしたことから始まります。

みんなが力を合わせれば、結構大きな一軒家を動かすほどの大きなことができるのですが、その一方で、団結力が思わぬところでアダになる出来事が…。

マレーシアの農村に題材を取ったドタバタストーリーではありながら、実は世界中どこででも、どんな時代でも起きそうなことをシンプルな出来事に凝縮していて、上手いなっ、と思った映画でした。大人の俳優も子役さんたちもいきいきとしていたし、どうやって食事をするのかとか、イスラム教徒だから挨拶、アラビア語なんだ!?と驚いたりとか、マレーシア初心者にとっては、農村での日常生活の様子も何気なく伝わってきて興味深かったです。

上映の情報はこちら→シネマ ジャック&ベティ



さて、こういう映画でネタバレも何もないのですが、ご覧になれる方はここまで、ということにしていただいて、以下はもうちょいお話の続きを。





アワンさんのために、村の男たちは総出で手を貸すのですが、一気に目的地まで家を移動するのはムリなので、何日かかけて動かします。

もともと、森の中に廃屋なんてお化け屋敷だ、くらいにマイルドにビビっていた村人たちは、そのうちの一人が夜、家に悪魔がいるのを見た、と騒いだのを機に、急激に不安を募らせていきます。

最初のうちは迷信だと一蹴していた村長も、同時に起こったいくつかの難題に手を焼いているうちに、アワンさんの希望通りには村人を動かせなくなってしまいます。

村人の方は、化け物退治のために女装して自警団を結成するなど、騒ぎはどんどんエスカレート。アワンさんは迫害される身となり、ついにはキレて悪魔上等とばかり、化け物に扮して自分が村人を脅かす側に回ってしまいます。

実は、最初に村人が目撃したのは、警察に追われて逃げ出し、くだんの家に勝手に住み着いた、よそ者の黒人だったのですが、彼は危機管理能力があるというか非常に機転の利く人で、村人が尊敬しているらしい政治家のポスターを見て、とっさに彼の友人だと名乗る。で、村人は彼を全く疑わず、ついに黒人と鉢合わせした化け物にコスプレ中のアワンさんを捕まえようと駆け出していく…



上映後の解説によりますと、映画はどうやら、マレーシアのムラ社会あるある、といった内容がふんだんに盛り込まれているそうで、映画的にアレンジしたり、誇張したりはあるものの、人々が心の中ではお化けの存在を堅く信じていたり、商売熱心で怪しげな祈祷師にカモられたり、うさんくさい政治家を村ぐるみで応援していたり、催しに政治家が必ず遅刻してきて、お出迎えするころには皆疲れ切っていたり…といったネタが惜しげもなく詰め込まれているらしい。

そういう訳で、上映時には当地の映画人が、「マレー人をバカにしている」と言う理由で、公開しないように抗議したり、結構議論があったらしいです。幸いにというか、映画は無事上映され、本国できちんと賞も取ったとのこと。

そしてこの映画、実は日本人が見ても、若干アイテムを入れ替えるだけで、あぁ、日本でもあるある、って感じです。

まずは、お化け(精霊)を信じてるなんて、未開民族みたいでマレー系のご本人達的にはイヤだ!ってことらしいんですが、日本人だって八百万の神は信じてるし、祟りが怖くて祈祷や太鼓で追い払おうとする(これは映画的な誇張らしいです)のも、日本だって事務的とはいえ地鎮祭とかやるし、似てますよね。

だから、迷信と言われようがどうしようが、そういうことをしないと落ち着かないという気持ちはとても良く理解できます。

それを面白おかしく描写されたら、バカにしてるって腹が立つという気持ちも分かります。例えば、お祭りで毎回死人が出る、とかいうと、どんな土人の風習かと思いますが、日本にもその手の命がけなお祭りはあるし、日本だけじゃなくて、スペインとかにだってありますよね。よその人は野蛮だとか言うけど、土地の人にとっては神聖なもので、他人にとやかく言われたくない。

ただ、監督さんが描きたかったのは、迷信深いマレー人たちが引き起こしたくだらない騒動の話、というのではなくて、一人ひとりは純朴で親切で良い人でも、集団になると途端に矛盾に気が付かなくなったり、別の意見が言えなくなったりしちゃう、という怖さなんでしょう。

ムラどころか世界中かなりの場所で多かれ少なかれ、こういうことがあるんじゃないでしょうか。

解説で翻訳家の方が、原題には「希望」、英文タイトルには「世界を救う」という言葉が使われてるけど、希望もないし、世界も救わなかったです、とおっしゃってウケていましたが、このタイトルに込められている意味について、ぜひ監督さんに伺ってみたいものです。

たとえば、健康法なんか最たるものですが、何かを世間的にいったん信じてしまうと、根拠が薄弱だろうがそれに異を唱えるのは難しいし、そもそも中に居る人には常識なので気づくことすら難しい。監督さんはマレー系ではないそうなので、余計非難の対象になったんでしょうが、解説の通り、外から見て初めて気が付くことというのはあるものなんでしょうね。

アワンさんは芸能生活をやめてしまった歌手、という設定になっていて、最初、みんなが家の引っ越しを手伝うとき、行きのトラックで請われて、しぶしぶ歌をうたうシーンがあります。みんなが知ってて唱和するのですが、何となく日本の演歌的な哀愁を感じます。

上映後、その歌の歌詞の中でキャッサバとチーズになぞらえていた事柄について質問がありました。

どうやら該当箇所はマレーシアの言葉ではないようで、翻訳家によると、インドネシアでは前者は貧困層を、後者は富裕層を象徴するということは分かったのだけれど、ということでした。

映画のエンドロールにはこの歌が流れ、最後の唱和の部分も劇中そのままに使われて終わります。良い方に作用すれば素晴らしい団結力がいとも簡単に集団いじめの方向へ転換してしまう滑稽さ(迫害される本人にとっては、恐怖以外の何ものでもないでしょうが、傍から見てると一部始終がバカバカしいです)とやるせなさを、見事に表現したエンディングだと思いました。

リュウ・センタット監督
映画の公式HPは→こちら


ぴあ映画生活
posted by 銀の匙 at 02:10| Comment(0) | TrackBack(0) | 映画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年06月19日

帰ってきたヒトラー

kh.jpg
さすがは総統、完売です。

映画館に連れてきていただくまで、この映画の存在すら全く知らなかったです(情報感度低すぎですね…)が、朝一の回が始まる前に、すでに午後の回も売り切れという、恐るべき人気作。

いやぁ、笑いました。

ビジュアルネタで笑い、ドタバタネタで笑い、コントで笑い、ブラックユーモアで笑い、ヒトラー映画のパロディで笑い、メルケルで笑い、と次々繰り出される大ネタ小ネタの波状攻撃に、全館大爆笑です。

自分、ドイツ語は全然分からないんですが、セリフ回しも、独りだけ大げさな(か、古いのか?)人がいる、というのは明らかに分かるので、そこも取りあえず笑えます。

2014年のドイツに、こつぜんと現れた〈本物の〉ヒトラー総統。誰もが変人か、お笑い芸人かと思い込むうちに、彼は草の根の人々の不満を聞き、記念撮影に映り込み、ネットで話題になり、TVに登場し、果てはベストセラーまで出版します。

さすがと言うべきか、相手のからかいや嘲笑を巧みに躱してカリスマ性を見せつけ、真面目でときにチャーミング、そのブレない主張には思わぬ説得力もあったりして、次第に彼の周りには共感が広がってゆきます。

彼を利用して何とかテレビ局に復職しようとするテレビマンのザヴァツキは、初めは成功を喜んでいたものの、危険に気づいて事態を収拾しようとしますが…。


ドイツネタのうち、ものまね芸人(?)のポテンシャルにいち早く食らいつき、スターダムにのしあげた敏腕TV局長を「(ナチ党大会などの傑作映像を撮った女性監督)リーフェンシュタールのようだ」っていうのだけはかろうじて分かって笑ったんですけど、詳しい人が見たらさらにおいしいネタがてんこ盛りだったことでしょう。

それでも、こっちはドイツの事情なんかほとんど知らないのに、結構ギャグは分かるもんだな〜なんて、最初はお気楽に観ていたけれど、そのうち、いや待て、そうじゃないと気づいてからが怖かった…。

周りの人の反応が写メ撮ったり怒ったり敬礼したり等、すごくナチュラルなんですが、実際にヒトラー役の人とロケしてドキュメンタリー的に撮影した箇所もあるんだそうです。

ヒトラーに会った人たちの、表情や反応、コメントなんかを見ていると、かなりの部分はそっくりそのまま、日本事情を代入してもバッチリ当てはまります。

人々の不満を吸い上げ、現状の不甲斐なさを告発するヒトラーを、「ドイツの悪口を言うんじゃねーよ、反独野郎」、とネオナチがボコるシーンはマジで笑えません(…笑ったけど)。

ドイツの人たちが愚痴ったり、不満に思ったりしていることも、かなりの部分が日本と似ています。ってゆうか、すごく良く分かります、その気持ち。

それを、懲りない人たちだと非難するのは簡単ですが、そういう不満を教育で抑えようとしたり、タブー化して言わせないようにすれば問題が解決するのかといえば(どうもドイツはそういう解決法らしいですね、映画から見る限りでは)、恐らく根本的な解決には全然なってないだろうと、傍から見ても思います。

じゃあどうすれば良いんでしょうか。ホントに困ったもんです。景気だの、政治だの、大きな問題は個人の手に余ります。こういう事は国がしっかり対応してくれないとね、と私のような庶民はつい思ってしまいます。

しかしです。

映画の中のヒトラーは繰り返し、民主主義について語ります。そうです、彼は選挙で選ばれた、正当な国の代表者。専制君主でも魔術師でもありません。

私たちは横暴な人を、つい「ヒトラーのようだ」などと言ってしまったり、映画やテレビで狂人のように描かれているのに慣れていたりしますが、きっと本物のヒトラーはこの映画に出てくるように魅力があり、その方向性はともかく、彼なりにドイツとドイツ国民のためを憂いて行動していたに違いありません。

つまり、良きにつけ悪しきにつけ、選択の責任はドイツ国民にあるのだと、堂々とドイツ映画で主張したドイツの映画製作者の勇気を、とりあえずは称えたいと思います。

デヴィッド・ヴェンド監督

そのほかの映画に関するエントリーは→こちらから、
フェイバリット映画100のリストは→こちら です。


ぴあ映画生活
posted by 銀の匙 at 21:46| Comment(0) | TrackBack(0) | 映画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年05月23日

山河ノスタルジア 《山河故人》/注記以降、ストーリーの結末に触れています

監督の名前で映画を観に行くことはあまりしませんが、ジャ・ジャンクー(賈 樟柯)監督は例外で、第1作の『一瞬の夢』(《小武》)以降、日本で公開されたものはほとんど観ています。

市井の人を主役に据え、誰の身にも起こりそうな出来事を描きながら、どこかにふっと大きな飛躍がある。そのギャップが面白いし、ストーリーや映像の時間の流れに余白がたくさん取ってあり、観る人がさまざまに思いを巡らせることができるのも魅力だと思います。

どんなストーリー、と聞かれて何十字かに要約してしまうと、全然映画の中身を伝えたことにならないという、その手の作品ばかりです。

今回の『山河ノスタルジア』は、ちょっとこれまでの彼の作品とは毛色が違うように感じられましたが、これまでとは別のアングルから、やはり観る人の心にぐっと触れてくる映画でした。

例によって紹介するのがとても難しいストーリーで、映画を観終わったあとで配給の作品紹介を見てみたら、確かに間違いじゃないんだけど、ちょっとこれは違うんじゃないかと思ってしまいました。

ということで、上手く伝えられるか分かりませんが、何とかご紹介してみると...。

物語は1999年、新しい世紀を迎えようとする中国の田舎町、山西省の汾陽〈ふんよう/フェンヤン〉から始まります。いかにも田舎の町にいそうな女性、タオと、彼女と付き合いたい2人の男性、ジンシェンとリャンズ。ジンシェンは当時の経済の自由化に上手く乗っかって羽振りがよく、一方のリャンズはすでに過去の産業である鉱山で働いています。

どうやらどちらかが特に好きなわけでもなさそうなタオですが、結局、2人の男性のもめごとをやめさせるような形でジンシェンと付き合うことになり、リャンズは町を離れる決意をします。

時は流れて2014年、病を得て町に戻ったリャンズは、療養費を工面するために古なじみと顔を合わせる羽目になります。そして…


まずは、物語の舞台を汾陽にした、というのがとても効いてると思います。監督の出身地だそうなのですが、第三者の目でみれば、お世辞にも麗しい山河とは言えない埃っぽい町で、言葉はなまりがきつくて聞き取りづらく、まさに「ザ・中国」な田舎の町です。

他に登場する上海とか、オーストラリアとか、そういった場所がいかにも現代的なのに対して、汾陽は根っこが田舎のまま。だからこそ、昔ながらの駅舎をピカピカの超特急が通過していくシーンなんかが、SFのように感じてしまいます。

一方でこの地は、中国史の古い伝統が詰まっている場所でもあります。いまちょうど別エントリーでずっと見ているテレビドラマ《蘭陵王》(→記事はこちら)なんて、舞台はちょうどこの場所です。リャンズの奥さんの出身地は邯鄲〈かんたん/ハンダン〉、つまり数々の王朝が都をおいた、かつての鄴〈ぎょう〉城です。

何千年の歴史の積み重ねも時代の流れの中にあっけなく置き去りにされていくなか、画面には、要所要所で地元の名酒「汾酒」が映り、田舎を捨てて海外に出ていく男の名は皮肉にも晋生〈ジンション=山西省生まれ〉。

古なじみ(故人)が根無し草のように散ってはまた吹き寄せられてくる光景に身を置きながら、タオは、時の流れの中で気づいていくことについて想いを馳せます。

黄河は、その岸辺に立つ者たちの想いには頓着せぬかのように、あるいは人々の感傷を映し出すかのように、氷の塊を運びながら、ただ滔々と流れて行くのです。

自分もちょうど物語の始まった時代の中国しか知らないので、記憶の中の中国はちょうど映画の最初の方のシーンとそっくりで、懐かしいなあと思いながら観ておりました。服装とか、ディスコでの踊り方とか、町中のお店とか、人々の挙措動作とか、本当にあんな感じです。

今はきっと見る影もなく変わっているに違いありません。昔が良かったとかそういう話ではなく、当時日本から中国に行ったときは、タイムマシンにでも乗せられたように、話に聞く昔をリアルタイムで再現されたような気がしていたし、いま中国に行けば、玉手箱を開けた浦島太郎みたいに、一気に同時代の国になっていることでしょう。外から見る以上に、中に居る人にとってはすさまじい変化だったのではないかと思います。

で、ジャ・ジャンクーの映画はこのように、誰にでも起こりそうなこと、の部分が実際の出来事に題材を取っていたりして非常にリアルなため、監督の御膝元の中国では身につまされすぎてドキュメンタリー作家みたいに思われているようですが、現実の出来事や、中国の世相・社会問題に引きつけた視点だけで彼の映画を観るのはちょっともったいないなあという気がします。

この作品は彼の映画にしては珍しくエモーショナルな描写があるのですが、それでも過度に感情的にならずに、登場人物たちの感情を丁寧にすくいあげながら物語が進みます。普通なら、そのまま良質の文芸作品としてまとまってしまいそうなところ、ジャ・ジャンクーは時空を鮮やかに飛び越え、その先の物語を語ってみせるのです。

中国は、一度の人生の中にしては時間的にも距離的にも隔たりが大きすぎる経験を誰もがする時代です。
この映画で描かれているようなことをわが身に置き換えて観る人も少なくないでしょう。

そして、中国の観客でなくても、この美しい映画を観て涙が止まらなくなるのは、誰しも記憶の中に懐かしい風景や大切な人がいて、しかもそれは永遠ではないことを改めて思い起こすからかも知れません。

渋谷Bunkamura ル・シネマ1で観ました。
縦に長い劇場なので、あまり後ろだと見づらいかも。
観やすい席はF、Gの6、7番あたりです。

以下、お話の結末に触れています。
ネタバレOKな方のみ、以下をどうぞ。











さて、ネタバレもOKになりましたところで、お話をもう少し詳しく振り返ってみましょう。

まずは1999年の第1パート。
タオはジンシェンとの結婚式にぜひ出席して欲しいとリャンズの家を訪ねますが、リャンズは招待状を家に置いたまま、家に錠をするとその鍵を放り投げ、町を出て他の省で暮らすといって出て行ってしまいます。

時は流れて2014年。ここが第2パートになります。
肺病にかかったリャンズは妻子と共に、汾陽に戻ってきます。古なじみを訪ねて療養費を借りようとしたのですが、逆に借金をして海外に出稼ぎに行くという話を聞かされてしまいます。

結局、妻が、置いたままの招待状からタオを尋ねあて、タオはリャンズの元を訪れて、資金と、彼が捨てて行った家の鍵を渡します。

タオの方は、実はすでにジンシェンと別れてしまっていて、二人の間の子ども、ダオラー(到楽/米ドルの意味でジンシェンが名づけた)は父親が引き取り、上海で育てています。タオの父が亡くなり、葬儀のために汾陽へやってきた7歳のダオラーは、タブレット端末で上海の後妻と話してばかりで、タオにはろくに口もききません。

上海への帰途、飛行機も特急も使わず、鈍行列車に乗るのを不思議がるダオラーに、

「各駅列車ならそれだけ長く一緒にいられるでしょう?」

と言い、タオは汾陽の家の合鍵を、ダオラー自身の家でもあるのだからと言って渡します。
しかしダオラーはタオの事にも、鍵の事にも興味がありません。これから移住するオーストラリアの美しい風景だけに関心があるのです。

そして、ここからがいよいよ、ジャ・ジャンクーらしい第3パートに入ります。

物語はいきなり、2025年。
オーストラリアの大学にいるらしいダオラーは、もう英語しか覚えていません。父のジンシェンはピーターと呼ばれていますが、別にオーストラリアが好きなわけではないらしく、「反腐敗運動」の影響で、帰国すれば逮捕されるのではないかと怯えているだけです。

ダオラー自身は何にも興味が持てず、大学を辞めて自由になりたいとばかり考えています。父には反発し、大学教師のミアに母のことを聞かれても、自分には母はいないと答えるばかり。

ところが、彼はいつしか、親子ほど年の離れたミアに惹かれていく。そして、彼は当時も、そしてこれまでも全く関心を寄せていなかったかのような母のことを突然に思いだし、ミアに告げるのです。

母の名前はタオだ。「波」と同じだ、と。

窓から、初老の女性が外を見ています。かつてジンシェンに、犬の寿命なんて15年だと言われていながら、彼女は犬を連れ、かつてジンシェンとドライブに出かけた黄河べりへと出かけます。雪のちらつく中、彼女はふと、ディスコを踊り始めます。

Go,West! 

当時流行っていたディスコソングに大きな波の音がかぶり、歌をかき消して行きます。無心に踊るタオを独り残して…。


字幕は人名がカタカナなので分かりづらいと思いますが、タオは漢字だと「波濤」の「濤」と書き、これがラストと呼応しています。

ご覧いただいたように、映画の中ではエピソードがオムニバスのようにブツ切りになっており、ジンシェンの2番目の奥さんはどうなったのかとか、リャンズはその後どうしたのかとか、ダオラーを上海に帰したあと、タオは何をしていたのか、今でも息子の事を思い出すのかどうかなどの、登場人物の細かい描写は一切ありません。

なので、ある程度登場人物に感情移入はできるものの、その時点、その時点で焦点が当たる人がいるだけです。まるで《水滸伝》みたいに、特定の主人公がおらず、いくつかのエピソードを通して全体として物語が成り立っています。間の話は観客が補完しながら、人によっては特に補完しないままなため、全体としてこういった雰囲気、ということしか言えないのです。

だから、母と子の愛の物語…みたいなストーリー紹介だと、それはそうでしょうけど、それは暗示されているだけで、だから良いんじゃないかな、と思うわけです。

暗示の例としては、たとえば、劇中に登場する重要な歌にサリー・イップ(葉 蒨文)の歌った《珍重》というのがあります。

この歌は3つのパートすべてに登場しています。確かに流行った曲ではありますが、最初のシーンでは、なんでこれ?みたいな印象しかないのですが、ラストを見ると、この歌でなければならなかった訳がよく分かります。

歌詞は(拙訳ですが)こんな感じです。

突然に沈黙が訪れ またあなたを振り返る
涙に潤む瞳は 胸の想いと悲しみを隠しきれない
積もる想いをどこから話せばよいものか
遠く離れたこの地で ひたすらあなたを思う
夜は長く あなたを懐かしむ私に寄り添ってくれる 
そちらはもう寒さが訪れ、
行く手には雪がちらついていることでしょう


もう一方の《Go West!》の方は、本当に90年代当時大流行りだったので、単にそれで採用されたのかも知れませんが、当時の人が歌詞を意識していたかどうかはともかく、今いる場所を離れて西へ西へと開拓していけばいい事がある、「西側」(資本主義諸国)を目指せば幸せが訪れる、という当時の信念を表現するのに使ったんじゃないかな、とチラッと思いました。

この映画を、現代中国の時代や世相を切り取った作品と見るならば、拝金主義や時代に流されて、使い道もよく分からないお金や自由を手にして結局は自分を失くしてしまうジンシェン、出稼ぎ労働者として格差社会の底辺に沈んでしまったリャンズ、アイデンティティを失い虚無感にさいなまれるダオラーは、特に掘り下げて描かれている訳でもなく、登場人物というよりは、それらの事象を象徴するアイコンに過ぎません。

一方、この映画を、母と子の強い絆を描いたエモーショナルなものと見るならば、ジンシェンやリャンズは脇役で、世相や時代は舞台装置にしか過ぎません。

しかし、ジャ・ジャンクー監督の特に優れているところは、この2つが1つの作品の中で、分かちがたく重要な要素として描かれているところなのだと思います。

つまり、ある人の存在は世界から見ればごく小さなもので、時代の流れには逆らえない取るに足らないものであり、逆に、だからこそ、そういう無数の人たちが組み合わさることで世界というものが成り立っており、誰もが世界の重要な一部分であるということを、しみじみと感じさせるということです。

予備知識なしに観てもきっと面白いと思うし、監督がさらりと用意した舞台装置を味わいながら観ても楽しめる、そんな作品だと思います。ぜひご覧になってみてください。

そのほかの映画に関するエントリーは→こちらから、
フェイバリット映画100のリストは→こちら です。


作品情報
山河ノスタルジア|映画情報のぴあ映画生活
posted by 銀の匙 at 00:17| Comment(0) | TrackBack(0) | 映画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年05月05日

ラ・フォル・ジュルネ・オ・ジャポン 熱狂の日 2016 ナチュール 第3日目(5月5日)感想

東京国際フォーラムで開催されているクラシック音楽の祭典、本日は最終日でした。

初日(5月3日)のレポートは→こちら
2日目(5月4日)のレポートは→こちら です。

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こんな風に、通路から無料コンサート(赤いステージで行われる)を見る事ができます。

会場はアクセス至便。東京メトロ有楽町駅、日比谷駅からいずれも直結、JR有楽町駅からも至近距離にあります。実は、JR東京駅丸の内出口からも歩ける距離です。信号待ちもあるので、15分くらいでしょうか。銀座までは徒歩10分くらいです。

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出口Dの方向へ。

地下鉄からだと地下1階から連絡通路を通ります。
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駅からですとABCDのうちDホールが一番近く、Aまではさらに通路を5分ほど余計に上がらないといけません。

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改札を出て席に着くまで、開演間際だと15分は見ておいた方が無難です。Dホールは近いのですが、エレベータに乗ったり乗り換えたりで、結構時間がかかります。地上広場からだとそれぞれ5分強というところでしょうか。


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さて、本日は最終日でしたが、3つのプログラムを聴きました。

まずは自然へのオマージュ 公演番号No.324、ローザンヌ声楽アンサンブルによる小品集です。

プーランク:7つの歌(白い雪、ほとんどゆがまずに 新しい夜に すべての権利 美とそれに似たもの マリー、光る)
ドビュッシー:シャルル・ドルレアンの詩による3つの歌(神よ!眺めるのはよいものだ、太鼓の音を聞くとき、冬はただの厄介者)
ラヴェル:3つの歌(ニコレット、楽園の美しい羽の小鳥、ロンド)
ヒンデミット:リルケの詩による6つのシャンソン(牡鹿 白鳥 みんなが去って 春 冬に 果樹園)
フォーレ:魔人たち(ジン)op.12、ラシーヌの賛歌 op.11

いずれもフランスの小粋な作品で、フォーレを除いては伴奏なしのアカペラを楽しみました。
ローザンヌといえば毎年、合唱の神様ミシェル・コルボの指揮でフォーレのレクイエムなど大掛かりな宗教曲を聴いてきましたが、こうした小品を聴くと、メンバーひとりひとりも優れた歌い手だということがよく分かりました。

ソロパートもありますが、ソロ歌手のような突出した歌声ではなく、アンサンブルによく溶け込んでいます。
不協和音や実験的な曲の響きも大変美しかったです。

続きましては公演番号325番のボリス・ベレゾフスキー…のはずだったのですが、今回は急病のため代役をレミ・ジュニエが務めました。

公演に先立って、音楽祭ディレクターのルネ・マルタンさんが経緯を説明してくれました。

ベレゾフスキーさんからは、ほんの少し前にものすごく体調が悪いと電話があったそうです。主治医から10日間は安静にしなさいと言われ、来日は諦めたとのこと。

思い起こせば東日本大震災の年、震災のわずか2か月後に開催されたラ・フォル・ジュルネでは、地震と原発事故の影響で公演キャンセルが相継ぐ中、いつも通り来日してくれて、本当に励まされました。そのベレゾフスキーさんが来日できないとは、病状がとても心配です。一日も早いご回復をお祈りしています。

そんな大物の代役を務めたレミ・ジュニエさんは巻き毛の若い衆なのですが、マルタンさん曰く、ベレゾフスキーさんが大変気に入っているピアニストだそうで、「カルト・ブランシュ」(曲目は当日発表)という演奏会に呼んで、一緒に出演したりされたのだとか。

まずはベートーベンのピアノ・ソナタ14番「月光」と、ショパンのピアノ・ソナタ第3番を弾いてくれましたが、表面は線が細く、冷静に弾き進めながらも、湧き起こる激情を制御しきれない、といった風情の演奏を聴かせてくれました。これはまあ、定番をソツなくこなした感じでしたが、その次が凄かった。

ステージにはチェリストのアンリ・ド・マルケットが登場し、やおらバルトークのラプソディ第1番が始まりました。貫録のマルケットの演奏にも、ジュニエは堂々互角に応え、全く臆しません。その、一見飄々としたツンデレな演奏スタイルがものすごくこの曲に似合っていて、思わず吹き出しそうでした。

タイミングを合わせるためにコンタクトを取る一瞬は戦友同士の雰囲気ですが、次の瞬間は2人の間に火花が散るようでした。いきさつが残念ではありましたが、今年一番の名演奏を聴かせてもらいました。

今年最後に聴いたプログラムは、初日の追加公演No.777で感動したので急遽追加で取ったNo.356 ユーリ・ファヴォリンのピアノでした。

曲はケクランのペルシャの時 pp.65 全曲です。

旅立ちの前の午睡、キャラバン(午睡中の夢)、暗がりの山登り、すがすがしい朝、高い山間にて、町を望む、街道を横切る、夜の歌、テラスから見る月の光、オバド、真昼の陽ざしを受けるばらの花、石像の泉の近くの日陰で、アラベスク、日暮れ時の丘陵、語り部、夜の平穏、墓地にて、真夜中のイスラム教修道僧たち

と、各楽章のタイトルも魅力的です。

このタイトルから連想されるような異国情緒あふれるリズムやメロディもところどころに潜んではいるものの、全体としては近現代曲らしい響きなのですが、譜面を読んだら途方に暮れそうなこの曲を、見事に立体化して描き出していました。

こちらは椅子に座っていながらも、まどろみに誘われたり、砂嵐に巻き込まれたり、夕暮れの斜めの陽光を頬に浴びたりしながら1時間を過ごしました。

あまり知られていない作曲家を聴きに来ようという人たちだから気合いが入っているのか、お客さんもプロ(?)で、出だしや曲間などには吸い付くような緊張感のある静寂を作りだしていました。常にガサガサ落着きのないことが多いラ・フォル・ジュルネでは稀有の体験でした。

異様な緊張のうちに曲が終わると、ピアニストはニッコリして、チャイコフスキーのユーモレスカ、と言って愉快な曲を1曲、プレゼントしてくれました。万雷の拍手で、和やかムードのうちにプログラムは終了しました。

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会場を去るのも名残惜しく、しばらく地上広場で風に吹かれていました。簡易テーブルを囲んで偶然相席になった人たちと話が弾んだり、最終日だからか通路際に座っていたからか、次々知り合いが通りかかるので乾杯したりと、ちょっとしたパーティー気分のうちに、今年のお祭りも過ぎていきました。

本当に楽しいひとときをありがとうございました。

来年2017年のテーマは「ダンス」だとか。
こんな大がかりな催しを維持していくのは大変なことだと思いますが、どうか来年も恙なく開催されますように…!

posted by 銀の匙 at 23:34| Comment(0) | TrackBack(0) | 舞台/パフォーマンス | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年05月04日

ラ・フォル・ジュルネ・オ・ジャポン 熱狂の日 2016 ナチュール 第2日目(5月4日)感想

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皆さま、こんばんは。

有楽町/日比谷の東京国際フォーラムで行われている熱狂の日も、はや中日となりました。
(昨日の初日の様子は→こちら

さすがに昨日に比べると人出も増え、地上広場は賑やかになっていました。
しかし、今年は、例年だったら前売りの段階で売り切れてしまうであろう良い公演が、まだ買えるんですね…。↓

http://www.lfj.jp/lfj_2016/performance/timetable/index3.php

諦めずに、パソコンでゲットしてから会場に行くか、ガラス棟の中に当日券売り場があるのでその場でゲットして、ぜひお祭りに参加なさってください! ビックリするようないいプログラムにまだ空きがあります。

でも、この音楽祭の趣旨からいえば、ふらっと来てふらっと入れる方が楽しいですよね。その意味では、今年の混み具合くらいでちょうど良いんだろうけど、あまり収益が悪化すると開催されなくなっちゃうだろうし、難しいところですよね。

日比谷駅から会場のホールに向かうとき必ず通るガラス棟のB1階は、ガラスでできた渡り廊下のようになっていて、B2階で行われているキオスクコンサートの会場を上から横切る形になります。下でキオスクコンサートをやっていると、ガラス越しにのぞくことができます。音も流してくれているのでその場でも楽しめますが、当日の半券を持っていると、会場内に入ることもできます。

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たまたま昨日聞いたvoces8が出ていて、ものすごい人だかりでした。有料コンサートでやっていた歌もうたっていましたが、ところどころ観客参加型のワークショップ形式になっていて、コンサートより面白かったです(笑)

舞台はぐるりと360度お客さんに囲まれているので、ウェーブをさせたり、それぞれ自分の前にいるメンバーの出す音(カッコウやハチの羽音、日の光など)を真似して歌わせたりして、全員合わせると1つの曲になる、というのをやってました。

アカペラというと取りつきにくいですが、こうやって組み立てるものなんだなあとよく分かる、優れたパフォーマンスだったと思います。最後まで聞きたかったけど、楽しみにしていた公演の時間が迫ってきたので、泣く泣くその場を後にしました。

さて、有料公演の開演前には、いつも注意事項などのアナウンスが流れるのですが、今年はなかなか凝っていて、各会場にプロジェクターで森が映し出され、自然の音がチャイムがわりに使われています。

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ホールAの様子(もちろん、開演前にスマホは電源を切りました)

公式HPによると、「耳のためのシネマ」(レポートは初日の感想記事に→こちら)のボリスさんが採集した本物の自然の音だそうです。

ホールA : モリヒバリ
ホールB7 : カッコウ
ホールB5 : ミソサザイ
ホールC : ウタツグミ
ホールD7 : ヤツガシラ
G409 : コオロギ
日比谷野音 : サヨナキドリ

本日最初に聞いたプログラムNo.212はヒバリの賑やかな声で始まりました。
毎年楽しみにしている、小曽根真さん登場の絶対外さないプログラム。今年も期待以上の面白さでした。

舞台の上には2台のピアノ。まずはピアニスト1人とヴァオリニストが登場。さて何だろう、と思ったら、弾いてるのはピアノのはずなのに、なぜか琴みたいな音が…そして、やおら始まった「春の海」。

そういえば、この曲きちんと通して聞いたことなかったなぁと思いつつも、会場はすっかりお正月モード。
舞台に登場したもう一人のピアニスト、小曽根さんも開口一番、

「皆さま、明けましておめでとうございます(笑)」

その後、観客のために種明かしをしてくれましたが、スタインウェイに貼ってはがせる粘着テープをつけただけでした。ピアノの弦にさまざまなものを取り付ける、プリペアドピアノのような凝った仕掛けをしているのかと思ったら、工夫次第で簡単にできるものなんですね。

続いて小曽根さんがラテンを1曲弾いてくれて、その後、予告されていたサン・サーンスの動物の謝肉祭が始まりました。

これも「春の海」同様、全部を通して聞いたことがなかったので、とても新鮮でした。ところどころにさりげなく、嫌味のない形でジャズの味付けがされていて、それも良かったです。

ピアノの小曽根真さん、江口玲さん、ヴァイオリンの ドミトリ・マフチンさん、矢部達哉さん、ヴィオラのジェラール・コセさん、チェロの宮田大さん、コントラバスの山本修さん、フルートの工藤重典さん、クラリネットの吉田誠さん、マリンバの安江佐和子さんと、いずれも腕利きのメンバーが揃い、息の合った演奏を聴かせてくれました。

途中、有名な「白鳥」の章がありますが、何度も聴いたことのある、いまさらな曲なのに、今日のチェロは格別に素晴らしくて、思わず涙が出てしまいました。伴奏に回ったピアノも、控えめながら、水や光のキラキラした様子が目に浮かぶようでした。

アンコールはピアノの掛け合いから派手な終曲の追い込みを再演奏してくれましたが、そこに今回の人気者、ナチュールおじさん(勝手に命名)も参戦、大盛り上がりで終了しました。あぁ〜楽しかった!

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ナチュールおじさん(?) ガラス棟入り口の展示付近に出没して皆から記念撮影をせがまれていました。このプログラムの前に、Aホールの入り口でお見かけしたので、おや? と思っていたのですが…


続きましては、No.266の北欧の自然を鑑賞です。

ロケ地めぐり…じゃないや、お宅訪問までしてしまったグリーグはじめ、大好きな北欧の作曲家たちの作品を集めたピアノプログラムということで、選んでみました。曲目は以下の通りです。

パルムグレン:五月の夜(《4つの春の夜》op.27から)
ペッテション=ベリエル:夏の歌、ローンテニス(《フレースエーの花々》 第1巻 op.16から)
シベリウス:ピヒラヤの花咲くとき、孤独な松の木、ポプラ、白樺の木、樅の木(《5つの小品/樹の組曲》op.75から)
シベリウス:ひな菊、カーネーション(《5つの小品/花の組曲》op.85から)
グリーグ:ノクターン、小川、春に寄す、トロルドハウゲンの婚礼の日 (《抒情小曲集》から)

初めて入ったG409のお部屋はこじんまりとしてとてもコージー。153席しかないため毎回競争率が非常に高く、今回は取れてラッキーでした。

演奏はきちんとしていたのですが、体操の曲みたいで面白かった1曲を除くと、どちらかというとおとなしい曲を、曲想に忠実におとなしく弾いた感じで、ちょっと印象が薄くて…。

そして最後はNo.257でこれもピアノソロ。
実は、同じ時間の別のプログラムを予約したつもりだったのに、会場のB7をD7と間違えて取っちゃいました。毎年何か一つはポカをやってしまうのですが、今回はコレでした(哀)

アンヌ・ケフェレックさんによるこちらも好プログラムなのは分かっていたのですが、前に聴いたことがあるからパスしよっと、と思っていたのにそれは許されなかったようですw

曲目はこちら。

ドビュッシー:水の反映(《映像》第1集から)
ドビュッシー:オンディーヌ(《前奏曲集》第2巻から)
ドビュッシー:沈める寺(《前奏曲集》第1巻から)
ケクラン:漁師たちの歌(《陸景と海景》op.63から)
ラヴェル:海原の小舟(《鏡》から)
リスト:悲しみのゴンドラ Sz.200/2
リスト:波の上を渡るパオラの聖フランチェスコ(《2つの伝説》から)

演奏はもちろんさすがの貫録で、どこからこんな音がと思うぐらい迫力のある演奏でしたが、さらに良かったのはアンコール曲。

良く眠れるように、とヘンデルのメヌエットを弾いてくれました。

この方の演奏はフランスの作曲家の曲しか聴いたことがなかったのですが、透明感のある、典雅でしかも優しい、大変素晴らしい演奏でした。おかげで良く眠るどころか興奮してしまい、帰宅がだいぶ遅くなっちゃいました。

とは言え、こんな静かで優しげな、しかも子守唄がわりに弾いてくれた曲が終わった後で、ヴラボーッツ!って怒鳴るのはホントに勘弁して欲しいです。頼むからやめて…。

ということで、明日は最終日。初日に聴いて良かった奏者のチケットがまだ売っていたので、急遽追加して聴きに参ります。

では、また明日!(記事は→こちら

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2016年05月03日

ラ・フォル・ジュルネ・オ・ジャポン 2016 1日目(5月3日)感想

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皆さま、こんばんは。

今年も恒例、有楽町/日比谷の国際フォーラムを主会場に開催されるゴールデン・ウィークの音楽のお祭りに、出演者と観客として参加しております。

今年は前夜祭には参加せず、第1日目の午後から出かけました。

少し曇り空で爽やかな風が吹き、オープンエアの催しには絶好のコンディション…だったのですが、一番混むはずの午後の時間帯でもどことなく人出が少なく、例年なら長蛇の列になる地上広場の屋台村も、並ばずすいすい買えるのに何となく危機感を覚える初日でした。

音楽祭全体のテーマが、「自然」という漠然としたものだったのが影響したのでしょうか。それとも、不景気を反映してるのでしょうか。何とか来年も開催できるだけの入場者が集まって欲しいものです。

沈んだ気分に追い打ちをかけるように、楽しみにしていたピアニスト、ボリス・ベレゾフスキー来日キャンセルの報せ。いの一番にチケットを押さえただけに大ショック。急病とのことで残念ですが、来年は元気で来日してくれますように…。

さて、初日の今日、最初に聞いたのは実は普通の音楽ではなくこちら、「耳のためのシネマ」

入場前にアイマスクを受けとり、開演を待ちます。まずは、プログラムの創作者、ボリス・ジョリヴェさんから挨拶があり、たくさんの作曲家による作品、ということでスタートします。

目を閉じて耳を澄ませていると、さまざまな音が聞こえてきます。

鈴のような音。泡立つような音。風切り羽根や、重い何かが移動するような音。嵐が吹き荒れるような音。
電子音のようなものも混ざっています。
大きい音、小さい音、近い音、遠い音。

鳥のうたや小川の流れのように、すぐ分かるものもあるし、見当もつかない音もあります。
アブのような音がすると頭のてっぺんが痒くなるし、風の音が唸ると砂粒が頬に当たったような感覚があり、ハエの音がしたときは思わず振り払おうと手を動かしてしまいました。

最後は、同じ単語が、まるで下から上へ立ちのぼるように移動しながら唱えられていく声で終わります。

終わった後、ボリスさんが少し解説をしてくれました。作品に使われた音はすべて自然音で、氷の移動する音
、蜘蛛の鳴き声(!)などは採集にとても苦労したそうです。

質疑応答もあり、自然の中だけではなく、たとえば東京では、また他の都市とは違った音がするので、熱心に収集したのだとか。さすがです。

続きまして、今度は合唱のプログラム(No.135)。
VOCES8はイギリスのヴォーカルグループで、美しいアカペラを聞かせてくれました。宗教曲とポップスが混ざっているという凝ったプログラムでしたが、編曲が上手いのか、ポップスも彼らのスタイルに似合っていてどちらも楽しめました。

曲目はこちら↓

シュッツ:天は神の栄光を語る SWV.386(《宗教的合唱曲集》op.11)
メンデルスゾーン:なぜなら彼は天使たちに命じて(詩篇第91番)
ドイツ民謡:マリアはいばらの森を通り
ベネット:生きとし生けるものは
ウィールクス:ヴェスタはラトモス山を駆けおりつつ
コズマ(ローランド・ロバートソン編):枯葉
スコットランド民謡(ターナー編):オー・ワリー・ワリー
アメリカ民謡(ヒューイット・ジョーンズ編):シェナンドー
マクリーン(ジム・クレメンツ編):星の降る夜
ジョン&ミシェル・フィリップス(ジム・クレメンツ編):夢のカリフォルニア

アンコールもあり、ライオンキングから1曲歌ってくれました。

頑張って日本語でMCをしてくれたり、会場出口ではメンバーがお見送りをして一人ひとりに握手をしてくれたりと、小ホールでのリサイタルを思わせる親密な雰囲気でした。

今日の最後は急遽設定された追加公演(No.777)。
「夜」にちなんだ作品を集めて、と題して、

ジョナス・ヴィトー(ピアノ)
チャイコフスキー:5月 白夜(《四季》op.37bから)

ユーリ・ファヴォリン(ピアノ)
ケクラン:夕べの歌、テラスに差す月光、夜の回教僧たち〜荒れ果てた地に差す月光(《ペルシャの時》 op.65から)

ルイス=フェルナンド・ぺレス(ピアノ)
ショパン:夜想曲 ハ短調 op.48-1→こちらは
グラナドス:《ゴイェスカス》より「マハと夜鳴きウグイス」に変更
ショパン:ノクターン 変ニ長調 作品27-2

ソプラノ&ピアノ
ドヴォルザーク:月に寄せる歌 (オペラ《ルサルカ》 第1幕より)
ストラヴィンスキー:ノー・ワード・フロム・トム(トムからは何の便りもない)(オペラ《放蕩者のなりゆき》 第1幕より)

今回の目玉奏者ばかりを集めたプログラムとのことで、たぶんどなたの演奏も初めて聴いたと思いますが、ことに2番目のユーリ・ファヴォリン、この人の演奏は凄かった。

間の取り方が絶妙なのと、音のくっきりとした立ち上がりが美しく、すっかり聞き入ってしまいました。ケクランのこの曲、録音を聴いたときはどうしようかと思うほど退屈だったのに、こんなに素晴らしい曲だったとはおみそれ致しました。

最後に歌曲もあって、歌の方は響かない会場でソプラノの人が歌うには低い音が多かったのか、かなりドスコイ入っていたうえ、高い音はのどを締め付けられてるような感じでちょっと厳しかったですが、伴奏はとても良かったです。ドヴォルザークはチェコ語の歌詞でしたが、歌詞カードをみたら千野栄一先生の訳でした。

ということで、明日も引き続き行ってまいります!


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2016年04月28日

蘭陵王(テレビドラマ28/走馬看花編 第16話)

このたびの九州方面の地震で被害に遭われた皆さまに、心よりお見舞い申し上げます。

日本のどこにいても地震に見舞われる可能性があるので、他人事とは全く思えませんが、日本ばかりでなく、お隣りの台湾もあちこちで頻繁に地震があるようですね。

テレビドラマ《惡作劇之吻》(「イタズラなkiss」)を見ると、第1話目にして物語の一番大きな転換点は、アリエル・リン演じるところの主人公、袁湘琴(Yuan Xiangqing)の新築の自宅が震度2の地震で倒壊してしまったことでした。

いきなり随分な展開だこと、と思ったら、どうやらこれは日本の原作コミック通りなんですね?(→まだ読んでなくてすみません…)

ドラマでは幸いケガ人は出ませんでしたが、突然に家を失った湘琴は、父と共に、父の友人宅で暮らす羽目になります。

初めの頃こそサイテーな成り行きでしたが、結局はそのおかげで、彼女には幸せが訪れるんですね…。

いま大変な状況の皆さまには何の慰めにもならない話とは思いますが、いつかきっと皆さまにも、湘琴のように、少しは苦しみを補ってくれるような良い事が訪れると信じています。

というこことで、アリエルつながりから参りましょう、第16話

(〈蘭陵王〉関連の記事を最初からご覧になりたいかたは、右欄から蘭陵王のカテゴリーを選ぶか、または→こちらを最初から戻ってご覧ください。)

前回・第15話は→こちらをご覧ください。

前回までのあらすじ

紆余曲折を経て、晴れて斉国の将軍、蘭陵王〈らんりょうおう/Lan Lingwang〉=高長恭〈こう ちょうきょう/Gao Changgong〉=四爺〈スーイエ/Si Ye〉の元へ嫁ぐことが決まった、巫族の天女・楊雪舞〈よう せつぶ/Yang Xuewu〉。

見せたいものがあるからと四爺に案内された、柳の立ち並ぶ、とある場所で(マジでどこなんでしょう?)、せっかくのデートだったにもかかわらず四爺と口論になり、挙句の果てにかつて助けた周の皇帝、宇文邕〈うぶん よう/Yuwen Yong〉=またの名を仔ブタ陛下(って自分で言った)に かどわかされ 懇願され、皇帝の姪・貞児〈Zhen Er〉の治療のため周に赴く羽目に(全く、何やってんの…)

四爺は衛兵に成りすまして秘かに周の宮廷へと同行するのですが…。

 
    *     *     *

つか、まさか「王族動向」とかってお触れ書きが貼りだされるわけでもあるまいに、いくら誘き出したとはいえ、敵国の皇帝にお屋敷からいつ遠出するかとか、スケジュールがすっかり筒抜けな蘭陵王府って、一体使用人にどういう教育してるんだか他人事ながら心配です。

一歩間違えば最近のとんでもない監禁事件の被害者のようだったかも知れない、(たぶん)10代の楊雪舞ですが、幸い周の宮廷では重用され、すっかり貞児(と仔ブタ)に懐かれています。

JKだったころのウジウジおどおどした態度はどこへやら(おっと、これは別のドラマ)、すっかり大斉国の未来の王妃が板についたアリエルは、ドロンジョさまばりのおしおきキャラぶりを発揮しています。

さすが、ドS・高一族のヨメになるだけはある!

その雪舞様は、のぞきの現行犯でつかまえた四爺に説教をかましています。

“我已經是人家的妻子了
若身子不小心給別人看了 可就對不起我的夫君了”

(私はもう人妻なのよ。
もし身体を他の人に見られでもしたら、旦那様に申し訳が立たないでしょ)


これは、第2話(→こちら)で、周兵の襲撃に遭って温泉場で倒れたときに、こんなあられもない姿を誰かに見られでもしたらお嫁にいけない、と言っていた話と呼応しています。

“告訴你 我夫君呢 可是大名鼎鼎的戰神”
(言っときますけど、私の旦那様は名高い軍神なんですからね)

だからといって四爺も、相手の目をくり抜いたりするのはイヤでしょう…!

と思ったけど、そうだった、ヨメにちょっかい出そうものなら、トラのオヤツにされてしまうんだった。

目をくり抜くどこの騒ぎじゃありませんでしたね。
高一族の血は争えません。くわばらくわばら。

しかし、怖いフリもここまでで、いちおう後悔はしているらしい楊雪舞。

“都怪我不好 沒聽他的才會這樣”
(私が悪いのよ 言うことを聞かなかったから)

と言われてうなずいてるのか何か、深く下を向いてる四爺。

“你有妻子嗎“
(あなた奥さんはいるの?)

聞かれた四爺はうんうんとうなずきます。

“你在乎她 就好像我很在乎四爺一樣”
(あなたが奥さんを愛しく思うように 私も四爺が愛しいの)

ここでちょっと細目で雪舞を見ている四爺が映ります。

“我們很在乎彼此 很愛對方的兩個人”
(私たちはお互いを思い合い 愛し合う2人なのよ)

ここで、四爺は仮面を被っていてもわかるほど、優しげな表情になっております。

“在乎”というのは、面白い言葉ですね。
実は私もこのドラマで初めてこの形で使われているのを聞きました。通常、よく聞くのは否定の表現“不在乎”(心に留めない、気にしない)の方じゃないでしょうか。

第14話(→こちら) で、牢に囚われた四爺のところに現れた雪舞が、

“我曾經很害怕 我們不可能有結果的但是我已經不在乎了”
 (これまで私は恐れていた 私たちは結ばれる縁ではないことを。
だけどもうそんなこと どうでもいいの)


と言ってましたね。

ちょうど当てはまる言葉は日本語の標準語にはないんじゃないでしょうか。
英語だと、careとかcare forにニュアンスが近いように思います。
“I don't care”は気にしない、“care for you”は、ま、ほとんど、好きだって意味ですよね。

“所以啦 如果做出讓對方擔心的事情 那就是不負責任
總之呢 不管怎麼樣 你都得幫我探聽到這件事情 知道嗎”

(だから、相手を心配させるようなことをしたなら無責任だわ。
そういう訳で、(蘭陵王にちゃんと伝言をしたか)絶対聞き出してほしいの。わかった?)


四爺は思わず、口に出して「うん」と言ってしまいます。
(中国語では目上の人にも「うん」って言うんですね)

このシーンはちょっと面白いんですけど、四爺は雪舞が遠ざかると同じだけ前に出て、戻ると同じだけ引っ込むので、なんだか2人の間に磁力が働いているようです。

その割に、マスクを外して、という雪舞のリクエストに応えようとする四爺ですが、だったら「うん」以外に何か言ったらいいのに。

外で誰かに見られてはマズいので黙っているのかと思ったら、そうでもないらしい。

まさか「サプラ〜イズ(はぁと)」とか、やるつもりだったのかしら(殴)

マジメそうな顔しちゃって、実はそれぐらいやってもおかしくないキャラだったってことは、10番台も半ばになると、すでにバレバレです。

今回の最後で、宇文邕にさえバレちゃいました(てへっ)。

自称軍神の割に中身がお子ちゃまな蘭陵王は、雪舞を見送りつつ思います。

“算你有良心 知道掛念本王”
(この私を気に掛けるだけの良心はあると見えるな)

ほらほら、また“本王”ですよ。
ボクちゃん、威張れるところはそこだけなの?
かわいそうにねぇ…

でも、久しぶりに雪舞と話ができたので、ちょっと嬉しそうな感じもしますね。

と、思ったら、あらこちらも大変お久しぶり、ここで尉遅迥〈うっち けい/Yuchi Jiong〉将軍の復活です。しばらく見ていなかったせいか、だいぶお痩せになったような…

それとも、比較の対象となる方が…いぇ、な〜んでもございませんっ♪

それよりも『三国志』ファンの皆様におかれましては、宇文邕が背中にしょってる変顔…もとい、扁額が気になって仕方ないことでしょう。

“寧靜致遠”

とは、手元の中日辞典を見ますと

「穏やかな態度で奥義を極めること」とあり、諸葛孔明の言葉としています。

孔明は亡くなる間際、息子への教え《誡子書》を記しており、その中に

「心を静かに保つことができなければ 遙か遠くの目標に達することはできない」

という一文があります。

軽はずみに行動することよりも、自重して静かに自らを高めることを尊んだ軍師・諸葛亮の人柄が表れている言葉ですね。

実は《誡子書》のベースになっている考えは紀元前2世紀に淮南王〈わいなんおう〉・劉安によって編纂された《淮南子》<えなんじ>にあります。この本、以前第10話の4(→こちら)でもご紹介しましたが、元々、この言葉も《淮南子》の主述訓から取られたもので、

人主之居也,如日月之明也。
(君主の地位は日月の如く明らかで、)

天下之所同側目而視,側耳而聽,延頸舉踵而望也。
(天下の誰もが目を見開いて視、耳をそばだてて聴き、
首を伸ばし、かかとを挙げて望み仰ぐところである。)


是故非澹薄無以明コ,非寧靜無以致遠,
(それゆえに淡泊でなければ美徳を示すことはできず、
心を静かに保たなければ遠くに到ることもできない。)


非ェ大無以兼覆,非慈厚無以懷眾,非平正無以制斷。
(寛大であればこそ一切を覆い包むことができ、仁慈の心があればこそ民が懐き、公平であればこそ裁断を下すことができるのだ…)

“九五之尊”(人として最高の位にある者)として尊崇を受けるはずの皇帝でありながら、臣下の専横に黙って耐え、時を待つしかない…宇文邕の心境をよく表している言葉ではないでしょうか。

ここで尉遅迥将軍は皇帝・宇文邕に向かって、邙山〈ぼうざん〉の戦い(第9話。記事は→こちら)で、宇文護から牽制され、持ち場を離れてごめんなさい、と謝ります。

宇文邕は、

職場放棄なんて You're fired! 
クビだあっつ!

などと“川普”〈Chuangpu=トランプ〉のようには怒らずに、逆に、愛用の剣を将軍に与えるという(誰かさんと違ってこちらは態度だけ)太っ腹なところを見せます。

そして、おお、取りいだしたるは邙山の戦いの折、ヤンキータイマンの場=蘭陵王と一騎打ちしたとき抜いてた剣ではありませんか。

第9話を見ながら、何でこんな妙なシーンがあるんだろう、と常々不思議に思っておりましたが、今回使うためにフィーチャーしていたのですね。こんなとこにまで伏線を張っておくとは、さすがです!(いや違うだろ)

そして迎えた大冢宰〈だいちょうさい〉・宇文護〈Yuwen Hu/うぶん ご〉のお誕生日会。

はあ、でも待ってください?
そもそも中国の古代に、お誕生日なんて祝う習慣あったのでしょうか。

だって昔は、生まれた時が1歳で、新年になると、皆、いっせいに年齢が1歳増えたんですね。これを「数え年」と言います。

お正月(旧正月)には、中国の子どもも“壓歲錢”(お年玉)をもらえるそうなんですが、これは年度の変わり目にやってくる“年”という怪物を追い払って無事に年を越せるようにするため(…要はワイロ?)。

百度先生によりますと、お年玉の習俗は、元は立春の行事“散錢”から来たものとのこと。“散錢”が具体的にどんなものかは書かれていませんが、文字づらからすると、お金をばらまいたのでしょう。そして撒いたお金は普通のコインではなく、厄除けの特別な文字が刻まれたものだったと思われます。

その後、春節(旧正月)が祝われるようになると、この行事もその時期にスライドし、やがて年長者が厄除けのお守りとして、赤い糸を通したコインを年少者に与えるようになった、ということです。

現代中国ではお年玉を赤いご祝儀袋に入れて子どもに渡すので、“紅包”とも呼ばれています。中国ではお祝い事の色はだというのは第4話(→こちら)でご紹介しましたね。

実際どんなものか、2016年のお正月番組から、ご覧いただきましょう。途中でなぜか古式ゆかしい?“散銭”も見ることができますので、どうぞお楽しみください。

それでは、2016年1月26日の『大牌駕到』をどうぞ。

同じ番組で別の回にウィリアムが出演したときの様子は、すでに第11話(→こちら)、第12話(→こちら)でご紹介しておりましたが、司会者は当時の華少<ホワ シャオ/Hua Shao>さんから交替して、阿雅<アヤ/A Ya>さん(女性)と小サ<シャオ ヂャオ/Xiao Zhao>さん(男性)のコンビになっています。

今回は、お正月映画《西遊記之孫悟空三打白骨精》のプロモのため、主要キャストがゲストで登場しています。

それぞれ、映画での役を意識して発言していますが、特にウィリアムは挙措動作も役柄の三蔵法師になりきっており、なかなか面白いです。

映像はこちら↓から(公式HP)
http://v.qq.com/cover/s/sa7l2jifb8qq14l.html

【司会】
=阿雅さん
=小サさん

【ゲスト】
=郭富城(アーロン・クォック)
=小瀋陽(シャオシェンヤン)
=馮紹峰(ウィリアム・フォン)
=羅仲謙(ヒム・ロー)

1:10ごろから

:拍手でお迎えください、沙悟浄役の羅仲謙<ヒム・ロー/Him Law>。
:ようこそ。
:お年玉取ってくださいね。
(ステージの入り口にお年玉の下がったゲートがしつらえられています)

ヒム・ローは香港の俳優さんです。《西遊記》シリーズの前作(

《西遊記之大鬧天宮》
)に恵岸行者の役で出演しています。『欲望の街』シリーズの最新作にも出演してたんですね。

:二番弟子、小瀋陽<シャオシェンヤン/Xiao Shenyang>。
:まあ、イケメンの猪八戒ね 

小瀋陽はもともと民間芸能のお笑い芸人だった人ですが、ウォン・カーウァイ、チャン・イーモウといった巨匠監督の映画にも出演しています。

:大唐国の高僧、馮紹峰<ウィリアム・フォン/Feng Xiaofeng>
:測定器の針がふり切れるほどイケメン値が高い三蔵法師ね。

:それでは最後に黄色い声でお呼びしましょう 一番弟子、郭富城<アーロン・クォック/Aaron Kwok>!

ゲストの中で一番の格上は、香港の大スター、アーロン・クォック。前作に出演しましたが、そのときは牛魔王(哀)の役でした。前作で孫悟空を演じたこちらも大スターのドニー・イェンはスケジュールが合わず、続投できなかったようです。

ちなみに、前作には中国の神様の中でもっともイケメンとされる二郎神<じろうしん>も登場してますが、日本語吹き替えは蘭陵王の声と同様、内田夕夜さんが担当されてます。

:それじゃまずはお師匠様に、「長寿」のご挨拶を…
(テロップ:大失態!)
(ここでいきなり小瀋陽が「お母様 還暦おめでとう」
《祝媽媽長壽》)ってな歌をうたいはじめる。元歌は朝鮮族の民謡だそうです)

:歌 上手いね。
:「新年」のご挨拶を、でしたね。
:では拙僧が新年を祝して。
 騰訊の友人の皆さん、ネット視聴者の皆さん、
 申年おめでとうございます。良い年になりますように。
“飛黄騰達、事事順利”(がんがん成り上がれますように!) 
“猴年行大運”(申年に幸運が訪れますように)


アーロンの言った新年の挨拶は、イケイケドンドンの香港ではよく聞くのでしょうが、人によっては悪い意味に取る人もいるので、司会者がすぐフォローしたものと思われます。
それなのに、アーロンは...

:その通り。健康第一ですよ。“恭喜発財!”(儲かりますように!)

って、フォローにならないんですけど……。

“恭喜発財!”(儲かりますように!)も、現在でこそ全国区になっていますが、さすがに社会主義国では体裁悪いって事なのか、ひと頃は香港以外では使わ/えなかったようで、金儲けOKの2000年代に突入してなお、「俗っぽい」「品がない」と眉をひそめる人も多い言葉です。

ここでいきなり小瀋陽が「儲かりますように!」(恭喜発財!)ってな歌をうたいはじめる。元歌は香港四大天王の一人、アンディ・ラウの歌です。

この番組、画面上にニコ動みたいに視聴者のツッコミコメント(弾幕)が流れるのですが、「郭天王の前で劉天王の歌を歌うなんてバカじゃね?」的なコメントが…(哀)

ご存じの皆様には今さらな豆知識ですが、香港の四大天王とは、郭富城(アーロン・クォック)、劉徳華(アンディ・ラウ)、張学友(ジャッキー・チュン)、黎明(レオン・ライ)のことです。それぞれソロなのですが、いずれも歌、ダンス、演技が上手く、長らく香港の芸能界のトップアーティストとして活躍してきた人たちです。映画にも多数出演しているので、ご存じの方も多いことでしょう。

この中で一人だけ北京出身のレオン・ライは、《鴻門宴》(『項羽と劉邦』)の劉邦役でウィリアムと共演しています。

四大天王の歌がどんな感じか知りたい方は、番組の後半、24:40頃から、司会者のモノマネで紹介がありますので、ぜひご覧ください。

なお、香港では四大天王がずいぶん長いことトップに君臨していて、若手がさっぱり育ちませんでした。人気の若手を無理やりまとめて四小天王とか呼んだときもあったのですが、誰を入れるかもまちまちで、どうもパッとせず...。

ちなみに、仔ブタ陛下ことダニエル・チャンを四小天王にカウントする人もいます。


3:20ごろから

:皆さん、手元にお年玉袋持っていますよね。この中にそれぞれ任務が書かれてるんですよ。それでは沙和尚さん、最初にどうぞ。と言いつつも、羅から指示の書かれたカードをひったくって読む)
 「ステージにいる人全員で、《八戒八戒》のダンスを踊ること」
:映画は公開前ですけど、この曲、もう“広場舞”になってるんですよ、アーロン、“広場舞”って知ってます?
:おばさんたちが踊るやつでしょう?知ってますよ。
:しかもおばさんたちが踊ると必ずヒットするんですよね。

“広場舞”というのは、公園におばさんたちが集まって音楽に合わせて踊るダンスのこと。フィットネス目的なんだと思いますが、ド派手な赤い扇を広げて踊ったり、騒音で揉めたりと、なかなかお騒がせな様子。

ここで話題になっている、映画の押しソング《八戒八戒》の公式サイトはこちら↓ 
https://www.youtube.com/watch?v=-3n8tooc0n4

MVには猪八戒を演じた小瀋陽が出演しています。
単純なメロディーと映画の決め台詞をまぶした歌詞は中毒性が高く、「神ソング」「洗脳曲」と評価されています。

これを“広場舞”用にアレンジした振り付けはこちら↓
https://www.youtube.com/watch?v=o77vuBGRgkA

広場でおばさんたちが歌ってる映像があればもっと面白いんですが、取りあえずは、コレオグラファー本人のYouTubeから。

一曲通しで踊り終わったあと、解説つきでゆっくりした振り付けの説明があるので、メチャクチャ分かりやすいです。これなら私も踊れそう(笑)

忘年会の出し物でやってみようかしら。誰も知らないだろうけど…

:師匠、お命じください。
:八戒 おやりなさい。
:わかりました、師匠!
  (テロップ:返事は良いけどメチャ不満) 
  じゃ、教えてやる。
:(逃げる)
:あの二人(と、郭と馮を指さす)は、動かしようねぇからよ。オレが動かせるのはお前だけだから、ホレ。
(テロップ:“專挑軟柿子捏”やわらかい柿ばかり選んでつぶす=弱い者イジメ)
:(仕方なく付き合う)
(テロップ:orz 2番もあるの?)

:どうでした、兄者。
:(キリッとウィリアムに向き直って)師匠、いかがです。
:(テロップ:何か言いたげだけど飲み込んでる)
:(ウィリアムに)なんとか誤魔化せましたね。
:悟空の言う通りです。
(テロップ:神ロジック「悟空の言うことは何でも正しい!」)

(続いて、小瀋陽が指示書を読む)
:こりゃスゴイよ。歌つきで《對你愛不完》を踊ること。
:あらまあ。
:何だかよく知ってる気がするよ。誰の歌かなぁ?
(テロップ:わざとら)

《對你愛不完》はアーロンの代表曲で、中華圏では知らない人はいない大ヒットソング。歌もキャッチーなんですが、サビの部分の振り付けも誰もが知っています。日本で言ったら、ピンクレディーのUFOみたいなものでしょうか(古い?)

:この世界で歌って踊れる実力派アイドルといえば、それは、
:知ってるよ。
:アーロン・クォックでしょ。
:違うっ。オレ様。
:(テロップ:反論不能)
:あなたの自信家なとこが好きよ。
(テロップ:一体その自信はどこから…)
:師匠?
:教えてあげてもよいですよ。
(振り付きで歌う) 
 〽 對你 愛 愛 愛不完 
(あなたへの愛は終わらない)

なぜかここで、BGMが琴に(笑)。

:セクシーですね。
:(琴のBGMをバックに、しずしずと歌い踊るウィリアム)
 〽 我可以天天月月年年到永遠
 (来る日も来る月も来る年も永遠に)

:お師匠さま、すごく優しい感じ。
:素晴らしい。
:これはアーロンから習ったの。だから、僕のはオリジナルです。
:正規版ね。
:そう、正規版。
:伝授しました。

番組内でも紹介されていますが、《三打白骨精》のメイキングで、カリアゲのウィリアムがアーロンから振り付けを教えてもらっている動画が相当ウケたらしい。

《三打》チームは映画の宣伝のために浙江衛視の《王牌対王牌》(キングvsキング)というチーム対抗番組にも出演しています。

このときは北中国のイケメン代表・井柏然s-井柏然.jpg
を擁する《捉妖記》(モンスター・・ハント)チームと対戦したのですが、《三打》チームのかくし芸の目玉として、ウィリアムがまるまる一曲踊っています。ついでにマイケル・ジャクソンまで躍らされてました。芸達者ですね、ホント。(動画はこちら↓公式HPです。
https://www.youtube.com/watch?v=biervrdaw4U&feature=youtube )

:じゃ優しいお師匠さま、お手元のお年玉袋には何が?
:(覗いて)こいつはイイぞ。
:(読む)「ゲストの未婚野郎の皆さん、結婚はいつですか」
(さっと小瀋陽の方を向いて)いつ?
(テロップ:これ、あなたへの質問なんじゃ?)
:これはオレ様向けの質問じゃないね。オレ、もうすぐ爺ちゃまだから。
(テロップ:よく言うよ)
:(ウケる)

小瀋陽はこう見えて(どう見えて?)既婚で、お子さんもいます。そういえばヒム・ローも結婚してるんじゃなかったっけ?ってことは、やっぱり、この質問は…

:仲謙、君の答えは?
:僕ですか。ご縁でしょう。

まさか自分に飛び火するとは思わず、お返事に困った様子。

:お師匠さまはノープランでしょう?
:南無阿弥陀仏…経典を手にしておりませぬので…。まだその時にあらずと。
:その時じゃないんですね。その時になれば、自然にそうなると。
  善いかな、善いかな。(拝む)
  じゃ、お師匠さまには《對你愛不完》を踊っといてもらいましょう。
:この質問ホントにナイスだよな。
(踊るウィリアム。テロップ:言われるままに飄々と踊ってます)
:次はあなたですよ。
:(読む)「騰訊娯楽」の製作陣の皆さん、私たちにお年玉をあげてください。
(テロップ:「見学者の皆さんにお年玉をあげてください」と書いてある)
:悟空はやっぱりいたずら好きね。
:お利口さんでちゅからね〜。
(テロップ:三歳児ですか、全くもう)
:ここはやはり師匠に正していただきましょう。いったい何が書いてあるんでしょうか。
:(アーロンの方に向かって)悟空や。

またBGMが琴に(笑)

:私はときどき目がかすむことがあるのです。お前がそう思えばそうなのですよ。
:それじゃお読みしますよ。「「騰訊娯楽」社の皆さん、私たち師弟四人にお年玉をあげてください。できましたら白骨精にもお願いします」

って七夕じゃないんだから、願い事書いてどうする!?

:(テロップ:福があれば分け合い、金があれば分け合う)善いかな。善いかな。
:私たち「騰訊娯楽」はケチじゃありませんよ。一人6元のお年玉を出しましょう。皆さんどうですか?!
(テロップ:礼は軽いが情けは厚い)
“六六大順”(すべてが順調に進む)ですよ。

“六六大順”というのは、「いっぽんでもニンジン」のような数え歌というか、数字をいう時の決まり文句です。

今もやってるか知りませんが、以前は居酒屋に行くと“猜拳”という遊びをしている人たちをよく見ました。

これは2人でやる少し複雑なじゃんけんみたいなもので、ラップみたいに、“三星高照”“十全十美”など、数字の入った決まり文句を言い合い、言い手と相手の双方が出した指の数の合計がその数字と一致すると、相手が罰として一杯飲まなければなりません。

使われる文句には他にも、「」には“双喜臨門”第12回こちらで出ましたね)、「」には“三桃園”(三国志の故事から来たんでしょうかね)などがあります。

」は“六六大順”が使われます。
出どころははっきりしませんが、たぶん、サイコロ賭博から来た言葉ではないかと思います。

(全員にお年玉を配る)
:ホントに六元だ。「騰訊」さんよ、すげえ金持ち会社だね。
  断固抗議するぞ!こんな大会社が六元っていったら六元こっきりなのかよ。
  オレらに六元ぽっちよこすのかよ!
:これ、六元と言ったのだから、きちんと六元くださったのです。約束を守ることが大事なのですよ。
:この六元はお布施だよ。
:(お年玉袋を開けながら)あれっ、変だよ、僕の、なぜ一角が入ってるの?
  (紙幣を数えて)結局僕のは六角だ…。
(急いで自分のお年玉袋の中身を確かめる郭富城)

字幕には出てないですが、三蔵法師は、「どうやら師匠の待遇は弟子に及ばぬとみえる...」とグチっておられます。

中国の通貨単位は元で、10角=1元。つまりお弟子さんたちの10分の1ってことですね…。

:じゃ幸先よい新年のために、スタジオにおいでの皆さんにお年玉を撒いていただきましょうか。
*   *    *

さて、話はだいぶ遠回りしましたが、お年玉まで渡して(不満そうな方も一部おられましたが)、後の時代には爆竹を鳴らしてまでも“年”を退けようとしたのは、“年”が害をなす化け物というほかに、年を取ることへの畏れもあったのではないでしょうか。

中国ばかりではなく、日本を含む周辺国も、昔は数え年といって、お正月に一斉に一歳増えることになっていたんです。

第2話で雪舞が髪を笄〈こうがい〉で結い上げる、成人式がありましたね。40歳を不惑〈ふわく〉、60歳を還暦〈かんれき〉というように、女子は15歳で成人を迎えるため、その年を笄年〈けいねん〉といいます。

邙山〈ぼうざん〉の戦いのときに冬を越してますので、ただいま楊雪舞は16歳のはずです。奥様は16歳(…って古いか)、若妻っすね。ま、「十五でねえやは嫁に行き」って歌詞もあるくらいなんで、当時は別に珍しくもないんでしょうけど。

さて、中国では今でも日常的に数えで年齢を言う人がいます。
たとえば、《大牌駕倒》なんか見ておりますと、司会者(お懐かしや、この頃はまだ華少さんですね)がゲストの方とこんなやり取りをしておられます。
(もとのインタビュー映像はこちら→http://v.qq.com/x/cover/wdynmjl08dxqlei/t00150h7tt0.html 
このインタビューの他の部分は第19話でもう少し詳しくご紹介する予定です)

司会者  「今年もう36ですよね?」
ウィリアム・フォン「普通、数え年で言うんだとすると、今年37です」
司会者「アラフォーですか。まあでももちろん良いことですよね。
   男性にとって成熟していくというのは素晴らしいことですよ」

さすが司会者、ナイス・フォローよね、と感心してる場合かなのですが、取り合えず古代には、年齢は「日」よりは「年」単位で意識されていたと思われます。

例外は生後100日のお祝いです。

恐らく、古代には乳幼児の死亡率が現在よりもずっと高かったので、何とか最初の三か月を生き延びて、今後も育ってくれそうだ、という確信がもてたのがこの時期だったのでしょうか。

その日は親戚が集まって飲み食いしたり、子どもの前に筆や弓などを並べて選ばせ、将来を占う“抓周”という儀式が行われる習俗がありました。

日本でもこの行事の残っている地方があるそうですが、現代の中国では、“抓周”はそれほどポピュラーではないようです。それでも字典や筆あたりはまだしも、計算機やマウス、人民元なんかを並べるお宅もあるそうですね。

ちなみに、“六六大順”にちなんで、選ばせるものの数は6の倍数にするそうです。

子どもが人民元選んだら親は嬉しいのかな?
お金に困らないのは、良い事なのでしょうけれど…。

このお祝いについての一番古い記録が残っているのは、何を隠そうドラマの背景になっている、魏晋南北朝時代。

蘭陵王のお宅拝見の回(第12話の2こちら)でもお世話になった資料、《顔氏家訓》の風操篇には、当時、文化の進んだ江南地方では、子どもが一歳の誕生日に“試兒”“抓周”と同様の行事)など盛大なお祝いをするのが流行したと記されています。

裕福なおうちでは、一歳といわず毎年バースデーパーチ―が開かれた模様で、唐代になると皇帝のの記録があったりします。

とはいえ大冢宰は皇帝でもなんでもないんですが、少なくとも周では皇帝よりエライので、次々と異国の使者が現れて祝福のコメント、アンド貢物を披露します。

残念ながら、当時のバースデーパーチ―の図は残ってませんが、529年ころ南朝で描かれた《職貢図》という絵の模写が残っており(絵はこちら↓で見られます。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%81%B7%E8%B2%A2%E5%9B%B3 

当時の北朝は斉・周の一個前の北魏の時代でした。そこにはがっつり我が日本代表「倭国」の代表も登場しております。

残念ながら、日本代表のユニフォームがいまいちダサいのは1500年前も今のW杯もあまり変わりませんね…(哀)。

当時の日本は古墳時代で、そろそろ国も統一されたということで使者をよこしたのか、それとも国内でまだ揉めてたので、金印でも頂戴して権威を高めようという算段だったのかはわかりませんが、惜しい事に、成長株の北朝にではなく、のちに滅亡する南朝の方に挨拶まわりに行ってしまいました。若干、貢ぎ先のリサーチが足りなかったようです。

ドラマでは、ゲストとして“孺孺族”の皆さんが登場してますが、これは恐らく、蘭陵王のじっちゃん高歓が側室として娶った騎馬民族、“蠕蠕族”のことでしょう。

彼らに限らず、外交の使者たちはプレゼントを持ってくるのですが、来られる側ではたいてい、同等かそれ以上のお返しをしなくちゃなりません。

なんだ〜押し売りかよ〜迷惑なんだよな〜頼んでねーよ〜と思わないこともなかったでしょうが、当時の力関係としては、宇文邕の奥さん・アシナ皇后がそうであるように、中国の真ん中に住んでる人より、周りに住んでる匈奴<きょうど>や蠕蠕<ぜんぜん>の方が押し気味だったと思われます。

そもそも、宇文一族自体、漢民族じゃなくて、鮮卑<せんぴ>族なんで。

そんな地位の高い方々が訪問してくださる、アンド、前にも書きましたように、国が南北、東西に分裂している状況なので、外国から使者が来るということは、来られる側にとってもそれなりにメリットがあったのでしょう。

周の国の正史である《北周書》なんか読んでおりますと、宇文邕の治世について書かれた記事には、○○が使者を派遣して“土産”(特産品)を置いてった、てな文章がしょっちゅう出てきます。

意外に思われるかも知れませんが、「○○」の中には斉国も含まれています。
ケンカしてるけどキューバにはオバマ大統領も来るよ、てなもんでしょうか。

今回の記事のちょっと先の方でまたお話ししますが、史実では西暦569年、斉の武成帝が亡くなったときに、周の国からも葬儀への使者が斉へ派遣され、お悔やみの品も届けたと史書に書かれています。

ドラマじゃ、特に招待されてない人も、こっそり斉から紛れ込んでるみたいですけどね…。

さて皆さんが和気藹々と楽しんでいるところに宇文邕が現れ、参列者は跪いて挨拶します。しかし、宇文護は酒を飲む動作をやめません。

宇文邕としては、宇文護にガン無視されようとも、

“福如東海 壽比南山”
(いつまでもお幸せで お健やかに)

と心にもないお祝いの言葉をかけます。

これは目上の人の誕生日を祝う決まり文句で、文字通りには

“福如東海長流水 壽比南山不老松”
(幸運は東海のように果てしなく 長寿は終南山の松のようにとこしえでありますように)

ということ。

いちおう上座には通される宇文邕ですが、そこへ佞臣の李安が現れ、先帝遺愛の美酒を献上します。

もちろんこれは、宇文邕がやってくると予測して仕込んでおいた小道具なんでしょうね。宇文護は酒にかこつけて、先帝の元で打ちたてた功績について押しつけがましく吹聴し、反比例して寿命が縮んでくとおぼしき宇文邕は、

“没有大冢宰,就没有周国今日的繁荣”
(大冢宰なくしては、今日の我が国の繁栄はなかった)

と感謝の辞を述べます。

“没有〜 就没有〜”は、何々がなければ何々はない=何々があったからこそ、何々があるのだ、という決まり文句です。試験に出るので覚えておくように。

中国の人にこれで例文を作れ、といったら十中八九同じ文章を作ってくると思いますが、CMソングがいかに効果的かという見本みたいなものですね。

♪没有○○党 就没有新中国♪
(共○○がなければ 新しい中国はなかった)

ま、ある意味その通りではありますが、本当はかなりいろんなものが、空欄に代入される資格はあると思いますけどね。

さて、絶賛お追従中の宇文邕は、宇文護を本当の父皇とも慕っていると述べます。

関係ない人を自分の父と呼ぶことは、相手の絶対的権威を認める、という意味です。その命令には絶対服従です。

だから、ウィリアム項羽も亜父・范増〈はん ぞう〉には服従したし、無敵の孫悟空もその師父・ウィリアム三蔵法師に頭が上がらないのです。

それにしても日本語ではなぜ、兄弟子、弟弟子とは言うのに、師のことは師父とは普通呼ばずに師匠っていうんでしょうか。教えて、エライひと!

は〜い、ボクですか〜(はぁと)とは言わなかったけどちょうどそのタイミングで宇文護が来駕の礼だと言って呼び入れたのは、

…尉遅迥<うっち けい/Yuchi Jiong>将軍。

邙山<ぼうざん>の戦い(第9話こちら)で数万の軍を率いていながら、たった五百騎の蘭陵王に敗れるとは言語道断、と大冢宰はエラくご立腹です。

もちろん、これは宇文邕への当てつけですね。

宇文邕は罪人扱いの尉遅迥を庇うそぶりを見せますが、大冢宰は数万の精兵を失ったけじめを付けるべく、彼を“五馬分屍”(八つ裂きの刑)に処すと言い、参列者たちも同調します。

これは第14話こちら)で誰かさんが危うくやられそうだった刑ですね。

将軍同士、仲の良いこと…。

当然視聴者も、過去のエピソードを思い出すでしょう。
尉遅迥の傍らには、彼を必死に救い出そうとする五爺のような人が居てくれなかったということに、彼我の違いを感じます。

しかし、ここで比べるべきは、尉遅迥と蘭陵王ではありません。

ここで比べられているのは、宇文邕と蘭陵王なのです。

宇文邕はこの場面で冷酷にも、宇文護を呼び捨てにすることは死罪に値するという理由で尉遅迥を手にかけます。この時代、エライ人を呼び捨てにするとどうなるか…ぶるぶる。
誕生祝いにこういう余興は勘弁してほしいもんです。

まあそれはともかく、宇文邕には果たすべき務めがあり、そのためにはこうするしかなかったと、この時点では皆、納得するでしょう。

ところが、物語が後半に入ると、蘭陵王が同様の決断を迫られるシーンがあるのです。

そのとき、彼はどうしたか。

そこに宇文邕との差が歴然と現れます。
その差をどう見るかが、また悩ましい訳ですが...。

さて、先の話はさておき、取りあえずドラマでの現在に戻ると、ここで宇文邕が機転を利かせれば、尉遅迥一人の命は助けることができたかも知れません。

しかしそれでは、災厄を除き、第二、第三の尉遅迥を助けることはできなくなるという判断だったってことですね。

斉陣営にはさんざんコケにされてきた尉遅将軍ですが、宇文邕にとっては数少ない腹心の部下だったのでしょう。大冢宰に向き直った後のダニエル・チャンの鬼気迫る演技のスゴイこと…
ホント、素晴らしい!

って思っていたら、こんなシリアスな場面こそ、視聴者ツッコミ隊の恰好の獲物だったらしい。

以下のNG番組、いい加減見飽きた方も多いでしょうが、ようやくネタバレしない回まで来たのでご紹介しましょう。

この作品は、何仙姑夫さんという方が作ってるパロディ動画シリーズなのですが、数々の人気ドラマや映画の間違いに画像でツッコむというのと、せっせと週一更新というのが凄すぎて、中央電視台(日本でいうNHK)でも取り上げられたほどです。

司会進行役で出てくるブタさんは「マクダル」という香港の人気キャラ(のパロディー…?)で、日本でもアニメが劇場公開されています。映画版は香港四大天王の一人、アンディ・ラウを始め、豪華な声優キャストが出演してることでも知られます。

動画はこちらから↓
http://v.youku.com/v_show/id_XNjAxOTY0OTQw.html?from=s1.8-1-1.2

では、以下拙訳でご覧くださいませ。

<マグダル>
さて、ボクが思うに今日取り上げるドラマは、有史以来、ポカの最も多いドラマです。
タイトルは「蘭陵王」。無駄話はやめて、早速行きましょう。

まずはこのドラマのポスターですが、グローバルスタンダードで
もつれる激しい恋のトライアングルを表現してますネ。
その後でアメリカのドラマ「ヴァンパイア・ダイアリー」を見ると、ここまであからさまにパクる必要アリなのかと。

現代のものに関係するNGとしては、雪舞が窓を開けたときに、
コレですけど、 ビッカピカのステンレスの蝶番ですよネ。

そしてココを見ると、コンセントが出現しています。

それから兵士が街を見回っているときに、蛍光色のゴム靴を履いています。

6歳以下のお子様向けドラマですかネ?

蘭陵王はこのとき、弓には1本しか矢がありません。

予備の矢もありませんが、
しかし城門までやってくると 三連続で矢を放っています。

この動作、悶絶級のカッコよさですけど、
でもさっきまで矢は一本でしたよね。あとの二本は宝くじで当てたのでしょうか。

斛律須達<こくりつ しゅだつ>が馬で陣地を出るとき、タテガミは黄色でした。

だけどしばらく経つと、セピア色に変わっています。
途中の美容室でカラーリングでもしたのでしょうか。

蘭陵王と雪舞のおばあ様が庭で話をしているとき、カメラが引くと、
Tシャツを着た男性が隅っこにしゃがみ込んで2人を見ています。

それから、このシーンに注目してください。

ピンクのキャップを被った娘さんが通り過ぎてます。

監督、わらっとくってそんなに難しいんですか。

宇文邕<うぶん よう>は大殿で尉遅迥<うっち けい>を殺します。

ご注目ください。宇文邕の右頬に血はついていません。
しかし彼は外に出ると、突然右側にも血がついています。
乾癬なんでしょうか。結構広がってますよネ。

蘭陵王が矢に当たったとき、位置を良く見てください。鎧の丸い部分に当たっていますネ。

しかし助け起こされると、矢の位置が上に変わっています。
まさか自虐ギャグで、抜いてから別の場所に差したんですかネ。

最後にまとめてドラマの中の人たちのNGをお見せしましょう。

戦に勝って、この兵士が抱擁しているのは現代人ですよネ、
髪が横わけですけど。

偉い人が話してるときに、このエキストラの人はガバッと兜を脱いでます。

官軍が鄭児を捕まえて、殴っているときに、さっきの半そで男子がまた出現しています。
カメラが回っていることに気づいてまた戻っています。
お兄さん、恥ずかしがらないでくださいネ。

蘭陵王:古代に存在しないモノについてのNGはたくさん見つかりましたが、最悪なのは、まだ指摘がないですね。

雪舞:なんですのん?

蘭陵王:それは君をヒロインにしたことですよ。
口を開ければ香港・台湾なまり。どうしたって現代ドラマっぽいですよ。

雪舞:あんた、ほんまにイケズやわ!
何でそんなしょーもないこと…うちのどこが台湾なまりやって!
*   *    *

…すいませんすいません台湾なまりどころかニセ関西弁で…。

今は昔、中国ではオサレなトレンディードラマといえば香港や台湾製作の作品で、ドラマのセリフが新語や流行語として広まったので、台湾・香港の中国語=現代ドラマって印象があるみたいですね。

実は私だって、このドラマを観はじめた当初は、

なんで古代の北中国に台湾中国語で喋る女が出てくるのよ!
(いちおうは)標準語をしゃべってるウィリアム・フォンを吹き替えるより、
アリエル・リンに声優さん使った方がいいんじゃないの? 

とかバチ当たりなことを考えてたりしましたが、
それをやったら(時代劇だけど)トレンヂーぢゃなくなるからダメなのね?

と、そこへウワサの香港出身のオシャレな皇帝と台湾出身のモダンな天女が登場し、北中国の古都・長安なはずの画面の緯度が一気に低くなってまいります。

そんな大げさな、北と南で言葉が違うったって、同じ漢民族だったら分からないってほどじゃないよね…

と思ったあなた様、それではどうぞこちらの番組をご覧くださいませ。

お年玉のところでご紹介した、《大牌駕到》の後半部分です。

ここでは、皆が帰省するお正月時期の放送にふさわしく、

香港出身の郭富城・羅仲謙、
上海出身の馮紹峰、
遼寧省(中国東北部)出身の小瀋陽、
そして台湾出身の司会者・阿雅

が、それぞれのふるさとの習俗やことばの話で盛り上がります。

9:40ごろから
:それでは皆さん、一緒に火鍋を囲みましょうか。
:火鍋!
(テロップ:“典型吃貨一枚”典型的な食いしん坊

:上海では年越しのとき、何を食べるんですか。
:上海で年越しのときは…年越しのときの料理ですね。
:お宅ではそういう習慣ないんですか。うちは魚を食べるんですけど、片側だけ食べて、それから裏返すんです。で、ひっくり返した面は、新年に改めて食べます。
:魚ね。魚なら“劃過來”(漕いできた)面でしょ。
:つまり“年年有余”(毎年余裕がある)という意味です。

*
“魚 yu”“余 yu”が同じ音なので、ひっかけているんですね。
*

:だから“劃過來”(漕いで)来ないとね。
:海で仕事する人は縁起かつぎで、つまり漁師さんは、食べないでしょう、

裏返しにした魚は。そうすると船が「ひっくり返る」から。
:だから“翻”(ひっくり返した)面と言ってはダメ。“劃”(漕いだ)と言わないと。“翻”の字はタブーです。
:あなたのお家もそうですか?
:僕たち(中国の)東北地方は餃子ですね。昼は火鍋です。
(テロップ:餃子は“招財進宝”を意味しています)

おっ、懐かしや“招財進宝”第2話以来ご無沙汰ですね…(第2話は→こちら

:昼と夜は豚足もでます。

と、共食い…?

:あとはカニ。“発横材”(思わぬ儲け)の意味です。

:香港の皆さんはどうですか。
:香港では“樹shu菜”ですね。
:(“素菜”(精進料理)と言いたかったらしいアーロンの発音を直して)
“素 su”

標準語しゃべりづらそうですね...
ここはちょっと面白い例です。

広東語にはshuという発音がないので、本当はsuは言えてshuの方が言えないはずなんですが、入れ替わってしまってます。標準語はshuって言うんだ!と過剰に適応した結果ですね。

実は日本語が母語の人にも同じようなことがあるんです。
たとえば、日本語には[ R ]の発音がないので、英語の[ R ]の発音が苦手ってよく言いますよね。
ところが、英語っぽく発音しようとするあまり、本当は[ L ]のところまで、全部[R]で言ってる人が多いんだそうです。

だから、むしろ[ L ]の発音をしっかり練習した方がいいらしいです。

:母が一番得意な料理は“斋菜”(精進料理)でしたね。必ず母が作ってくれるのを待って食べました。
:そうですよね。あるお料理に特別な思い出や意味があるんですよね。そのお料理には何か特別な意味があるんですか。
:具がたくさん入っているんですけど、たとえば“髪菜”とか。これは“発財”の意味ですね。“生菜”“生財”の意味です。“蠔豉”“好事”に通じます。つまり、良くなるということです。いろいろな意味が込められているんですね。
:近い音の言葉をもじってるんですね。
:ってことは上海料理が一番つまらないってことでしょうかね。  
“年糕 niangao”(餅米料理)があるじゃないですか。
  “年年高升nian nian gao sheng”(年を重ねるごとに高く上る)という意味がありますよね。
:あと、“蛋餃”(玉子餃子)がありました。黄金で出来た“元宝”(昔のお金)に似てるでしょ。
:どんな習慣があるかっておっしゃいましたけど、仕事でずっと外にいますから。
:一家団欒の機会は大事なんですね。


13:10
ようやく新作映画の話になって…

:僕たちは現世によみがえった“四師徒 sishitu”なんですよ。
:大変ですよねこの、標準語をしゃべるっていうのはホント。
(アンディのコップにオレンジジュースを注ぐウィリアム)
:あら良いお師匠さまですこと。まずはジュースで口を滑らかにしてということですね。


先ほども出ましたが、shの発音は南方系の言葉にはないので、皆さん習得に苦労してます。特にsiとの組み合わせは北中国の人でも口が回らなくなるらしく、失敗率の高い早口ことばとしてポピュラーなものに

石 獅 寺 有 四 十 四 隻 石 獅 子…というのがございます。
shi shi si you si shi si zhi shi shi zi

アーロン、ナイストライ!

17:18
:お師匠様(ウィリアム)は優しいんですよ。とても優しい人なんです。
“所以你差點要被他掰彎了”(だから危うくあっちの趣味に引きずりこまれそうになったでしょ)
:実はほんのちょっと…

このあたり、ギャグを交えつつも出演者はお互い褒め合っているわけですが、上に流れる視聴者のコメントはだんだん辛辣に…。

最近は何でもゲイっぽく演出してヤダヤダ…みたいな番組への批判はともかく、
その年で若い女の子を口説きまくって、とっかえひっかえお試し数年でポイ捨てなんて無責任な、とかヒドイこと書かれています。
なるほど、そういうイメージで見られているわけね…。
こればっかりは片方だけの責任じゃないのでは?とは思いますが、

ま、頑張れ!


20:15ごろ
:じゃ、仲謙は皆と上手くお話は出来ました? アーロンが広東語風標準語だったんで目立たなくて済んだんじゃない?
“四師徒”シーンのフラッシュバック)
:僕、実は瀋陽さんとのお芝居が多かったんですけど、俳優としては、まずコミュニケーションを取らないとダメでしょう。だから、まずは日常の小さな事でやりとりをしたんですけど、実はお互い全然何言ってるかわからなくて、あっ、僕が全然分かってなくてすごい困りました。分かったふりしなくちゃいけなくて。
:今ごろあれが「ふり」だったって知ったよ。

21:35
:東北語は教えてもらいました?
:ありました。でも覚えられないです。(キッパリ)
:そんなことないでしょう。
:僕に広東語が覚えられないのと一緒ですよ。
:広東語ってすごく難しいんでしょう?
(口々に)難しいですね。
:広東語には声調(トーン)が七つあるんですって?
:九つです。
:東北語はどうですか。
:東北語は実のところ標準語の一種ですよ。
  方言を混ぜなかったら完璧に聞き取れますよ。
  例えば、「あなた綺麗ですね」「すごく素敵ですよ」
  「僕はものすごく“磕磣”です」とか。
  “磕磣”「ブサイク」って意味です。

“磕磣”の元の意味はデコボコしてる(のデコの方)ってことです。
なるほど、これでブサイクね。

:話しているうちに方言が出ちゃうんですよね。
  “整點酒”(酒注いで)とか。
:東北語の成語ってたくさんありますよね。
  飲み過ぎて“五迷三道”とか。東北の三つの省(遼寧省、吉林省、黒竜江省)の中でも、遼寧省は方言がいちばんキツくないですか。
:(遼寧省のアクセントで)「ディエンワを掛ける」
:(真似して)「ディエンワを掛ける」????
:「電話を掛ける」です。
:いちばん歌っぽいのは葫蘆島語ですね。
  錦州です。
:錦州。

錦州は東北地区の交通の要所で、戦前はいわゆる「満州国」の統治下にありました。国共内戦の折の激戦区でもあります。

:「なにしてぇえんの?」
  「ごはんたべぇえた?」
  「娘っこずいぶんきれいになったよぉぉおなぁ?」
  「長いシカートはいてんのぉお」
   “裙子”(qunzi:スカート)を“純子”(chunzi)っていうんですよ。
:それはともかく、なんで態度が偉そうなおじさんみたいになるんですか。
  錦州語をしゃべりだすと、顔全体がこんな風に…(しゃくりあげるマネ)。
:語尾が…。
:「何言ってんだぁあね?」
(真似する テロップ:コピー&ペースト)
:「なぁあんでメシを食わしてくんないぃんだぁあね?」

ゲストの目の前に火鍋セットが用意されているのですが、着火されてすらいません(哀)

:お師匠!
:(小瀋陽に向かって上海語で)“侬啊啥”‎?(お前はどうしたの)

で、またBGMが琴…!(悶絶)

:上海語が参戦してきたわ。
:全くわかんねぇ。
:(上海語で)「スカートだなんて」「冷えるじゃないの」

ただでさえ上海語ははんなりしてるのに、ウィリアムがしゃべるとさらにフニャフニャに…

:そろそろ広東語も出るころじゃないですか。
:(広東語で)“係嘞 hai la”(そうですね)“啱嘞 aam la”(その通りです)
馮:(真似して)あ〜〜むら。
“識聴 唔識講嘞”(聞き取れるけどしゃべれないわ)
“請小心車門嘞”(閉まるドアにお気を付けください)
:ドアに気を付けて…?
:香港に行くと一番印象に残るのが、地下鉄の「ドアにお気を付けください」ってアナウンスなんですよ。

中国の首都から遠く離れた広東は、昔から独自の文化が栄えた土地です。
言葉もだいぶ標準語とは違い、発音・語彙はともかく、文法にも違いがあるほどです。

アーロンの最初の返事は、標準語だったら“是的 shide”(そうです)“対了duile”(その通りです)となるところ。全然違いますよね。

広東語の返事の「はい」はとても特徴的ですが、幕末に広東に行った武士たちが、当時、Yesに当たる日本語がなかったので覚えて広めたって説があるんだけど、ホントかしら?

ともあれ、
“天不怕 地不怕 就怕廣東人說的普通話”
(どんなものでも恐れはせぬが 広東人の標準語だけは怖い)
って茶化し文句にまでなっています。

逆もまたしかりで、他の地域の人に広東語の習得はなかなか難しいらしい。そう考えると、北京出身なのに、広東語でポップスを歌い、香港映画でヒロインを演じちゃう王菲(フェイ・ウォン)のスゴさが分かります。

:(ヒム・ローに)あなたは兄弟子と長い事一緒にいたんだから、少しは東北語も身に付けないと。兄弟子ってのは名ばかりじゃないから。
:よし、一言教えてやる。
  「あのネエちゃんなかなか別嬪さんだぁあね」
:「あのらららら…?」
:大丈夫、あなた?(前が標準語で後ろが広東語になってしまっている)
“杯子 beizi”?  (コップ)
“妹子 meizi”!!(女の子)
:酔っぱらった東北人みたいです。
:少しは似てます??


〆の方でヒム・ローは、自分はふだん香港で仕事をしているので、北の方の人と共演できるチャンスは貴重でした、という話をしていて、中国ってホント広いな〜としみじみしてしまいました。

さらに、中国には漢民族ばかりでなく55もの少数民族がいて、お札(人民元)にも主だった民族の文字が記されています。地方に行けば、その土地の言葉と標準語のバイリンガル(?)放送や表記を見る事ができます。

しかし現実問題としては、家の中では地元の言葉でも学校へ行ったら標準語、というのは普通にあるパターンですし、標準語が出来ないと少なからぬハンデがあることは否めません。

今の世の中、別に強要はされてないけど、英語ができないと頭打ちになってしまうのとやや似ています。

さらに、アナウンサーや中国語の先生など、標準語ができなければならない職業の人たちもいます。当然、標準語から母語が遠ければ遠いほど習得が難しいため、ハンデになります。中国の標準語は専門家たちの話し合いで決まったのですが、当時は南北中国の主導権争いで相当揉めたと聞きました。

いまでは“普通话水平测试”(標準語レベルテスト)なるものがあり、これにパスしないと就けない仕事もあるそうです。シビアですね…。

日本じゃ放送局の社内とかではテストがあるのかも知れませんが、いくら標準語は人工的とは言え、戦前はともかく21世紀に、国がそんなテスト作ったら大問題になりますよね…。


番組ではこの後、ここまであまり出番のなかった司会の小サが一芸を披露します。
四大天王の一人、アンディ・ラウの≪咱們屯里人≫という歌を四大天王全員のモノマネでやる、という芸です。

これはモノマネ芸人がアンディのマネをして歌ったのがウケたのが始まりだったのですが、なぜか本人がこれを広東語でセルフカバー(って言うのかこの場合?)、本家がモノマネを超越するという訳の分からない事態を招いたスーパー田舎くさい歌です。

小サによるモノマネですが、四大天王の中で一人だけ中国出身のレオン・ライのが一番似てるような気がします。

さて、この後、アーロンは仕事で香港に帰ってしまいますが、残ったキャスト3人で、四大天王がいかに自分たちのアイドルだったか、という話になります。

それにしても司会者の阿雅さん、
「はい、じゃ、ここからは彼のワルクチも言えますね!」ってどういう進行よ…?


29:25ごろから

:あなたは小さい頃、誰かのファンでした?
:小瀋陽です。
:(テロップ:いいね!を100進呈 はにかむウィリアム)
:実際、アーロンがすごく好きでした。四大天王の中でダンスが一番上手かったから。それに、すごくアクティブで、明るくて、エネルギッシュだし。
:あなた自身はどんなタイプの子だったの。
:バイクに乗るのが好きでした。
(テロップ:超級バイクおたく)
:ふだんは大人しくしてて、演劇学校に通っていたときには、みんな僕のことは、毎日バイクに乗ってる人って認識だったと思います。
:彼、いつもはすごくしおらしくて鈍くさいから、どんな人だか良く分かんないでしょ?
だけどウラではものすごくお茶目なんですよ。しお茶。
そうでしょ、お師匠?
:これ八戒。いたずらが過ぎますよ。
(テロップ:おっとまた憑依されている…)

鈍くさいのは良いんですが、しょっちゅう大ケガしてますよね、この御方は。
「蘭陵王」で踏雪に踏まれて骨折する前には、自分で事故ってマイカー大破とか、「いつか、また」ではセットが倒れてきて腕を骨折、「三打」では馬が暴れて落馬。

先ほどご紹介した、《王牌vs.王牌》では、物まねダンスの練習中に足をねんざ(をいをいをい…)。

郭碧婷〈グオ・ビーティン〉と共演する新作《那片星空那片海》(あの星空とあの海と、くらいの意味でしょうかね)では撮影に入ってわずか5日目に、移動中の船で背中を打撲したとかで、一時完治4か月というニュースが流れていました。その後、それほど重傷でもないという情報も流れてきて錯綜しておりますが…。

俳優さんは身体が資本、本当に気を付けていただきたいですね。

ちなみに、ウィリアムが成りきっている三蔵法師とは、有り難いお経を取りに天竺に行った人なのですが、持って帰ってきた経典とは、《般若心経》のこと。

はて、般若…? なんかどっかで聞いたことのある単語だわ…?(わざとら)
まさかその関係で般若の面が大フィーチャーなのでしょうか(違)

一方、皇帝の仮面をつけてはいるけど、実際には血の通った人間なのよ、と雪舞に指摘された、マスカレードの似合うトレンディ―な男・宇文邕。

ここまで宇文神挙の前では万能の皇帝を演じてた宇文邕も、今回はついに彼に泣いてるところを見せてしまったくらいですから、雪舞の前で落ち込んだ表情を隠すことは、ま、無理でしょう。

宇文邕が貞児に聞かせたホラー小話(と、宇文邕自身が言ってたけど)を小耳にはさんだ雪舞は、まさか以前(第4話こちら)おちょくられていた相手が亡くなったとも知らず宇文邕に向かって、聞き様によっちゃ結構ショッキングな発言をかまします。

“又是誰 為你爾死呢”
(今度は誰が あなたのために死んだの?)

しかし、そんなことでは挫けない、鉄のメンタル・仔ブタ陛下はけなげに答えます。

“不論我付出什麼代價 做出什麼事情 朕一定會成為一代明君”
(朕はいかなる代価を払い いかなる事をしてでも かならず一代の名君になってみせる)

このシーンが面白いと思うのは、雪舞が宇文邕に、弱さがあってもいい、周りの期待通りに振る舞わなくてもいい、と言っていることです。

脚本と、それからもちろんアリエル・リンの上手いところだと思うのですが、雪舞は蘭陵王に接するときと、宇文邕に接する時ではかなり態度が違います。

もちろん、好きな人と、単なる友だちに対する態度の違いということはありますが、韓暁冬に対する友だち扱いともまた違って、語弊を恐れずに言えば、常に「上から」なんですよね。

それは、「天女」として遇されているからという理由もあるでしょう。

ただ、それ以上に、出会ったときの雪舞の状態が、蘭陵王のときと宇文邕のときとでは真逆だったというのが大きいと思います。

思い出してください。蘭陵王に出会ったとき、雪舞には今と同程度の知識や能力があったのですが、おばあ様や村娘たちにいつも役立たずと貶められていた(と思っていた)。蘭陵王は自信のなかった彼女を引っ張り上げる役割を果たしました。

だから、彼女はずっと蘭陵王を(「よんじい」とはいえ)尊称で呼んでいるし、冗談を言い合うほどの近い間柄になっても、どこかに、よく言えば憧憬の、ややもすれば遠慮しているような態度を見せます。

宇文邕に対しては、最初から、自分の能力を使って援ける立場だったので、常に同等か、ややもすると上位の態度を見せているんですね。よく宇文邕も許してると思うけど、外国人(笑)だし、天女なので、周りが咎めないからOKなんでしょう。

遠慮がない分、傍目からは親しく見えますが…。

雪舞は「友達だから」と言ってますが、宇文邕は雪舞が気を許せる相手という他に、出会った当初から彼女の能力に助けられているので、それを高く買っているようで、好きなように言わせています。

雪舞の次の発言なんか、カウンセラーか顧問みたいです。

“我倒希望 你是一個有血有肉 會開心 會難過的正常人
因為只有這樣 你才會懂得百姓要什麼”

(私は逆に、あなたには 血の通った 喜びや悲しみを知る普通の人でいてほしい。
そうしてはじめて あなたには庶民の望む事が分かるはず)


...と雪舞は簡単に言いますが、どう思います、この発言?

よく政治家を批判するときに、庶民感覚からズレてる、みたいなこと言ったりしますよね。
だけど、名宰相、名大統領の条件として、そういう弱さが必要なのかどうか…。

しかも、ここは21世紀の中南海でも永田町でもワシントンでもなく1400年前の北周。

隣にはクレイジーな一族が君臨する国があり、南にはカルチャー面でぐいぐい圧をかけてくる国もある危うい情勢なのです。
(ん? ここだけ見るとあまり21世紀と変わらない気もするな)

だって、涙が出ちゃう。皇帝なんだもん。
(「アタック No.1」なんて、みんな、知らないよね...しかも元ネタは21世紀には男女差別で放禁かも…)

なんて、言ってる場合じゃありません!

だけど、悲しかったら泣いてもいいから、と言われてさらに心が動いているらしい宇文邕。

いい父親はいい皇帝になれる…という雪舞の言葉は、しつけが厳しすぎてグレてしまった皇太子を持つ史実の宇文邕第11話こちら )には皮肉ですが、それよりは、ここで友達のために思いっきり悲しんで泣いたらいいのよ、と雪舞が腕にタッチしながら言ったあとの、ダニエルの細かい演技に注目した方が楽しいですね。

視聴者の目にはあからさまな、そして雪舞だけが気づいてないらしいそんな不実に、鋭い奥さんが気がつかないわけはありません。

アシナ皇后は将棋のお相手をしながら、それとなく宇文邕に探りを入れています。
それを受けて、皇帝の仮面をしっかり被りながら、どう見てもアヤシイよな〜、こいつ、と思わせるという、ここのダニエルの演技もお見事。

心ここにあらずの仔ブタ陛下を見送りながら、アシナ皇后は涙ぐみます。

“皇上 熱衷於象棋的您 連我動了您的棋子 您都渾然不知
天女 難道也虜獲了您的心嗎”

(陛下、あれほど将棋がお好きなのに、駒を動かしたことさえお気づきでない。
天女よ、まさかあなたは陛下の心さえも虜にしたの?)


ああ、こんな良い奥さんを泣かせるなんて…。そしてここもドラマ後半への大事な伏線ですね。

さて将棋。

中国語では“象棋”と言いますが、日本では、「日本将棋」と区別するために、「中国将棋」と言ったり、「シャンチー」と言ったりします。

現代の中国でも、街で対局を見かけますし、道端では賭け将棋をしているセミプロも見ることがあります。

紛らわしいので、以下、“象棋”と書きますが、一見してすぐ気づく日本の将棋との違いは、駒が丸いことです。

同じくボードゲームの「囲碁」は丸い碁石を使いますが、面白いことに、魏晋南北朝の時代まで、中国の碁石は四角だったようです。

実は、史実の宇文邕は盤面を陰陽五行や兵法になぞらえ、《象経》という本を書いており、“象棋”の開祖とまで言われてます。

史書によると、宇文邕が《象経》を執筆した西暦569年は、なかなか大変な年だったようです。

その年の正月、隣国・斉の武成帝が亡くなります。周の国からも葬儀への使者が派遣され、朝議も停止されます。これは恐らく、喪に服するためでしょう。

2月8日、宇文邕は大徳殿に大臣たちや道士、僧侶を集め、仏教と道教の教義について議論をさせます。

2月10日、人の頭ほどの流星が現れ、消えた後に雷鳴のような音が響きました。
4月10日、斉の使者が参内します。恐らく葬儀の返礼のためでしょう。
そして5月1日、皇帝は《象経》を完成させ、大臣たちを集めて講釈します。
 
“象棋”というゲームの直接のルーツが遡れるのは唐代くらいまでですが、言葉自体は紀元前からあり、当時はサイコロを振って遊ぶゲームだったようです。

こちらの↓陶器は“六博”の対戦をしている人たちをかたどっています。漢代の出土品で、これもサイコロゲームの一種です。
六博.jpg
河南博物院のHPから(斉の都・洛陽〈らくよう〉は河南省にあります)

宇文邕の時代の“象棋”(象戯)も実際には今の将棋ではなくて、やはり、さいころを振って遊ぶ、今でいうすごろくみたいなゲームだったらしい。盤面に人生を読むって意味からすると、「人生ゲーム」かな。

ドラマの中で仔ブタ陛下とアシナ皇后が遊んでるゲームは、どうみても「人生ゲーム」にゃ見えないので、未来の国からドラえもんによってもたらされた「オーパーツ」であることが否定できません。

え、本ドラマにはドラえもんなんか出てこないって?
いるじゃないですか、何でもお腹から出してくる太っ腹な御方が、なぜか周の国に…。

太っ腹で思い出しましたが(ナゼ?・笑)、『項羽と劉邦』ファンの皆様としては、盤上の「楚河」「漢界」の文字に気を取られて、 仔ブタ陛下どころじゃないと思います。

ただ、ドラマの盤面はどう見たって現代“象棋”のものなので、当時こんな盤面が存在したのかどうかはもちろんナゾです。が、「オーパーツ」だったら、現代の盤面と同じでもしゃあないので諦めていただいて画面をご覧いただくと、対峙する二人の陣地の真ん中に、線が引いていない箇所があります。この空間を「河界」といい、ここにでっかく「楚河」「漢界」と書いてあります。

これは、現代で言えば国境を隔てるライン河みたいなもので、その昔、劉邦の漢と項羽の楚が停戦協定を結びながらも、河を隔てて対峙していた故事によるものです。

そしてこちら、いよいよ“将軍”(王手)どころか成り駒で“皇帝”になろうとでも言うのか、すでに臣下と見せかける気すらなくなったらしい大冢宰は、ついに帝位を乗っ取るべく、李安に皇帝毒殺の計画を話しています。

それを月兎が盗み聞きしてますが、カメラが引くと、部屋の中から月兎のシルエットがちゃんと見えるという、ヒッチコックが知ったら殴られそうな見え見えの演出はちょっとどうかと思う。



翌朝、柳の枝を手に、雪舞は物想いにふけっています。
この小道具を視聴者にしっかり印象付けようという、こちらも見え見えの演出はちょっとどうかと思う。

それはさておき、

“我離開他太久 我們兩個都會死的。”
(長いこと彼の元から離れていたら 私たち二人とも死んでしまうわ)

“我會因為過度思念爾死的。”
(彼のことを思うあまり 死んでしまうのよ)

“就好像 魚兒跑出水面 因為 他呢 是我很重要的人”
(魚が水から上がってしまうようにね。だって彼はとても大切な人だから)

おやおや、こんな風に思っているのなら、なぜ今ここに居るんだか…。

すると貞児は、一番好きな人は誰か、当てっこしよう、と言います。

貞兒のジェスチャーを見て、雪舞は、

“茶壺一樣的人” 

と言うのですが、私は一瞬、「茶つぼ」のような人?と思ってしまいました。
(急須、が正解ですね)
危ない、危ない…
(大体、茶つぼのような人ってどんな人よ…きんどーちゃん…か?)↓
http://dic.pixiv.net/a/%E3%83%9E%E3%82%AB%E3%83%AD%E3%83%8B%E3%81%BB%E3%81%86%E3%82%8C%E3%82%93%E8%8D%98 
(「マカロニほうれんそう」、懐かしい)

そこへ仔ブタ陛下がやってくるので、貞児は仔ブタちゃんの一番好きな人は誰? と聞きます。

そこでなんで、雪舞は気まずそうな視線を仔ブタに送るんだか…
この思わせぶりな演出も、ちょっとどうかと思う。

宇文邕も貞児の前では穏当に、雪舞に治療の礼を述べたあと、

“跟朕去一個地方”
(案内したい場所がある)

このセリフと雪舞のこの表情、第15話で蘭陵王が雪舞を散歩に連れ出すときに言った、

“有一個地方 我一定要帶你去”
(君をどうしても連れて行きたい場所がある)

というセリフと、そのときの雪舞の表情を彷彿させますね。

二人が向かった先は皇帝の書庫。なぜか蘭陵王が先回りして戸口に立っています。
(まさか尾行してる訳でもあるまいに、どういう野生の勘なんだか…
宇文邕とお互い、センサーでもついてるのかしら)

掃除をする宮女たちの噂する、天女という言葉に敏感に反応する蘭陵王。
このあからさまな反応を気にも留めず(ってかワザと?)、皇帝と天女のラブラブっぷりを開陳する近衛軍同僚の二人。いいんですか、そんな、雇い主の個人情報をさらしたりして…。
人生、積みますよ?

そこへ皇帝と天女のお成りです。

積み上がるお宝本(と竹簡)を前に、雪舞は大興奮です。

セリフに出てくる
《化物総要》
《考工記》
《九章奇巧》

以外にも《斉民要術》などの書名が確認できます。

どれもこれも、失われたと言われていた貴重書だわ!と言ってますが、《考工記》《斉民要術》は現代まで伝わってる実在する書物です。前者は、戦国時代の斉で書かれた手工業関係の技術書、後者は蘭陵王パパの時代に書かれた、今でいう農業・畜産の技術書です。
後者の方は、このすぐ先の回でまたご紹介する機会があるでしょう。

《九章奇巧》という本はたぶんないですが、《九章算術》は現存する中国最古の数学書なので、そのあたりから名前をとったのでしょう。いずれにしても、雪舞が喜びそうな本です。

宇文邕はこともなげに、これは蔵書だから好きなだけ持ってって、みたいなこと言っていますが、書籍は当時から大変に貴重なものでした。

それが貴重書ともなれば考えられないような値段がついており、その金喰い虫ぶりを称して、

“三百六十行生意,不如鬻書於毛氏”
(どんな商売よりも、毛さんに本を売るのが儲かる)

という言い回しがあったくらいです。毛さんというのは明代の蔵書家・毛晋〈もう しん〉のことで、金に糸目を付けずに本を買ったと言われています。

雪舞は、写すからいいわ、と言ってますが、コピー機なんかなかった当時、写本というのも大変な作業でした。

第6話(→こちら)で瞬時に蘭陵王の弱みを把握した宇文邕。雪舞の好みを掌握するのも「手のひらを返すように簡単」なはずです。

趣味が同じなのはお付き合いの上でとても大事ですよね。
当然、話は盛り上がっております。

それを障子の影から覗いてる、カワイそうな蘭陵王は忌々しげにつぶやきます。

“好皇帝又怎麼樣”
(良い皇帝がどうした)

おや、四爺様、ついに負け惜しみですか...。
負け〜て悔しい花いちもんめ♪
(グリグリと塩を擦りこんでみたり)

ちなみに、「負け犬の遠吠え」を中国語で言うと、本当は“虛張聲勢”とかになるんでしょうけど(いやむしろこの語の意味は「ハッタリをかます」かしら)、最近は日本のアニメとかマンガとかドラマとかでどんどん日本の「漢語」が入ってきていて、いちいち訳すのがメンドくさいのか、“敗犬的遠吠”って、本のタイトルなんてもうそのまんま。

意味分かんのかな、これで。

と思ったら、全然心配する必要なんかないらしく、

“敗犬女”

って言葉もあるみたい。要らん事、よくご存じだこと。

ってことでこれは女性にしか使えないらしいので四爺は残念ながら除外ですが(“残念”って言葉も中国語になってるらしいですね。“很残念”って用法、何か笑っちゃいます)

“留在周國吧”
(周に残ってくれないか)
というセリフを聴いたときの、ものすごくショックを受けてる四爺のリアクションが最高です。続いて、

“不行,我拒絕”
(ダメよ お断りだわ)

“是因為蘭陵王嗎?”
(蘭陵王がいるからか?)

このやりとりを聞いている四爺の安堵したというか、ちょっと得意そうな顔がいいですね。

だけど、安心しちゃダメだと思いますけど。
雪舞はニッコリはしていますが、実はこの問いに直接答えてはいません。

“朕是皇帝 朕可以給你一切”
(朕は皇帝だ)

“比你做一個小小的王妃 要得到的多”
(王妃などになるよりも、得られるものは多いぞ)
自分だって名ばかり皇帝で、いつも宇文護の尻に敷かれている(とは言わないか、この場合?)くせに、なに強気なこと言っちゃってるのでしょうか。

ほら、ごらんなさい、雪舞だって思いっきり呆れています。

“我怎麼可能以我能得到多少來決定我留在哪裡呢”
(どこに居るかは得られるものの量で決めるわけじゃないわ)

あなたには「愛」は分からないに決まってる、という雪舞に、宇文邕は、
“男歡女愛 食色性也 人之必然 有何難懂”
(睦みあうこと 食べることは人として当然の行いだ 分からぬはずがない)
と、反論しますが、雪舞は、

“真正的愛情啊 是要交心的”
(本当の愛情はね 心のやりとりなのよ)

と答えます。

このセリフのあとの四爺の表情もいいっすね。

雪舞は具体例を挙げて説明します。たとえば気が晴れないときは、

“像我呢,我就會捏捏我心愛的人的臉 罵他幾句”
(私だったらね、大好きな人の頬をつねって、悪態をつくのよ)

こう言われると、雪舞が言う悪態ってどんなのか、知りたくなりますよね。
(前回、誰かさんは「この色魔」とか言われてましたっけね)
ドラマでは答えが出てこないんで残念です(あ、雪舞から四爺にはあるか。それは第18話のお楽しみですね)

ちなみに、中国では仲良し夫婦ですと、
“臭老婆”(クソBBA)
“去死的”((死に損ない)
などと呼び合うことは珍しくありません(いや、ホント…)

このような会話を聞いた周りの人は、
「まぁ〜微笑ましいこと」
「仲のおよろしいことで」
と冷やかすのがデフォルトです。

いえ、軍神と天女がそのように呼び合っているという意味ぢゃございません!
誤解なきように。

しかし、ここでなぜか得意そうな顔の四爺が映ります。
テレビで見ると、宇文邕たちがいる部屋の中と、四爺の立ってる外はつながってるんだけど、
当然別々のタイミングで撮っているんですよね。
撮影シーンの様子を想像すると、何かマヌケな感じで笑える…。

後宮に三千人の妃がいても、そのうちの誰かを‘心肝小寶貝’
(かわいいベイビーちゃん)
って呼んだりはできないでしょ?と指摘する雪舞に、仔ブタ陛下はものすごく真面目な表情で、

“那蘭陵王也是王那他就會讓你捏捏他的臉叫他心肝寶貝啊”
(蘭陵王も王であろう。そなたに頬をつねらせて「かわいいベイビーちゃん」と呼ばせるのか)

このトンデモ質問に、雪舞が即答した、

“那當然”
(もちろんよ)

って答えに驚く蘭陵王。

いえ、あなた様ばかりでなく、視聴者も驚いてるんですが、いつの間にそんな事に?
何話か見逃したんでしょうか?あるいは雪舞お得意の

ハッタリ君?

暴露証言が出たその夜、このままにしとくとやっぱり仔ブタに取られてしまう、と野生の勘で悟ったのか、はたまた、これ以上雪舞の口から内情(笑)がバレるとヤバいと思ったのか、四爺は直接、雪舞の部屋を訪ねます。

つか、宮廷内なのにお付きの人も誰もいないなんて、蘭陵王府並みに不用心ですよね、ここ。
…まさか、周りの人たちを全員なぎ倒して…ぶるぶる。

雪舞も危険を察知したもようで、蘭陵王に向かって
“原來你是個變態”
(あなたって人は、実は変態だったのね!)

と吠えたてますが、ヘ、ヘンタイって…。
ああ、ここにも人生積んだ人が…。

ちなみに、中国語にも元々“変態”って言葉はありますが、この“變態”(ってどのヘンタイ?)日本からの借用語らしいですね。

つまり、“很残念”なことに、ヘンタイって称号は、「古代にないもののNG」に付け足すべき事項だったんですね〜(例のツッコミ番組の続編作ったら、ぜひ追加していただきたいものです)

日本のアニメ、ドラマが大人気の中国圏では、他にも日本由来のヘンタイ用語が多数流通しております。どんなものがあるのかは、テストに出るので調べておくように!

では、次回はこのネタからお会いしましょう。

莎喲娜拉 (shayonala),再見!

第17話→こちらに続く!
posted by 銀の匙 at 01:44| Comment(10) | TrackBack(0) | 蘭陵王(テレビドラマ) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年04月17日

春なのに 春だから

皆さま、こんばんは。

こちらには、テレビドラマ《蘭陵王》の関連記事として、バラエティー番組《大牌駕到》からアーロン・クォック、ウィリアム・フォン、小瀋陽、ヒム・ローが出演した回をご紹介しておりました。

第16話の紹介記事が完成しましたので、内容はそちらに移動いたします。
(→ こちら)

ご興味のある方は、どうぞ第16話をご覧ください。

よろしくお願いいたします。


posted by 銀の匙 at 03:02| Comment(4) | TrackBack(0) | 蘭陵王(テレビドラマ) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする