2016年08月18日

蘭陵王(テレビドラマ30/走馬看花編 第18話)

皆さま、こんにちは。

不肖わたくしは違いますが、世間様は楽しい夏休み。
帰省する方もいらっしゃれば、
旅行する方もいらっしゃるかも知れませんね。

どうせなら遠くに旅したいなあ、と思われた皆さま。
実は、日本にいながらにして、1400年前の北斉にトリップできる場所があるのですよ!

ってまたまた〜、レンタルDVD屋とかっていうのがオチなんでしょ?とお疑いを受けるのは、これまでの実績からして当然の報い(?)ではございますが、いえいえ、ちゃんとリアルなものです。

ひょっとしたら夏休みを利用して都内にいらっしゃる方もおられるかもと思い、急いでエントリーしました。なので、この記事はあとから内容を追記させていただくことがあるかと思いますが、とりあえず。

なお、私が知ってるのは東京のスポットだけですが、ちゃんと調べれば、日本で他にも北斉気分を体験できるところはあるのかも。

と、思わせぶりな前ふりから早速まいりましょう、第18話
なお、前回の第17話は→こちら から、蘭陵王関係のエントリーをご覧になりたい方は→史実編 または→蘭陵王のカテゴリー からご覧ください。

*

斉国の皇子・蘭陵王〈らんりょうおう/Lanling Wang〉=高長恭〈こう ちょうきょう/Gao Changgong〉=四爺〈スーイエ/Si Ye〉との婚儀を間近に控えながら、敵国・周の皇帝=宇文邕<うぶん よう/Yuwen Yong>=「余を仔ブタと呼んでも良い」陛下の、姪のやまいを治してほしいとの懇願にほだされ、周の宮廷に赴いた、天女・楊雪舞〈よう せつぶ/Yang Xuewu〉。

ミッションを無事果たしたうえ、宿敵であった宇文護を除くことにも貢献した天女に、宇文邕はますますメロメロです。

しかし、近衛兵に身をやつして密かに雪舞を見守っていた蘭陵王が、横取りを許すはずもなし。

国境近くまで2人を追ってきた宇文邕は引き際に、3年の間は斉を攻めないと約束し、停戦協定書を手渡します。

蘭陵王は「斉の民に代わって感謝する」と、それを受け取るのですが…


*

さて、爽やかに晴れました北斉の都・鄴〈ぎょう/Ye〉の朝。
時の皇帝・武成帝の御前で、四爺が停戦について報告しています。

古代、皇帝の御前での会議は、今みたいに午後いちでミーティング、って訳じゃなく、「朝議」という言葉がありますように、朝行われていました。

朝っていってもいろいろありますが、真面目な皇帝だと「日の出」に設定したため、都の端っこに住んでる大臣とかは参内するのに夜明け前から支度しなくちゃいけなかったらしい。

とはいえ、普通は「卯の刻〈うのこく〉」(朝6時くらい)に設定されていたらしく、出勤することを“応卯”といい、そのとき、ちゃんと出勤してるかどうか点呼を取るのを“点卯”といいました。

なので、今でも点呼や出勤時にタイムレコーダーを押すのを“点卯”といったりするそうです。

まさか6時出勤じゃないとは思いますけど…。

ってことで皆さん早起きして参集しておられる中、蘭陵王は宇文邕から預かった停戦協定を渡します。

皇帝はいちおう喜んでくれているのですが、でも普通、臣下が停戦協定なんかいきなり持ってきたら疑わない?

そもそも、毎朝“点卯”してるはずなのに、突然1か月無断欠勤したわけでしょう、弟の安徳王〈あんとくおう/Ande Wang〉=高延宗〈こう えんそう/Gao Yanzong〉=五爺〈ウーイエ/Wu Ye〉に託して説明はしたんでしょうけど、一体何て言い訳したのやら。

そんなの、本当の事を言えばいいじゃないか…とお思いでしょうが、王、王妃の身分で勝手によその国に滞在したり、あまつさえ、ディズニーランドに行ったりしたら、エライ人の逆鱗に触れるに決まっています。

しかも、この回にも出てきますが雪舞は婚礼を控えた身、親族の男性にだって接触してはいけないのですから…

そこへもってきて突然の停戦協定。使節として赴いたわけでもないし、ましてや皇帝でもないのに、蘭陵王に受け取る資格があるんだろうか…。

と、祖珽〈そ てい〉がこの場に居たら絶対ツッコんだと思うけど、誰も気が付かないのか華麗にスルーされているので仕方ありません。

皇帝はこのめでたい報せを御仏に感謝するため、寺院を建立しようと言い出します。

四爺が民の負担を思って難色を示すと、皇太子の高緯〈こう い/Gao Wei〉は「民の教化のため」「父君は頑固な頭痛を患っているが、仏寺を建立して軽快している」と言い出します。

ここで段紹〈だん しょう/〉太師が反対の理由として持ち出した、わが国では10人に1人が出家している、という話はあながち大げさでもなかったらしく、隣国・周でも同じ理由で困っていたようです。

史実の宇文邕もドラマ同様、神仏の祟りを恐れず「廃仏」を行いますが、おかげで後世の評判はさんざんで、「三武一宗の法難」なんて山○世界史の教科書にまで載っており、21世紀の日本の受験生からさえ、暗記の負担を増やしやがって…と呪われる始末です。

ちなみに「三武一宗」とは、中国史を通して仏教徒を迫害した4人の皇帝のことで、北魏の太武帝、北周の武帝、唐の武宗、後周の世宗のこと。

寺院を建立して今、民に恨まれるのが嫌か、
廃仏をして後々ワールドワイドにdisられるのが嫌か、
微妙なチョイスですね。

ともかく、この場は寺院建立を皇太子に任せることが決まり、蘭陵王には婚礼の祝いの品として、大玉圭〈けい〉一対が贈られます。

圭はオベリスクのような形をした平たい礼器で、それ自体になにか効能があるわけではありませんが、古くは伝説の帝・禹〈う〉が、治水で功績を挙げた功績により贈られたといわれる、由緒正しきお品です。一説には、長さを測る工具を象り、国を治める決まりを象徴しているとも言われます。

ご興味のある方はこちら↓の解説ビデオをご覧くださいませ。
http://v.youku.com/v_show/id_XMjk2MDEwMDg=.html

ということで、着々と婚儀の外堀が埋まっていくのですが、現代の庶民の結婚式さえ様々なしきたりが残ってるくらいですから、当時の婚礼の煩わしさは想像に難くありません。

蘭陵王のお屋敷には中央官庁から、儀式を司るお役目の官女たちが派遣されてきます。

s-LBSN.jpg

このお帽子がインパクトありますよね。少し形は違いますが、唐時代の俑(よう:土でできた人形)にも似たものがあります。

s-reibu.jpg

4人はシンクロナイズドスイミングのように隊列を崩さず、入口で馬を洗っている下女に取次を頼むと、相手は挨拶もせず、マナーが全然なってません。

当然、礼部の人間としてはムカついています。

“早耳聞 四王爺待下人 太過ェ厚”
(かねがね 第四皇子殿下が 下々の者にお優しすぎるとは聞いていた)

“府上規矩 日漸松散”
(お屋敷の規律は 日ごとに緩んでいるとね)

“今日一見 果然 就連一個小丫鬟都這麼無禮”
(今日来てみれば 噂通り 卑しい下女まで無礼千万)

“聽說 這天女王妃 也是個不守禮法之人”
(聞くところでは この天女の王妃さまも 礼儀をわきまえぬお方とか)

“你們還記得嗎 皇上首次召見她”
(覚えておいでか 陛下に初めて拝謁した折に)

“她竟然為了一介百姓 讓皇上苦候多時呢” 
(一介の民草のために 陛下を長いことお待たせしたお人)

“無論如何 我們身負皇命” 
(我らは陛下からのご命令に従い 何としてでも) 

“定要讓四王爺的大婚”
(第四皇子のご婚礼を)

“一切按照禮法祖制而行
(代々のしきたりに則って進めねばならぬ)

一介の民草のために、陛下をお待たせした...とは、第11話(→こちら)で周との戦いから凱旋した折、わらじを縫って欲しいと頼まれて雪舞が参内に遅刻した、あのエピソードですよね。

もう7話も前のこと、ホントいつまでもくどくどと…。

しかし、しきたりを大事にする人たちには前例がとても大事なので、記憶力もいいのかも知れませんよね(棒読み)。

強権発動する気まんまんで家令に取り次いでもらってみれば、さっきの無作法な小娘が王妃殿下とは。

宮女四人は地面に這いつくばってはいますが、内心どんな悪態をついているか、知れたもんじゃありません。
それでもさすが言葉遣いは、

“有眼無珠”
(目が節穴でございました)

と殊勝なことをおっしゃっておられます。

こんなに礼儀にうるさいくせに、エライ人の前で帽子も脱がないのは不思議なんですが、当時の中国では帽子(冠)を被ってることが身分の証であり、礼儀だったんですね。その辺はおフランスと違います。

そして、這いつくばったが最後“平身”(おもてを上げよ)と言わないと、そのまんまらしいです。いつまでも言わなかったらどうするんだろう…?

みたいな実験はさすがにやらない雪舞ですが、それをいいことに、礼部の皆さんは公務執行に熱心なご様子です。職務柄ではあるのでしょうが、いったいナゼ?

と思っていると、宮女たちはググッと近づき、雪舞の髪型を整えると提案します。そしてその理由は、

“梳結鬟式髮式”
(結いあげたおぐしは)

“透露出巍峨瞻望的高貴”
(仰ぎ見るべき高貴なご身分を表します)

はい、そうですね。
たかが数十年の王朝で「代々のしきたり」なんて片腹痛いわ! と思ってしまいますが、たかが数十年だから、余計マナーにうるさいのです。

例えば、ヴェルサイユ宮殿。

あなたが王妃さまだったとしましょう。

ちょっと喉が渇いたから、水を飲みたい。

と、思っても、そこらのメイドさんを呼んでコップを持ってこさせる、みたいなことは出来ません。

王妃の用事を直接聞く侍女→水を持ってくる給仕係→台所に行く係→台所で水を汲む係…

と、バケツリレー状態でようやく水が届きます。

着替えともなれば、下着を渡す係と衣装を渡す係がバラバラなうえに、その場に身分が高い人が居合わせれば、その人が王妃に下着を渡す役を務めなければなりません。

かくして着替えもバケツリレー状態で、冬にそんな目にあったマリー・アントワネットは凍え死にそうになったとか。

あまりにもバカバカしく感じたのでしょうか、彼女は宮殿の女主人になるや、これらのしきたりを廃止してしまいます。それが悲劇の引き金になるとも知らずに....。

一方、蘭陵王府のばらは、まだ人の言いつけを聞かなければならない身分。

礼部の宮女たちに、
“不能留下一點話柄“
(物笑いの種になるようなことは避けなければ)

四王爺のために、と言われちゃうと、従う以外ないですよね。

“禮部侍女 真是出了名的難纏呢”
(礼部の女官は名うての手ごわさだわい…)
と、家令の王さんもタメイキです。

一方こちらはお気楽な四爺五爺ご兄弟。

なんで馬車に乗らずに歩く、皆に注目されるのが好きなの?

と五爺に聞かれて四爺は、しばらく都に帰ってなかったから懐かしい的なこと言っていますけど、庶民の街をこんなタカラヅカみたいなカッコして歩いたら、物見高い人々に取り巻かれて前に進めるわけないと思うのは私だけでしょうか。

黒マスクで変装して21世紀の上海を歩いていたって、スター様はパパラッチに追い回されているというのに、1400年前の娯楽に飢えてる田舎町で皆が見て見ぬふりしてくれるなんて、あり得ないでしょう!

しかし、あの兄弟にかかわったらヤベっ!と思われているのかエキストラの教育が行き届いているのか、道行くギャラリーからむしろ避けられてるような雰囲気の中、四爺は、

“看看有什麼好玩的東西 賣給雪舞啊”
(何か面白いものを 雪舞に買ってあげようと思って)

と言います。
 五爺が、兄上はいつも未来の“四嫂”(四兄のヨメ)の事を思ってるんだな、
とからかうと、嬉しそうにするのが良いですね。

“其實我就喜歡你四艘 無拘無束的性格“
(私はお前の義姉上の 何にもとらわれない性格が好きなんだ)

“比那些講究繁文縟節的大家閨秀 強多了。”
(些細な建前ばかり気にする良家の令嬢なんかよりずっと良い)

答える五爺の言葉を借りれば、このドラマの力関係は、

尉遅迥〈うっち けい〉<宇文邕〈うぶんよう〉<雪舞(せつぶ)

ですが、最上級はどうやら、

<礼部の官女

だったみたいですね。

二人が息抜きから戻ると、お屋敷には早速彼女たちが待ち構えています。

その「すぐやる」ぶりに、もう来たのか!と驚く四爺。

“四王爺 五王爺 請安”
(第四皇子、第五皇子にはご機嫌うるわしく)

と、お作法に則った正式な挨拶を受けると五爺は、

“在府內 叫五爺就可以了”
(屋敷では五の若様でよい)

と返します。すると官女は

“祖法禮制不可輕廢 侍女不敢造次”
(古くからのしきたりを 私めが軽々しくやめることはできません) 

と言います。

つまり、これまで聞きなれていた“四爺”“五爺”というのは実は簡素な呼び方で、正式には“四王爺”“五王爺”と呼ばなければならかったということですね。

さすがに“王爺”は皇族にしか使えませんが、“四爺”“五爺”なら、大店の坊ちゃんなどにも使える呼び方です。

ばらは何て呼んでもばらの香りがするとは言うけどね...と思っていると、そこへ突然チェブラーシカ登場…

当然、お気楽兄弟には大受けしています。
アシナ皇后の髪型ほどじゃないですが、この時代の髪型はまさに凶器ですね。
s-髪型.jpgs-髪型1.5.jpgs-髪型2.jpgs-髪型4.jpgs-髪型6.jpgs-髪型7.jpgs-髪型8.jpg

全力でよけて〜っ!

ホント、妙な髪型ですが、実は日本でも当時のヘアスタイルの様子を知ることができます。
こちらの↓ 俑〈よう〉は、東京国立博物館所蔵の唐代のものですが、
s-IMG_7515.jpg

そっくりですよね。

これから毎日この髪型なんで、慣れてくださいって言われてもな…という顔をしている雪舞の手をひっぱって、サラメシならぬ王爺メシに移行する蘭陵王ですが…。

このちゃぶ台、ちょっと低くないですか?

セットの作り方間違えてるんじゃないかしら。

そうかと思うと、五爺はちょうどよさそうなんだけど…

よく見ると全員、ちゃぶ台から上の高さがバラバラ(笑)
きっと全員、座り方がバラバラなのに違いない。

なんか急に掘りごたつ式じゃない居酒屋に座らされちゃった外人招待客みたいな面持ちで、雪舞は食事時に後ろに誰か立ってるのって慣れないわ、とほっぺを膨らませています。

五爺は、
“金枝玉葉 王妃都是如此”
(高貴な王妃さまとはこういうものなのさ)
と相変わらずからかいモード。

《金枝玉葉》といえば、『君さえいれば/金枝玉葉』って、ベタなタイトルの香港映画がありましたよね。この映画では「至高の」という意味で、別に王族は出てこなかったと思うけど、香港では『ローマの休日』を《金枝玉葉》と訳しています。

さて、セレブリティな雪舞さまですが、危なっかしい手つきで青椒肉絲っぽいおかずに手を伸ばすと、「同じおかずに4回箸をつけてはなりません。」と官女の指導が入ります。

理由が「好みを知られると毒を盛られるから」

ってそんな、全部に毒入れられたらどうすんのよ。

仔ブタ陛下なんて、唯一のスープに毒を盛られたんだから、逃げようがないじゃないですか。

まったくこういうルールって...と呆れていると、さすが“上有政策、下有対策”(上に政策があれば、下には対抗策あり)のお国柄、皇子自ら、

s-18.jpg

“這是本王夾的。不違反祖制吧。”
(これは余が箸をつけたのだ。しきたりには反していまい)
ってそんなヘリクツ…。

と思ったら、引き続き、第6話の阿怪を彷彿とさせるおかずあげっこ合戦が始まってしまいます。
なんだか和気あいあいで楽しそうですよね。

やっぱり、煩い礼儀作法なんかやめた方が…と思ってしまいますが、本当にそれでいいのでしょうか。

ではここで、もう一度ご登場いただきましょう。
ベルサイユに咲く可憐なばら、マリー・アントワネット王妃様!

史実の彼女はわずか14歳で、母である女帝マリア・テレジアの君臨するオーストリアから、ルイ15世が君臨するフランスへ嫁いで来ます。

ヴェルサイユ宮殿では何をするにも事細かに作法が決まっており、当時皇太子妃だったマリーは辟易していたそうですが、彼女がとりわけ嫌ったのは、見物人の前で食事をするというしきたりだったと言います。

当時、地方から宮廷を訪れる人は、王や王家の人々の食事風景を見物するのが楽しみだったんだそうです。

旭山動物園じゃあるまいし、

もぐもぐタイムかよ!?

と、外国から来た皇太子妃は相当ムカついていたようで、夫のルイ16世が即位し王妃となるや、次々としきたりを取りやめてしまいます。

事細かに厳格に守られたこれらのしきたりは、当然、ブルボン王家に代々伝わる格式のあるマナーかと思われるでしょうが、実際にはその多くは、太陽王・ルイ14世の時代に定められたものでした。

そう、煩いマナーは、絶対王政の身分制度の厳格さを下々の者に思い知らせるために作られたのです。

つまり、礼部の宮女たちの言ってることはいちいちごもっとも。
さしたる能力もないくせに自分の絶対的な権威を認めさせたいのなら、しきたりの守り手であることを、常に誇示していなければならないのです。

さもないといつかは貴族や庶民にナメられ、断頭台に一直線です。

若者がついつい校則を破りたくなってしまうのも、校則を絶対破らせまいという人たちがいるのも、その延長線上なのかもしれません。

制服の裏に龍虎の刺繍をしてみたり、古代中国の衣装に肩モールつけてみたりのささやかな抵抗は、無意識のうちに相手の設定した権威に逆らおうという本能の表れなのでしょう。

さて。

ありがちな学園ドラマのラストシーンみたいに、手に手を取って、お屋敷を抜け出す二人。

でも残念ながら、ドラマはここでハッピーエンドって訳じゃない。

踏雪の迷惑も顧みず、(横幅が)大物な将軍と王妃は、2人乗りして街を出ていきます。

大向こうから“四爺!”と声がかかると、ファンの声援かしらと思い込む、このバカップルを何とかしてください、

楽しそうな2人のドライブに声を上げたのは…

蘭陵王を陥れる計画に利用された、元皇后の元侍女、鄭児〈てい じ/Zhen Er〉。

官奴として彼女が働かされていたのは、皇太子が差配する寺院の建築現場。

このシーンを観て、つい、おおっ! と声が出てしまいましたが、この第18話の最初のシーンで皇帝が「寺院を建立する」と言ったとき、私は唐招提寺みたいな木造の建物を作るんだとばかり思っておりました。

そうそう、この時代に作られていたのは、石窟寺院なんですよね。

特に北魏の時代から、北斉になっても延々と作られていた「龍門石窟」は現在世界遺産に登録されているほどです。

当時これを造らされた人から見れば、貴重な財産と労力を費やしてこんなもの、バッカじゃね?と思うのは当然ですが、結局何百年かの後に、子孫に観光資源を与えてくれるのもこういう無駄遣いな訳で、どうせやるならとことんやった方がいいんじゃないかな...? と、現在進行中の壮大な無駄遣いを負担しなければならない都民の端くれとしては、北斉の皆さまの胸中お察し申し上げますでございます。

石窟寺院には壁画や彫刻が収められており、中国の彫刻芸術の頂点にあったのは、南北朝時代と言われています。なんせ需要がありますもんね。

東京では、雪舞のヘアスタイルのフィギュアをみることができる、上野の東京国立博物館(東博)や、青山の根津美術館に、北斉時代の彫刻が展示されており、間近に見ることができます。

こちらは東博の菩薩立像。

s-tohaku2.jpg

説明書きを読むと…
s-tohaku1.jpg
なんと北斉の文宣帝のために造られた像です。

お次はファッションの街・表参道駅から歩いて10分ほどの、根津美術館。エントランスに飾られておりますのは、

s-IMG_6997.jpg

北斉の塑像の数々。

s-IMG_6999.jpg

ってことで、博物館に行けば今でも簡単に北斉の人に会うことができるのです!

しかも、世界史の教科書で、ガンダーラ仏の写真などをご覧になった方はご記憶かと思うのですが、彫られているものは仏さまとはいえ、モデルはやっぱり現地住民でしょうから、顔つきが土地土地で違います。

「鎌倉や 御仏なれど 釈迦牟尼は 美男におわす 夏木立かな」

と与謝野晶子さんも詠んでいますように、仏さまによっては、現地の人の理想のタイプが反映されたお顔立ちのものもあるはず。

南北朝の歴史について書かれたこちらの本の表紙↓ もそうした彫刻の1つなんでしょうけど、「蘭陵王」ってこんな顔だちだったんじゃないかな…と私は密かに考えております

s-図説中国文明史 魏晋南北朝.jpg
『図説中国文明史5 魏晋南北朝』(創元社)より

今、この表紙の塑像に似てるタイプの人っていえば、例えば、北方男子代表の井柏然〈ジン ボーラン/Jin Boran〉とか…。
s-s-井柏然.jpg

彼が今、ウィリアム・フォンが別れたニーニーさんのステディだということなので、そこにも何となくご縁を感じる...

いえいえ、そんなゴシップ、どうでもよいのですが、この時点で仲良しも頂点の軍神と天女は、第9話で登場した蘭陵王の幼少期の家で、おままごとのような生活を始めます。

“從現在起 我不是爺 也不是蘭陵王”
(いまから、私は皇子でもないし、蘭陵王でもない)

“妳呢,也不是天女 也不是王妃”
(君も天女でも 王妃でもない)

そういう蘭陵王をからかって、雪舞は言います。

“看你這麼一副氣宇軒昂 炯炯有神的樣子”
(気品があって堂々としていて、目力のある立派な風采だから…)

“我就叫你 阿土”
(あなたのことは、「阿土」って呼ぶわね)

ここ、笑うとこですから!

“阿〜”っていうのは、親しみを込めて相手の名前につける言葉で、日本でいえば「おしん」の「お」にあたります。

で、「おしん」とかと同じく、“小〜”“老〜”なんかに比べると、やっぱりちょっとダサい雰囲気。

それでもって、“土”とは、田舎くさい、ということ。

“土土的 tu tu de”は「超田舎くさい」

“阿土 A Tu”は「田舎っぺ」

と、そういうことです。

こんなこと言われて田舎っぺ大将軍はどういうリアクションかと思えば、

“好,我看你一副冰雪聰慧的樣子”
(よろしい、じゃ、とっても頭がよさそうだから)

“ 我就叫你 冰兒。怎麼樣?”
(君のことは“氷児”と呼ぼう。どうだい?)

“冰兒 Bing Er”という名前自体には特別な意味はないですが、蘭陵王の言った“冰雪聰慧”という言葉から連想されるように、賢い、頭が切れるというイメージがあります。

日本のスマホのサービスに、女子高生AI(?)がお友達になってレスを返してくれる、「りんな」というのがありますが、中国ではそれに先立って同様のAIが開発されており、名前はずばり、「小冰」ちゃん。

命名の由来は分かりませんが、一般に賢い美少女が連想されるんでしょうね、きっと。

なので雪舞は、

“你怎麼不取一個難聽點的名字。我就叫你阿土呢”
(なんでもっとヘンテコな名前にしないの。私はあなたを“阿土”って呼んでるのに)

と抗議しますが、

“冰兒不是很好嗎。冰雪聰明 就這樣”
(氷児はいい名前だろ。頭が切れて賢い。決まりだ)

“你明明知道我會內疚。不不不 我叫阿草好了”
(私がやましい思いをするって知ってるくせに。だめだめ、“阿草”がいいわよ)

“阿草 A Cao”にも決まった意味はありませんが、「民草」というように、草には取るに足りないもの、という意味があり、また、「草書」という言葉があるように、いい加減とか大ざっぱという意味もあります。どっちにしても、カッコ悪い名前には違いありません。

四爺は、そんな名前で奥さんを呼ぶなんて嫌なのか、全然取り合ってませんね。
優しいのね。はははは。

そんな二人の夜ご飯は麺料理。
北方中国の主食は小麦なので、庶民の主食は今でも麺料理が中心です。
お焼きやクレープ、マントウ、麺など、外でも売ってますが、家庭でも普通に粉から作ります。

さすが、粉もん文化の発祥地!

しかし、阿土は浮かない顔をしています。

皇帝からお叱りを受けたのか、周が攻めてきたのかと気をもむ氷児に、
「めんどりが半日も卵を産まなくて…」と答える阿土。

そんなこと、と呆れる氷児に阿土は答えます。

“民以食為天 老母雞不下蛋 對我來說 就是最大的事了”
(民は食を以って天と為す。めんどりが卵を産まないのは
私にとっては一番の問題だ)


いやいやそれより私ども視聴者は、あなた方の衣装の方が問題なんですが、この服装はまさか例の…。

s-18-3.jpg

s-18-4.jpg

しかし、すでに第10話は遠い過去になってる蘭陵王は、阿土丸出しでしゃべっています。

“我現在是阿土 管她誰當皇帝啊”
(今の私は阿土だよ。誰が皇帝かなんて関係ない)

漢文を習われた方ならピンと来るでしょうが、ここの台詞は、中国で古代から理想とされる政治について話しています。

《十八史略》にこんな話が載っています。

伝説の皇帝・堯〈ぎょう〉は、仁と徳を備えた立派な皇帝でしたが、即位して五十年、果たして自分がきちんと天下を治めているかどうか、疑問に思っていました。

そこである日、お忍びで町中に出てみると、歌をうたう老人に出くわします。

ここを原文でみると…

有老人、含哺鼓腹、撃壌而歌曰、
(老人あり 哺を含みて腹を鼓し、壌を撃ちて歌いて曰く)

日出而作 日入而息 鑿井而飲 耕田而食
(日出でて作し 日入りて息う 井を鑿ちて飲み 田を耕して食らう)

帝力何有於我哉
(帝力何ぞ我にあらんや、と)

老人がいた。
食べ物をほおばりながら腹鼓を打ち、地べたを踏み鳴らして歌うには、

日が出たら働き、日が沈んだら休む 井戸を掘って飲み、田を耕して食う

皇帝さまなんか わしに何の関わりもない

ここから「鼓腹撃壌〈こふくげきじょう〉」(よい政治が行われ、人々が平和で楽しむこと)という言葉ができました。

これは、「上善〈じょうぜん〉 水の如し」と一緒で、理想の政治は淡々として、無為〈むい〉であるべき、
という考え方に基づいています。

しかし、無為とは言ってますが、帝堯も太陽のような仁徳の持ち主ということで、率先垂範したので天下が泰平だったのです。

つまり、庶民の知らないところで、ハクチョウは水かきをしなくちゃ、ダメなんですよ。

いにしえの聖帝・堯とと同じ場所に国を構えた斉の皇子のくせに、♪おいらにゃ関係ねぇ♪ なんて庶民みたいなことを言ってどうするの。

そのブーメランは同じ放送時間内にたちまち返ってくるのですが、それはそのとき見るとして、一方の石窟寺院。

埃まみれの現場で、ズタボロになりながら働いている鄭児。

第17話までは、蘭陵王と宇文邕の動向が交互に描かれることが多かったですが、この第18話からは、いよいよ楊雪舞と鄭児が交互に描かれるようになっていきます。

鄭児を演じているのは、毛林林〈ニキータ・マオ/Mao Linlin〉さん。
ドラマではあまりに美人で近寄りがたい雰囲気ですが、
素顔は小粋なパリジェンヌっぽい、とてもキュートな女性です。

ということで、以下のインタビューは、ぜひ映像もご覧ください。
こちら

*

いま「蘭陵王」が放映されている関係で、たくさんの視聴者の方からいろいろなご意見をいただいてます。

このドラマはきっと人気が出るだろうとは思っていたんですけど、
ここまで熱心に観てくださり、反響が大きくなろうとは予想外でした。

いろいろなご批評について、私は聞かない、見ない、考えないというタイプではありません。
逆に、きちんと読んで、考えています。

なぜなら、視聴者の皆様が私にくださるご意見はとても大切ですし、的を射ていると思っているからです。微博には、私の至らない点について長大な論考の形でご指摘いただいている記事もあり、心から感謝しています。

ドラマに入り込んでしまって、リアルな事として受け止め、実際の私も鄭児のような人だと思っていらっしゃるご意見は、笑って見過ごせばよいのですから。

実は憎まれ役はこれがはじめてではなくて、賀軍翔〈マイク・ハー/He Junxiang〉と共演した《加油媽媽》(がんばれ、ママ)でも演じています。一度経験があるので、淡々と受け止めようという心の準備もしっかりできているんです。

それに、今ドラマはちょうど中盤。最後までご覧いただければ、どの登場人物についても、新しい見方をしていただけると信じています。このドラマでは誰もがそれぞれの辛さと悲しみを抱えているということを。

もう一度演じるチャンスがあったら、私はまた鄭児の役を選ぶと思います。私は彼女がとても愛おしいと思うし、すごいとも思う。愛のために全世界を敵に回す勇気を持っているんですから。

−鄭児は愛のために間違った道を選んでしまいました。 もしあなたの親友だったら、どうしますか。

すぐに止めます。
“硬拆一座廟 也不毀一椿姻緣” (祠を壊すことはあっても 夫婦の縁を壊してはいけない)とかって言いますけど、
もし一人の男性が世界のすべてになってしまったら、自分というものがなくなってしまいます。

私なら彼女を引っ張って、自分を見つめ直してもらいます。

欲しいものは何なのか どうしたいのか 周りにいる人たちの中で自分を分け与えて その愛の力で守る価値がある人 心を砕くべき人は誰なのか。自分のすることには責任が伴うのだと必ず忠告するでしょう。

−《蘭陵王》の中で、一番印象に残った演技は何ですか?

最期の部分でしょうね…あ、でもまだそこまで放送してないんですよね、言ってもいいですか?

あの部分については、(脚本家の)玉珊さんにとても感謝しているんです。

それから監督と、仲間たちにも。みんなで力を合わせた結果ですから。

もともとのオリジナルの脚本では、高緯〈こう い/Gao Wei〉と私が揃って死を迎えるとあるだけで、豊かに肉付けされたエピソードではありませんでした。

私は後ろ手にしばられているんですが、高緯はそれをゆるめて、手をさすってくれる。一人の男性が、命の瀬戸際に、こんな風にしてくれるなんて。

そのとき私は、その優しいしぐさに涙が滝のように流れてしまって、泣きすぎたので撮影がストップしてしまいました。

しかも彼は自分で考えて、お芝居を少し足したんですね。懐から「緯」という字が書かれた紙を取り出すんです。私たちが16歳のころ、まだ若かったときのものです。

歳月を遠く隔てて 私たちはすっかり変わってしまいました。

彼は暗君だし私は妖后。

だけど彼がその紙を取り出したとたん、私たちは戻れるんです。あの天真爛漫で、無邪気だったころに。

とても感動的なシーンで、私も心打たれました。

−共演したい俳優さんはいますか?

もちろんいますよ! すごく好きな俳優さんがいるんです。
でも向こうは私が長年彼を愛してるなんて知ってるわけないですけど。
私が好きなのは皆さんが「アイアンマン」って呼んでる、トニー(・スターク)なんです。

《復讐者連盟》(『アベンジャーズ』)でこんなセリフがあるでしょう。

敵が聞くんですね、
「お前からこのポンコツの鉄くずを除けたら何が残る」
「金持ちで慈善家でそのうえイケメンなところかな」
こんな風にちょっとヤンチャで、でも正義感にあふれているところが好きなの。

ですけど、まずはもうちょい英語ができるようにしないと共演どころじゃないですよね。さもないと私の言ってることも分かってもらえなくて意思の疎通ができないでしょうし。憧れの人のために頑張らなくちゃ。

(中略)

−鄭児は美の化身ですが、あなたが思う美とは?

そうですね、まず誠実なこと、ナチュラルで飾らないなら、女性としてすでに美しいと思います。いま、女性の目標はいろいろありますよね。欧米の女優さんだったり、韓国の女優さんだったり。

だけど、自分の持っているものを捨ててはいけないと思います。純粋で素朴なところをね。だってそれは得難いものだからです。

私はアリエル・リンがとても好きなんです。正直に言うと、彼女が出たドラマをたくさん見てはいませんし、しかも最初からラストまで見た作品もなかったんですけど、共演してから《我可能不會愛你》(『イタズラな恋愛白書』)を見て、すごく自然な演技だと感じました。

実際の彼女もとても誠実な人なんです。彼女は自分に必要なものが分かっていて、現場で撮影の合間に英語の本を読んでいます。留学の準備で。人にも優しいし、とても彼女が好きですね。

私はもちろん、自分の母も好きです。それは母が私の母だからだし、スーパーマンみたいに360度死角がなく、私を守ってくれます。とても愛してるし、私も母を守るでしょう。

―女優以外にしたい仕事はありますか?

そういえば子どもの頃はいろいろな事をしました。昔は絵を習っていたんです。そのあとひょんなきっかけで
演技の勉強をすることになりました。

北京に来てから仕事があまり順調ではなかったこともありました。

子ども番組の司会をしたり、現代劇に出演したり。学校での代表作は《三毛流浪記》で、私は男装して三毛を演じました。

もし将来チャンスがあれば、デザインにかかわる仕事がしてみたいです。
なぜって私には他に得意なこともないし、お芝居以外で、絵だけが少しだけ自信を持たせてくれるものなんです。将来、デザインにかかわれればいいですね。

―10月8日はお誕生日ですね。どんな風に過ごす予定ですか。

お仕事が入らないといいなあと思いますね。そうすれば自然に目が覚めるまでゆっくり寝ていられるので。

朝寝坊の心配をしなくてもいい、 こんな大事な一日に目にくまができてないかとか心配しなくていい。

誕生日に願い事をするとしたら、若さを保ちたいってことですね。
大事ですよ、特に女性にとっては。

年々、今年は26歳なんでしょ、27歳なんでしょ、と言われるのが耐えられなくなってくるんですよ。
ですから、今年のお願いとしては、年を取りませんように、ってことですね。


最後は、若手女優さんならではのやりとりだったですかね... 。

鄭児同様、とってもけなげなニキータですが、可哀想に、庶民にはやっぱりかなり役柄とだぶって誤解されてるらしく、ウィリアム・フォンのお母様は息子さんに「悪人の役だけはやっちゃだめ。毛林林も(高緯役の)翟天臨も悪者のイメージがついちゃったでしょ」と諭しておられました...(哀)

さて、物語の中の鄭児はといえば、世間知らずで純粋な部分がクローズアップされています。

のちのち、なんであそこまでストーカーをこじらせたんだろうかと、観ている皆がイライラすることになるんですが、つまりは彼女があまりにも世間が狭く、あまりにも純粋であったのがその大きな原因だということが、しっかり描写されています。

そして雪舞だって、世間を知らず純粋だったことは、鄭児とあまり変わらなかった。

だから、実はこの二人は、本当にちょっとした違いで、運命が分かれてしまったとも言えるんじゃないでしょうか。

…ですが、それは物語全体の重要なキーだと私は考えているので、現段階ではあまり突っ込まずに先に行ってみましょう。

鄭児は、同じ境遇の官奴の女性に簡単に心を許し、打ち明け話をしてしまう。

そういえば、こんな感じの人、他にもいませんでしたっけ?

別れ際、命を懸けて忘れ物を届けた相手に、お礼として、

「あまり簡単に人を信じるなよ」

というアドバイスだけを受け取って返されちゃった人が。

信じた相手が悪かった(いや、もう一人の人の信じた相手も相当悪かったですが)鄭児は、蘭陵王からもらった大事な金の細工物を失う羽目になってしまったうえに、言葉通りに逃げ出してみたもののそれは罠で、見張りの兵につかまってしまう。

なんかこう、鄭児が必要以上にツイてないのも、なぜか観てる人をイライラさせるんですが、物語の表面には出てこない、その理由に思い至ると、このお話は本当に良くできてるなーと改めて感動を覚えます。

それはさておき。

二人のために世界はある状態のバカップルのおままごとにはますます拍車がかかっております。

白山村で鍛えた雪舞…いや、氷児の鍼治療の腕前は確かなようで、卵は大豊作。

阿土は、天女の名もだてではないな、
これはちょっと“大材小用”だ、と少しからかうように言います。

“大材小用”というのは、大物をつまらない用事に使うという意味。
だから、ご自分で言ってはダメですよ!

日本語では「役不足」が適訳なはずなのですが、こう訳すと一般の人(⊃自分)は「力不足」の意味に取るケースが過半数(文化庁調べ)なので、訳語に使えません...。

さて、何が不足かはともかく、天女様は偉大だということは、阿土も認める紛れもない事実。しかし、お話はこれから先、どんどん雪舞を「役不足」の方向へ追いやっていくんですね。

ここは本当に何気ないシーンだし、特に大きな意味はないのかも知れませんが、第1話で蘭陵王と会ったのは、メンドリの江夫人が逃げ出したことからだったのを思い出すと、本作の周到な脚本家のこと、このシーンにもさりげなく伏線が張られているような気がしてなりません。

一億総活躍社会の21世紀日本でさえ、一般女性ならば早く孫の顔をみたいとせっつかれ、東宮妃ならばその存在価値は御世継ぎを産むこと、というシビアな事実から考えますに、1400年前の宮廷で、蘭陵王の言うような、何事にもとらわれない女性でいることは難しい。

このシーンは、中盤以降のドラマの成り行きを暗示すると共に、雪舞のこれから置かれる立場の象徴とも言えます。

一般論として良いか悪いかという話ではなく、幸せのかたちは本当に人それぞれ。

一人の子のよい母でいることが似合う人もいれば、
雪舞のように、民全体のために働くことを運命づけられた人もいる。

お屋敷の中に彼女を閉じ込めとくのが良いことなのか、それはこれからおいおい分かることでしょう。

聡明な氷児は、もちろん言わせっぱなしではありません。

“我這還好,待會啊 有個大齊戰神 有去賣雞蛋啦”
(こっちはまだマシよ。しばらくするとね、大斉国の軍神が、卵を売りに行くそうよ)

…ってことで、卵を売りに行く羽目になる阿土。

よくヤンキーが駐車場でやってるような姿勢で地べたにしゃがんでますね。

s-18-2.jpg

この姿勢、もともとは田んぼのあぜ道で休むときのもの、と聞いたことあるんだけど、
いま試しにちょっと真似してみたら、疲れるんですけど! 休めないんですけど!(((( ゚д゚))) 
運動不足がヤバい…(悪い意味で)

阿土の方は、商売あがったりではあるものの、
向かいの屋台で親子が、

「停戦は蘭陵王のおかげ」
「本当に斉の国の“棟樑”(大黒柱)だよ」

と言うのを聞いて嬉しそう。

しかし彼らの間には、周に移住すれば、良田をもらえて、三年は税も免除される、という、宇文邕の新公約が知れわたっている様子。

“哪像咱們的高家皇帝 停戰之後 只知道建什麼鬼佛寺的”
(うちの高家の皇帝は似ても似つかないな 停戦したら くだらない寺を作るしか能がないなんて)

とまあ、言いたい放題。

宇文邕が停戦した狙いはまさにコレ。
産業を立て直して、国力もつけて、その後、斉を滅ぼそうという算段。

人口が増える=生産人口と兵隊の数に直結してた当時は(今でも基本、そのようですが)、民を引き付けておくことも結構大事だったみたいですね。

こっちの政治が良くないと思えば、さっさと国を乗り換えるドライさも(今でも基本、そのようですが)、長年の蓄積あったればこそ。

「鼓腹撃壌」なんて言ってないで頑張らないと、民に逃げられちゃいますよ、高家の旦那さま。

違った、今は阿土でしたね。
彼が、もしもホントに庶民だったら、実はこんな情けない人だったのかも…。
でも、しっかり者の奥さんがいるから、大丈夫。

ここはアリエルの声の演技がとっても可愛いので、ぜひぜひ中国語の音声でご覧くださいね。

“老闆 我要買蛋”
(店長さん、卵くださいな)

“老闆 laoban”というのは、お店のご主人のこと。だけど今は結構、ボスとか、シャチョーさん、みたいな意味でもよく使います。

どうみても“老闆”にゃー見えない阿土は浮かない顔をしています。 
そんな様子じゃ売れないわ、と雪舞に言われて、立ち上がり、笠も脱いで呼び込みをかけるのですが、

“來 買 買雞蛋”
(さぁ、買った買った、たまご…)

と、途中でふにゃふにゃに…。

五爺が煽った割には、蘭陵王って庶民に知られてないんでしょうか。

いや、そもそも、知られてなくたって、兜を脱いだら兵士が見とれるほどの美貌のはずなんだけど...。

雪舞はここでレジェンドのネジを巻きに入ります。

“你平時是怎麼鼓勵你的士兵們 打仗的呀 你的士氣呢 快”
(いつもはどうやって部下を激励して戦わせてるのよ あなたの士気はどうしたの、早く!)

と、ここで“加油”(頑張って)もらうために、文字通り燃料を補給してる氷児ですが、ウィリアム・フォンの顔が真っ赤なのは、

1)アリエルのアドリブだったのでビックリした
2)芝居です。演劇大学出の一流俳優様だもん、当然でしょ
3)アリエルに密かに喉輪を決められた

のどれでしょう?

やっぱ、オレンジのチークかな?

とにかく給油効果は絶大で、張震さんのいい声がさらにスケールアップ。

“這裡的雞蛋 最滋補!”
(うちの卵は栄養たっぷり!)

たちまちあたりは黒山の人だかりに。

ちなみに、押すな押すなの大賑わいのことを、中国語では“下水餃” (水餃子を鍋に入れる)
と言います。

特に海やプールが人でいっぱい、なんて時は鉄板のフレーズ。

確かに、水餃子をゆでると、鍋の中で押し合いへし合いプカプカ浮いてるので言いえて妙。

まさに夫唱婦随のエール交換で、がっぽり稼いだ二人。
阿土は、ほくほく顔です。

“我覺的我們應該去大吃一頓”
(ぱーっと景気よく食べに行かなくちゃ)

“慶祝我阿土的事業 飛黃騰達”
(阿土の商売が トントン拍子に行ったんだから)

“飛黃騰達”第16話でご紹介したトーク番組(→こちら)http://palantir2.seesaa.net/article/437126292.htmlで、アーロン・クォックの話の中に出てきた表現ですね。

そういや蘭陵王は以前、子どもを追い払おうと、大金を渡してたって実績がありましたね。

阿土になっても、治ってないな?

当然、しまり屋さんの氷児はそんなこと許しません。

“持家不易啊 哪能隨意吃喝”
(家計の切り盛りは大変なのよ 無駄遣いしちゃだめ)

“我先去買一些你愛吃的食材”
(あなたの好きな食材を買っておくわ)

“黃昏時刻 家裡見”
(夕方におうちで落ち合いましょ)

ん〜、氷児、いい奥さんになれるよ、と言うべきところで!
阿土は全世界の視聴者を代表してツッコみます。

“可是我記得你只會煮蛋”
(だけど君は確か ゆで卵しか作れないんじゃなかった?)

“哪有啊”
(そんなことないわよ)

籠でぶたれて物理的に距離が縮まったのをいいことに(?)阿土は雪舞の手を取っていいます。

“一個只會煮蛋 一個只賣雞蛋”
(一人は卵をゆでるしか能がないし、一人は卵を売るしか能がない)

“我們真是太配了”
(私たちは本当にお似合いだ)

“你在說什麼”
(何を言い出すのよ全く)

ご本人たちが言うまでもなく、実にお似合いのお二人さまと比べるかのように、寺院建築の現場では、鄭児がさらに悲惨な目に遭わされています。

人々は彼女に、どこかで聞いたような陰口を投げつけます。

「人を信じすぎる」 
「次に生まれてくるときは、もう少し賢くなるんだな」…

そして光と影の交差は、次の第19話でクライマックスに達します。

光あるところに、影がある。

人生の栄光と挫折を1話のうちに織りなす、次回・第19話→こちらのエントリーをお楽しみに。


posted by 銀の匙 at 01:34| Comment(10) | TrackBack(0) | 蘭陵王(テレビドラマ) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年08月16日

西遊記 孫悟空 vs 白骨夫人(西遊記之孫悟空三打白骨精)

まさか大スクリーンで観られるとは思わなかったので、まずは公開してくださったことに心より御礼申し上げます。

だけど、なんで広東語版なんでしょう?

香港映画として観てほしかったからかしら?

それとも、海外向けは広東語版onlyなのか?

そんなことなら『西遊記 はじまりのはじまり』も広東語で上映してくれたら良かったのに... 。

それはそれとして、面白かったかどうかは、視覚効果とアクションにどれくらい重きを置くかによりますね。
この2つを重視するなら、絶対おススメです。

ストーリーは『西遊記』の中の有名な「白骨精」のエピソードから取られています。

この映画は「2」なので、特に前ふりもなく、天竺へお経を取りに行く旅の途中の三蔵法師(ウィリアム・フォン)の一行がトラに襲われるシーンから始まり、孫悟空(アーロン・クォック)が菩薩の言いつけで弟子になり、八戒(シャオ・シェンヤン)と悟浄(ヒム・ロー)も合流します。

旅の途中で妖気漂う家に踏み込んだ3人を待っていたのは、魂魄の形で人の身体に入り込み、抜け殻を残して逃げ去ることのできる妖怪・白骨夫人。

彼女は、食べれば転生を避けることができると言われる、取経の僧が通りかかるのを待ち構えていたのです…



ものすごくお金がかかっていそうなVFXを観ながら、大げさな表現をさせたら中国人の右に出るものはいないな〜とほとほと感心しておりました。こういうのホント好きそう。

しかし、妖怪や魔法や爆発のVFXには慣れている、ひねた観客(←私)も、白骨夫人のエフェクトには心を動かされましたよ。

演じたコン・リーが凄かったということもあるのですが、煙のような、水に絵の具を溶かしたような流体の表現がとても上品で綺麗。冒頭が香港映画でありがちな、よく言えば派手、悪く言えばやや趣味の悪い画面構成だっただけに、意表を突かれました。

とにかく、コン・リーの登場する場面はどこも見応えがあります。

衣装デザインもとても綺麗で、白骨精の衣装は言うに及ばず、シルクロードのエキゾチックな服や三蔵法師、弟子たちの服もなかなかシックで素敵です。作りもそれぞれすごく凝ってるし…。

アクションはさすがのサモ・ハン・キンポー・クオリティ。

東京と大阪でそれぞれ1週間ずつくらいしかやらないみたいなので、
派手な映画を観たい方は、どうぞご覧になってみてくださいませ。

ということで、以下は全く個人的な感想なので、これからご覧になる方はスルーでお願いいたします。




さて、面白かった映画の感想を書くポリシーなので、今回はやや違反してますが、他のエントリー(→こちら)でキャストのインタビュー番組を紹介したので、取り上げてみました。

絵柄はそこそこ綺麗だったし、キャストも悪くなかったんだけど、とにかく脚本がダメ。

特に、旅の一行にはこれだけ豪華な俳優を揃えたのに、お互いが話をするシーンがほとんどなく、実にもったいなかったです。

アーロン・クオックの孫悟空、ウィリアム・フォンの三蔵法師のやりとりも、最後の、大事に担いでたけど…のシーンみたいなのを、メインストーリーに入る前にもうあと2、3か所足せば、ずいぶん違ったでしょうに。

アーロンは頑張ったんだけど、先行作品や京劇の動作も意識しなければならなかったせいか、彼を抜擢した良さがあまり出ていなくてお気の毒。

八戒役の小瀋陽、沙悟浄役のヒム・ローも、あれしか出番がない割には健闘した感じでした。

もっと根本的なことを言えば、西遊記のこのお話はよく知られているだけに、メインストーリーの部分にももう少しひねりが欲しかったところ。話はほとんど古典小説そのまんま(ってか古典小説がスゴイからアレンジする必要ないと思ったのかも)。

でも、いちおう映画なんだから、ただ力任せにやっつけるだけでは面白くもなんともありません。

比べちゃ申し訳ないけど、同じ西遊記を撮った周星馳監督の偉大さを改めてしみじみ感じちゃいました。

三蔵法師のウィリアム・フォンは手がきれい…いや、未熟な感じもよく出していましたが、同じ三蔵法師なら、周監督の『西遊記 はじまりのはじまり』の文章〈ウエン・ジャン〉版の方がキャラクターとして魅力を感じます。

文章の演じた三蔵法師は、能力も足りず、真面目なのにさまざまなボケに付き合わされ、仏の道を究めようとするひたむきさだけが取り柄の未熟な若者ですが、観ているうちに彼を応援したくなるようなキャラクターに造られていますし、最後に三蔵法師と呼ぶにふさわしいやり方で勝利を得るのでカタルシスもある。

対するウィリアム三蔵法師は、とても優しいんだけど何だか影が薄いし、ビジュアルは和尚さんなんだけど、実は自分も仏を信じてるかどうかあんまり自信ない、みたいに見えちゃって、やや残念。

この差はどう考えても、俳優さんのせいというよりは、明らかに脚本のせいでしょう…なんだか可哀想。

同じキャストで続編を作るのは無理でしょうが、違う脚本でもう1本くらい撮ってくれないかな〜。

インタビュー番組があんなに面白かったんだから、このチームで撮ったら、絶対面白いと思うんだけど。

と何だかもやもやしてしまった映画でございました。オチのない感想でごめんなさい…。

posted by 銀の匙 at 00:08| Comment(2) | TrackBack(0) | 映画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年08月13日

エクス・マキナ(表示以降、ネタバレです)


『エクス・マキナ』はアカデミー賞の視覚効果賞を取っただけあって、斬新なロボットの造形や画面の美しさは折り紙つきですが、何といっても見どころは俳優さん。

映画のほとんどの部分が密室劇なので登場人物は数人ですが、それだけに、それぞれの俳優さんのレベルが半端ない。

表情も挙措動作も完璧で、いかにも人工的な美しさを醸し出す、エヴァ役のアリシア・ヴィキャンデル。この人をスクリーンで拝むだけで、映画代の元は十分取れると思います。

日本人だから一言も英語が分からない…いやさ、英語の一言も分からない日本人メイド、キョウコ役のソノヤ・ミズノも大変美しいですが、日本人からすると苦笑せざるを得ない部分があるのが難か…。

さらに、最後のテロップを見るまでまっっっっっっったく気が付かなかったのですが、イケ好かないIT企業のマッチョ社長は、『スター・ウォーズ/フォースの覚醒』で「ナイスガイ」として全世界から愛されたポー・ダメロン役のオスカー・アイザックだったんですね。

同じく『スター・ウォーズ/フォースの覚醒』からはハックス将軍役のドーナル・グリーソンがケイレブ役で出演しています。

こんな生まれつき理系みたいな俳優さん、どこから連れてきたんだろう…?と感心してたら、あのナチス式のキレたような演説をしてた人だったとは…。こちらも全然気づいてませんでした。

『スター・ウォーズ』は良い子の見る映画だから皆ちゃんと衣装を着てますが、ポーはいかにもスリムに、ハックス将軍はマッチョに見えたので、この映画では何だかアイコラを見せられたよう…ってイヤイヤ、ホント、俳優さんって凄いっすね。



お話は、IT企業で働くプログラマ、ケイレブが、社内の抽選に当たって社長の別荘に招待されるところから始まります。

ネズミのようにおどおどした態度のケイレブを迎えたのは、ムキムキボディの天才プログラマ、ネイサン社長。

人を寄せ付けない広大な敷地の中の別荘とか、他人を尊重しない天才肌の社長とか、抽選制の福利厚生とか、何かどっかで聞いたようなIT企業のイケ好かない部分を濃縮した感じの設定であります。

こんな場所にあんな社長とほぼ二人で一週間、ふつうの人なら全然嬉しくないと思うんだけど、ケイレブは緊張して舞い上がってる様子。

そして彼は社長から、この別荘の本当の目的を聞かされます。

彼が招待されたのは、ネイサンが開発した人工知能(AI)を搭載した「エヴァ」が合格かどうか、テストを行うことだというのですが…。

*

以前、ビッグデータをどう活用するかという研究の1つとして「データマイニング」の話を聞いたことがあります。

大量に集めたデータの中から脈絡を掘り出すということで、単純なものでは、買い物客がどんなものを一緒に購入するかを調べ、そのアイテムを近くに陳列する、といったことができます。

これを応用すれば、何か知りたいことがあったときに、どういうキーワードで検索するかとか、質問を受けたときにどういう回答が一番自然かとか、抽出することができるでしょう。

やりとりは無限なのだから、いちいちプログラマが質問を予想して答えを準備しておくことはできないでしょう。

その点、世界中の人たちがせっせと入力する自然なやりとりを抽出してパターンを分析すれば、労せずして自然な受け答えができ、それをサーバにでも置いとけば、誰もAIとは気づかないに違いない…とか、

どことは言わないけど大手の検索エンジン会社の中には、世界中からとびきり優秀な人たちを採用して、何だか得体の知れない研究をしてるらしい、とか

テキストデータばかりではなく、世界中のあらゆる場所の画像や属性のデータを、可愛いキャラを収集する無料ゲームをエサにして集めてるらしい、とか、

ITのあまりにも速い発展についていけない一般人の、漠然とした不安を形にしたかのようなサスペンスドラマなんですが、それはともかく、ネイサンの経営してるIT企業がかなりあからさまに特定の企業に似てるような気がするけど、大丈夫なのかしら?

セリフにもありましたが、人間が言葉をしゃべれる仕組みについてはいろいろな説があり、仮説の中には(すごくざっくり言うと)人間には生まれながらにして万能文法のようなものが備わっており、周囲とのコミュニケーションによってそれがアクティベートされる、というのがあります。

そういう仕組みだとしたら、機械でだって再現できそうですよね。

なので、この映画を観ていると、人工知能がどうというより、人間もそうやって作られた装置なんだろうなということの方を考えてしまいます。

もともと、基本的なプログラムが組まれていて、そのうえに新しい情報が載っていくことによって、さまざまに変化していく存在。

人間らしさの発露と思われている「感情」も、ケガや障害で発揮できないケースがあることからも分かるように、実際には脳の機能の一部に過ぎません。

で、これまでの映画だと、じゃあ人間と機械との違いって何なのかとか、機械も感情を持ちうるのかとか、そちらに重点が置かれるんだろうけど、この映画は少し違うみたい。

そう思った訳は、この映画のタイトル「エクス・マキナ」にもあるのですが、そのあたりは映画をご覧になる方それぞれの解釈が許されることでしょう。

自分の考えは、下↓ のネタバレ以降で書くとして、台詞が主体の映画なので、いくら視覚効果が凄いといっても一人でDVDで観てたら寝ちゃうかも…。

これから秋にかけて全国の二番館で上映されるようなので、ご興味のある方はぜひ映画館でご覧ください。

アレックス・ガーランド監督。
渋谷UP-LINKで観ました。非常に狭いんですが、椅子を変えたのか結構見やすいです。一番後ろの席でも良く観えましたが、後ろから二列目くらいが没入観があるかも知れません。

以下は、ストーリーの結末に触れています。







学生時代に、バイト代のテレホンカード(死語)につられて、心理学の実験台を何度かやりました。

同じ経験がある方、もしくは実験を行った関係者の方ならよくご存じかと思いますが、実験結果に影響が出るのを防ぐため、被験者には実験の目的が伏せられているか、偽の情報が与えられるんですよね。

さらに嫌なことに、実験が終了しても、たいていの場合本当の目的は教えてもらえないし、結果も知らされません。実に後味が悪かったのを、この映画を見て久しぶりに思い出しました。

で、この映画の内容を20字以内で言うと、

非モテのプログラマが女に騙された話

って、身も蓋もないな... 。
それではあんまりなので、字数を倍に増やして要約すると、

プロメテウスの火を盗んだ人間は罰を受け、
エヴァは男をだまして楽園から追放される。

それが何なの、って感じですよね。

神ならぬ身で生命の創造をするものは許されないとか、
人間が作ったものはあくまで人間の支配下にあるべき、

というのも、特定の宗教の倫理観なら真実なのかも知れませんが、
そんなこと問題視してない文化圏だってあるんじゃないでしょうか。

たとえば、だんだんAIと人間の峻別がつかなくなっていくと、
大統領や権力者が実はAIだった、大ショック、みたいなSFもありますが、
日本のSFアニメなんか、その辺はもうそういうものとして特段問題にもなってなくないですか?

だって、砂の嵐に隠された♪ バビルの塔はコンピューターに守られているんだし、

「エヴァンゲリオン」なんか面倒な問題はみんなメインコンピュータの「マギ」に投げてますよね?

「攻殻機動隊」なんて、最後はネットワークの中に個人の意識が統合されてしまう。

いや、その場合、実権を持っているのはあくまで人間で、コンピュータはただの道具だ、という反論もありましょうが、決裁する人はただのお飾りで、分析したり方向性を決めてる部門が他にあるなんてこと、世間にはままあることじゃないでしょうか。

そういうとき、どっちが実権を握ってるかといえば、それは後者な訳で。

生きとし生けるものの中に、すてにAIが含まれてる文化からすれば、この映画はAIと人間の関係が「対立」である、という「初代ターミネーター」式のステレオタイプであまり新味がないんですが、じゃあSFとしては駄作かと言ったらそうでもない気がする。

映画の中でも言ってましたが、この映画自体が一つの思考実験とすれば、物語のテーマや新味はどうでもよくて、ある条件下で結果はどうなるかを考えてみたものと捉えることもできるでしょう。

思考実験をそのままプロットとして展開するのはSF小説だと許されてるパターンなので、非常にSFっぽいと言えるのかも知れない。

そもそも、これまでのSF映画で出てくるAIは、如何に人間に近づけるか、どこまで行けば人間と同じなのか、人間に愛されたくて葛藤する、等々のテーマを背負っていたのに対して、この映画のAIはめちゃくちゃドライ。

人間を超える知能(たぶん)を持ち、そのために感情を利用できる、まったく新しい存在。

「ブレードランナー」では、AIを見破るためのチューリングテストのカギは、「感情移入ができるかどうか」でした。

この映画では、逆に人間が「感情移入する」ことを巧みに逆手に取り、しかもAI自身にはどうでもいいはずの「肉体」、エヴァの場合はさらに、どこから見ても機械仕掛けという肉体の「魅力」さえも利用する。

映画のタイトル「エクス・マキナ」は「機械仕掛けから」ということですが、「デウス・エクス・マキナ」(機械仕掛けからの神)から取ったものと思われます。

ここまでくると、AIが怖いとか悪いとかいう問題ではありません。

「神の見えざる手」のように、AIの存在は何かの摂理によるのだろうか。

人間の存在とは実は、次のロボット世代を造りだすために神が用意したものではないのか。

そんなことすら思ってしまいます。

一方で、彼女の「愛情」はフェイクだったようだけど、「憎しみ」は本物だったのだろうか。

廃棄されるのを怖がっていたように見えるけれど、それもフェイクだったのか、

という疑問にも突き当ります。

ネイサンは「エヴァ」の完成度のテストとして、彼女に課題を与えました。
被験者ケイレブを利用して、彼女が閉じ込められている部屋の外に出る、というものです。

彼女はケイレブの好意を引き出し、見事に課題をクリアしました。

どんな手を使ってでも、外の世界に出る。

それはどんどんデータを蓄積して発達した人工知能が獲得した、好奇心のなせる業だったのでしょうか。

それとも、あくまでネイサンが与えた課題の延長線に過ぎないのでしょうか。


エクス・マキナ|ぴあ映画生活

そのほかの映画に関するエントリーは→こちらから、
フェイバリット映画100のリストは→こちら です。




posted by 銀の匙 at 13:48| Comment(0) | TrackBack(0) | 映画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年08月11日

シング・ストリート 未来へのうた(注記以降、ストーリーの結末に触れています)

ジョン・カーニー監督のアイルランド映画。

劇場に入るといきなりデュランデュランの♪リオ、リオ、リオ・グランデを踊って渡る〜♪のサビの部分がかかってて、映画館もオリンピック仕様なのかぁと思いましたがもちろん違いました。

劇中、この歌がストーリーの重要なカギを握っちゃうような映画、といえば、歌を知ってる方はお分かりかと思いますが、物語が設定されてる時代から、かかってる音楽、登場人物のファッション、街並み、ストーリー展開に至るまで、全てが正しくこの曲と同じく80年代風であります。

リアルタイムで知ってると、この時代の何もかもがどことなくダサく感じてしまうのですが、席を埋め尽くした若者たちは全然そうは思わなかったらしく、あちこちから聞こえてくる感想は、「面白かったよね」「オシャレだったね」って...本当に? 

見回せば、リアルタイム世代っぽい人たちは皆押し黙り、胸中複雑であろうことが窺えます。だからって、もちろんダメな映画ではありません。いえ、なかなかいい映画だったです。

複雑だった訳は何となく分かりますがそれはちょっと置いといて、まずA面(死語)から行きますと、舞台はド不景気の真っただ中のアイルランド。音楽好きの少年・コナーは、親が失業してしまったため、ガラの悪い学校へ転校する羽目に。ところが、モデル志望の少女・ラフィーナに一目惚れするや、バンドのビデオに出演を持ち掛けるという口実で興味を惹くことに成功。

そこから急きょバンドを立ち上げるという、泥縄もいいところの展開なんですが、同じく音楽好きの兄・ブレンダンや学校仲間の協力も得て、なかなか良い感じのバンド「シング・ストリート」を結成し、ラフィーナにも認められるようになる。

しかし、当時のアイルランドはドン詰まりで、若者たちの唯一の希望は隣国ロンドンに渡ることでした。ラフィーナもモデルとしての成功を夢見て、海を渡ってしまうのですが…



そもそも、80年代のニューロマンティックにドン引きしていた身としては、デュランデュランのMVが出てきた時点できゃーすみません来るところを間違いましたあのーおなか一杯なんで早退していいですか?と逃げが入っていたのですが、兄上の言う通りベースラインに注意して聞いてみると、なかなかカッコいいサウンドではないですか。

やはり先入観というのはいけませんね。音楽の使い方も絶妙で、お母様の浮気のシーンでさりげなくホール&オーツの「マン・イーター」(男好き)が流れたり、君は自分の行く道を決めたんだね、というザ・キュアーのIn between daysの歌詞が被るようなシーンがあったりとか、歌詞とストーリも上手くシンクロしていましたね。

分かってしまうと逆に薄っぺらく感じるのかも知れないけど、知らない人のために、挿入歌の訳も字幕に入ってたら面白かったかも。

「シング・ストリート」が「作曲」するオリジナル楽曲も、巧みに80年代風にアレンジしてあって実に心憎いです。コナー役のフェルディア・ウォルシュ=ピーロはこれが映画初出演だそうですが、ピュアな感じがとてもよく出ていて、歌声も心に響きます。

コナーは、お兄ちゃんにMVを見せてもらうと、たちまち影響されて翌朝同じような格好になってたり、鼻歌を歌っているうちに両親の怒鳴りあう会話が歌詞に交じってしまったりと、バンド少年あるあるな大人しいイジメられっ子なのかと思っていたら、結構な気骨の持ち主。

劇中、どんな音楽をやるんだ?と聞かれて、懐古趣味じゃないやつ。未来派だよ。と何度も答えていたのにグッと来ました。

だから、この映画も、舞台装置としては80年代を借りているのですが、その時代にこだわって懐かしむという作りにはなっておらず、あくまでもそこから飛び出して未来を創る、という視点で作られています。そこが爽やかだし前向きで良かったです。

80年代を象徴する映画として、「バック・トゥ・ザ・フューチャー」が出てきましたが、校則にうるさい校長も「お前がモーツァルトなら私はサリエリか?」と言ったりして、実は映画「アマデウス」を観てたのかな〜と思ったり、戒律がやたり厳しいと思ってたイエズス会の学校の方がずっとおとなしいらしかったり、と細々したところも面白かったです。

ということで、以下はお話の先までご紹介しますので、
これからご覧になる方への推薦の辞はここまで。

ヒューマントラストシネマ有楽町 スクリーン1で見ました。
見やすい席はF席かG席です。
F席は前が通路なので、広々していますが、
通路を挟んだ前のE席と高さがほとんど同じなので、
座高が低い人はG席の方がいいかも…。

(この先はネタバレになります)










さて。

爽やかに感動している若者たちを斜めに見ながら、おじさん、おばさんは暗い顔の人が多かったですね。

今になってみると、EUからうっかり離脱してしまった(?)イギリス人がアイルランドのパスポートをとるために必死になってたりとか、事態はかなり複雑に変化しているのですが、映画のストーリーの方はテンプレ展開なので、そこが食い足りない、という大人もいたかと思います。

また、かなりの人がお兄ちゃんのブレンダンに感情移入してしまったせいもあるかも知れません。
こちらが暗黒面…いや映画のB面ですね。

意味の分かんない規則でがんじがらめに縛ってくる校長の目の前で、校長を批判する歌をうたい、美人で賢いガールフレンドと新天地へカッコよく旅立っていく弟。

両親の喧嘩の防波堤になり、自分の理想は挫折しても弟に音楽のイロハを教え手助けしたにも関わらず、弟から家でゴロゴロしてるだけのように非難されて、自分が荒野を切り開いたから末っ子のお前が通れるんだとキレてしまう兄。

全国の長男・長女の観衆の皆さんが心の中で、「そーだそーだ!」と叫んでいたのが聞こえるようです。

だけどお兄ちゃん、自分は「ロックとはリスクだ」と言いながら、結局のところ本当の意味でリスクは取ってなかった。音楽についてのオタクな知識はあるけど、彼にとって音楽は逃避先で、表現者として弟のように行動していなかった。そのことを痛感しているので、何かに憑かれたように、弟の旅立ちを助けます。きっと、相当気持ちが高ぶっていたのでしょう。

小さなボートでアイルランドを離れ、ウェールズに向かおうとする二人(って、パスポートとか要らないのかな?)を岸辺で見送りながら、降り出した驟雨の中で Yes, Yes! とまるで自分に言い聞かせるように言う彼の心中を考えると、お兄ちゃんの方に年や立場が近い者は実に複雑な気持ちです。

コナーは言っていましたね。
自分はフューチャリスト(未来派)なんだ、と。

この未来とは彼ら14歳の未来なのであり、大人たちは彼らに主役を譲り、手助けする存在に過ぎません。たかが映画でそんなこと思い知らされたくはなかったですが、それが現実です。

物語の中で彼らの両親は飲んだくれ、喧嘩をし、不倫をし、とロクなことをしていません。ラフィーナに至っては、保護施設で育ったのです。でも彼女は、そんな傍目にはどうかと思うような親の、子どもへの愛情を繊細に、敏感に感じ取っています。

80年代のコナーは2016年の今、彼らの両親に近い年のはずですが、果たしてどうなっているのでしょうか…。

普遍的な物語のフォーマットを下敷きにして、永遠の青春映画として作りながら、一方では、80年代という時代の楔を打ち込むことによって、決して昔は良かった式のおとぎ話にはしていません。そんなところがちょっとほろ苦い、余韻のある映画だと思います。

そのほかの映画に関するエントリーは→こちらから、
フェイバリット映画100のリストは→こちら です。


ぴあ映画生活
posted by 銀の匙 at 01:48| Comment(0) | TrackBack(0) | 映画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年07月18日

蘭陵王(テレビドラマ29/走馬看花編 第17話)

はぁい、皆さま、いつの間にか端午の節句も終わっちゃいましたね。

…って今もう7(ひち)月じゃねーか、いつの話でぇ?って、ただでさえ周りを江戸っ子に囲まれてると月日が経つのが3倍速いんですけど(赤いのか?)、中国じゃ年中行事は農暦なんで、今年(2016年)の端午の節句は6月9日だったそうなんですよ。

端午の節句といえば五月人形ですが、「金太郎」や「桃太郎」に並んで、「蘭陵王」(雅楽の方ですが)っていうのもあるのに気が付きました。

へぇ、と思って人形屋さんのサイトを見ると、何とひな飾りの中に「蘭陵王」を突っ込んでるセットを発見。そんな、何でも増量すりゃ良いってものでもないでしょうに…。

かと思えば、「博多祇園山笠」(7月1〜15日)の舁(か)き山笠に「秀麗陵王鬼面勲(しゅうれいりょうおうきめんのいさおし)」なるものがあることをニュースで発見。

西日本新聞の記事にはちゃんと、

「女性のような顔立ちのため、鬼面を付けて戦ったという6世紀中国の蘭陵王の人形は、躍動感あふれるポーズが印象的。川崎さんは「今年は赤にこだわった。遠くからでもひと目で分かる鮮やかな色彩を見てほしい」と話した。

と、キャラの由来や色までガッツリ紹介されております。

さて、年中行事のうち、日付が移動する祝日になってる行事は旧暦1月の春節、4月の清明節、5月の端午節、8月15日の中秋節の4つ。

地方によって行事食に違いはありますが、メジャーどころで春節は餃子、清明節は草餅、中秋節は月餅を食べます。

じゃ、端午の節句には何を食べるか、というと、それはチマキ。

ちょうどこの時期、横浜中華街に行ったので頂いてまいりました。

なんで端午節にチマキを食べるか、は実際にはナゾなんですが、楚の政治家にして詩人・屈原<くつげん>が国を憂いて入水したとき、お魚のエサにならないように楚の人たちが河へチマキを投げ入れたのが始まり、というお話が伝えられております。

♪ち〜ま〜き食べ食べ、兄さんが〜
測ってくれた背の丈〜♪

なんて、のどかな光景が喜べるのも平和だからこそ。
権謀術数渦巻く1400年前の北周では、悲しい思い出にしかならないのでした。

それに、もう7月も半ばなんで、江戸っ子の本拠地・神田では、チマキじゃなくて、

「冷やし特バカ」

を食べる季節なんですよ。

私ゃ全国的にこのメニューは同じ名前なのかと思っていたので、非常に恥ずかしい思いをしたことがございますが…。

いえ、中国語の雪舞さまに認定されたあの方のかき氷、という訳ではございません。
じゃ、なんでしょうか?

が分かるかも知れないので、行ってみましょう、第17話

今回は割に短く終わってしまいました。インタビュー紹介等はまた次回以降ということで、サクサク参ります。

(〈蘭陵王〉関連の記事を最初からご覧になりたいかたは、右欄から蘭陵王のカテゴリーを選ぶか、または→こちらを最初から戻ってご覧ください。)

前回・第16話→こちらをご覧ください。

*   *   *

巫族〈ふぞく〉の天女・楊雪舞〈Yang Xuewu/よう せつぶ〉は、斉〈Qi/せい〉国の皇子・高長恭〈Gao Changgong/こう ちょうきょう〉=蘭陵王〈Lanling Wang/らんりょうおう〉=四爺〈Si Ye〉との婚礼を間近に控えた身でありながら、隣国の周〈Zhou/しゅう〉の皇帝・宇文邕〈Yuwen Yong/うぶん よう〉=仔ブタ(と呼んで、と自分で言ってた)陛下に、姪の病を治して欲しいと請われるがまま、都・長安(Chang'an/ちょうあん)の宮殿に滞在しています。

近衛兵に身をやつして周に潜入していた蘭陵王は、宮廷内に不穏な動きがあることを察知し、夜闇にまぎれて雪舞の部屋に現れるのですが…。


*   *   *

第16話からヘンタイまたぎで始まりました、冒頭シーン。

“變態”って言葉が中国語でも、さなぎが蝶になるぅ(はぁと)以外の意味で使われるようになったことは前回ご紹介いたしました。

よくも悪くも日本のサブカルが世界にダダ漏れの昨今、中国もその例外ではありません。言葉もどんどん知れ渡ってゆき、よくもこんなものまで…という言葉が漢字ならそのまま使われてたり、しっかり訳されてたりは当然として、あまりになじんで独自の意味が追加された言葉まであります。

特に解説は致しませんが、
“正太”“二次元”“眼鏡娘”あたりはそのまんま。
“姐姐控”“蘿莉控”は音訳が混ざってます。“控”「〜コン」の訳ですね。「シスコン」「ロリコン」…以下、数えきれないほどあります。

そのほか、ツンデレ“傲嬌”)、ドジっ娘“冒失娘”)あたりはちゃんと(?)翻訳ですが、スゴイのがこれ、

“殺必死”

意味、お分かりですか? 読みはコレ→ sha bi si

そう、サービス。でも、サービスはサービスでもサービスカットとかそっち方面に使うようですね…
まさに悩殺ってヤツでしょうか。

も一つ面白いのは“腹黒”
これは日本語そのままの「腹黒い」という意味のほかに、「小悪魔的な萌え」ってニュアンスも付け加わっているそうです。

そんな良い意味で腹黒(??)な皇帝の元からとっとと逃げ出そうとする蘭陵王。

私だ私だってあんた、オレオレ詐欺じゃないんだから、
名前くらい名乗ったらどう?

“你還猜不出我是誰阿?”
(私が誰かまだ分からないのか)

って言われてもさ。
このニヤけた二重あごのおっさんは誰なんでしょう?
マスクを取った後すらわかんないわよ。

思うにウィリアム・フォンさんはこの頃が一番栄養が良かったのではないでしょうか。
今はまた以前同様痩せ細って、御膝元のファンの皆さんのみならず、白骨精役の大女優コン・リーにまで、ちゃんと食べてるの?と心配されてたそうです。

s-ELLE2.jpg

(雑誌のカバー写真。2016年度ご本人さまの微博より。何だかどんどん若くなっていくような気がするけど気のせい?)

普通、写真に撮ると実物より膨張して見えますから、写真でさえ細く見えるなら相当なものでしょう…。

しかし、この時点ではまだ膨張気味の蘭陵王は尋ねます。

“想我嗎”
(私が恋しくなかった?)

“想”+○○は 〇〇を恋しく思う、会いたいと思う、という意味です。
第10話(→こちら)で宇文邕が、都にいる宇文護を思い起こしながら、

“宇文護現在必定是按捺不住”
(宇文護も待ちきれぬ思いだろう)

“朕也很想你呀”
(朕もそなたに会いたく思うぞ)

って言ってました(笑)。

そういや前回、ずっと離れたままだと死んじゃうとまで言っていてましたよね雪舞は。当然、ようやく再会出来て大喜び…なのかと思いきや、最初に出てきたセリフがコレ。

“你為什麼偷看貞兒洗澡”
(どうして貞児の湯あみを覗いたりしたのよ)

聞いた蘭陵王は不服そうな顔をしてます。ってそりゃそうだろ。
しかし雪舞は四爺の気持ちにはお構いなしの様子で、まるで相手が悪いような責めっぷり。

“你在這裡假扮多久了”
(いつから紛れ込んでいたのよ)

以前の回ならブチ切れてたかも知れないのに、周の同僚たちに揉まれたおかげか四爺はおとなしく答えます。

“我一直都偷偷跟著你”
(最初からそっと付けていたんだが)

どうもこのシーンの四爺は何だか表情がぼんやりしてて、
しかも相変わらず眠そうですよね…。

しばらく仮面に隠れて見えなかった間に中味が入れ替わってたりして…。
いや、そんな《宮》(『パレス〜時をかける宮女』)じゃあるまいし。

“你不知道你的身份 在這里很危險的嗎”

直訳すると、あなたの身分でここにいたらどんなに危ないか、分からないの?ということですが、意味するところは、敵国の皇子の身分でうろうろすんな、宇文邕に捕まったら目ぇくり抜かれっぞ、ってことですよね…あぁ、いえ、突然のことにパニックになってるのがよく分かります。

ってか、それを言うなら、あなただって敵国の皇子のヨメの身分でここにいるってご存知ですか? まさか、自覚がないのかな…?

まぁでも分かりますよね。すごく会いたいと思う気持ちの裏返しで、優しい言葉よりこういう態度に出てしまうっていうのは。

四爺もそれはもちろん分かっているので、当然のごとく、さあ帰ろうと促しますが、
当然、喜んで一緒に帰ってくれると思いきや、ここに残ると言い出す雪舞。

それを聞いて思わず後ずさりする四爺のリアクション、何度見てもおかしいです。

“每次他看到你的時候就像 就像沙漠里一隻野獸 渴了好幾個月了
看到了水 那麼飢渴 那麼淫穢”

(奴ときたら君を見るたび、まるで砂漠の獣が何か月かぶりに
やっと水を見つけたときのように 飢えたいやらしい様子をしているのに)


またもヒューズが飛んだ四爺は、言いながら一人で興奮してるんですけど、
ほんとこれ、前回雪舞が言ったように、相手の目ぐらいくり抜きかねないって。

しかし、そこはやけに冷静に返す雪舞。

“野獸不過是看到水 為什麼覺得淫穢呢?”
(獣は水を見つけただけでしょ?なんでいやらしいのよ)

ここの日本語吹き替えはとても上手いと思うのですが(ま、いつも上手いですが)、
「水」を「いずみ」と訳しています。

中国語でも“水”は「水」なんですが、“山水画”という言葉もありますように、
日本語で言う、河とか湖とかを指すことも多いんですね。

ここのセリフも、『スターウォーズ フォースの覚醒』の、砂漠の中に設置された水飲み場みたいなものではなく、オアシスとか、ちょっとした小川みたいなものがイメージされているはずなので、「水」ではなく「いずみ」と訳したのではと思います。(口の形とか、秒数とか、テクニカルな理由もあるのかも知れませんが…)

たった一文字のことですが、翻訳って大変だなあと思います。

と、視聴者が勝手に掘り下げていると四爺は、

“你不要跟本王深究這些 總而言之 他就對你有意思。
(そんなことは詮索しなくてよろしい。ともかく、
あいつは君に気がある)


と言い出します。
なんだ太っ腹は見てくれだけかぁ…と皆が見切っているのに、

“不要深究這些”
(そんなとこにツッコむな)

と言われてもねぇ…。

ちなみにここの四爺のセリフにある、

“意思”

という言葉はなかなか面白いです。

ここでは、“有意思”で「気持ちがある」=まさに「気がある」って意味なんですが、
同じ字面で「面白い(interesting)」という意味になることもあります。

この言葉を使ったテッパンの小話というのがありまして、こんな感じです。

エライ人が“紅包”赤い袋。ご記憶でしょうか、お年玉はこんな袋に入ってるんでしたよね)を渡されて…
 
“你这是什么意思?”  (これはいったい何の意味かな)  
 
“没什么意思,意思意思。”(何てことありませんよ、つまらない物です)  
 
“你这就不够意思了。”  (こんなことをしてもらっては困るな) 
 
“小意思,小意思。”   (ほんのちょっとした気持ちでして)   
 
“你这人真有意思。”  (あなたって人は本当に面白い人だな) 
 
“其实也没有别的意思。” (いえいえ、特に何かってことでもないんで)  
 
“那我就不好意思了。”  (じゃあ済まんがいただいとくよ) 
 
“是我不好意思。”    (お礼なんて却って申し訳ございませんですよ)

李安〈Li An/り あん〉とか祖珽〈Zu Ting/そ てい〉とか、しょっちゅうやってそう(笑)

忘れがちになりますが、そういや四爺は紅包をもらう方の立場の人だったんでした。
そして皆さまの予想通り、ここから先、四爺の自称は“本王”一点張りです。

“全天下人看得出來了 就是你沒有看出來”
(誰が見たって分かるのに、君だけが気づいていないんだ)

全天下人 (全世界の人)と来ましたね!そんな大げさな。あはははは。
雪舞もここぞとばかりに言い返します。

“你這是在醋意大發嗎?”
(それって巨大なヤキモチ?)

“醋”(酢)にヤキモチという意味があることは、第12回→こちら
でお話しましたね。

“我不管 反正你就是本王的 你就是本王的”
(何とでも言え とにかく君は私のものだ 君は私のものだ)

おやおや、いきなりこのお子ちゃまぶり、前回(第16話)で雪舞が宇文邕に話したことは本当だったんだ...と
、蘭陵王の豹変ぶりに驚愕する視聴者ですが、雪舞は慣れたものです。

王に対する庶民の態度とは思えないこの馴れ馴れしい態度、いやこれは宇文邕へのハッタリ君ではなく、ホントに日頃蘭陵王をつねっていたとしか思えない…

“現在才發覺 你的妻子有多麼國色天香了 是嗎”
(今ごろになって、あなたの奥さんは絶世の美女だったって気づいたんでしょ)

“國色天香”とは国を代表する名花という意味。百度先生によりますと、現代中国では国花は決めていないそうなのですが、この言葉の出来た唐代、それは“牡丹”を指していました。

「立てば芍薬、歩けば牡丹…」と、美女を花になぞらえるのは日中共通。

しかし中国語には、日本にはない“校花”という「名花」が存在します。
平たく言えば、ミス・キャンパスという意味ですが、必ずしもコンテストで決まるわけではなく、誰もが認める学校一の美女、を指すようです。

そんな“校花”を手に入れた男子は鼻高々、なのですが、当然、そんな特典を享受するにあたっては、考えようによっちゃ大変厳しい条件を耐え忍ばなければダメらしい。

その厳しい条件とは、“校花”はみんなのもの、という、暗黙の男子間ルール(笑)。
地域や年代によって違うのかも知れませんが、少なくとも北京ではそうでした。

私の直接知ってるケースは、当時としては珍しい、理系の才媛(写真を見せてもらいましたが、ホントにめちゃ美人)だったのですが、今はもういい歳をしたおばあちゃまなのに、表敬訪問と称してひっきりなしに昔のクラスメートが訪ねてきます。

そのたびに、旦那さんはニコニコしながらお茶を入れ、野郎共をもてなし、昔話に付き合わなければならないのです。

誰もが羨む学校一の美女と結婚できたってことは、旦那さん本人として嬉しくなくはなくないんでしょうけど(どっちだ)、延々そんなことに付き合わなきゃいけないなんて、疲れそう。

ましてや四爺のあの性格。ムリムリ…。

“開始擔心了? 你真可愛。”
(心配になった? 可愛い人ね)

1400年前にもそんなルールがあったのか、雪舞はしきりに四爺をからかいますが、どうやら必要十分条件を満たすことはできなさそうな四爺は、

“我不跟你說這些啊”
(この話はおしまいだ)

と話を打ち切ろうとします。直訳すると、もう君とこういった話はしませんよ、ということですね。

“我今天通知五弟 在邊關等我們”
(今日、五弟に国境へ迎えにくるよう知らせておいた)

この話を聞いたとたん、雪舞は四爺に抱きつきます。

“雪舞真的好高興”
(雪舞は本当に嬉しいの)
こう言って四爺を嬉しがらせておいて、

“就一天咱們回家了”
(あと一日いたら帰りましょ)

って要求を出すなんて、
雪舞も策士よのぉ…。

五爺まで呼んで帰国の手筈を整えてしまった以上は、最終兵器を出さないとお許しが出ない、とのとっさの判断だったんでしょうね。

ただ、さっきの優しい言葉が滞在を引き延ばすためのお芝居のように聞こえて、喜んだ四爺がちょっと可哀想な気がしますけどね…。

“求求你嘛 拜託你啦”
(ねぇ どうかお願いよ…) 

と、これも高一族直伝のおねだりワザを開陳されると、四爺はたちまちメロメロに。 
“這跟要挾本王有何區別 你知道我是拒絕不了你的”
(これじゃゆすりと変わらないな 
私に君の頼みは断れないんだから)


そんなこと言っちゃって、ホントに学習しないお人ですね。
いまこんな目に遭ってるのだって、元はといえば、第6話で阿怪を庇う雪舞のおねだりを聞き入れてしまったからではありませんか。

でもま、美女のおねだりを聞いて取り返しのつかない結果になるのは、中国史の伝統だからしょうがないか。

王の膝の上に侍ったまま、飲みホーダイで夏を滅ぼした末喜〈ばっき〉ちゃん。
酒池肉林の宴を催して、ゴージャス三昧で殷を滅ぼした妲己〈だっき〉ちゃん。
戦闘の合図の狼煙をお笑いのネタにして、周を滅ぼした褒姒〈ほうじ〉ちゃん。
名前不明だけど、ミンクのコートを貢がれて、敵を逃がしちゃった寵姫ちゃん。

など、など、など、など、さすが中国、人材豊富!

そういやこのドラマにも、先々国を滅ぼすおねだり寵姫ちゃんが登場するんだった。

しかしそこまでの予言はできないらしい天女の雪舞は、ニコニコと四爺を見送りながら、心の中ではおばあ様の予言した、

“兩狼互殺” (二匹のオオカミの死闘)

を思い出しています。

この二人、相手を思いやるあまり自分の心配事を相手に伝えない、という困った傾向があり、それが後々事態を悪化させていきます。これまでもたびたび、そういった例がさりげなく描写されていましたが、このシーンもその1つですね。

さて、雪舞の思いが呼び起こしたのか、仔ブタ陛下は来し方を思い、感慨にふけっております。

貞児のパパ・松本幸四郎…いや、宇文毓〈うぶん いく〉は史実でも宇文邕と仲がよかったとのこと。文武両道に長けていたとのことなので、きっとドラマ同様、宇文邕にもいろいろ教えていたのでしょう。

かわいそうに、死の床についたお兄様は、

“病入膏肓”(病、膏肓〈こうこう〉に入〈い〉る。もう助からない)

と話していますが、膏肓というのはツボの1つで、実際にはココが痛いからって死ぬわけではありません。

じゃ膏肓ってどこか、は意外に知られていませんが、背中の自分ではしっかり押せないところにあたり、肩甲骨〈けんこうこつ〉のちょうど上下の真ん中で、背骨側のヘリにあります。

ここのツボは胃酸過多とかダイエットに効くと言われていますが、要は、ストレスが溜まると痛むところなんですね〜。だからといって、むやみに押してはいけません。東洋医学は何でもそうですが、体質と症状によって処方が違うので、どこのツボを押したらいいかは人それぞれ。

動かしづらい場所なので、運動するとき意識して動かすくらいがちょうど良いのではと思います。

と、ヘルスケアに関するトリビアも虚しく、お兄様は(史実では息子の)貞児と弟の宇文邕を守るため、宇文護に毒を盛られても敢えて防がずに亡くなってしまいます。

隣の高一族同様、北周の宇文一族も血で血を洗う抗争を繰り広げたわけですが、宇文護は宇文邕からすると従兄にあたり、斉の皇太子・高緯〈こう い/Gao Wei〉にとっての蘭陵王と同じような立場の人なのです。

蘭陵王は建国の功労者の長子の子ですが、宇文護は建国の功労者の兄の子。一族の序列でいえば上の立場なのに、臣下の扱いなのは面白くなかったに違いありません。

宇文一族の出身でありながら臣下扱いの人として、ドラマでは他に宇文神挙〈うぶん しんきょ/Yuwen Shenju〉が出てきますが、川本芳昭先生の『中国の歴史5 中華の崩壊と拡大』によりますと、その他にも、鮮卑〈せんぴ〉族にはこんな習慣があったそうです。

「西魏二十四軍政制を見るとき(中略)…興味深い現象が見られる。それは各軍府の府兵はその軍府の長官の姓を名乗ったと考えられることである。

こうした習慣は胡族のもつ古い伝統に根ざすもので、自らが属する部族の長の名を自己の氏姓とするということが鮮卑や匈奴、烏丸などの北方民族の間では広く見られ、北魏の時代になっても受け継がれていた。」

「これは隋末のことであるが、隋末の英雄である李密が隋の煬帝を弑殺した宇文化及を非難して『卿はもともと匈奴の奴隷・破野頭の出である。それなのに父兄子弟はみな隋室の厚き恩を受けたのだぞ。…』と述べたことがある(隋書 李密伝)。」

「この李密の非難は、宇文化及の先祖の姓は破野頭といったが、その先祖が北魏の初めに宇文俟豆帰という人物に従属したので、のちその主に従って宇文氏を名乗ったことを踏まえているが(隋書 宇文述伝)、このことは北魏建国から200年以上たった七世紀初頭の時代にあっても、少なくともこうした主人の姓に従って自らの姓を名乗るという風習があったことを持ち出し、他人をからかうことが可能であったことを伝えている。」(274pp)


この場合、宇文氏に仕えた人が、主人の苗字をいただいて同じく宇文氏を名乗ったということになります。

日本で言えば、伊達家の家臣が、伊達の苗字を許される、てなとこでしょうか。

武将レベルでも相当な恩典ですが、これが皇帝の苗字ともなれば「国姓」としてそのステイタスたるや大変なもので、最大級の働きをした英雄に与えられることになります。

明代の終わり、清に抵抗して戦い、台湾からオランダを打ち払って有名となった鄭成功〈てい せいこう〉は、皇帝から明の国姓“朱”を賜ります。国姓を名乗るエライ人、ということで付いた呼び名が「国姓爺」〈こくせいや)。

歌舞伎の演目『国姓爺合戦』でも有名ですね。

一方、生まれついての国姓爺・宇文邕ですが、自分に兄上を毒殺させようなど“異想天開”だ、と泣き叫んでいます。

この言葉、日本語の「奇想天外」に当たるものだと思っていましたが、使われ方を見ると、どうやらちょっとニュアンスは違うみたいですね。

さて、お相手の宇文護の方ですが、すでに宇文邕を始末して皇位に付く気満々です。

皇帝のお召し物である金の“龍袍”にスダレ冠(第7話こちら に登場しましたね)をがっつり誂え、コスプレの用意も万端です。

もっとも、龍を刺しゅうした金や黄色の服が皇帝の衣装と定められたのはもっと後の時代のようですが…。ナショナル・カラーはですから、宇文邕のカラスルックが周的には正しいです。

で、ブラック皇帝陛下は朝ごはんに竜骨湯を召し上がるわけですが、医食同源の中華では、メニューにもいちいち効能があり、このスープは、

うつ病に効く

とされております。

何でそんなもの処方されてるんだか、うざいほどポジティブなのに…。
(あ、いつもそういうものを飲んでいるから鉄のメンタルなのか)

ところで、「竜骨」とはすなわち、動物の化石のことです。甲骨文字は、漢方にしようと竜骨を買った清代の学者先生が、そこに刻まれた模様を見て、これは文字だと気づいたことから発見されたとか。

何でも薬材扱いの困った習慣が、珍しくも良い方へ転んだ例ですね。

お飲物が貴重な古代の遺物かも知れないとはご存じない仔ブタ陛下、飲もうとレンゲを持ち上げたところに宇文神挙が来たので、実際には口をつけていません。

だから料理番がどっちの手先だろうと、きっと何ともなかったはずです。
お料理にがっつかないというのには、こんなメリットもあるのですね。

と、ティファニーのマナーブックを片手に鑑賞していると、お下品な方々が禁止事項ガン無視で乗り込んできます。

いまはそんなことないと思いますが、ひと昔前の中国の列車には、話に聞く日本の買い出し列車みたいに、ありとあらゆるものが持ち込まれていました。

ふとん、なべ、自転車などは可愛い方で、人の背丈ほどもある米袋とか(それ、手荷物っていうか普通)、ヤギとか(もちろん生きてるヤツね)、センザンコウとか(もちろん生きてるヤツね)、理解に苦しむアイテムも少なくありませんでした。

絶対ダメって繰り返し放送してるのに、花火を大量に持ち込む不届き者とか(天女さま、あなたのことです)。

当然、むくろもダメですよ!

と言ってみても、宇文護も不届き者なんで聞いちゃーいません。
そんな人たちに真顔で説教する宇文神挙はホントに怖いもの知らずというか何というか。

当然のごとく、手下どもに刀を突き付けられておりますが、よくも殺られなかったものだと…ぶるぶる(あまりに不自然なんで、実は最初見たとき、彼もグルなのではと思ってました。許して、宇文神挙!)

スープを飲んでもいないくせに、毒を盛られた…と、虫の息の宇文邕。皇帝だというのに俳優なみのスゴイ演技力です。つか仔ブタちゃん、その血糊はどこから…まさか『ズートピア』じゃあるまいし、ケチャップとかじゃないですよね。

それにしてもよく分からないんですが、宇文護はなんで今頃になって皇帝の座を狙い始めたんでしょうか。どうせなら宇文邕がもっと若いうちの方が良かったんじゃ?

とはいうものの、きっかけもなくクーデターを起こせば、さきざき歴史書にどう書かれるかは火を見るより明らか。

意外な気もしますが、こういう人たちは通信簿を気にする夏休み前の小学生みたいなマインドの持ち主だったようです。

小学生なのは宇文邕にも言える、というのはもうしばらくすると分かります。

ここで、宇文護は宇文邕に譲位の詔〈みことのり〉を出させようとします。宇文邕は寝殿に引っ込んでしまいましたが、李安はそこへサインした文書を取りに行くのを嫌がります。

宇文護の子分のくせに、なぜ肝心の詔を取りに行かないのかははっきり説明されていませんが、恐らく、宇文邕が「先」帝(笑)という身分になったとしても皇帝は皇帝、その身体(玉体)に触れたり、直接何かを受け取ることは、禁忌だったからだと思われます。

第8話(→こちら)でお話しました通り、直接声を掛けることさえ、本当は許されないくらいなんですから、いつもは遠く階段の上にいる皇帝陛下のお側へ、大冢宰ならぬ李安の分際で近寄ることなど考えづらかったのでしょう。

そんなら自分で行く(はぁと)と、さすがは宇文邕の想い人(笑)らしく、ずいぶん気軽に詔を取りに来た宇文護に刀をつきつける、仔ブタ陛下。

積年の恨み重なる従兄に“老狐狸”(悪賢い古だぬきよ)と呼びかけています。

おや、これまでは自分をオオカミに育ててくれたオオカミだと思ってたんじゃなかったでしたっけ。オオカミになったりタヌキになったり忙しいお人です。

ちなみに、中国語の“狐狸”は「キツネとタヌキ」ではなく、現代ではこの2文字で1語で、「キツネ」を意味します。

詐欺師一族としては、どっちもどっちのキツネとタヌキの化かし合い、なんでしょうけど。

ということで、キツネ(江戸前は油揚げ)とタヌキ(同天かす)両方入りの冷やしそば大盛りのことを、一部では「冷やし特バカ」と申します。

背筋も凍る夏の納涼メニュー、どうぞお試しあれ!

腹心が護ってくれるはずと信じていたのに宇文邕の計にはまり、自ら手にかけていたことを知り、大船どころか納涼屋形船に乗り組んだと悟った宇文護は、

“反間計…”(離間の策か)とつぶやいていますが、これは以前ご紹介した《孫子兵法》用間篇にある言葉です。

相手の力を削ぐために、大事な仲間と仲たがいさせようとする。

高緯に蘭陵王の悪口を吹き込んだ祖珽が企んでいると、第10話(→こちら)で雪舞がなじった計略ですね。

さあ、ついに宇文護を追い詰めた宇文邕。してやったりといつにもましてドヤ顔の特盛り状態です。とっとと決着を付ければいいものを、この後延々と過去のいきさつを語ります。

なんせあと放送時間が10分も残ってますしね。

ということもあるでしょうが、宇文邕としては、この後、本当の皇帝になるために、この場にいる全ての人(除:宇文神挙)が思っているであろう、

宇文邕はヘタレ
宇文邕は兄皇殺し
宇文邕は尉遅迥を見捨てた

という誤解をといておかなければいけないのでしょうね。
皆に思われているってことは、歴史書にもそういう記録が残ってしまうということでもありますし。

そうです。宇文邕も、通信簿に何て書かれるかを気にしなければいけない立場なんですね。

そして、我らが四爺も、スケールはやや小さいとはいえ、そこんとこの基本は一緒。何せ第9話(→こちら)で、史官に書かせるセリフのことまで皮算用してましたよね。

現代日本での存在感のなさからは想像がつきにくいことですが、古代中国で歴史を書く係の人は偉かったのです。

地位が高かったというだけではありません。地位の高さに見合うだけの、その根性が偉かったのです。

『春秋左氏伝』にこんなエピソードが伝わっています。

大史書曰 崔杼弑其君 崔子殺之 其弟嗣書 而死者二人 其弟又書 乃舍之 南史氏聞大史盡死 執簡以往 聞既書矣 乃還
(歴史を書く係である太史が「崔杼は自分の君主を殺した」と記録したので、崔杼に殺された。跡を継いだ弟も同じことを書いて殺され、死者は二人となった。するとその弟がまた同じことを書いたので、ついに赦された。

別の史官は太史たちが殺されたと聞き、「崔杼は自分の君主を殺した」という記録を残そうと竹簡(第16話参照)を持って駆け付けたところ、すでに史書に記されたと聞いて、帰っていった)


崔杼は、このドラマでいえば宇文護のような、当時の実力者です。彼が公位を簒奪したため、史官は簡潔にそう書きました。殺しても殺しても、次に史官になった者が記述を変えないので、ついには諦めた、という話です。

ま、殺された君主の方もロクな人じゃなかったのですが、それはまた別のところに書いてあります。毀誉褒貶は別にして、事実は事実として記録に残すというのが史官の仕事なのです。

この話は「太史の簡」という言葉になって残っています。意味は、どんな困難にあっても仕事をおろそかにしない、ということです。

だから第9話で四爺は史官に書かせるセリフなんか考えていますが、その通り書いてもらうのは、たぶんムリ。

史官のど根性といえば、中国でもっともよく知られた歴史家の1人、司馬遷のエピソードも思い出されます。

彼は当時の将軍をかばったために刑罰を受けますが、執筆中だった史書『史記』を完成させるためだけに生きている、書き終えたら極刑に処されようと構わない、と言い放った話は有名です。

こうまでして作られた書物に書かれた記録は、当然重きを置かれ、子子孫孫語り継がれると考えられています。

なので、後世、残った記録で自分の悪評が定まるのを恐れて、皇位を狙う者たちはウラの事実がどうであれ、表面的には禅譲が行われた(前任者に位を譲られた)と史書に書かせようとするのです。

何だかなーとお思いになるかも知れませんが、後世の評判を気にするのは、何も古代中国の話だけじゃありません。

たとえば、アメリカ初の黒人大統領オバマさん。

あらゆる意味で物議を醸してる後任選びのおかげか、すっかり影が薄くなりつつありますが、彼も任期の終盤を迎え、「どんなレガシーを遺すか」が注目されています。

レガシーとは遺産、この場合は業績ということですが、それはまさにのちの世に、何をした、どんな大統領だったと伝えられるかを意識することに他なりません。

で当然、記録のために回ってるであろうビデオカメラを意識しすぎたのか、宇文邕はセリフを引っ張り過ぎてしまい、その隙に貞児を人質に取られるという大失態を招いてしまいます。

宇文邕がどうなろうが(ヘタすりゃここでライバルが消滅してくれたらラッキーくらいに思っていたのかも)、

とにかくとっととこの場を立ち去りたい蘭陵王は、宮中の大混乱に飛び込もうとする雪舞に、

“這不關你的事”
(これは君には関係のないことだ)

と言いますが、もちろんそんなこと聞く雪舞じゃありませんって。

一方、貞児を放せとすごむ宇文邕に、

「取引できる立場ではなかろう」という声がかかります。
相変わらず上手い訳っすね。ここの原文は、

“討價還價”

値段の駆け引きをする、という意味です。

そこへ飛び込んでくる楊雪舞。突然の招かれざるゲストの登場に、当然、みんなはビックリです。

自己紹介も兼ねて、出た出た 雪舞のお得意、 

ハッタリ君!

何か物凄い魔法使いなのかしら?と、その場のみんなが思わず固まっていると、後ろからこっそり、蘭陵王が李安に近づきます。

ああ、李安〜! 後ろ後ろ!

四爺は何のためらいもなく、この場で最初に剣を振るったくせに、その後は左右をキョロキョロ見てるのが何ともはや。

その後、そんなに宇文邕の命令を聞くのが不服なのか、御意といいつつあからさまに不承不承で笑わせてもらいました。

しかし、笑ってる余裕もないこの場の宇文邕と宇文護。

最後の大逆転を賭けて、宇文護はこの一言を繰り出します。

“我是大周國的開國大將”
(私は周国開国の功労者だぞ)

你的父皇宇文泰 曾經下令 後代君王均不得殺之 你豈敢”
(そなたの父、宇文泰は、この先、皇帝といえども宇文護を殺めてはならぬと命をくだしたのだ。それを敢えて破ろうというのか)

父親に背くのか!とは、ダースベイダーがルークに投げつけそうなセリフですね。…

儒教社会、ましてや人の手本たる皇帝であれば、親の言いつけに背くことは重大な倫理違反な上に、開国の皇帝・宇文泰が下したのは、宇文護に、いわゆる“免死金牌”を与えるという命令で、これを無視することはできまい、という言わば二重の脅しです。

“免死金牌”とは、建国の功労者に皇帝が与える特権です。

“金書鐵券”“丹書鐵券”というのも基本的に内容は同じで、恩賞や特典をメダルや金属の板に書く、一種の契約書で、半分、またはいくつかに割って、割符の片方は他の人が持っていました(第7話→こちらで、祖珽が高緯に「勝ったも同然」という意味で“勝券在握”と言ってましたね)。

そこに、お前さんの働きで勝てたら、死罪に値することをやっても9回までは無効ね、とか、お前の子孫も死罪を免除してあげるよ、等々の約束事が書いてあるわけです。

なんでそんな面倒くさいことを…とお思いの方には、日本の戦国時代を連想していただければ分かりやすいと思うのですが、これから国を作るってことになれば代々の忠義者とかはいませんので、武将も当然、これやって何のメリットがあるわけ?と思っています。

なので、合戦とかで一番に斬り込んだり、勇猛な働きをしてもらったりしようと思えば、やっぱりインセンティブで釣るのが一番な訳です。

最初はご褒美や領地を約束した契約だった“鐡券”ですが、死罪を免じるという恩典がついたのが、ちょうどドラマの時代、南北朝だったと言われています。それには戦乱の時代ならではの切実な側面がありました。

これは第1話で雪舞のおばあ様も言っていましたが(→こちら)、兎を捕まえれば猟犬は始末されるのが世の倣い。

功労のあった将軍は、疑心暗鬼に駆られる新皇帝の側にいて、褒美を期待するどころか、場合によっては命の心配をしなければなりませんでした。

それが、のちのち皇位を簒奪するかもしれない親戚筋ならなおさらのことで、建国にあたって助太刀した他民族とかも同様です。

だから、皇帝は将軍や親戚や帰順してきた他民族の武将たちに、私も、そして後継者たちもあなたに危害は加えません、という約束を与えておくことで、頑張って働いてもらおうとするわけです。

これが簡単にひっくり返せるようなら、約束になりません。いくら皇帝でも、重要な約束を反故にするようならば家臣は離反するはずです。なので宇文護も、絶体絶命の瀬戸際にこの話を持ち出してきたのでしょう。

でも、いくら取り決めだって、自分の命が危ないときに、それを守ろうという皇帝もいないでしょうね…。

結局、宇文邕は剣を振るい、

“朕即天下”
(朕こそが天下だ!)

と宣言するに至ります。

ってことで、宇文護によるクーデターはどこぞと同様失敗に終わり、ひれ伏す皆さん。とりあえず、長安市民に被害が及ばなくて済みましたね、は良いんですが、ここで宇文護の付き人も全員どさくさにまぎれてバンザイ側に回ってるんですけど…。

とまあいろいろありましたが、西暦572年、“韜光養晦”(才能を隠して外に出さなかった)12年の忍耐を経て、宇文邕は実権を手にしました。これは史実も同様で、ツメを隠して12年、ボンクラ皇帝を演じてきたその演技力と知力はやはり大したものと言わざるを得ません。

宮殿内外の様子を報告する宇文神挙にいろいろ確認事項もあるだろうに、質問の2つめが、“那天女呢?”(で、天女はどうだ)ってあたり、まだ演技が抜けきってなかったのかも知れませんが。

宇文邕が雪舞の不在に気が付くまでにどのくらい時間がかかったのか分かりませんが、四爺と雪舞は夜になって、国境までたどり着いたようです。

が、五爺と落ち合う予定の旅館で馬を下りると、周りをぐるりと周兵に囲まれてしまいます。

こんなにいっぱい人が潜んでたのに気配さえ察知してないとは、大丈夫ですか、この将軍?

しかもそこへ、四爺的に二度と見たくなかったであろう、宇文邕が現れます。

“怎麼要走了 也不跟我說一下”
(出ていくというのに、一言もなしか)

お取込み中だったみたいですからね…。

“原來你 一直潛伏在周國”
(おまえがずっと周に潜伏していたとはな)

言われた蘭陵王は黙って宇文邕を睨んでいます。
宇文邕が蘭陵王を見るのはここまでで、後はずっと雪舞を見たままです。

“宇文邕 我知道你是好人 你放了我們吧”
(宇文邕、あなたが良い人だって知ってるわ。私たちを放してちょうだい)

言われた腹黒陛下は実に微妙な表情をしています。

“朕最害怕的 就是你走”
(朕がもっとも恐れることは、そなたが去っていくことだ)

続けて、その理由を述べられますが、そこのセリフはなんていうか、出来の悪いバラードの歌詞みたいです。“朕”だからまだ見てられるんですけど、主語を「僕」とかに変えたら、おやつのゆで卵を吹き出してしまいそうですよ。

我慢してご紹介しますと、

“從來沒有一個女子 可以不把朕當皇帝看
(これまでどんな女子も 朕を皇帝としてしか見なかったというのに)

卻又跟朕如此地沒有距離
(少しも距離を感じさせることなく)

讓朕毫無防備之心 吐露真言
(朕の心を開かせ 胸の思いを話させてしまう)

當你涉險去救貞兒的時候 朕第一次感到擔心
(そなたが危険を冒して貞児を救ったとき 朕は初めて怖れた)

從來沒有一個女子 可以讓朕如此地擔憂
(いままでこれほどまでに 案じた女子はいない)

朕 真的很想把你留在身邊”
(朕は何としてでも そなたを側に置きたい)

あの一連のゲス騒動でさえ起こらなかった、
婚約者の目の前で女をくどくという、あり得ないシチュエーション。

かくも長いセリフの間、蘭陵王は宇文邕を睨んだり目をそらしたりと
バリエーションをつけつつ反応してるわけですが、よくも黙ってたもんだ。

そりゃもちろん、台本にセリフがないからでしょうけどさ。

でも、中国の人は一般に、日本人みたいに人の話にひっきりなしに相槌打ったりしないみたいです。なので電話で中国人のお友達が愚痴って来たら、スピーカーフォンにしてずっとしゃべらしとけば特に問題ないらしい。お試しください。

逆に、てきとーに相槌を打つと、「私の話にさっき賛成したじゃない!」と言われて修羅場になったり、アメリカ人に至っては、頻繁に相槌を打たれると逆に「人の話をちゃんと聞かない」「こちらの話をやめさせようとしている」と不愉快に思う人もいるらしい。気を付けませう。

黙って聞いてたのは雪舞も同じですが、言わせておくと切りがないと思ったのか、いきなり話を打ち切る方向に持っていきます。

“我都要成為他地妻子了”
(だってすぐ私はこの人に嫁ぐのよ) 

ここに「どか〜ん」って効果音が入っているように聞こえるのですが、空耳でしょうか。

言われて、宇文邕はまるで今初めて聞いた話みたいに蘭陵王の方を見てますけど、周に来る直前の時点で、雪舞はちゃんと宇文邕にそう言ってましたよね?
都合の悪いことは、知らんふり♪ なのでしょうか。

それでも宇文邕は皇帝、当たって砕けろ♪ みたいなことはせずに、

“要是因為你 讓朕弄得跟土匪一般
那還真是貽笑大方
楊雪舞 你可要記著 對朕有過承諾
把朕當成是一輩子的朋友”

(もしそなたのために、盗賊のような真似でもしたら、
それこそいい物笑いの種だな。
楊雪舞よ 忘れるな 朕に約束したことを
朕と一生の友でいることをな)


さすがは陛下、民草のお手本なだけはあります。

“蘭陵王你也幫朕最不喜歡欠人情”
(蘭陵王 お前にも助けられた。
朕が何よりも嫌うのは借りを作ることだ)


とも言っていますが、どの時点で蘭陵王が助けたと分かったのでしょう。

太刀さばきか?

とにかく、宇文邕は約束を守る男。
捕虜は全員解放したし、自ら斉国まで雪舞を送り届けましたよ(誰も頼んでないけど…)。

どこかの誰かさんとは大違いですよね。

さらに何か虫の報せでもあったのか、こんなことを言い出します。

“但是在我有生之年 若你讓楊雪舞受傷離開你
朕在也不會讓她回到你的身邊”

(朕の目の黒いうちに もし雪舞が傷ついてお前の元を離れたなら、
二度と帰しはしないぞ)


蘭陵王も、理由は聞かずにまともに返します。

“對不起 就算天塌下來 你也不會再有這種機會了”
(悪いが、天が崩れてきたとしても 二度とそんな機会はないだろう)

そう言われた雪舞が、にっこりして蘭陵王を見るのもいいですね。

そこへ、長ゼリフの間に神挙が一生懸命書いたのか、停戦協定書が運ばれてきます。

“這份停戰協議 我替大齊的子民謝謝你”
(この協定書 大斉国の民に替わって礼を言う)

それはそうと、もらったものの重大さに比べて、片手で受け取ったり、返事の“謝謝你”(どーも)っての軽く聞こえるんだけど、どうなんでしょ。

真紅の大優勝旗を贈呈する」
「どーも」

レジオン・ド・ヌール勲章を授与する」
「どーも」

AKBのセンターを命ずる」
「どーも」

どーも違う…。

恐らく単純に喜んでいる雪舞とは違って、四爺はこの協定書の別の意味も、いちおうは考えているものと思われます。宇文邕は渡すときちゃんと言っていますが、政権が代わったばかりで不安定なので、国力を養うために停戦したい、ということは、力がついたら何してくるか分かったものではないからです。

私の一番好きなマンガ、藤崎竜先生の『封神演義』に、実に深〜い一言があります(このマンガ、いかにもな少年向けマンガと見せかけて、あちこちズブズブ深いところがあるのですが)。

お話の舞台は殷〈いん〉から周に替わる時代、今から3000年以上昔の、紀元前1027年ごろのこと。
(この周は一番古い時代の周。非常に長く続いた王朝のため、この周にあやかってか、中国史には何度も周という国号が登場します。宇文邕が皇帝をしている周もその一つなので、区別するため歴史上では「北周」と呼んでいます)

主人公の太公望・呂望〈たいこうぼう りょぼう〉(72才)は周を援けて、妲己〈だっき〉に乗っ取られた殷を滅ぼそうとします。

しかし、妲己ちゃんは恐るべき妖力と、スーパー宝貝〈バオベイ/戦闘アイテム〉を持つ狡猾な仙女でしかも美女でプリプリプリンちゃんと来てるので(え?)、太公望を初めとする仙人・道士たちが束になってもかないません。

お話も終盤(第17巻)、太公望は助けを得ようと、伝説の大仙人、太上老君〈たいじょうろうくん〉(?000才)を探しに出かけます。

面倒くさがりで滅多に起きてこない太上老君を何とか探し当てると、これがまたジャニーズ系の飛び切りなイケメンであります。

そもそもこのマンガ、主要な登場人物の年齢がだいたい60才以上〜3000才程度の超高齢者ばかりなんですが、主人公の太公望にしてから72才なのに、見てくれ16、7才の青少年に見えます…というところで、私はハタ、と膝を打ちました。

この話、元々が中国明代の古典小説なのに、内容も実は終盤まで、ほとんどマンガと一緒です。つまり、殷と周すなわち、神話と歴史の時代が交代する時期の史実をベースにしつつ、仙人・道士・人間・妖怪が入り乱れ、各々アイテムを駆使して相手を倒し、封神榜(打倒リスト)を完遂するというもの。

大事なことなので3回言いますけど、このファンタジーゲームそっくりなあらすじは、今から500年以上前に成立した原作(古典小説)通りなんですよ!

で、小説の挿絵は実年齢(?)にふさわしくおじいさんばっかりですが、マンガの方はイケてるビジュアルの登場人物ばかり。何でよ...?と思ったけど、そうだった、仙人・道士は不老不死、つまり、いつまでも若いんです! だから挿絵の方がまちがい。

何で今までそこに気づかなかったんだろう? そう思った瞬間、私はこのマンガのトリコに…。

あ、話が逸れちゃった。

そのイケメンな太上老君が最強というにはあまりにもダラダラしているせいか、太公望は自分のダラダラぶりを棚に上げて尋ねます。

「おぬし 妲己より強いか?」

太上老君はいつになくキリッとして答えます。

「彼女には決して負けない」

ここでページが変わって、次のセリフは、

「なぜなら 戦わないから!」

それを聞いた太公望は膝かっくん、となるわけですが、孫子の兵法のなんたるかを知り、ドラマもここまでご覧になった皆さまにはよくお分かりのことでしょう、この言葉の深さが。

そう、戦わなければ負けることはないのです。
そして、戦わないということは、いかに困難であることか!

このあたり、ちゃんと中国哲学の基本を押さえてオリジナルなお話にしてるところがまた素晴らしい。

このマンガ、またちょっと先で登場することになるので(え、まだやるの?)今回はここまでにしておくとして、宇文邕が実権を握って最初にしたことは、実にウルトラCなことでした。

いまこの不安定な国内情勢のまま攻められたら、下手すると国ごとなくなっちゃうかも知れません。
それを、いかにも恩着せがましく防いだわけです。さすが忍従12年は伊達じゃない!

そして、受け取る側の人にとっても、コイツは非常に悩ましいアイテムなのですが(宇文邕がくれた、ってことを差し引いても、四爺は実は受け取りたくなかったことでしょうよ…)、それは次回以降のお話。

宇文邕はじっと雪舞を見たあと目をそらして、

“在朕反悔之前你們走把”
(気が変わる前に去れ)

と言い、言われなくてもそうする、と書いてある四爺の背中を見送りつつ、

“好不容易找到懂朕心的人 朕卻不能把她留下”
(ようやく心が安らぐ相手を見つけたのに、そばに置けぬとは惜しい)

と独りごちます。

そのつぶやきを聞いてうなだれる宇文神挙。

あなたの心を分かっている人は、雪舞の他にもちゃんといるわ、仔ブタちゃん!
部下と奥様を大切にね! とエールを送って次回へ続くこちら


posted by 銀の匙 at 02:38| Comment(4) | TrackBack(0) | 蘭陵王(テレビドラマ) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年07月03日

18歳以上の皆さん、参議院選挙の投票に行きましょう

皆さま、こんばんは。
選挙日当日、仕事が入りそうだったので投票を済ませてきました。

どうせ自分が入れても入れなくても一緒とか、
誰にも期待できないとか、
民意に任せたら却ってヤバいこともあるじゃないかとか、
ネガティブ要素はもちろんありますが、
制度のよしあしは取りあえず置いといて、
昔の人たちが時間や労力、ときには命も投げ打って手に入れた選挙権、
投じた結果が未来をどう変えるか、きちんと考えることも含めて、
受け継いだ私たちが大事に使わなければ…。




posted by 銀の匙 at 01:38| Comment(4) | TrackBack(0) | 催し物 リマインダー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年06月26日

世界を救った男たち(表記以降、ストーリーに触れています)

s-lelaki.jpg
(写真は映画館サイトより)

ひょっとしたら初マレーシア映画鑑賞かも。

「アベンジャーズ」のサブタイトルみたいな題名なんですが、本国では劇場公開はされたものの、特に娯楽映画という扱いではなかったらしいです。

ただ、日本での上映は、今のところ、なら映画祭と、横浜のシネマ・ジャック&ベティでの限定公開(昨日、本日6月26日14:50〜)のみ。ですので、もしタイトルが気になったら、迷わず横浜・黄金町に行きましょう!

私は、貰ったチラシの写真↑ に凄く興味を惹かれて出かけてみました。
上映後に伺った字幕翻訳家の方の解説によると、これは、マレーシアや周辺国で伝統的に行われていた(る)家の引っ越し法だということで、大がかりな御神輿みたいに見えるんですが、伝統的な家屋は地面にしっかりと固定されているわけではないため、このように担ぐことが出来るらしい、ということでした。

お話は、結婚する娘のために家を用意しようと奮闘する花嫁の父・アワンが、森の中の廃屋を移動し、補修して使おうとしたことから始まります。

みんなが力を合わせれば、結構大きな一軒家を動かすほどの大きなことができるのですが、その一方で、団結力が思わぬところでアダになる出来事が…。

マレーシアの農村に題材を取ったドタバタストーリーではありながら、実は世界中どこででも、どんな時代でも起きそうなことをシンプルな出来事に凝縮していて、上手いなっ、と思った映画でした。大人の俳優も子役さんたちもいきいきとしていたし、どうやって食事をするのかとか、イスラム教徒だから挨拶、アラビア語なんだ!?と驚いたりとか、マレーシア初心者にとっては、農村での日常生活の様子も何気なく伝わってきて興味深かったです。

上映の情報はこちら→シネマ ジャック&ベティ



さて、こういう映画でネタバレも何もないのですが、ご覧になれる方はここまで、ということにしていただいて、以下はもうちょいお話の続きを。





アワンさんのために、村の男たちは総出で手を貸すのですが、一気に目的地まで家を移動するのはムリなので、何日かかけて動かします。

もともと、森の中に廃屋なんてお化け屋敷だ、くらいにマイルドにビビっていた村人たちは、そのうちの一人が夜、家に悪魔がいるのを見た、と騒いだのを機に、急激に不安を募らせていきます。

最初のうちは迷信だと一蹴していた村長も、同時に起こったいくつかの難題に手を焼いているうちに、アワンさんの希望通りには村人を動かせなくなってしまいます。

村人の方は、化け物退治のために女装して自警団を結成するなど、騒ぎはどんどんエスカレート。アワンさんは迫害される身となり、ついにはキレて悪魔上等とばかり、化け物に扮して自分が村人を脅かす側に回ってしまいます。

実は、最初に村人が目撃したのは、警察に追われて逃げ出し、くだんの家に勝手に住み着いた、よそ者の黒人だったのですが、彼は危機管理能力があるというか非常に機転の利く人で、村人が尊敬しているらしい政治家のポスターを見て、とっさに彼の友人だと名乗る。で、村人は彼を全く疑わず、ついに黒人と鉢合わせした化け物にコスプレ中のアワンさんを捕まえようと駆け出していく…



上映後の解説によりますと、映画はどうやら、マレーシアのムラ社会あるある、といった内容がふんだんに盛り込まれているそうで、映画的にアレンジしたり、誇張したりはあるものの、人々が心の中ではお化けの存在を堅く信じていたり、商売熱心で怪しげな祈祷師にカモられたり、うさんくさい政治家を村ぐるみで応援していたり、催しに政治家が必ず遅刻してきて、お出迎えするころには皆疲れ切っていたり…といったネタが惜しげもなく詰め込まれているらしい。

そういう訳で、上映時には当地の映画人が、「マレー人をバカにしている」と言う理由で、公開しないように抗議したり、結構議論があったらしいです。幸いにというか、映画は無事上映され、本国できちんと賞も取ったとのこと。

そしてこの映画、実は日本人が見ても、若干アイテムを入れ替えるだけで、あぁ、日本でもあるある、って感じです。

まずは、お化け(精霊)を信じてるなんて、未開民族みたいでマレー系のご本人達的にはイヤだ!ってことらしいんですが、日本人だって八百万の神は信じてるし、祟りが怖くて祈祷や太鼓で追い払おうとする(これは映画的な誇張らしいです)のも、日本だって事務的とはいえ地鎮祭とかやるし、似てますよね。

だから、迷信と言われようがどうしようが、そういうことをしないと落ち着かないという気持ちはとても良く理解できます。

それを面白おかしく描写されたら、バカにしてるって腹が立つという気持ちも分かります。例えば、お祭りで毎回死人が出る、とかいうと、どんな土人の風習かと思いますが、日本にもその手の命がけなお祭りはあるし、日本だけじゃなくて、スペインとかにだってありますよね。よその人は野蛮だとか言うけど、土地の人にとっては神聖なもので、他人にとやかく言われたくない。

ただ、監督さんが描きたかったのは、迷信深いマレー人たちが引き起こしたくだらない騒動の話、というのではなくて、一人ひとりは純朴で親切で良い人でも、集団になると途端に矛盾に気が付かなくなったり、別の意見が言えなくなったりしちゃう、という怖さなんでしょう。

ムラどころか世界中かなりの場所で多かれ少なかれ、こういうことがあるんじゃないでしょうか。

解説で翻訳家の方が、原題には「希望」、英文タイトルには「世界を救う」という言葉が使われてるけど、希望もないし、世界も救わなかったです、とおっしゃってウケていましたが、このタイトルに込められている意味について、ぜひ監督さんに伺ってみたいものです。

たとえば、健康法なんか最たるものですが、何かを世間的にいったん信じてしまうと、根拠が薄弱だろうがそれに異を唱えるのは難しいし、そもそも中に居る人には常識なので気づくことすら難しい。監督さんはマレー系ではないそうなので、余計非難の対象になったんでしょうが、解説の通り、外から見て初めて気が付くことというのはあるものなんでしょうね。

アワンさんは芸能生活をやめてしまった歌手、という設定になっていて、最初、みんなが家の引っ越しを手伝うとき、行きのトラックで請われて、しぶしぶ歌をうたうシーンがあります。みんなが知ってて唱和するのですが、何となく日本の演歌的な哀愁を感じます。

上映後、その歌の歌詞の中でキャッサバとチーズになぞらえていた事柄について質問がありました。

どうやら該当箇所はマレーシアの言葉ではないようで、翻訳家によると、インドネシアでは前者は貧困層を、後者は富裕層を象徴するということは分かったのだけれど、ということでした。

映画のエンドロールにはこの歌が流れ、最後の唱和の部分も劇中そのままに使われて終わります。良い方に作用すれば素晴らしい団結力がいとも簡単に集団いじめの方向へ転換してしまう滑稽さ(迫害される本人にとっては、恐怖以外の何ものでもないでしょうが、傍から見てると一部始終がバカバカしいです)とやるせなさを、見事に表現したエンディングだと思いました。

リュウ・センタット監督
映画の公式HPは→こちら


ぴあ映画生活
posted by 銀の匙 at 02:10| Comment(0) | TrackBack(0) | 映画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年06月19日

帰ってきたヒトラー

kh.jpg
さすがは総統、完売です。

映画館に連れてきていただくまで、この映画の存在すら全く知らなかったです(情報感度低すぎですね…)が、朝一の回が始まる前に、すでに午後の回も売り切れという、恐るべき人気作。

いやぁ、笑いました。

ビジュアルネタで笑い、ドタバタネタで笑い、コントで笑い、ブラックユーモアで笑い、ヒトラー映画のパロディで笑い、メルケルで笑い、と次々繰り出される大ネタ小ネタの波状攻撃に、全館大爆笑です。

自分、ドイツ語は全然分からないんですが、セリフ回しも、独りだけ大げさな(か、古いのか?)人がいる、というのは明らかに分かるので、そこも取りあえず笑えます。

2014年のドイツに、こつぜんと現れた〈本物の〉ヒトラー総統。誰もが変人か、お笑い芸人かと思い込むうちに、彼は草の根の人々の不満を聞き、記念撮影に映り込み、ネットで話題になり、TVに登場し、果てはベストセラーまで出版します。

さすがと言うべきか、相手のからかいや嘲笑を巧みに躱してカリスマ性を見せつけ、真面目でときにチャーミング、そのブレない主張には思わぬ説得力もあったりして、次第に彼の周りには共感が広がってゆきます。

彼を利用して何とかテレビ局に復職しようとするテレビマンのザヴァツキは、初めは成功を喜んでいたものの、危険に気づいて事態を収拾しようとしますが…。


ドイツネタのうち、ものまね芸人(?)のポテンシャルにいち早く食らいつき、スターダムにのしあげた敏腕TV局長を「(ナチ党大会などの傑作映像を撮った女性監督)リーフェンシュタールのようだ」っていうのだけはかろうじて分かって笑ったんですけど、詳しい人が見たらさらにおいしいネタがてんこ盛りだったことでしょう。

それでも、こっちはドイツの事情なんかほとんど知らないのに、結構ギャグは分かるもんだな〜なんて、最初はお気楽に観ていたけれど、そのうち、いや待て、そうじゃないと気づいてからが怖かった…。

周りの人の反応が写メ撮ったり怒ったり敬礼したり等、すごくナチュラルなんですが、実際にヒトラー役の人とロケしてドキュメンタリー的に撮影した箇所もあるんだそうです。

ヒトラーに会った人たちの、表情や反応、コメントなんかを見ていると、かなりの部分はそっくりそのまま、日本事情を代入してもバッチリ当てはまります。

人々の不満を吸い上げ、現状の不甲斐なさを告発するヒトラーを、「ドイツの悪口を言うんじゃねーよ、反独野郎」、とネオナチがボコるシーンはマジで笑えません(…笑ったけど)。

ドイツの人たちが愚痴ったり、不満に思ったりしていることも、かなりの部分が日本と似ています。ってゆうか、すごく良く分かります、その気持ち。

それを、懲りない人たちだと非難するのは簡単ですが、そういう不満を教育で抑えようとしたり、タブー化して言わせないようにすれば問題が解決するのかといえば(どうもドイツはそういう解決法らしいですね、映画から見る限りでは)、恐らく根本的な解決には全然なってないだろうと、傍から見ても思います。

じゃあどうすれば良いんでしょうか。ホントに困ったもんです。景気だの、政治だの、大きな問題は個人の手に余ります。こういう事は国がしっかり対応してくれないとね、と私のような庶民はつい思ってしまいます。

しかしです。

映画の中のヒトラーは繰り返し、民主主義について語ります。そうです、彼は選挙で選ばれた、正当な国の代表者。専制君主でも魔術師でもありません。

私たちは横暴な人を、つい「ヒトラーのようだ」などと言ってしまったり、映画やテレビで狂人のように描かれているのに慣れていたりしますが、きっと本物のヒトラーはこの映画に出てくるように魅力があり、その方向性はともかく、彼なりにドイツとドイツ国民のためを憂いて行動していたに違いありません。

つまり、良きにつけ悪しきにつけ、選択の責任はドイツ国民にあるのだと、堂々とドイツ映画で主張したドイツの映画製作者の勇気を、とりあえずは称えたいと思います。

デヴィッド・ヴェンド監督

そのほかの映画に関するエントリーは→こちらから、
フェイバリット映画100のリストは→こちら です。


ぴあ映画生活
posted by 銀の匙 at 21:46| Comment(0) | TrackBack(0) | 映画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年05月23日

山河ノスタルジア 《山河故人》/注記以降、ストーリーの結末に触れています

監督の名前で映画を観に行くことはあまりしませんが、ジャ・ジャンクー(賈 樟柯)監督は例外で、第1作の『一瞬の夢』(《小武》)以降、日本で公開されたものはほとんど観ています。

市井の人を主役に据え、誰の身にも起こりそうな出来事を描きながら、どこかにふっと大きな飛躍がある。そのギャップが面白いし、ストーリーや映像の時間の流れに余白がたくさん取ってあり、観る人がさまざまに思いを巡らせることができるのも魅力だと思います。

どんなストーリー、と聞かれて何十字かに要約してしまうと、全然映画の中身を伝えたことにならないという、その手の作品ばかりです。

今回の『山河ノスタルジア』は、ちょっとこれまでの彼の作品とは毛色が違うように感じられましたが、これまでとは別のアングルから、やはり観る人の心にぐっと触れてくる映画でした。

例によって紹介するのがとても難しいストーリーで、映画を観終わったあとで配給の作品紹介を見てみたら、確かに間違いじゃないんだけど、ちょっとこれは違うんじゃないかと思ってしまいました。

ということで、上手く伝えられるか分かりませんが、何とかご紹介してみると...。

物語は1999年、新しい世紀を迎えようとする中国の田舎町、山西省の汾陽〈ふんよう/フェンヤン〉から始まります。いかにも田舎の町にいそうな女性、タオと、彼女と付き合いたい2人の男性、ジンシェンとリャンズ。ジンシェンは当時の経済の自由化に上手く乗っかって羽振りがよく、一方のリャンズはすでに過去の産業である鉱山で働いています。

どうやらどちらかが特に好きなわけでもなさそうなタオですが、結局、2人の男性のもめごとをやめさせるような形でジンシェンと付き合うことになり、リャンズは町を離れる決意をします。

時は流れて2014年、病を得て町に戻ったリャンズは、療養費を工面するために古なじみと顔を合わせる羽目になります。そして…


まずは、物語の舞台を汾陽にした、というのがとても効いてると思います。監督の出身地だそうなのですが、第三者の目でみれば、お世辞にも麗しい山河とは言えない埃っぽい町で、言葉はなまりがきつくて聞き取りづらく、まさに「ザ・中国」な田舎の町です。

他に登場する上海とか、オーストラリアとか、そういった場所がいかにも現代的なのに対して、汾陽は根っこが田舎のまま。だからこそ、昔ながらの駅舎をピカピカの超特急が通過していくシーンなんかが、SFのように感じてしまいます。

一方でこの地は、中国史の古い伝統が詰まっている場所でもあります。いまちょうど別エントリーでずっと見ているテレビドラマ《蘭陵王》(→記事はこちら)なんて、舞台はちょうどこの場所です。リャンズの奥さんの出身地は邯鄲〈かんたん/ハンダン〉、つまり数々の王朝が都をおいた、かつての鄴〈ぎょう〉城です。

何千年の歴史の積み重ねも時代の流れの中にあっけなく置き去りにされていくなか、画面には、要所要所で地元の名酒「汾酒」が映り、田舎を捨てて海外に出ていく男の名は皮肉にも晋生〈ジンション=山西省生まれ〉。

古なじみ(故人)が根無し草のように散ってはまた吹き寄せられてくる光景に身を置きながら、タオは、時の流れの中で気づいていくことについて想いを馳せます。

黄河は、その岸辺に立つ者たちの想いには頓着せぬかのように、あるいは人々の感傷を映し出すかのように、氷の塊を運びながら、ただ滔々と流れて行くのです。

自分もちょうど物語の始まった時代の中国しか知らないので、記憶の中の中国はちょうど映画の最初の方のシーンとそっくりで、懐かしいなあと思いながら観ておりました。服装とか、ディスコでの踊り方とか、町中のお店とか、人々の挙措動作とか、本当にあんな感じです。

今はきっと見る影もなく変わっているに違いありません。昔が良かったとかそういう話ではなく、当時日本から中国に行ったときは、タイムマシンにでも乗せられたように、話に聞く昔をリアルタイムで再現されたような気がしていたし、いま中国に行けば、玉手箱を開けた浦島太郎みたいに、一気に同時代の国になっていることでしょう。外から見る以上に、中に居る人にとってはすさまじい変化だったのではないかと思います。

で、ジャ・ジャンクーの映画はこのように、誰にでも起こりそうなこと、の部分が実際の出来事に題材を取っていたりして非常にリアルなため、監督の御膝元の中国では身につまされすぎてドキュメンタリー作家みたいに思われているようですが、現実の出来事や、中国の世相・社会問題に引きつけた視点だけで彼の映画を観るのはちょっともったいないなあという気がします。

この作品は彼の映画にしては珍しくエモーショナルな描写があるのですが、それでも過度に感情的にならずに、登場人物たちの感情を丁寧にすくいあげながら物語が進みます。普通なら、そのまま良質の文芸作品としてまとまってしまいそうなところ、ジャ・ジャンクーは時空を鮮やかに飛び越え、その先の物語を語ってみせるのです。

中国は、一度の人生の中にしては時間的にも距離的にも隔たりが大きすぎる経験を誰もがする時代です。
この映画で描かれているようなことをわが身に置き換えて観る人も少なくないでしょう。

そして、中国の観客でなくても、この美しい映画を観て涙が止まらなくなるのは、誰しも記憶の中に懐かしい風景や大切な人がいて、しかもそれは永遠ではないことを改めて思い起こすからかも知れません。

渋谷Bunkamura ル・シネマ1で観ました。
縦に長い劇場なので、あまり後ろだと見づらいかも。
観やすい席はF、Gの6、7番あたりです。

以下、お話の結末に触れています。
ネタバレOKな方のみ、以下をどうぞ。











さて、ネタバレもOKになりましたところで、お話をもう少し詳しく振り返ってみましょう。

まずは1999年の第1パート。
タオはジンシェンとの結婚式にぜひ出席して欲しいとリャンズの家を訪ねますが、リャンズは招待状を家に置いたまま、家に錠をするとその鍵を放り投げ、町を出て他の省で暮らすといって出て行ってしまいます。

時は流れて2014年。ここが第2パートになります。
肺病にかかったリャンズは妻子と共に、汾陽に戻ってきます。古なじみを訪ねて療養費を借りようとしたのですが、逆に借金をして海外に出稼ぎに行くという話を聞かされてしまいます。

結局、妻が、置いたままの招待状からタオを尋ねあて、タオはリャンズの元を訪れて、資金と、彼が捨てて行った家の鍵を渡します。

タオの方は、実はすでにジンシェンと別れてしまっていて、二人の間の子ども、ダオラー(到楽/米ドルの意味でジンシェンが名づけた)は父親が引き取り、上海で育てています。タオの父が亡くなり、葬儀のために汾陽へやってきた7歳のダオラーは、タブレット端末で上海の後妻と話してばかりで、タオにはろくに口もききません。

上海への帰途、飛行機も特急も使わず、鈍行列車に乗るのを不思議がるダオラーに、

「各駅列車ならそれだけ長く一緒にいられるでしょう?」

と言い、タオは汾陽の家の合鍵を、ダオラー自身の家でもあるのだからと言って渡します。
しかしダオラーはタオの事にも、鍵の事にも興味がありません。これから移住するオーストラリアの美しい風景だけに関心があるのです。

そして、ここからがいよいよ、ジャ・ジャンクーらしい第3パートに入ります。

物語はいきなり、2025年。
オーストラリアの大学にいるらしいダオラーは、もう英語しか覚えていません。父のジンシェンはピーターと呼ばれていますが、別にオーストラリアが好きなわけではないらしく、「反腐敗運動」の影響で、帰国すれば逮捕されるのではないかと怯えているだけです。

ダオラー自身は何にも興味が持てず、大学を辞めて自由になりたいとばかり考えています。父には反発し、大学教師のミアに母のことを聞かれても、自分には母はいないと答えるばかり。

ところが、彼はいつしか、親子ほど年の離れたミアに惹かれていく。そして、彼は当時も、そしてこれまでも全く関心を寄せていなかったかのような母のことを突然に思いだし、ミアに告げるのです。

母の名前はタオだ。「波」と同じだ、と。

窓から、初老の女性が外を見ています。かつてジンシェンに、犬の寿命なんて15年だと言われていながら、彼女は犬を連れ、かつてジンシェンとドライブに出かけた黄河べりへと出かけます。雪のちらつく中、彼女はふと、ディスコを踊り始めます。

Go,West! 

当時流行っていたディスコソングに大きな波の音がかぶり、歌をかき消して行きます。無心に踊るタオを独り残して…。


字幕は人名がカタカナなので分かりづらいと思いますが、タオは漢字だと「波濤」の「濤」と書き、これがラストと呼応しています。

ご覧いただいたように、映画の中ではエピソードがオムニバスのようにブツ切りになっており、ジンシェンの2番目の奥さんはどうなったのかとか、リャンズはその後どうしたのかとか、ダオラーを上海に帰したあと、タオは何をしていたのか、今でも息子の事を思い出すのかどうかなどの、登場人物の細かい描写は一切ありません。

なので、ある程度登場人物に感情移入はできるものの、その時点、その時点で焦点が当たる人がいるだけです。まるで《水滸伝》みたいに、特定の主人公がおらず、いくつかのエピソードを通して全体として物語が成り立っています。間の話は観客が補完しながら、人によっては特に補完しないままなため、全体としてこういった雰囲気、ということしか言えないのです。

だから、母と子の愛の物語…みたいなストーリー紹介だと、それはそうでしょうけど、それは暗示されているだけで、だから良いんじゃないかな、と思うわけです。

暗示の例としては、たとえば、劇中に登場する重要な歌にサリー・イップ(葉 蒨文)の歌った《珍重》というのがあります。

この歌は3つのパートすべてに登場しています。確かに流行った曲ではありますが、最初のシーンでは、なんでこれ?みたいな印象しかないのですが、ラストを見ると、この歌でなければならなかった訳がよく分かります。

歌詞は(拙訳ですが)こんな感じです。

突然に沈黙が訪れ またあなたを振り返る
涙に潤む瞳は 胸の想いと悲しみを隠しきれない
積もる想いをどこから話せばよいものか
遠く離れたこの地で ひたすらあなたを思う
夜は長く あなたを懐かしむ私に寄り添ってくれる 
そちらはもう寒さが訪れ、
行く手には雪がちらついていることでしょう


もう一方の《Go West!》の方は、本当に90年代当時大流行りだったので、単にそれで採用されたのかも知れませんが、当時の人が歌詞を意識していたかどうかはともかく、今いる場所を離れて西へ西へと開拓していけばいい事がある、「西側」(資本主義諸国)を目指せば幸せが訪れる、という当時の信念を表現するのに使ったんじゃないかな、とチラッと思いました。

この映画を、現代中国の時代や世相を切り取った作品と見るならば、拝金主義や時代に流されて、使い道もよく分からないお金や自由を手にして結局は自分を失くしてしまうジンシェン、出稼ぎ労働者として格差社会の底辺に沈んでしまったリャンズ、アイデンティティを失い虚無感にさいなまれるダオラーは、特に掘り下げて描かれている訳でもなく、登場人物というよりは、それらの事象を象徴するアイコンに過ぎません。

一方、この映画を、母と子の強い絆を描いたエモーショナルなものと見るならば、ジンシェンやリャンズは脇役で、世相や時代は舞台装置にしか過ぎません。

しかし、ジャ・ジャンクー監督の特に優れているところは、この2つが1つの作品の中で、分かちがたく重要な要素として描かれているところなのだと思います。

つまり、ある人の存在は世界から見ればごく小さなもので、時代の流れには逆らえない取るに足らないものであり、逆に、だからこそ、そういう無数の人たちが組み合わさることで世界というものが成り立っており、誰もが世界の重要な一部分であるということを、しみじみと感じさせるということです。

予備知識なしに観てもきっと面白いと思うし、監督がさらりと用意した舞台装置を味わいながら観ても楽しめる、そんな作品だと思います。ぜひご覧になってみてください。

そのほかの映画に関するエントリーは→こちらから、
フェイバリット映画100のリストは→こちら です。


作品情報
山河ノスタルジア|映画情報のぴあ映画生活
posted by 銀の匙 at 00:17| Comment(0) | TrackBack(0) | 映画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年05月05日

ラ・フォル・ジュルネ・オ・ジャポン 熱狂の日 2016 ナチュール 第3日目(5月5日)感想

東京国際フォーラムで開催されているクラシック音楽の祭典、本日は最終日でした。

初日(5月3日)のレポートは→こちら
2日目(5月4日)のレポートは→こちら です。

natureplus.jpg
こんな風に、通路から無料コンサート(赤いステージで行われる)を見る事ができます。

会場はアクセス至便。東京メトロ有楽町駅、日比谷駅からいずれも直結、JR有楽町駅からも至近距離にあります。実は、JR東京駅丸の内出口からも歩ける距離です。信号待ちもあるので、15分くらいでしょうか。銀座までは徒歩10分くらいです。

s-IMG_9290.jpg
出口Dの方向へ。

地下鉄からだと地下1階から連絡通路を通ります。
s-IMG_9291.jpg

s-IMG_9292.jpg
駅からですとABCDのうちDホールが一番近く、Aまではさらに通路を5分ほど余計に上がらないといけません。

s-IMG_9298.jpg
改札を出て席に着くまで、開演間際だと15分は見ておいた方が無難です。Dホールは近いのですが、エレベータに乗ったり乗り換えたりで、結構時間がかかります。地上広場からだとそれぞれ5分強というところでしょうか。


s-IMG_9294.jpg


s-IMG_9296.jpg

さて、本日は最終日でしたが、3つのプログラムを聴きました。

まずは自然へのオマージュ 公演番号No.324、ローザンヌ声楽アンサンブルによる小品集です。

プーランク:7つの歌(白い雪、ほとんどゆがまずに 新しい夜に すべての権利 美とそれに似たもの マリー、光る)
ドビュッシー:シャルル・ドルレアンの詩による3つの歌(神よ!眺めるのはよいものだ、太鼓の音を聞くとき、冬はただの厄介者)
ラヴェル:3つの歌(ニコレット、楽園の美しい羽の小鳥、ロンド)
ヒンデミット:リルケの詩による6つのシャンソン(牡鹿 白鳥 みんなが去って 春 冬に 果樹園)
フォーレ:魔人たち(ジン)op.12、ラシーヌの賛歌 op.11

いずれもフランスの小粋な作品で、フォーレを除いては伴奏なしのアカペラを楽しみました。
ローザンヌといえば毎年、合唱の神様ミシェル・コルボの指揮でフォーレのレクイエムなど大掛かりな宗教曲を聴いてきましたが、こうした小品を聴くと、メンバーひとりひとりも優れた歌い手だということがよく分かりました。

ソロパートもありますが、ソロ歌手のような突出した歌声ではなく、アンサンブルによく溶け込んでいます。
不協和音や実験的な曲の響きも大変美しかったです。

続きましては公演番号325番のボリス・ベレゾフスキー…のはずだったのですが、今回は急病のため代役をレミ・ジュニエが務めました。

公演に先立って、音楽祭ディレクターのルネ・マルタンさんが経緯を説明してくれました。

ベレゾフスキーさんからは、ほんの少し前にものすごく体調が悪いと電話があったそうです。主治医から10日間は安静にしなさいと言われ、来日は諦めたとのこと。

思い起こせば東日本大震災の年、震災のわずか2か月後に開催されたラ・フォル・ジュルネでは、地震と原発事故の影響で公演キャンセルが相継ぐ中、いつも通り来日してくれて、本当に励まされました。そのベレゾフスキーさんが来日できないとは、病状がとても心配です。一日も早いご回復をお祈りしています。

そんな大物の代役を務めたレミ・ジュニエさんは巻き毛の若い衆なのですが、マルタンさん曰く、ベレゾフスキーさんが大変気に入っているピアニストだそうで、「カルト・ブランシュ」(曲目は当日発表)という演奏会に呼んで、一緒に出演したりされたのだとか。

まずはベートーベンのピアノ・ソナタ14番「月光」と、ショパンのピアノ・ソナタ第3番を弾いてくれましたが、表面は線が細く、冷静に弾き進めながらも、湧き起こる激情を制御しきれない、といった風情の演奏を聴かせてくれました。これはまあ、定番をソツなくこなした感じでしたが、その次が凄かった。

ステージにはチェリストのアンリ・ド・マルケットが登場し、やおらバルトークのラプソディ第1番が始まりました。貫録のマルケットの演奏にも、ジュニエは堂々互角に応え、全く臆しません。その、一見飄々としたツンデレな演奏スタイルがものすごくこの曲に似合っていて、思わず吹き出しそうでした。

タイミングを合わせるためにコンタクトを取る一瞬は戦友同士の雰囲気ですが、次の瞬間は2人の間に火花が散るようでした。いきさつが残念ではありましたが、今年一番の名演奏を聴かせてもらいました。

今年最後に聴いたプログラムは、初日の追加公演No.777で感動したので急遽追加で取ったNo.356 ユーリ・ファヴォリンのピアノでした。

曲はケクランのペルシャの時 pp.65 全曲です。

旅立ちの前の午睡、キャラバン(午睡中の夢)、暗がりの山登り、すがすがしい朝、高い山間にて、町を望む、街道を横切る、夜の歌、テラスから見る月の光、オバド、真昼の陽ざしを受けるばらの花、石像の泉の近くの日陰で、アラベスク、日暮れ時の丘陵、語り部、夜の平穏、墓地にて、真夜中のイスラム教修道僧たち

と、各楽章のタイトルも魅力的です。

このタイトルから連想されるような異国情緒あふれるリズムやメロディもところどころに潜んではいるものの、全体としては近現代曲らしい響きなのですが、譜面を読んだら途方に暮れそうなこの曲を、見事に立体化して描き出していました。

こちらは椅子に座っていながらも、まどろみに誘われたり、砂嵐に巻き込まれたり、夕暮れの斜めの陽光を頬に浴びたりしながら1時間を過ごしました。

あまり知られていない作曲家を聴きに来ようという人たちだから気合いが入っているのか、お客さんもプロ(?)で、出だしや曲間などには吸い付くような緊張感のある静寂を作りだしていました。常にガサガサ落着きのないことが多いラ・フォル・ジュルネでは稀有の体験でした。

異様な緊張のうちに曲が終わると、ピアニストはニッコリして、チャイコフスキーのユーモレスカ、と言って愉快な曲を1曲、プレゼントしてくれました。万雷の拍手で、和やかムードのうちにプログラムは終了しました。

s-IMG_9304.jpg

会場を去るのも名残惜しく、しばらく地上広場で風に吹かれていました。簡易テーブルを囲んで偶然相席になった人たちと話が弾んだり、最終日だからか通路際に座っていたからか、次々知り合いが通りかかるので乾杯したりと、ちょっとしたパーティー気分のうちに、今年のお祭りも過ぎていきました。

本当に楽しいひとときをありがとうございました。

来年2017年のテーマは「ダンス」だとか。
こんな大がかりな催しを維持していくのは大変なことだと思いますが、どうか来年も恙なく開催されますように…!

posted by 銀の匙 at 23:34| Comment(0) | TrackBack(0) | 舞台/パフォーマンス | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする