2016年08月13日

エクス・マキナ(表示以降、ネタバレです)


『エクス・マキナ』はアカデミー賞の視覚効果賞を取っただけあって、斬新なロボットの造形や画面の美しさは折り紙つきですが、何といっても見どころは俳優さん。

映画のほとんどの部分が密室劇なので登場人物は数人ですが、それだけに、それぞれの俳優さんのレベルが半端ない。

表情も挙措動作も完璧で、いかにも人工的な美しさを醸し出す、エヴァ役のアリシア・ヴィキャンデル。この人をスクリーンで拝むだけで、映画代の元は十分取れると思います。

日本人だから一言も英語が分からない…いやさ、英語の一言も分からない日本人メイド、キョウコ役のソノヤ・ミズノも大変美しいですが、日本人からすると苦笑せざるを得ない部分があるのが難か…。

さらに、最後のテロップを見るまでまっっっっっっったく気が付かなかったのですが、イケ好かないIT企業のマッチョ社長は、『スター・ウォーズ/フォースの覚醒』で「ナイスガイ」として全世界から愛されたポー・ダメロン役のオスカー・アイザックだったんですね。

同じく『スター・ウォーズ/フォースの覚醒』からはハックス将軍役のドーナル・グリーソンがケイレブ役で出演しています。

こんな生まれつき理系みたいな俳優さん、どこから連れてきたんだろう…?と感心してたら、あのナチス式のキレたような演説をしてた人だったとは…。こちらも全然気づいてませんでした。

『スター・ウォーズ』は良い子の見る映画だから皆ちゃんと衣装を着てますが、ポーはいかにもスリムに、ハックス将軍はマッチョに見えたので、この映画では何だかアイコラを見せられたよう…ってイヤイヤ、ホント、俳優さんって凄いっすね。



お話は、IT企業で働くプログラマ、ケイレブが、社内の抽選に当たって社長の別荘に招待されるところから始まります。

ネズミのようにおどおどした態度のケイレブを迎えたのは、ムキムキボディの天才プログラマ、ネイサン社長。

人を寄せ付けない広大な敷地の中の別荘とか、他人を尊重しない天才肌の社長とか、抽選制の福利厚生とか、何かどっかで聞いたようなIT企業のイケ好かない部分を濃縮した感じの設定であります。

こんな場所にあんな社長とほぼ二人で一週間、ふつうの人なら全然嬉しくないと思うんだけど、ケイレブは緊張して舞い上がってる様子。

そして彼は社長から、この別荘の本当の目的を聞かされます。

彼が招待されたのは、ネイサンが開発した人工知能(AI)を搭載した「エヴァ」が合格かどうか、テストを行うことだというのですが…。

*

以前、ビッグデータをどう活用するかという研究の1つとして「データマイニング」の話を聞いたことがあります。

大量に集めたデータの中から脈絡を掘り出すということで、単純なものでは、買い物客がどんなものを一緒に購入するかを調べ、そのアイテムを近くに陳列する、といったことができます。

これを応用すれば、何か知りたいことがあったときに、どういうキーワードで検索するかとか、質問を受けたときにどういう回答が一番自然かとか、抽出することができるでしょう。

やりとりは無限なのだから、いちいちプログラマが質問を予想して答えを準備しておくことはできないでしょう。

その点、世界中の人たちがせっせと入力する自然なやりとりを抽出してパターンを分析すれば、労せずして自然な受け答えができ、それをサーバにでも置いとけば、誰もAIとは気づかないに違いない…とか、

どことは言わないけど大手の検索エンジン会社の中には、世界中からとびきり優秀な人たちを採用して、何だか得体の知れない研究をしてるらしい、とか

テキストデータばかりではなく、世界中のあらゆる場所の画像や属性のデータを、可愛いキャラを収集する無料ゲームをエサにして集めてるらしい、とか、

ITのあまりにも速い発展についていけない一般人の、漠然とした不安を形にしたかのようなサスペンスドラマなんですが、それはともかく、ネイサンの経営してるIT企業がかなりあからさまに特定の企業に似てるような気がするけど、大丈夫なのかしら?

セリフにもありましたが、人間が言葉をしゃべれる仕組みについてはいろいろな説があり、仮説の中には(すごくざっくり言うと)人間には生まれながらにして万能文法のようなものが備わっており、周囲とのコミュニケーションによってそれがアクティベートされる、というのがあります。

そういう仕組みだとしたら、機械でだって再現できそうですよね。

なので、この映画を観ていると、人工知能がどうというより、人間もそうやって作られた装置なんだろうなということの方を考えてしまいます。

もともと、基本的なプログラムが組まれていて、そのうえに新しい情報が載っていくことによって、さまざまに変化していく存在。

人間らしさの発露と思われている「感情」も、ケガや障害で発揮できないケースがあることからも分かるように、実際には脳の機能の一部に過ぎません。

で、これまでの映画だと、じゃあ人間と機械との違いって何なのかとか、機械も感情を持ちうるのかとか、そちらに重点が置かれるんだろうけど、この映画は少し違うみたい。

そう思った訳は、この映画のタイトル「エクス・マキナ」にもあるのですが、そのあたりは映画をご覧になる方それぞれの解釈が許されることでしょう。

自分の考えは、下↓ のネタバレ以降で書くとして、台詞が主体の映画なので、いくら視覚効果が凄いといっても一人でDVDで観てたら寝ちゃうかも…。

これから秋にかけて全国の二番館で上映されるようなので、ご興味のある方はぜひ映画館でご覧ください。

アレックス・ガーランド監督。
渋谷UP-LINKで観ました。非常に狭いんですが、椅子を変えたのか結構見やすいです。一番後ろの席でも良く観えましたが、後ろから二列目くらいが没入観があるかも知れません。

以下は、ストーリーの結末に触れています。







学生時代に、バイト代のテレホンカード(死語)につられて、心理学の実験台を何度かやりました。

同じ経験がある方、もしくは実験を行った関係者の方ならよくご存じかと思いますが、実験結果に影響が出るのを防ぐため、被験者には実験の目的が伏せられているか、偽の情報が与えられるんですよね。

さらに嫌なことに、実験が終了しても、たいていの場合本当の目的は教えてもらえないし、結果も知らされません。実に後味が悪かったのを、この映画を見て久しぶりに思い出しました。

で、この映画の内容を20字以内で言うと、

非モテのプログラマが女に騙された話

って、身も蓋もないな... 。
それではあんまりなので、字数を倍に増やして要約すると、

プロメテウスの火を盗んだ人間は罰を受け、
エヴァは男をだまして楽園から追放される。

それが何なの、って感じですよね。

神ならぬ身で生命の創造をするものは許されないとか、
人間が作ったものはあくまで人間の支配下にあるべき、

というのも、特定の宗教の倫理観なら真実なのかも知れませんが、
そんなこと問題視してない文化圏だってあるんじゃないでしょうか。

たとえば、だんだんAIと人間の峻別がつかなくなっていくと、
大統領や権力者が実はAIだった、大ショック、みたいなSFもありますが、
日本のSFアニメなんか、その辺はもうそういうものとして特段問題にもなってなくないですか?

だって、砂の嵐に隠された♪ バビルの塔はコンピューターに守られているんだし、

「エヴァンゲリオン」なんか面倒な問題はみんなメインコンピュータの「マギ」に投げてますよね?

「攻殻機動隊」なんて、最後はネットワークの中に個人の意識が統合されてしまう。

いや、その場合、実権を持っているのはあくまで人間で、コンピュータはただの道具だ、という反論もありましょうが、決裁する人はただのお飾りで、分析したり方向性を決めてる部門が他にあるなんてこと、世間にはままあることじゃないでしょうか。

そういうとき、どっちが実権を握ってるかといえば、それは後者な訳で。

生きとし生けるものの中に、すてにAIが含まれてる文化からすれば、この映画はAIと人間の関係が「対立」である、という「初代ターミネーター」式のステレオタイプであまり新味がないんですが、じゃあSFとしては駄作かと言ったらそうでもない気がする。

映画の中でも言ってましたが、この映画自体が一つの思考実験とすれば、物語のテーマや新味はどうでもよくて、ある条件下で結果はどうなるかを考えてみたものと捉えることもできるでしょう。

思考実験をそのままプロットとして展開するのはSF小説だと許されてるパターンなので、非常にSFっぽいと言えるのかも知れない。

そもそも、これまでのSF映画で出てくるAIは、如何に人間に近づけるか、どこまで行けば人間と同じなのか、人間に愛されたくて葛藤する、等々のテーマを背負っていたのに対して、この映画のAIはめちゃくちゃドライ。

人間を超える知能(たぶん)を持ち、そのために感情を利用できる、まったく新しい存在。

「ブレードランナー」では、AIを見破るためのチューリングテストのカギは、「感情移入ができるかどうか」でした。

この映画では、逆に人間が「感情移入する」ことを巧みに逆手に取り、しかもAI自身にはどうでもいいはずの「肉体」、エヴァの場合はさらに、どこから見ても機械仕掛けという肉体の「魅力」さえも利用する。

映画のタイトル「エクス・マキナ」は「機械仕掛けから」ということですが、「デウス・エクス・マキナ」(機械仕掛けからの神)から取ったものと思われます。

ここまでくると、AIが怖いとか悪いとかいう問題ではありません。

「神の見えざる手」のように、AIの存在は何かの摂理によるのだろうか。

人間の存在とは実は、次のロボット世代を造りだすために神が用意したものではないのか。

そんなことすら思ってしまいます。

一方で、彼女の「愛情」はフェイクだったようだけど、「憎しみ」は本物だったのだろうか。

廃棄されるのを怖がっていたように見えるけれど、それもフェイクだったのか、

という疑問にも突き当ります。

ネイサンは「エヴァ」の完成度のテストとして、彼女に課題を与えました。
被験者ケイレブを利用して、彼女が閉じ込められている部屋の外に出る、というものです。

彼女はケイレブの好意を引き出し、見事に課題をクリアしました。

どんな手を使ってでも、外の世界に出る。

それはどんどんデータを蓄積して発達した人工知能が獲得した、好奇心のなせる業だったのでしょうか。

それとも、あくまでネイサンが与えた課題の延長線に過ぎないのでしょうか。


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2016年08月11日

シング・ストリート 未来へのうた(注記以降、ストーリーの結末に触れています)

ジョン・カーニー監督のアイルランド映画。

劇場に入るといきなりデュランデュランの♪リオ、リオ、リオ・グランデを踊って渡る〜♪のサビの部分がかかってて、映画館もオリンピック仕様なのかぁと思いましたがもちろん違いました。

劇中、この歌がストーリーの重要なカギを握っちゃうような映画、といえば、歌を知ってる方はお分かりかと思いますが、物語が設定されてる時代から、かかってる音楽、登場人物のファッション、街並み、ストーリー展開に至るまで、全てが正しくこの曲と同じく80年代風であります。

リアルタイムで知ってると、この時代の何もかもがどことなくダサく感じてしまうのですが、席を埋め尽くした若者たちは全然そうは思わなかったらしく、あちこちから聞こえてくる感想は、「面白かったよね」「オシャレだったね」って...本当に? 

見回せば、リアルタイム世代っぽい人たちは皆押し黙り、胸中複雑であろうことが窺えます。だからって、もちろんダメな映画ではありません。いえ、なかなかいい映画だったです。

複雑だった訳は何となく分かりますがそれはちょっと置いといて、まずA面(死語)から行きますと、舞台はド不景気の真っただ中のアイルランド。音楽好きの少年・コナーは、親が失業してしまったため、ガラの悪い学校へ転校する羽目に。ところが、モデル志望の少女・ラフィーナに一目惚れするや、バンドのビデオに出演を持ち掛けるという口実で興味を惹くことに成功。

そこから急きょバンドを立ち上げるという、泥縄もいいところの展開なんですが、同じく音楽好きの兄・ブレンダンや学校仲間の協力も得て、なかなか良い感じのバンド「シング・ストリート」を結成し、ラフィーナにも認められるようになる。

しかし、当時のアイルランドはドン詰まりで、若者たちの唯一の希望は隣国ロンドンに渡ることでした。ラフィーナもモデルとしての成功を夢見て、海を渡ってしまうのですが…



そもそも、80年代のニューロマンティックにドン引きしていた身としては、デュランデュランのMVが出てきた時点できゃーすみません来るところを間違いましたあのーおなか一杯なんで早退していいですか?と逃げが入っていたのですが、兄上の言う通りベースラインに注意して聞いてみると、なかなかカッコいいサウンドではないですか。

やはり先入観というのはいけませんね。音楽の使い方も絶妙で、お母様の浮気のシーンでさりげなくホール&オーツの「マン・イーター」(男好き)が流れたり、君は自分の行く道を決めたんだね、というザ・キュアーのIn between daysの歌詞が被るようなシーンがあったりとか、歌詞とストーリも上手くシンクロしていましたね。

分かってしまうと逆に薄っぺらく感じるのかも知れないけど、知らない人のために、挿入歌の訳も字幕に入ってたら面白かったかも。

「シング・ストリート」が「作曲」するオリジナル楽曲も、巧みに80年代風にアレンジしてあって実に心憎いです。コナー役のフェルディア・ウォルシュ=ピーロはこれが映画初出演だそうですが、ピュアな感じがとてもよく出ていて、歌声も心に響きます。

コナーは、お兄ちゃんにMVを見せてもらうと、たちまち影響されて翌朝同じような格好になってたり、鼻歌を歌っているうちに両親の怒鳴りあう会話が歌詞に交じってしまったりと、バンド少年あるあるな大人しいイジメられっ子なのかと思っていたら、結構な気骨の持ち主。

劇中、どんな音楽をやるんだ?と聞かれて、懐古趣味じゃないやつ。未来派だよ。と何度も答えていたのにグッと来ました。

だから、この映画も、舞台装置としては80年代を借りているのですが、その時代にこだわって懐かしむという作りにはなっておらず、あくまでもそこから飛び出して未来を創る、という視点で作られています。そこが爽やかだし前向きで良かったです。

80年代を象徴する映画として、「バック・トゥ・ザ・フューチャー」が出てきましたが、校則にうるさい校長も「お前がモーツァルトなら私はサリエリか?」と言ったりして、実は映画「アマデウス」を観てたのかな〜と思ったり、戒律がやたり厳しいと思ってたイエズス会の学校の方がずっとおとなしいらしかったり、と細々したところも面白かったです。

ということで、以下はお話の先までご紹介しますので、
これからご覧になる方への推薦の辞はここまで。

ヒューマントラストシネマ有楽町 スクリーン1で見ました。
見やすい席はF席かG席です。
F席は前が通路なので、広々していますが、
通路を挟んだ前のE席と高さがほとんど同じなので、
座高が低い人はG席の方がいいかも…。

(この先はネタバレになります)










さて。

爽やかに感動している若者たちを斜めに見ながら、おじさん、おばさんは暗い顔の人が多かったですね。

今になってみると、EUからうっかり離脱してしまった(?)イギリス人がアイルランドのパスポートをとるために必死になってたりとか、事態はかなり複雑に変化しているのですが、映画のストーリーの方はテンプレ展開なので、そこが食い足りない、という大人もいたかと思います。

また、かなりの人がお兄ちゃんのブレンダンに感情移入してしまったせいもあるかも知れません。
こちらが暗黒面…いや映画のB面ですね。

意味の分かんない規則でがんじがらめに縛ってくる校長の目の前で、校長を批判する歌をうたい、美人で賢いガールフレンドと新天地へカッコよく旅立っていく弟。

両親の喧嘩の防波堤になり、自分の理想は挫折しても弟に音楽のイロハを教え手助けしたにも関わらず、弟から家でゴロゴロしてるだけのように非難されて、自分が荒野を切り開いたから末っ子のお前が通れるんだとキレてしまう兄。

全国の長男・長女の観衆の皆さんが心の中で、「そーだそーだ!」と叫んでいたのが聞こえるようです。

だけどお兄ちゃん、自分は「ロックとはリスクだ」と言いながら、結局のところ本当の意味でリスクは取ってなかった。音楽についてのオタクな知識はあるけど、彼にとって音楽は逃避先で、表現者として弟のように行動していなかった。そのことを痛感しているので、何かに憑かれたように、弟の旅立ちを助けます。きっと、相当気持ちが高ぶっていたのでしょう。

小さなボートでアイルランドを離れ、ウェールズに向かおうとする二人(って、パスポートとか要らないのかな?)を岸辺で見送りながら、降り出した驟雨の中で Yes, Yes! とまるで自分に言い聞かせるように言う彼の心中を考えると、お兄ちゃんの方に年や立場が近い者は実に複雑な気持ちです。

コナーは言っていましたね。
自分はフューチャリスト(未来派)なんだ、と。

この未来とは彼ら14歳の未来なのであり、大人たちは彼らに主役を譲り、手助けする存在に過ぎません。たかが映画でそんなこと思い知らされたくはなかったですが、それが現実です。

物語の中で彼らの両親は飲んだくれ、喧嘩をし、不倫をし、とロクなことをしていません。ラフィーナに至っては、保護施設で育ったのです。でも彼女は、そんな傍目にはどうかと思うような親の、子どもへの愛情を繊細に、敏感に感じ取っています。

80年代のコナーは2016年の今、彼らの両親に近い年のはずですが、果たしてどうなっているのでしょうか…。

普遍的な物語のフォーマットを下敷きにして、永遠の青春映画として作りながら、一方では、80年代という時代の楔を打ち込むことによって、決して昔は良かった式のおとぎ話にはしていません。そんなところがちょっとほろ苦い、余韻のある映画だと思います。

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2016年07月18日

蘭陵王(テレビドラマ29/走馬看花編 第17話)

はぁい、皆さま、いつの間にか端午の節句も終わっちゃいましたね。

…って今もう7(ひち)月じゃねーか、いつの話でぇ?って、ただでさえ周りを江戸っ子に囲まれてると月日が経つのが3倍速いんですけど(赤いのか?)、中国じゃ年中行事は農暦なんで、今年(2016年)の端午の節句は6月9日だったそうなんですよ。

端午の節句といえば五月人形ですが、「金太郎」や「桃太郎」に並んで、「蘭陵王」(雅楽の方ですが)っていうのもあるのに気が付きました。

へぇ、と思って人形屋さんのサイトを見ると、何とひな飾りの中に「蘭陵王」を突っ込んでるセットを発見。そんな、何でも増量すりゃ良いってものでもないでしょうに…。

かと思えば、「博多祇園山笠」(7月1〜15日)の舁(か)き山笠に「秀麗陵王鬼面勲(しゅうれいりょうおうきめんのいさおし)」なるものがあることをニュースで発見。

西日本新聞の記事にはちゃんと、

「女性のような顔立ちのため、鬼面を付けて戦ったという6世紀中国の蘭陵王の人形は、躍動感あふれるポーズが印象的。川崎さんは「今年は赤にこだわった。遠くからでもひと目で分かる鮮やかな色彩を見てほしい」と話した。

と、キャラの由来や色までガッツリ紹介されております。

さて、年中行事のうち、日付が移動する祝日になってる行事は旧暦1月の春節、4月の清明節、5月の端午節、8月15日の中秋節の4つ。

地方によって行事食に違いはありますが、メジャーどころで春節は餃子、清明節は草餅、中秋節は月餅を食べます。

じゃ、端午の節句には何を食べるか、というと、それはチマキ。

ちょうどこの時期、横浜中華街に行ったので頂いてまいりました。

なんで端午節にチマキを食べるか、は実際にはナゾなんですが、楚の政治家にして詩人・屈原<くつげん>が国を憂いて入水したとき、お魚のエサにならないように楚の人たちが河へチマキを投げ入れたのが始まり、というお話が伝えられております。

♪ち〜ま〜き食べ食べ、兄さんが〜
測ってくれた背の丈〜♪

なんて、のどかな光景が喜べるのも平和だからこそ。
権謀術数渦巻く1400年前の北周では、悲しい思い出にしかならないのでした。

それに、もう7月も半ばなんで、江戸っ子の本拠地・神田では、チマキじゃなくて、

「冷やし特バカ」

を食べる季節なんですよ。

私ゃ全国的にこのメニューは同じ名前なのかと思っていたので、非常に恥ずかしい思いをしたことがございますが…。

いえ、中国語の雪舞さまに認定されたあの方のかき氷、という訳ではございません。
じゃ、なんでしょうか?

が分かるかも知れないので、行ってみましょう、第17話

今回は割に短く終わってしまいました。インタビュー紹介等はまた次回以降ということで、サクサク参ります。

(〈蘭陵王〉関連の記事を最初からご覧になりたいかたは、右欄から蘭陵王のカテゴリーを選ぶか、または→こちらを最初から戻ってご覧ください。)

前回・第16話→こちらをご覧ください。

*   *   *

巫族〈ふぞく〉の天女・楊雪舞〈Yang Xuewu/よう せつぶ〉は、斉〈Qi/せい〉国の皇子・高長恭〈Gao Changgong/こう ちょうきょう〉=蘭陵王〈Lanling Wang/らんりょうおう〉=四爺〈Si Ye〉との婚礼を間近に控えた身でありながら、隣国の周〈Zhou/しゅう〉の皇帝・宇文邕〈Yuwen Yong/うぶん よう〉=仔ブタ(と呼んで、と自分で言ってた)陛下に、姪の病を治して欲しいと請われるがまま、都・長安(Chang'an/ちょうあん)の宮殿に滞在しています。

近衛兵に身をやつして周に潜入していた蘭陵王は、宮廷内に不穏な動きがあることを察知し、夜闇にまぎれて雪舞の部屋に現れるのですが…。


*   *   *

第16話からヘンタイまたぎで始まりました、冒頭シーン。

“變態”って言葉が中国語でも、さなぎが蝶になるぅ(はぁと)以外の意味で使われるようになったことは前回ご紹介いたしました。

よくも悪くも日本のサブカルが世界にダダ漏れの昨今、中国もその例外ではありません。言葉もどんどん知れ渡ってゆき、よくもこんなものまで…という言葉が漢字ならそのまま使われてたり、しっかり訳されてたりは当然として、あまりになじんで独自の意味が追加された言葉まであります。

特に解説は致しませんが、
“正太”“二次元”“眼鏡娘”あたりはそのまんま。
“姐姐控”“蘿莉控”は音訳が混ざってます。“控”「〜コン」の訳ですね。「シスコン」「ロリコン」…以下、数えきれないほどあります。

そのほか、ツンデレ“傲嬌”)、ドジっ娘“冒失娘”)あたりはちゃんと(?)翻訳ですが、スゴイのがこれ、

“殺必死”

意味、お分かりですか? 読みはコレ→ sha bi si

そう、サービス。でも、サービスはサービスでもサービスカットとかそっち方面に使うようですね…
まさに悩殺ってヤツでしょうか。

も一つ面白いのは“腹黒”
これは日本語そのままの「腹黒い」という意味のほかに、「小悪魔的な萌え」ってニュアンスも付け加わっているそうです。

そんな良い意味で腹黒(??)な皇帝の元からとっとと逃げ出そうとする蘭陵王。

私だ私だってあんた、オレオレ詐欺じゃないんだから、
名前くらい名乗ったらどう?

“你還猜不出我是誰阿?”
(私が誰かまだ分からないのか)

って言われてもさ。
このニヤけた二重あごのおっさんは誰なんでしょう?
マスクを取った後すらわかんないわよ。

思うにウィリアム・フォンさんはこの頃が一番栄養が良かったのではないでしょうか。
今はまた以前同様痩せ細って、御膝元のファンの皆さんのみならず、白骨精役の大女優コン・リーにまで、ちゃんと食べてるの?と心配されてたそうです。

s-ELLE2.jpg

(雑誌のカバー写真。2016年度ご本人さまの微博より。何だかどんどん若くなっていくような気がするけど気のせい?)

普通、写真に撮ると実物より膨張して見えますから、写真でさえ細く見えるなら相当なものでしょう…。

しかし、この時点ではまだ膨張気味の蘭陵王は尋ねます。

“想我嗎”
(私が恋しくなかった?)

“想”+○○は 〇〇を恋しく思う、会いたいと思う、という意味です。
第10話(→こちら)で宇文邕が、都にいる宇文護を思い起こしながら、

“宇文護現在必定是按捺不住”
(宇文護も待ちきれぬ思いだろう)

“朕也很想你呀”
(朕もそなたに会いたく思うぞ)

って言ってました(笑)。

そういや前回、ずっと離れたままだと死んじゃうとまで言っていてましたよね雪舞は。当然、ようやく再会出来て大喜び…なのかと思いきや、最初に出てきたセリフがコレ。

“你為什麼偷看貞兒洗澡”
(どうして貞児の湯あみを覗いたりしたのよ)

聞いた蘭陵王は不服そうな顔をしてます。ってそりゃそうだろ。
しかし雪舞は四爺の気持ちにはお構いなしの様子で、まるで相手が悪いような責めっぷり。

“你在這裡假扮多久了”
(いつから紛れ込んでいたのよ)

以前の回ならブチ切れてたかも知れないのに、周の同僚たちに揉まれたおかげか四爺はおとなしく答えます。

“我一直都偷偷跟著你”
(最初からそっと付けていたんだが)

どうもこのシーンの四爺は何だか表情がぼんやりしてて、
しかも相変わらず眠そうですよね…。

しばらく仮面に隠れて見えなかった間に中味が入れ替わってたりして…。
いや、そんな《宮》(『パレス〜時をかける宮女』)じゃあるまいし。

“你不知道你的身份 在這里很危險的嗎”

直訳すると、あなたの身分でここにいたらどんなに危ないか、分からないの?ということですが、意味するところは、敵国の皇子の身分でうろうろすんな、宇文邕に捕まったら目ぇくり抜かれっぞ、ってことですよね…あぁ、いえ、突然のことにパニックになってるのがよく分かります。

ってか、それを言うなら、あなただって敵国の皇子のヨメの身分でここにいるってご存知ですか? まさか、自覚がないのかな…?

まぁでも分かりますよね。すごく会いたいと思う気持ちの裏返しで、優しい言葉よりこういう態度に出てしまうっていうのは。

四爺もそれはもちろん分かっているので、当然のごとく、さあ帰ろうと促しますが、
当然、喜んで一緒に帰ってくれると思いきや、ここに残ると言い出す雪舞。

それを聞いて思わず後ずさりする四爺のリアクション、何度見てもおかしいです。

“每次他看到你的時候就像 就像沙漠里一隻野獸 渴了好幾個月了
看到了水 那麼飢渴 那麼淫穢”

(奴ときたら君を見るたび、まるで砂漠の獣が何か月かぶりに
やっと水を見つけたときのように 飢えたいやらしい様子をしているのに)


またもヒューズが飛んだ四爺は、言いながら一人で興奮してるんですけど、
ほんとこれ、前回雪舞が言ったように、相手の目ぐらいくり抜きかねないって。

しかし、そこはやけに冷静に返す雪舞。

“野獸不過是看到水 為什麼覺得淫穢呢?”
(獣は水を見つけただけでしょ?なんでいやらしいのよ)

ここの日本語吹き替えはとても上手いと思うのですが(ま、いつも上手いですが)、
「水」を「いずみ」と訳しています。

中国語でも“水”は「水」なんですが、“山水画”という言葉もありますように、
日本語で言う、河とか湖とかを指すことも多いんですね。

ここのセリフも、『スターウォーズ フォースの覚醒』の、砂漠の中に設置された水飲み場みたいなものではなく、オアシスとか、ちょっとした小川みたいなものがイメージされているはずなので、「水」ではなく「いずみ」と訳したのではと思います。(口の形とか、秒数とか、テクニカルな理由もあるのかも知れませんが…)

たった一文字のことですが、翻訳って大変だなあと思います。

と、視聴者が勝手に掘り下げていると四爺は、

“你不要跟本王深究這些 總而言之 他就對你有意思。
(そんなことは詮索しなくてよろしい。ともかく、
あいつは君に気がある)


と言い出します。
なんだ太っ腹は見てくれだけかぁ…と皆が見切っているのに、

“不要深究這些”
(そんなとこにツッコむな)

と言われてもねぇ…。

ちなみにここの四爺のセリフにある、

“意思”

という言葉はなかなか面白いです。

ここでは、“有意思”で「気持ちがある」=まさに「気がある」って意味なんですが、
同じ字面で「面白い(interesting)」という意味になることもあります。

この言葉を使ったテッパンの小話というのがありまして、こんな感じです。

エライ人が“紅包”赤い袋。ご記憶でしょうか、お年玉はこんな袋に入ってるんでしたよね)を渡されて…
 
“你这是什么意思?”  (これはいったい何の意味かな)  
 
“没什么意思,意思意思。”(何てことありませんよ、つまらない物です)  
 
“你这就不够意思了。”  (こんなことをしてもらっては困るな) 
 
“小意思,小意思。”   (ほんのちょっとした気持ちでして)   
 
“你这人真有意思。”  (あなたって人は本当に面白い人だな) 
 
“其实也没有别的意思。” (いえいえ、特に何かってことでもないんで)  
 
“那我就不好意思了。”  (じゃあ済まんがいただいとくよ) 
 
“是我不好意思。”    (お礼なんて却って申し訳ございませんですよ)

李安〈Li An/り あん〉とか祖珽〈Zu Ting/そ てい〉とか、しょっちゅうやってそう(笑)

忘れがちになりますが、そういや四爺は紅包をもらう方の立場の人だったんでした。
そして皆さまの予想通り、ここから先、四爺の自称は“本王”一点張りです。

“全天下人看得出來了 就是你沒有看出來”
(誰が見たって分かるのに、君だけが気づいていないんだ)

全天下人 (全世界の人)と来ましたね!そんな大げさな。あはははは。
雪舞もここぞとばかりに言い返します。

“你這是在醋意大發嗎?”
(それって巨大なヤキモチ?)

“醋”(酢)にヤキモチという意味があることは、第12回→こちら
でお話しましたね。

“我不管 反正你就是本王的 你就是本王的”
(何とでも言え とにかく君は私のものだ 君は私のものだ)

おやおや、いきなりこのお子ちゃまぶり、前回(第16話)で雪舞が宇文邕に話したことは本当だったんだ...と
、蘭陵王の豹変ぶりに驚愕する視聴者ですが、雪舞は慣れたものです。

王に対する庶民の態度とは思えないこの馴れ馴れしい態度、いやこれは宇文邕へのハッタリ君ではなく、ホントに日頃蘭陵王をつねっていたとしか思えない…

“現在才發覺 你的妻子有多麼國色天香了 是嗎”
(今ごろになって、あなたの奥さんは絶世の美女だったって気づいたんでしょ)

“國色天香”とは国を代表する名花という意味。百度先生によりますと、現代中国では国花は決めていないそうなのですが、この言葉の出来た唐代、それは“牡丹”を指していました。

「立てば芍薬、歩けば牡丹…」と、美女を花になぞらえるのは日中共通。

しかし中国語には、日本にはない“校花”という「名花」が存在します。
平たく言えば、ミス・キャンパスという意味ですが、必ずしもコンテストで決まるわけではなく、誰もが認める学校一の美女、を指すようです。

そんな“校花”を手に入れた男子は鼻高々、なのですが、当然、そんな特典を享受するにあたっては、考えようによっちゃ大変厳しい条件を耐え忍ばなければダメらしい。

その厳しい条件とは、“校花”はみんなのもの、という、暗黙の男子間ルール(笑)。
地域や年代によって違うのかも知れませんが、少なくとも北京ではそうでした。

私の直接知ってるケースは、当時としては珍しい、理系の才媛(写真を見せてもらいましたが、ホントにめちゃ美人)だったのですが、今はもういい歳をしたおばあちゃまなのに、表敬訪問と称してひっきりなしに昔のクラスメートが訪ねてきます。

そのたびに、旦那さんはニコニコしながらお茶を入れ、野郎共をもてなし、昔話に付き合わなければならないのです。

誰もが羨む学校一の美女と結婚できたってことは、旦那さん本人として嬉しくなくはなくないんでしょうけど(どっちだ)、延々そんなことに付き合わなきゃいけないなんて、疲れそう。

ましてや四爺のあの性格。ムリムリ…。

“開始擔心了? 你真可愛。”
(心配になった? 可愛い人ね)

1400年前にもそんなルールがあったのか、雪舞はしきりに四爺をからかいますが、どうやら必要十分条件を満たすことはできなさそうな四爺は、

“我不跟你說這些啊”
(この話はおしまいだ)

と話を打ち切ろうとします。直訳すると、もう君とこういった話はしませんよ、ということですね。

“我今天通知五弟 在邊關等我們”
(今日、五弟に国境へ迎えにくるよう知らせておいた)

この話を聞いたとたん、雪舞は四爺に抱きつきます。

“雪舞真的好高興”
(雪舞は本当に嬉しいの)
こう言って四爺を嬉しがらせておいて、

“就一天咱們回家了”
(あと一日いたら帰りましょ)

って要求を出すなんて、
雪舞も策士よのぉ…。

五爺まで呼んで帰国の手筈を整えてしまった以上は、最終兵器を出さないとお許しが出ない、とのとっさの判断だったんでしょうね。

ただ、さっきの優しい言葉が滞在を引き延ばすためのお芝居のように聞こえて、喜んだ四爺がちょっと可哀想な気がしますけどね…。

“求求你嘛 拜託你啦”
(ねぇ どうかお願いよ…) 

と、これも高一族直伝のおねだりワザを開陳されると、四爺はたちまちメロメロに。 
“這跟要挾本王有何區別 你知道我是拒絕不了你的”
(これじゃゆすりと変わらないな 
私に君の頼みは断れないんだから)


そんなこと言っちゃって、ホントに学習しないお人ですね。
いまこんな目に遭ってるのだって、元はといえば、第6話で阿怪を庇う雪舞のおねだりを聞き入れてしまったからではありませんか。

でもま、美女のおねだりを聞いて取り返しのつかない結果になるのは、中国史の伝統だからしょうがないか。

王の膝の上に侍ったまま、飲みホーダイで夏を滅ぼした末喜〈ばっき〉ちゃん。
酒池肉林の宴を催して、ゴージャス三昧で殷を滅ぼした妲己〈だっき〉ちゃん。
戦闘の合図の狼煙をお笑いのネタにして、周を滅ぼした褒姒〈ほうじ〉ちゃん。
名前不明だけど、ミンクのコートを貢がれて、敵を逃がしちゃった寵姫ちゃん。

など、など、など、など、さすが中国、人材豊富!

そういやこのドラマにも、先々国を滅ぼすおねだり寵姫ちゃんが登場するんだった。

しかしそこまでの予言はできないらしい天女の雪舞は、ニコニコと四爺を見送りながら、心の中ではおばあ様の予言した、

“兩狼互殺” (二匹のオオカミの死闘)

を思い出しています。

この二人、相手を思いやるあまり自分の心配事を相手に伝えない、という困った傾向があり、それが後々事態を悪化させていきます。これまでもたびたび、そういった例がさりげなく描写されていましたが、このシーンもその1つですね。

さて、雪舞の思いが呼び起こしたのか、仔ブタ陛下は来し方を思い、感慨にふけっております。

貞児のパパ・松本幸四郎…いや、宇文毓〈うぶん いく〉は史実でも宇文邕と仲がよかったとのこと。文武両道に長けていたとのことなので、きっとドラマ同様、宇文邕にもいろいろ教えていたのでしょう。

かわいそうに、死の床についたお兄様は、

“病入膏肓”(病、膏肓〈こうこう〉に入〈い〉る。もう助からない)

と話していますが、膏肓というのはツボの1つで、実際にはココが痛いからって死ぬわけではありません。

じゃ膏肓ってどこか、は意外に知られていませんが、背中の自分ではしっかり押せないところにあたり、肩甲骨〈けんこうこつ〉のちょうど上下の真ん中で、背骨側のヘリにあります。

ここのツボは胃酸過多とかダイエットに効くと言われていますが、要は、ストレスが溜まると痛むところなんですね〜。だからといって、むやみに押してはいけません。東洋医学は何でもそうですが、体質と症状によって処方が違うので、どこのツボを押したらいいかは人それぞれ。

動かしづらい場所なので、運動するとき意識して動かすくらいがちょうど良いのではと思います。

と、ヘルスケアに関するトリビアも虚しく、お兄様は(史実では息子の)貞児と弟の宇文邕を守るため、宇文護に毒を盛られても敢えて防がずに亡くなってしまいます。

隣の高一族同様、北周の宇文一族も血で血を洗う抗争を繰り広げたわけですが、宇文護は宇文邕からすると従兄にあたり、斉の皇太子・高緯〈こう い/Gao Wei〉にとっての蘭陵王と同じような立場の人なのです。

蘭陵王は建国の功労者の長子の子ですが、宇文護は建国の功労者の兄の子。一族の序列でいえば上の立場なのに、臣下の扱いなのは面白くなかったに違いありません。

宇文一族の出身でありながら臣下扱いの人として、ドラマでは他に宇文神挙〈うぶん しんきょ/Yuwen Shenju〉が出てきますが、川本芳昭先生の『中国の歴史5 中華の崩壊と拡大』によりますと、その他にも、鮮卑〈せんぴ〉族にはこんな習慣があったそうです。

「西魏二十四軍政制を見るとき(中略)…興味深い現象が見られる。それは各軍府の府兵はその軍府の長官の姓を名乗ったと考えられることである。

こうした習慣は胡族のもつ古い伝統に根ざすもので、自らが属する部族の長の名を自己の氏姓とするということが鮮卑や匈奴、烏丸などの北方民族の間では広く見られ、北魏の時代になっても受け継がれていた。」

「これは隋末のことであるが、隋末の英雄である李密が隋の煬帝を弑殺した宇文化及を非難して『卿はもともと匈奴の奴隷・破野頭の出である。それなのに父兄子弟はみな隋室の厚き恩を受けたのだぞ。…』と述べたことがある(隋書 李密伝)。」

「この李密の非難は、宇文化及の先祖の姓は破野頭といったが、その先祖が北魏の初めに宇文俟豆帰という人物に従属したので、のちその主に従って宇文氏を名乗ったことを踏まえているが(隋書 宇文述伝)、このことは北魏建国から200年以上たった七世紀初頭の時代にあっても、少なくともこうした主人の姓に従って自らの姓を名乗るという風習があったことを持ち出し、他人をからかうことが可能であったことを伝えている。」(274pp)


この場合、宇文氏に仕えた人が、主人の苗字をいただいて同じく宇文氏を名乗ったということになります。

日本で言えば、伊達家の家臣が、伊達の苗字を許される、てなとこでしょうか。

武将レベルでも相当な恩典ですが、これが皇帝の苗字ともなれば「国姓」としてそのステイタスたるや大変なもので、最大級の働きをした英雄に与えられることになります。

明代の終わり、清に抵抗して戦い、台湾からオランダを打ち払って有名となった鄭成功〈てい せいこう〉は、皇帝から明の国姓“朱”を賜ります。国姓を名乗るエライ人、ということで付いた呼び名が「国姓爺」〈こくせいや)。

歌舞伎の演目『国姓爺合戦』でも有名ですね。

一方、生まれついての国姓爺・宇文邕ですが、自分に兄上を毒殺させようなど“異想天開”だ、と泣き叫んでいます。

この言葉、日本語の「奇想天外」に当たるものだと思っていましたが、使われ方を見ると、どうやらちょっとニュアンスは違うみたいですね。

さて、お相手の宇文護の方ですが、すでに宇文邕を始末して皇位に付く気満々です。

皇帝のお召し物である金の“龍袍”にスダレ冠(第7話こちら に登場しましたね)をがっつり誂え、コスプレの用意も万端です。

もっとも、龍を刺しゅうした金や黄色の服が皇帝の衣装と定められたのはもっと後の時代のようですが…。ナショナル・カラーはですから、宇文邕のカラスルックが周的には正しいです。

で、ブラック皇帝陛下は朝ごはんに竜骨湯を召し上がるわけですが、医食同源の中華では、メニューにもいちいち効能があり、このスープは、

うつ病に効く

とされております。

何でそんなもの処方されてるんだか、うざいほどポジティブなのに…。
(あ、いつもそういうものを飲んでいるから鉄のメンタルなのか)

ところで、「竜骨」とはすなわち、動物の化石のことです。甲骨文字は、漢方にしようと竜骨を買った清代の学者先生が、そこに刻まれた模様を見て、これは文字だと気づいたことから発見されたとか。

何でも薬材扱いの困った習慣が、珍しくも良い方へ転んだ例ですね。

お飲物が貴重な古代の遺物かも知れないとはご存じない仔ブタ陛下、飲もうとレンゲを持ち上げたところに宇文神挙が来たので、実際には口をつけていません。

だから料理番がどっちの手先だろうと、きっと何ともなかったはずです。
お料理にがっつかないというのには、こんなメリットもあるのですね。

と、ティファニーのマナーブックを片手に鑑賞していると、お下品な方々が禁止事項ガン無視で乗り込んできます。

いまはそんなことないと思いますが、ひと昔前の中国の列車には、話に聞く日本の買い出し列車みたいに、ありとあらゆるものが持ち込まれていました。

ふとん、なべ、自転車などは可愛い方で、人の背丈ほどもある米袋とか(それ、手荷物っていうか普通)、ヤギとか(もちろん生きてるヤツね)、センザンコウとか(もちろん生きてるヤツね)、理解に苦しむアイテムも少なくありませんでした。

絶対ダメって繰り返し放送してるのに、花火を大量に持ち込む不届き者とか(天女さま、あなたのことです)。

当然、むくろもダメですよ!

と言ってみても、宇文護も不届き者なんで聞いちゃーいません。
そんな人たちに真顔で説教する宇文神挙はホントに怖いもの知らずというか何というか。

当然のごとく、手下どもに刀を突き付けられておりますが、よくも殺られなかったものだと…ぶるぶる(あまりに不自然なんで、実は最初見たとき、彼もグルなのではと思ってました。許して、宇文神挙!)

スープを飲んでもいないくせに、毒を盛られた…と、虫の息の宇文邕。皇帝だというのに俳優なみのスゴイ演技力です。つか仔ブタちゃん、その血糊はどこから…まさか『ズートピア』じゃあるまいし、ケチャップとかじゃないですよね。

それにしてもよく分からないんですが、宇文護はなんで今頃になって皇帝の座を狙い始めたんでしょうか。どうせなら宇文邕がもっと若いうちの方が良かったんじゃ?

とはいうものの、きっかけもなくクーデターを起こせば、さきざき歴史書にどう書かれるかは火を見るより明らか。

意外な気もしますが、こういう人たちは通信簿を気にする夏休み前の小学生みたいなマインドの持ち主だったようです。

小学生なのは宇文邕にも言える、というのはもうしばらくすると分かります。

ここで、宇文護は宇文邕に譲位の詔〈みことのり〉を出させようとします。宇文邕は寝殿に引っ込んでしまいましたが、李安はそこへサインした文書を取りに行くのを嫌がります。

宇文護の子分のくせに、なぜ肝心の詔を取りに行かないのかははっきり説明されていませんが、恐らく、宇文邕が「先」帝(笑)という身分になったとしても皇帝は皇帝、その身体(玉体)に触れたり、直接何かを受け取ることは、禁忌だったからだと思われます。

第8話(→こちら)でお話しました通り、直接声を掛けることさえ、本当は許されないくらいなんですから、いつもは遠く階段の上にいる皇帝陛下のお側へ、大冢宰ならぬ李安の分際で近寄ることなど考えづらかったのでしょう。

そんなら自分で行く(はぁと)と、さすがは宇文邕の想い人(笑)らしく、ずいぶん気軽に詔を取りに来た宇文護に刀をつきつける、仔ブタ陛下。

積年の恨み重なる従兄に“老狐狸”(悪賢い古だぬきよ)と呼びかけています。

おや、これまでは自分をオオカミに育ててくれたオオカミだと思ってたんじゃなかったでしたっけ。オオカミになったりタヌキになったり忙しいお人です。

ちなみに、中国語の“狐狸”は「キツネとタヌキ」ではなく、現代ではこの2文字で1語で、「キツネ」を意味します。

詐欺師一族としては、どっちもどっちのキツネとタヌキの化かし合い、なんでしょうけど。

ということで、キツネ(江戸前は油揚げ)とタヌキ(同天かす)両方入りの冷やしそば大盛りのことを、一部では「冷やし特バカ」と申します。

背筋も凍る夏の納涼メニュー、どうぞお試しあれ!

腹心が護ってくれるはずと信じていたのに宇文邕の計にはまり、自ら手にかけていたことを知り、大船どころか納涼屋形船に乗り組んだと悟った宇文護は、

“反間計…”(離間の策か)とつぶやいていますが、これは以前ご紹介した《孫子兵法》用間篇にある言葉です。

相手の力を削ぐために、大事な仲間と仲たがいさせようとする。

高緯に蘭陵王の悪口を吹き込んだ祖珽が企んでいると、第10話(→こちら)で雪舞がなじった計略ですね。

さあ、ついに宇文護を追い詰めた宇文邕。してやったりといつにもましてドヤ顔の特盛り状態です。とっとと決着を付ければいいものを、この後延々と過去のいきさつを語ります。

なんせあと放送時間が10分も残ってますしね。

ということもあるでしょうが、宇文邕としては、この後、本当の皇帝になるために、この場にいる全ての人(除:宇文神挙)が思っているであろう、

宇文邕はヘタレ
宇文邕は兄皇殺し
宇文邕は尉遅迥を見捨てた

という誤解をといておかなければいけないのでしょうね。
皆に思われているってことは、歴史書にもそういう記録が残ってしまうということでもありますし。

そうです。宇文邕も、通信簿に何て書かれるかを気にしなければいけない立場なんですね。

そして、我らが四爺も、スケールはやや小さいとはいえ、そこんとこの基本は一緒。何せ第9話(→こちら)で、史官に書かせるセリフのことまで皮算用してましたよね。

現代日本での存在感のなさからは想像がつきにくいことですが、古代中国で歴史を書く係の人は偉かったのです。

地位が高かったというだけではありません。地位の高さに見合うだけの、その根性が偉かったのです。

『春秋左氏伝』にこんなエピソードが伝わっています。

大史書曰 崔杼弑其君 崔子殺之 其弟嗣書 而死者二人 其弟又書 乃舍之 南史氏聞大史盡死 執簡以往 聞既書矣 乃還
(歴史を書く係である太史が「崔杼は自分の君主を殺した」と記録したので、崔杼に殺された。跡を継いだ弟も同じことを書いて殺され、死者は二人となった。するとその弟がまた同じことを書いたので、ついに赦された。

別の史官は太史たちが殺されたと聞き、「崔杼は自分の君主を殺した」という記録を残そうと竹簡(第16話参照)を持って駆け付けたところ、すでに史書に記されたと聞いて、帰っていった)


崔杼は、このドラマでいえば宇文護のような、当時の実力者です。彼が公位を簒奪したため、史官は簡潔にそう書きました。殺しても殺しても、次に史官になった者が記述を変えないので、ついには諦めた、という話です。

ま、殺された君主の方もロクな人じゃなかったのですが、それはまた別のところに書いてあります。毀誉褒貶は別にして、事実は事実として記録に残すというのが史官の仕事なのです。

この話は「太史の簡」という言葉になって残っています。意味は、どんな困難にあっても仕事をおろそかにしない、ということです。

だから第9話で四爺は史官に書かせるセリフなんか考えていますが、その通り書いてもらうのは、たぶんムリ。

史官のど根性といえば、中国でもっともよく知られた歴史家の1人、司馬遷のエピソードも思い出されます。

彼は当時の将軍をかばったために刑罰を受けますが、執筆中だった史書『史記』を完成させるためだけに生きている、書き終えたら極刑に処されようと構わない、と言い放った話は有名です。

こうまでして作られた書物に書かれた記録は、当然重きを置かれ、子子孫孫語り継がれると考えられています。

なので、後世、残った記録で自分の悪評が定まるのを恐れて、皇位を狙う者たちはウラの事実がどうであれ、表面的には禅譲が行われた(前任者に位を譲られた)と史書に書かせようとするのです。

何だかなーとお思いになるかも知れませんが、後世の評判を気にするのは、何も古代中国の話だけじゃありません。

たとえば、アメリカ初の黒人大統領オバマさん。

あらゆる意味で物議を醸してる後任選びのおかげか、すっかり影が薄くなりつつありますが、彼も任期の終盤を迎え、「どんなレガシーを遺すか」が注目されています。

レガシーとは遺産、この場合は業績ということですが、それはまさにのちの世に、何をした、どんな大統領だったと伝えられるかを意識することに他なりません。

で当然、記録のために回ってるであろうビデオカメラを意識しすぎたのか、宇文邕はセリフを引っ張り過ぎてしまい、その隙に貞児を人質に取られるという大失態を招いてしまいます。

宇文邕がどうなろうが(ヘタすりゃここでライバルが消滅してくれたらラッキーくらいに思っていたのかも)、

とにかくとっととこの場を立ち去りたい蘭陵王は、宮中の大混乱に飛び込もうとする雪舞に、

“這不關你的事”
(これは君には関係のないことだ)

と言いますが、もちろんそんなこと聞く雪舞じゃありませんって。

一方、貞児を放せとすごむ宇文邕に、

「取引できる立場ではなかろう」という声がかかります。
相変わらず上手い訳っすね。ここの原文は、

“討價還價”

値段の駆け引きをする、という意味です。

そこへ飛び込んでくる楊雪舞。突然の招かれざるゲストの登場に、当然、みんなはビックリです。

自己紹介も兼ねて、出た出た 雪舞のお得意、 

ハッタリ君!

何か物凄い魔法使いなのかしら?と、その場のみんなが思わず固まっていると、後ろからこっそり、蘭陵王が李安に近づきます。

ああ、李安〜! 後ろ後ろ!

四爺は何のためらいもなく、この場で最初に剣を振るったくせに、その後は左右をキョロキョロ見てるのが何ともはや。

その後、そんなに宇文邕の命令を聞くのが不服なのか、御意といいつつあからさまに不承不承で笑わせてもらいました。

しかし、笑ってる余裕もないこの場の宇文邕と宇文護。

最後の大逆転を賭けて、宇文護はこの一言を繰り出します。

“我是大周國的開國大將”
(私は周国開国の功労者だぞ)

你的父皇宇文泰 曾經下令 後代君王均不得殺之 你豈敢”
(そなたの父、宇文泰は、この先、皇帝といえども宇文護を殺めてはならぬと命をくだしたのだ。それを敢えて破ろうというのか)

父親に背くのか!とは、ダースベイダーがルークに投げつけそうなセリフですね。…

儒教社会、ましてや人の手本たる皇帝であれば、親の言いつけに背くことは重大な倫理違反な上に、開国の皇帝・宇文泰が下したのは、宇文護に、いわゆる“免死金牌”を与えるという命令で、これを無視することはできまい、という言わば二重の脅しです。

“免死金牌”とは、建国の功労者に皇帝が与える特権です。

“金書鐵券”“丹書鐵券”というのも基本的に内容は同じで、恩賞や特典をメダルや金属の板に書く、一種の契約書で、半分、またはいくつかに割って、割符の片方は他の人が持っていました(第7話→こちらで、祖珽が高緯に「勝ったも同然」という意味で“勝券在握”と言ってましたね)。

そこに、お前さんの働きで勝てたら、死罪に値することをやっても9回までは無効ね、とか、お前の子孫も死罪を免除してあげるよ、等々の約束事が書いてあるわけです。

なんでそんな面倒くさいことを…とお思いの方には、日本の戦国時代を連想していただければ分かりやすいと思うのですが、これから国を作るってことになれば代々の忠義者とかはいませんので、武将も当然、これやって何のメリットがあるわけ?と思っています。

なので、合戦とかで一番に斬り込んだり、勇猛な働きをしてもらったりしようと思えば、やっぱりインセンティブで釣るのが一番な訳です。

最初はご褒美や領地を約束した契約だった“鐡券”ですが、死罪を免じるという恩典がついたのが、ちょうどドラマの時代、南北朝だったと言われています。それには戦乱の時代ならではの切実な側面がありました。

これは第1話で雪舞のおばあ様も言っていましたが(→こちら)、兎を捕まえれば猟犬は始末されるのが世の倣い。

功労のあった将軍は、疑心暗鬼に駆られる新皇帝の側にいて、褒美を期待するどころか、場合によっては命の心配をしなければなりませんでした。

それが、のちのち皇位を簒奪するかもしれない親戚筋ならなおさらのことで、建国にあたって助太刀した他民族とかも同様です。

だから、皇帝は将軍や親戚や帰順してきた他民族の武将たちに、私も、そして後継者たちもあなたに危害は加えません、という約束を与えておくことで、頑張って働いてもらおうとするわけです。

これが簡単にひっくり返せるようなら、約束になりません。いくら皇帝でも、重要な約束を反故にするようならば家臣は離反するはずです。なので宇文護も、絶体絶命の瀬戸際にこの話を持ち出してきたのでしょう。

でも、いくら取り決めだって、自分の命が危ないときに、それを守ろうという皇帝もいないでしょうね…。

結局、宇文邕は剣を振るい、

“朕即天下”
(朕こそが天下だ!)

と宣言するに至ります。

ってことで、宇文護によるクーデターはどこぞと同様失敗に終わり、ひれ伏す皆さん。とりあえず、長安市民に被害が及ばなくて済みましたね、は良いんですが、ここで宇文護の付き人も全員どさくさにまぎれてバンザイ側に回ってるんですけど…。

とまあいろいろありましたが、西暦572年、“韜光養晦”(才能を隠して外に出さなかった)12年の忍耐を経て、宇文邕は実権を手にしました。これは史実も同様で、ツメを隠して12年、ボンクラ皇帝を演じてきたその演技力と知力はやはり大したものと言わざるを得ません。

宮殿内外の様子を報告する宇文神挙にいろいろ確認事項もあるだろうに、質問の2つめが、“那天女呢?”(で、天女はどうだ)ってあたり、まだ演技が抜けきってなかったのかも知れませんが。

宇文邕が雪舞の不在に気が付くまでにどのくらい時間がかかったのか分かりませんが、四爺と雪舞は夜になって、国境までたどり着いたようです。

が、五爺と落ち合う予定の旅館で馬を下りると、周りをぐるりと周兵に囲まれてしまいます。

こんなにいっぱい人が潜んでたのに気配さえ察知してないとは、大丈夫ですか、この将軍?

しかもそこへ、四爺的に二度と見たくなかったであろう、宇文邕が現れます。

“怎麼要走了 也不跟我說一下”
(出ていくというのに、一言もなしか)

お取込み中だったみたいですからね…。

“原來你 一直潛伏在周國”
(おまえがずっと周に潜伏していたとはな)

言われた蘭陵王は黙って宇文邕を睨んでいます。
宇文邕が蘭陵王を見るのはここまでで、後はずっと雪舞を見たままです。

“宇文邕 我知道你是好人 你放了我們吧”
(宇文邕、あなたが良い人だって知ってるわ。私たちを放してちょうだい)

言われた腹黒陛下は実に微妙な表情をしています。

“朕最害怕的 就是你走”
(朕がもっとも恐れることは、そなたが去っていくことだ)

続けて、その理由を述べられますが、そこのセリフはなんていうか、出来の悪いバラードの歌詞みたいです。“朕”だからまだ見てられるんですけど、主語を「僕」とかに変えたら、おやつのゆで卵を吹き出してしまいそうですよ。

我慢してご紹介しますと、

“從來沒有一個女子 可以不把朕當皇帝看
(これまでどんな女子も 朕を皇帝としてしか見なかったというのに)

卻又跟朕如此地沒有距離
(少しも距離を感じさせることなく)

讓朕毫無防備之心 吐露真言
(朕の心を開かせ 胸の思いを話させてしまう)

當你涉險去救貞兒的時候 朕第一次感到擔心
(そなたが危険を冒して貞児を救ったとき 朕は初めて怖れた)

從來沒有一個女子 可以讓朕如此地擔憂
(いままでこれほどまでに 案じた女子はいない)

朕 真的很想把你留在身邊”
(朕は何としてでも そなたを側に置きたい)

あの一連のゲス騒動でさえ起こらなかった、
婚約者の目の前で女をくどくという、あり得ないシチュエーション。

かくも長いセリフの間、蘭陵王は宇文邕を睨んだり目をそらしたりと
バリエーションをつけつつ反応してるわけですが、よくも黙ってたもんだ。

そりゃもちろん、台本にセリフがないからでしょうけどさ。

でも、中国の人は一般に、日本人みたいに人の話にひっきりなしに相槌打ったりしないみたいです。なので電話で中国人のお友達が愚痴って来たら、スピーカーフォンにしてずっとしゃべらしとけば特に問題ないらしい。お試しください。

逆に、てきとーに相槌を打つと、「私の話にさっき賛成したじゃない!」と言われて修羅場になったり、アメリカ人に至っては、頻繁に相槌を打たれると逆に「人の話をちゃんと聞かない」「こちらの話をやめさせようとしている」と不愉快に思う人もいるらしい。気を付けませう。

黙って聞いてたのは雪舞も同じですが、言わせておくと切りがないと思ったのか、いきなり話を打ち切る方向に持っていきます。

“我都要成為他地妻子了”
(だってすぐ私はこの人に嫁ぐのよ) 

ここに「どか〜ん」って効果音が入っているように聞こえるのですが、空耳でしょうか。

言われて、宇文邕はまるで今初めて聞いた話みたいに蘭陵王の方を見てますけど、周に来る直前の時点で、雪舞はちゃんと宇文邕にそう言ってましたよね?
都合の悪いことは、知らんふり♪ なのでしょうか。

それでも宇文邕は皇帝、当たって砕けろ♪ みたいなことはせずに、

“要是因為你 讓朕弄得跟土匪一般
那還真是貽笑大方
楊雪舞 你可要記著 對朕有過承諾
把朕當成是一輩子的朋友”

(もしそなたのために、盗賊のような真似でもしたら、
それこそいい物笑いの種だな。
楊雪舞よ 忘れるな 朕に約束したことを
朕と一生の友でいることをな)


さすがは陛下、民草のお手本なだけはあります。

“蘭陵王你也幫朕最不喜歡欠人情”
(蘭陵王 お前にも助けられた。
朕が何よりも嫌うのは借りを作ることだ)


とも言っていますが、どの時点で蘭陵王が助けたと分かったのでしょう。

太刀さばきか?

とにかく、宇文邕は約束を守る男。
捕虜は全員解放したし、自ら斉国まで雪舞を送り届けましたよ(誰も頼んでないけど…)。

どこかの誰かさんとは大違いですよね。

さらに何か虫の報せでもあったのか、こんなことを言い出します。

“但是在我有生之年 若你讓楊雪舞受傷離開你
朕在也不會讓她回到你的身邊”

(朕の目の黒いうちに もし雪舞が傷ついてお前の元を離れたなら、
二度と帰しはしないぞ)


蘭陵王も、理由は聞かずにまともに返します。

“對不起 就算天塌下來 你也不會再有這種機會了”
(悪いが、天が崩れてきたとしても 二度とそんな機会はないだろう)

そう言われた雪舞が、にっこりして蘭陵王を見るのもいいですね。

そこへ、長ゼリフの間に神挙が一生懸命書いたのか、停戦協定書が運ばれてきます。

“這份停戰協議 我替大齊的子民謝謝你”
(この協定書 大斉国の民に替わって礼を言う)

それはそうと、もらったものの重大さに比べて、片手で受け取ったり、返事の“謝謝你”(どーも)っての軽く聞こえるんだけど、どうなんでしょ。

真紅の大優勝旗を贈呈する」
「どーも」

レジオン・ド・ヌール勲章を授与する」
「どーも」

AKBのセンターを命ずる」
「どーも」

どーも違う…。

恐らく単純に喜んでいる雪舞とは違って、四爺はこの協定書の別の意味も、いちおうは考えているものと思われます。宇文邕は渡すときちゃんと言っていますが、政権が代わったばかりで不安定なので、国力を養うために停戦したい、ということは、力がついたら何してくるか分かったものではないからです。

私の一番好きなマンガ、藤崎竜先生の『封神演義』に、実に深〜い一言があります(このマンガ、いかにもな少年向けマンガと見せかけて、あちこちズブズブ深いところがあるのですが)。

お話の舞台は殷〈いん〉から周に替わる時代、今から3000年以上昔の、紀元前1027年ごろのこと。
(この周は一番古い時代の周。非常に長く続いた王朝のため、この周にあやかってか、中国史には何度も周という国号が登場します。宇文邕が皇帝をしている周もその一つなので、区別するため歴史上では「北周」と呼んでいます)

主人公の太公望・呂望〈たいこうぼう りょぼう〉(72才)は周を援けて、妲己〈だっき〉に乗っ取られた殷を滅ぼそうとします。

しかし、妲己ちゃんは恐るべき妖力と、スーパー宝貝〈バオベイ/戦闘アイテム〉を持つ狡猾な仙女でしかも美女でプリプリプリンちゃんと来てるので(え?)、太公望を初めとする仙人・道士たちが束になってもかないません。

お話も終盤(第17巻)、太公望は助けを得ようと、伝説の大仙人、太上老君〈たいじょうろうくん〉(?000才)を探しに出かけます。

面倒くさがりで滅多に起きてこない太上老君を何とか探し当てると、これがまたジャニーズ系の飛び切りなイケメンであります。

そもそもこのマンガ、主要な登場人物の年齢がだいたい60才以上〜3000才程度の超高齢者ばかりなんですが、主人公の太公望にしてから72才なのに、見てくれ16、7才の青少年に見えます…というところで、私はハタ、と膝を打ちました。

この話、元々が中国明代の古典小説なのに、内容も実は終盤まで、ほとんどマンガと一緒です。つまり、殷と周すなわち、神話と歴史の時代が交代する時期の史実をベースにしつつ、仙人・道士・人間・妖怪が入り乱れ、各々アイテムを駆使して相手を倒し、封神榜(打倒リスト)を完遂するというもの。

大事なことなので3回言いますけど、このファンタジーゲームそっくりなあらすじは、今から500年以上前に成立した原作(古典小説)通りなんですよ!

で、小説の挿絵は実年齢(?)にふさわしくおじいさんばっかりですが、マンガの方はイケてるビジュアルの登場人物ばかり。何でよ...?と思ったけど、そうだった、仙人・道士は不老不死、つまり、いつまでも若いんです! だから挿絵の方がまちがい。

何で今までそこに気づかなかったんだろう? そう思った瞬間、私はこのマンガのトリコに…。

あ、話が逸れちゃった。

そのイケメンな太上老君が最強というにはあまりにもダラダラしているせいか、太公望は自分のダラダラぶりを棚に上げて尋ねます。

「おぬし 妲己より強いか?」

太上老君はいつになくキリッとして答えます。

「彼女には決して負けない」

ここでページが変わって、次のセリフは、

「なぜなら 戦わないから!」

それを聞いた太公望は膝かっくん、となるわけですが、孫子の兵法のなんたるかを知り、ドラマもここまでご覧になった皆さまにはよくお分かりのことでしょう、この言葉の深さが。

そう、戦わなければ負けることはないのです。
そして、戦わないということは、いかに困難であることか!

このあたり、ちゃんと中国哲学の基本を押さえてオリジナルなお話にしてるところがまた素晴らしい。

このマンガ、またちょっと先で登場することになるので(え、まだやるの?)今回はここまでにしておくとして、宇文邕が実権を握って最初にしたことは、実にウルトラCなことでした。

いまこの不安定な国内情勢のまま攻められたら、下手すると国ごとなくなっちゃうかも知れません。
それを、いかにも恩着せがましく防いだわけです。さすが忍従12年は伊達じゃない!

そして、受け取る側の人にとっても、コイツは非常に悩ましいアイテムなのですが(宇文邕がくれた、ってことを差し引いても、四爺は実は受け取りたくなかったことでしょうよ…)、それは次回以降のお話。

宇文邕はじっと雪舞を見たあと目をそらして、

“在朕反悔之前你們走把”
(気が変わる前に去れ)

と言い、言われなくてもそうする、と書いてある四爺の背中を見送りつつ、

“好不容易找到懂朕心的人 朕卻不能把她留下”
(ようやく心が安らぐ相手を見つけたのに、そばに置けぬとは惜しい)

と独りごちます。

そのつぶやきを聞いてうなだれる宇文神挙。

あなたの心を分かっている人は、雪舞の他にもちゃんといるわ、仔ブタちゃん!
部下と奥様を大切にね! とエールを送って次回へ続くこちら


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2016年07月03日

18歳以上の皆さん、参議院選挙の投票に行きましょう

皆さま、こんばんは。
選挙日当日、仕事が入りそうだったので投票を済ませてきました。

どうせ自分が入れても入れなくても一緒とか、
誰にも期待できないとか、
民意に任せたら却ってヤバいこともあるじゃないかとか、
ネガティブ要素はもちろんありますが、
制度のよしあしは取りあえず置いといて、
昔の人たちが時間や労力、ときには命も投げ打って手に入れた選挙権、
投じた結果が未来をどう変えるか、きちんと考えることも含めて、
受け継いだ私たちが大事に使わなければ…。




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2016年06月26日

世界を救った男たち(表記以降、ストーリーに触れています)

s-lelaki.jpg
(写真は映画館サイトより)

ひょっとしたら初マレーシア映画鑑賞かも。

「アベンジャーズ」のサブタイトルみたいな題名なんですが、本国では劇場公開はされたものの、特に娯楽映画という扱いではなかったらしいです。

ただ、日本での上映は、今のところ、なら映画祭と、横浜のシネマ・ジャック&ベティでの限定公開(昨日、本日6月26日14:50〜)のみ。ですので、もしタイトルが気になったら、迷わず横浜・黄金町に行きましょう!

私は、貰ったチラシの写真↑ に凄く興味を惹かれて出かけてみました。
上映後に伺った字幕翻訳家の方の解説によると、これは、マレーシアや周辺国で伝統的に行われていた(る)家の引っ越し法だということで、大がかりな御神輿みたいに見えるんですが、伝統的な家屋は地面にしっかりと固定されているわけではないため、このように担ぐことが出来るらしい、ということでした。

お話は、結婚する娘のために家を用意しようと奮闘する花嫁の父・アワンが、森の中の廃屋を移動し、補修して使おうとしたことから始まります。

みんなが力を合わせれば、結構大きな一軒家を動かすほどの大きなことができるのですが、その一方で、団結力が思わぬところでアダになる出来事が…。

マレーシアの農村に題材を取ったドタバタストーリーではありながら、実は世界中どこででも、どんな時代でも起きそうなことをシンプルな出来事に凝縮していて、上手いなっ、と思った映画でした。大人の俳優も子役さんたちもいきいきとしていたし、どうやって食事をするのかとか、イスラム教徒だから挨拶、アラビア語なんだ!?と驚いたりとか、マレーシア初心者にとっては、農村での日常生活の様子も何気なく伝わってきて興味深かったです。

上映の情報はこちら→シネマ ジャック&ベティ



さて、こういう映画でネタバレも何もないのですが、ご覧になれる方はここまで、ということにしていただいて、以下はもうちょいお話の続きを。





アワンさんのために、村の男たちは総出で手を貸すのですが、一気に目的地まで家を移動するのはムリなので、何日かかけて動かします。

もともと、森の中に廃屋なんてお化け屋敷だ、くらいにマイルドにビビっていた村人たちは、そのうちの一人が夜、家に悪魔がいるのを見た、と騒いだのを機に、急激に不安を募らせていきます。

最初のうちは迷信だと一蹴していた村長も、同時に起こったいくつかの難題に手を焼いているうちに、アワンさんの希望通りには村人を動かせなくなってしまいます。

村人の方は、化け物退治のために女装して自警団を結成するなど、騒ぎはどんどんエスカレート。アワンさんは迫害される身となり、ついにはキレて悪魔上等とばかり、化け物に扮して自分が村人を脅かす側に回ってしまいます。

実は、最初に村人が目撃したのは、警察に追われて逃げ出し、くだんの家に勝手に住み着いた、よそ者の黒人だったのですが、彼は危機管理能力があるというか非常に機転の利く人で、村人が尊敬しているらしい政治家のポスターを見て、とっさに彼の友人だと名乗る。で、村人は彼を全く疑わず、ついに黒人と鉢合わせした化け物にコスプレ中のアワンさんを捕まえようと駆け出していく…



上映後の解説によりますと、映画はどうやら、マレーシアのムラ社会あるある、といった内容がふんだんに盛り込まれているそうで、映画的にアレンジしたり、誇張したりはあるものの、人々が心の中ではお化けの存在を堅く信じていたり、商売熱心で怪しげな祈祷師にカモられたり、うさんくさい政治家を村ぐるみで応援していたり、催しに政治家が必ず遅刻してきて、お出迎えするころには皆疲れ切っていたり…といったネタが惜しげもなく詰め込まれているらしい。

そういう訳で、上映時には当地の映画人が、「マレー人をバカにしている」と言う理由で、公開しないように抗議したり、結構議論があったらしいです。幸いにというか、映画は無事上映され、本国できちんと賞も取ったとのこと。

そしてこの映画、実は日本人が見ても、若干アイテムを入れ替えるだけで、あぁ、日本でもあるある、って感じです。

まずは、お化け(精霊)を信じてるなんて、未開民族みたいでマレー系のご本人達的にはイヤだ!ってことらしいんですが、日本人だって八百万の神は信じてるし、祟りが怖くて祈祷や太鼓で追い払おうとする(これは映画的な誇張らしいです)のも、日本だって事務的とはいえ地鎮祭とかやるし、似てますよね。

だから、迷信と言われようがどうしようが、そういうことをしないと落ち着かないという気持ちはとても良く理解できます。

それを面白おかしく描写されたら、バカにしてるって腹が立つという気持ちも分かります。例えば、お祭りで毎回死人が出る、とかいうと、どんな土人の風習かと思いますが、日本にもその手の命がけなお祭りはあるし、日本だけじゃなくて、スペインとかにだってありますよね。よその人は野蛮だとか言うけど、土地の人にとっては神聖なもので、他人にとやかく言われたくない。

ただ、監督さんが描きたかったのは、迷信深いマレー人たちが引き起こしたくだらない騒動の話、というのではなくて、一人ひとりは純朴で親切で良い人でも、集団になると途端に矛盾に気が付かなくなったり、別の意見が言えなくなったりしちゃう、という怖さなんでしょう。

ムラどころか世界中かなりの場所で多かれ少なかれ、こういうことがあるんじゃないでしょうか。

解説で翻訳家の方が、原題には「希望」、英文タイトルには「世界を救う」という言葉が使われてるけど、希望もないし、世界も救わなかったです、とおっしゃってウケていましたが、このタイトルに込められている意味について、ぜひ監督さんに伺ってみたいものです。

たとえば、健康法なんか最たるものですが、何かを世間的にいったん信じてしまうと、根拠が薄弱だろうがそれに異を唱えるのは難しいし、そもそも中に居る人には常識なので気づくことすら難しい。監督さんはマレー系ではないそうなので、余計非難の対象になったんでしょうが、解説の通り、外から見て初めて気が付くことというのはあるものなんでしょうね。

アワンさんは芸能生活をやめてしまった歌手、という設定になっていて、最初、みんなが家の引っ越しを手伝うとき、行きのトラックで請われて、しぶしぶ歌をうたうシーンがあります。みんなが知ってて唱和するのですが、何となく日本の演歌的な哀愁を感じます。

上映後、その歌の歌詞の中でキャッサバとチーズになぞらえていた事柄について質問がありました。

どうやら該当箇所はマレーシアの言葉ではないようで、翻訳家によると、インドネシアでは前者は貧困層を、後者は富裕層を象徴するということは分かったのだけれど、ということでした。

映画のエンドロールにはこの歌が流れ、最後の唱和の部分も劇中そのままに使われて終わります。良い方に作用すれば素晴らしい団結力がいとも簡単に集団いじめの方向へ転換してしまう滑稽さ(迫害される本人にとっては、恐怖以外の何ものでもないでしょうが、傍から見てると一部始終がバカバカしいです)とやるせなさを、見事に表現したエンディングだと思いました。

リュウ・センタット監督
映画の公式HPは→こちら


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2016年06月19日

帰ってきたヒトラー

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さすがは総統、完売です。

映画館に連れてきていただくまで、この映画の存在すら全く知らなかったです(情報感度低すぎですね…)が、朝一の回が始まる前に、すでに午後の回も売り切れという、恐るべき人気作。

いやぁ、笑いました。

ビジュアルネタで笑い、ドタバタネタで笑い、コントで笑い、ブラックユーモアで笑い、ヒトラー映画のパロディで笑い、メルケルで笑い、と次々繰り出される大ネタ小ネタの波状攻撃に、全館大爆笑です。

自分、ドイツ語は全然分からないんですが、セリフ回しも、独りだけ大げさな(か、古いのか?)人がいる、というのは明らかに分かるので、そこも取りあえず笑えます。

2014年のドイツに、こつぜんと現れた〈本物の〉ヒトラー総統。誰もが変人か、お笑い芸人かと思い込むうちに、彼は草の根の人々の不満を聞き、記念撮影に映り込み、ネットで話題になり、TVに登場し、果てはベストセラーまで出版します。

さすがと言うべきか、相手のからかいや嘲笑を巧みに躱してカリスマ性を見せつけ、真面目でときにチャーミング、そのブレない主張には思わぬ説得力もあったりして、次第に彼の周りには共感が広がってゆきます。

彼を利用して何とかテレビ局に復職しようとするテレビマンのザヴァツキは、初めは成功を喜んでいたものの、危険に気づいて事態を収拾しようとしますが…。


ドイツネタのうち、ものまね芸人(?)のポテンシャルにいち早く食らいつき、スターダムにのしあげた敏腕TV局長を「(ナチ党大会などの傑作映像を撮った女性監督)リーフェンシュタールのようだ」っていうのだけはかろうじて分かって笑ったんですけど、詳しい人が見たらさらにおいしいネタがてんこ盛りだったことでしょう。

それでも、こっちはドイツの事情なんかほとんど知らないのに、結構ギャグは分かるもんだな〜なんて、最初はお気楽に観ていたけれど、そのうち、いや待て、そうじゃないと気づいてからが怖かった…。

周りの人の反応が写メ撮ったり怒ったり敬礼したり等、すごくナチュラルなんですが、実際にヒトラー役の人とロケしてドキュメンタリー的に撮影した箇所もあるんだそうです。

ヒトラーに会った人たちの、表情や反応、コメントなんかを見ていると、かなりの部分はそっくりそのまま、日本事情を代入してもバッチリ当てはまります。

人々の不満を吸い上げ、現状の不甲斐なさを告発するヒトラーを、「ドイツの悪口を言うんじゃねーよ、反独野郎」、とネオナチがボコるシーンはマジで笑えません(…笑ったけど)。

ドイツの人たちが愚痴ったり、不満に思ったりしていることも、かなりの部分が日本と似ています。ってゆうか、すごく良く分かります、その気持ち。

それを、懲りない人たちだと非難するのは簡単ですが、そういう不満を教育で抑えようとしたり、タブー化して言わせないようにすれば問題が解決するのかといえば(どうもドイツはそういう解決法らしいですね、映画から見る限りでは)、恐らく根本的な解決には全然なってないだろうと、傍から見ても思います。

じゃあどうすれば良いんでしょうか。ホントに困ったもんです。景気だの、政治だの、大きな問題は個人の手に余ります。こういう事は国がしっかり対応してくれないとね、と私のような庶民はつい思ってしまいます。

しかしです。

映画の中のヒトラーは繰り返し、民主主義について語ります。そうです、彼は選挙で選ばれた、正当な国の代表者。専制君主でも魔術師でもありません。

私たちは横暴な人を、つい「ヒトラーのようだ」などと言ってしまったり、映画やテレビで狂人のように描かれているのに慣れていたりしますが、きっと本物のヒトラーはこの映画に出てくるように魅力があり、その方向性はともかく、彼なりにドイツとドイツ国民のためを憂いて行動していたに違いありません。

つまり、良きにつけ悪しきにつけ、選択の責任はドイツ国民にあるのだと、堂々とドイツ映画で主張したドイツの映画製作者の勇気を、とりあえずは称えたいと思います。

デヴィッド・ヴェンド監督

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2016年05月23日

山河ノスタルジア 《山河故人》/注記以降、ストーリーの結末に触れています

監督の名前で映画を観に行くことはあまりしませんが、ジャ・ジャンクー(賈 樟柯)監督は例外で、第1作の『一瞬の夢』(《小武》)以降、日本で公開されたものはほとんど観ています。

市井の人を主役に据え、誰の身にも起こりそうな出来事を描きながら、どこかにふっと大きな飛躍がある。そのギャップが面白いし、ストーリーや映像の時間の流れに余白がたくさん取ってあり、観る人がさまざまに思いを巡らせることができるのも魅力だと思います。

どんなストーリー、と聞かれて何十字かに要約してしまうと、全然映画の中身を伝えたことにならないという、その手の作品ばかりです。

今回の『山河ノスタルジア』は、ちょっとこれまでの彼の作品とは毛色が違うように感じられましたが、これまでとは別のアングルから、やはり観る人の心にぐっと触れてくる映画でした。

例によって紹介するのがとても難しいストーリーで、映画を観終わったあとで配給の作品紹介を見てみたら、確かに間違いじゃないんだけど、ちょっとこれは違うんじゃないかと思ってしまいました。

ということで、上手く伝えられるか分かりませんが、何とかご紹介してみると...。

物語は1999年、新しい世紀を迎えようとする中国の田舎町、山西省の汾陽〈ふんよう/フェンヤン〉から始まります。いかにも田舎の町にいそうな女性、タオと、彼女と付き合いたい2人の男性、ジンシェンとリャンズ。ジンシェンは当時の経済の自由化に上手く乗っかって羽振りがよく、一方のリャンズはすでに過去の産業である鉱山で働いています。

どうやらどちらかが特に好きなわけでもなさそうなタオですが、結局、2人の男性のもめごとをやめさせるような形でジンシェンと付き合うことになり、リャンズは町を離れる決意をします。

時は流れて2014年、病を得て町に戻ったリャンズは、療養費を工面するために古なじみと顔を合わせる羽目になります。そして…


まずは、物語の舞台を汾陽にした、というのがとても効いてると思います。監督の出身地だそうなのですが、第三者の目でみれば、お世辞にも麗しい山河とは言えない埃っぽい町で、言葉はなまりがきつくて聞き取りづらく、まさに「ザ・中国」な田舎の町です。

他に登場する上海とか、オーストラリアとか、そういった場所がいかにも現代的なのに対して、汾陽は根っこが田舎のまま。だからこそ、昔ながらの駅舎をピカピカの超特急が通過していくシーンなんかが、SFのように感じてしまいます。

一方でこの地は、中国史の古い伝統が詰まっている場所でもあります。いまちょうど別エントリーでずっと見ているテレビドラマ《蘭陵王》(→記事はこちら)なんて、舞台はちょうどこの場所です。リャンズの奥さんの出身地は邯鄲〈かんたん/ハンダン〉、つまり数々の王朝が都をおいた、かつての鄴〈ぎょう〉城です。

何千年の歴史の積み重ねも時代の流れの中にあっけなく置き去りにされていくなか、画面には、要所要所で地元の名酒「汾酒」が映り、田舎を捨てて海外に出ていく男の名は皮肉にも晋生〈ジンション=山西省生まれ〉。

古なじみ(故人)が根無し草のように散ってはまた吹き寄せられてくる光景に身を置きながら、タオは、時の流れの中で気づいていくことについて想いを馳せます。

黄河は、その岸辺に立つ者たちの想いには頓着せぬかのように、あるいは人々の感傷を映し出すかのように、氷の塊を運びながら、ただ滔々と流れて行くのです。

自分もちょうど物語の始まった時代の中国しか知らないので、記憶の中の中国はちょうど映画の最初の方のシーンとそっくりで、懐かしいなあと思いながら観ておりました。服装とか、ディスコでの踊り方とか、町中のお店とか、人々の挙措動作とか、本当にあんな感じです。

今はきっと見る影もなく変わっているに違いありません。昔が良かったとかそういう話ではなく、当時日本から中国に行ったときは、タイムマシンにでも乗せられたように、話に聞く昔をリアルタイムで再現されたような気がしていたし、いま中国に行けば、玉手箱を開けた浦島太郎みたいに、一気に同時代の国になっていることでしょう。外から見る以上に、中に居る人にとってはすさまじい変化だったのではないかと思います。

で、ジャ・ジャンクーの映画はこのように、誰にでも起こりそうなこと、の部分が実際の出来事に題材を取っていたりして非常にリアルなため、監督の御膝元の中国では身につまされすぎてドキュメンタリー作家みたいに思われているようですが、現実の出来事や、中国の世相・社会問題に引きつけた視点だけで彼の映画を観るのはちょっともったいないなあという気がします。

この作品は彼の映画にしては珍しくエモーショナルな描写があるのですが、それでも過度に感情的にならずに、登場人物たちの感情を丁寧にすくいあげながら物語が進みます。普通なら、そのまま良質の文芸作品としてまとまってしまいそうなところ、ジャ・ジャンクーは時空を鮮やかに飛び越え、その先の物語を語ってみせるのです。

中国は、一度の人生の中にしては時間的にも距離的にも隔たりが大きすぎる経験を誰もがする時代です。
この映画で描かれているようなことをわが身に置き換えて観る人も少なくないでしょう。

そして、中国の観客でなくても、この美しい映画を観て涙が止まらなくなるのは、誰しも記憶の中に懐かしい風景や大切な人がいて、しかもそれは永遠ではないことを改めて思い起こすからかも知れません。

渋谷Bunkamura ル・シネマ1で観ました。
縦に長い劇場なので、あまり後ろだと見づらいかも。
観やすい席はF、Gの6、7番あたりです。

以下、お話の結末に触れています。
ネタバレOKな方のみ、以下をどうぞ。











さて、ネタバレもOKになりましたところで、お話をもう少し詳しく振り返ってみましょう。

まずは1999年の第1パート。
タオはジンシェンとの結婚式にぜひ出席して欲しいとリャンズの家を訪ねますが、リャンズは招待状を家に置いたまま、家に錠をするとその鍵を放り投げ、町を出て他の省で暮らすといって出て行ってしまいます。

時は流れて2014年。ここが第2パートになります。
肺病にかかったリャンズは妻子と共に、汾陽に戻ってきます。古なじみを訪ねて療養費を借りようとしたのですが、逆に借金をして海外に出稼ぎに行くという話を聞かされてしまいます。

結局、妻が、置いたままの招待状からタオを尋ねあて、タオはリャンズの元を訪れて、資金と、彼が捨てて行った家の鍵を渡します。

タオの方は、実はすでにジンシェンと別れてしまっていて、二人の間の子ども、ダオラー(到楽/米ドルの意味でジンシェンが名づけた)は父親が引き取り、上海で育てています。タオの父が亡くなり、葬儀のために汾陽へやってきた7歳のダオラーは、タブレット端末で上海の後妻と話してばかりで、タオにはろくに口もききません。

上海への帰途、飛行機も特急も使わず、鈍行列車に乗るのを不思議がるダオラーに、

「各駅列車ならそれだけ長く一緒にいられるでしょう?」

と言い、タオは汾陽の家の合鍵を、ダオラー自身の家でもあるのだからと言って渡します。
しかしダオラーはタオの事にも、鍵の事にも興味がありません。これから移住するオーストラリアの美しい風景だけに関心があるのです。

そして、ここからがいよいよ、ジャ・ジャンクーらしい第3パートに入ります。

物語はいきなり、2025年。
オーストラリアの大学にいるらしいダオラーは、もう英語しか覚えていません。父のジンシェンはピーターと呼ばれていますが、別にオーストラリアが好きなわけではないらしく、「反腐敗運動」の影響で、帰国すれば逮捕されるのではないかと怯えているだけです。

ダオラー自身は何にも興味が持てず、大学を辞めて自由になりたいとばかり考えています。父には反発し、大学教師のミアに母のことを聞かれても、自分には母はいないと答えるばかり。

ところが、彼はいつしか、親子ほど年の離れたミアに惹かれていく。そして、彼は当時も、そしてこれまでも全く関心を寄せていなかったかのような母のことを突然に思いだし、ミアに告げるのです。

母の名前はタオだ。「波」と同じだ、と。

窓から、初老の女性が外を見ています。かつてジンシェンに、犬の寿命なんて15年だと言われていながら、彼女は犬を連れ、かつてジンシェンとドライブに出かけた黄河べりへと出かけます。雪のちらつく中、彼女はふと、ディスコを踊り始めます。

Go,West! 

当時流行っていたディスコソングに大きな波の音がかぶり、歌をかき消して行きます。無心に踊るタオを独り残して…。


字幕は人名がカタカナなので分かりづらいと思いますが、タオは漢字だと「波濤」の「濤」と書き、これがラストと呼応しています。

ご覧いただいたように、映画の中ではエピソードがオムニバスのようにブツ切りになっており、ジンシェンの2番目の奥さんはどうなったのかとか、リャンズはその後どうしたのかとか、ダオラーを上海に帰したあと、タオは何をしていたのか、今でも息子の事を思い出すのかどうかなどの、登場人物の細かい描写は一切ありません。

なので、ある程度登場人物に感情移入はできるものの、その時点、その時点で焦点が当たる人がいるだけです。まるで《水滸伝》みたいに、特定の主人公がおらず、いくつかのエピソードを通して全体として物語が成り立っています。間の話は観客が補完しながら、人によっては特に補完しないままなため、全体としてこういった雰囲気、ということしか言えないのです。

だから、母と子の愛の物語…みたいなストーリー紹介だと、それはそうでしょうけど、それは暗示されているだけで、だから良いんじゃないかな、と思うわけです。

暗示の例としては、たとえば、劇中に登場する重要な歌にサリー・イップ(葉 蒨文)の歌った《珍重》というのがあります。

この歌は3つのパートすべてに登場しています。確かに流行った曲ではありますが、最初のシーンでは、なんでこれ?みたいな印象しかないのですが、ラストを見ると、この歌でなければならなかった訳がよく分かります。

歌詞は(拙訳ですが)こんな感じです。

突然に沈黙が訪れ またあなたを振り返る
涙に潤む瞳は 胸の想いと悲しみを隠しきれない
積もる想いをどこから話せばよいものか
遠く離れたこの地で ひたすらあなたを思う
夜は長く あなたを懐かしむ私に寄り添ってくれる 
そちらはもう寒さが訪れ、
行く手には雪がちらついていることでしょう


もう一方の《Go West!》の方は、本当に90年代当時大流行りだったので、単にそれで採用されたのかも知れませんが、当時の人が歌詞を意識していたかどうかはともかく、今いる場所を離れて西へ西へと開拓していけばいい事がある、「西側」(資本主義諸国)を目指せば幸せが訪れる、という当時の信念を表現するのに使ったんじゃないかな、とチラッと思いました。

この映画を、現代中国の時代や世相を切り取った作品と見るならば、拝金主義や時代に流されて、使い道もよく分からないお金や自由を手にして結局は自分を失くしてしまうジンシェン、出稼ぎ労働者として格差社会の底辺に沈んでしまったリャンズ、アイデンティティを失い虚無感にさいなまれるダオラーは、特に掘り下げて描かれている訳でもなく、登場人物というよりは、それらの事象を象徴するアイコンに過ぎません。

一方、この映画を、母と子の強い絆を描いたエモーショナルなものと見るならば、ジンシェンやリャンズは脇役で、世相や時代は舞台装置にしか過ぎません。

しかし、ジャ・ジャンクー監督の特に優れているところは、この2つが1つの作品の中で、分かちがたく重要な要素として描かれているところなのだと思います。

つまり、ある人の存在は世界から見ればごく小さなもので、時代の流れには逆らえない取るに足らないものであり、逆に、だからこそ、そういう無数の人たちが組み合わさることで世界というものが成り立っており、誰もが世界の重要な一部分であるということを、しみじみと感じさせるということです。

予備知識なしに観てもきっと面白いと思うし、監督がさらりと用意した舞台装置を味わいながら観ても楽しめる、そんな作品だと思います。ぜひご覧になってみてください。

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作品情報
山河ノスタルジア|映画情報のぴあ映画生活
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2016年05月05日

ラ・フォル・ジュルネ・オ・ジャポン 熱狂の日 2016 ナチュール 第3日目(5月5日)感想

東京国際フォーラムで開催されているクラシック音楽の祭典、本日は最終日でした。

初日(5月3日)のレポートは→こちら
2日目(5月4日)のレポートは→こちら です。

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こんな風に、通路から無料コンサート(赤いステージで行われる)を見る事ができます。

会場はアクセス至便。東京メトロ有楽町駅、日比谷駅からいずれも直結、JR有楽町駅からも至近距離にあります。実は、JR東京駅丸の内出口からも歩ける距離です。信号待ちもあるので、15分くらいでしょうか。銀座までは徒歩10分くらいです。

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出口Dの方向へ。

地下鉄からだと地下1階から連絡通路を通ります。
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駅からですとABCDのうちDホールが一番近く、Aまではさらに通路を5分ほど余計に上がらないといけません。

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改札を出て席に着くまで、開演間際だと15分は見ておいた方が無難です。Dホールは近いのですが、エレベータに乗ったり乗り換えたりで、結構時間がかかります。地上広場からだとそれぞれ5分強というところでしょうか。


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さて、本日は最終日でしたが、3つのプログラムを聴きました。

まずは自然へのオマージュ 公演番号No.324、ローザンヌ声楽アンサンブルによる小品集です。

プーランク:7つの歌(白い雪、ほとんどゆがまずに 新しい夜に すべての権利 美とそれに似たもの マリー、光る)
ドビュッシー:シャルル・ドルレアンの詩による3つの歌(神よ!眺めるのはよいものだ、太鼓の音を聞くとき、冬はただの厄介者)
ラヴェル:3つの歌(ニコレット、楽園の美しい羽の小鳥、ロンド)
ヒンデミット:リルケの詩による6つのシャンソン(牡鹿 白鳥 みんなが去って 春 冬に 果樹園)
フォーレ:魔人たち(ジン)op.12、ラシーヌの賛歌 op.11

いずれもフランスの小粋な作品で、フォーレを除いては伴奏なしのアカペラを楽しみました。
ローザンヌといえば毎年、合唱の神様ミシェル・コルボの指揮でフォーレのレクイエムなど大掛かりな宗教曲を聴いてきましたが、こうした小品を聴くと、メンバーひとりひとりも優れた歌い手だということがよく分かりました。

ソロパートもありますが、ソロ歌手のような突出した歌声ではなく、アンサンブルによく溶け込んでいます。
不協和音や実験的な曲の響きも大変美しかったです。

続きましては公演番号325番のボリス・ベレゾフスキー…のはずだったのですが、今回は急病のため代役をレミ・ジュニエが務めました。

公演に先立って、音楽祭ディレクターのルネ・マルタンさんが経緯を説明してくれました。

ベレゾフスキーさんからは、ほんの少し前にものすごく体調が悪いと電話があったそうです。主治医から10日間は安静にしなさいと言われ、来日は諦めたとのこと。

思い起こせば東日本大震災の年、震災のわずか2か月後に開催されたラ・フォル・ジュルネでは、地震と原発事故の影響で公演キャンセルが相継ぐ中、いつも通り来日してくれて、本当に励まされました。そのベレゾフスキーさんが来日できないとは、病状がとても心配です。一日も早いご回復をお祈りしています。

そんな大物の代役を務めたレミ・ジュニエさんは巻き毛の若い衆なのですが、マルタンさん曰く、ベレゾフスキーさんが大変気に入っているピアニストだそうで、「カルト・ブランシュ」(曲目は当日発表)という演奏会に呼んで、一緒に出演したりされたのだとか。

まずはベートーベンのピアノ・ソナタ14番「月光」と、ショパンのピアノ・ソナタ第3番を弾いてくれましたが、表面は線が細く、冷静に弾き進めながらも、湧き起こる激情を制御しきれない、といった風情の演奏を聴かせてくれました。これはまあ、定番をソツなくこなした感じでしたが、その次が凄かった。

ステージにはチェリストのアンリ・ド・マルケットが登場し、やおらバルトークのラプソディ第1番が始まりました。貫録のマルケットの演奏にも、ジュニエは堂々互角に応え、全く臆しません。その、一見飄々としたツンデレな演奏スタイルがものすごくこの曲に似合っていて、思わず吹き出しそうでした。

タイミングを合わせるためにコンタクトを取る一瞬は戦友同士の雰囲気ですが、次の瞬間は2人の間に火花が散るようでした。いきさつが残念ではありましたが、今年一番の名演奏を聴かせてもらいました。

今年最後に聴いたプログラムは、初日の追加公演No.777で感動したので急遽追加で取ったNo.356 ユーリ・ファヴォリンのピアノでした。

曲はケクランのペルシャの時 pp.65 全曲です。

旅立ちの前の午睡、キャラバン(午睡中の夢)、暗がりの山登り、すがすがしい朝、高い山間にて、町を望む、街道を横切る、夜の歌、テラスから見る月の光、オバド、真昼の陽ざしを受けるばらの花、石像の泉の近くの日陰で、アラベスク、日暮れ時の丘陵、語り部、夜の平穏、墓地にて、真夜中のイスラム教修道僧たち

と、各楽章のタイトルも魅力的です。

このタイトルから連想されるような異国情緒あふれるリズムやメロディもところどころに潜んではいるものの、全体としては近現代曲らしい響きなのですが、譜面を読んだら途方に暮れそうなこの曲を、見事に立体化して描き出していました。

こちらは椅子に座っていながらも、まどろみに誘われたり、砂嵐に巻き込まれたり、夕暮れの斜めの陽光を頬に浴びたりしながら1時間を過ごしました。

あまり知られていない作曲家を聴きに来ようという人たちだから気合いが入っているのか、お客さんもプロ(?)で、出だしや曲間などには吸い付くような緊張感のある静寂を作りだしていました。常にガサガサ落着きのないことが多いラ・フォル・ジュルネでは稀有の体験でした。

異様な緊張のうちに曲が終わると、ピアニストはニッコリして、チャイコフスキーのユーモレスカ、と言って愉快な曲を1曲、プレゼントしてくれました。万雷の拍手で、和やかムードのうちにプログラムは終了しました。

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会場を去るのも名残惜しく、しばらく地上広場で風に吹かれていました。簡易テーブルを囲んで偶然相席になった人たちと話が弾んだり、最終日だからか通路際に座っていたからか、次々知り合いが通りかかるので乾杯したりと、ちょっとしたパーティー気分のうちに、今年のお祭りも過ぎていきました。

本当に楽しいひとときをありがとうございました。

来年2017年のテーマは「ダンス」だとか。
こんな大がかりな催しを維持していくのは大変なことだと思いますが、どうか来年も恙なく開催されますように…!

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2016年05月04日

ラ・フォル・ジュルネ・オ・ジャポン 熱狂の日 2016 ナチュール 第2日目(5月4日)感想

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皆さま、こんばんは。

有楽町/日比谷の東京国際フォーラムで行われている熱狂の日も、はや中日となりました。
(昨日の初日の様子は→こちら

さすがに昨日に比べると人出も増え、地上広場は賑やかになっていました。
しかし、今年は、例年だったら前売りの段階で売り切れてしまうであろう良い公演が、まだ買えるんですね…。↓

http://www.lfj.jp/lfj_2016/performance/timetable/index3.php

諦めずに、パソコンでゲットしてから会場に行くか、ガラス棟の中に当日券売り場があるのでその場でゲットして、ぜひお祭りに参加なさってください! ビックリするようないいプログラムにまだ空きがあります。

でも、この音楽祭の趣旨からいえば、ふらっと来てふらっと入れる方が楽しいですよね。その意味では、今年の混み具合くらいでちょうど良いんだろうけど、あまり収益が悪化すると開催されなくなっちゃうだろうし、難しいところですよね。

日比谷駅から会場のホールに向かうとき必ず通るガラス棟のB1階は、ガラスでできた渡り廊下のようになっていて、B2階で行われているキオスクコンサートの会場を上から横切る形になります。下でキオスクコンサートをやっていると、ガラス越しにのぞくことができます。音も流してくれているのでその場でも楽しめますが、当日の半券を持っていると、会場内に入ることもできます。

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たまたま昨日聞いたvoces8が出ていて、ものすごい人だかりでした。有料コンサートでやっていた歌もうたっていましたが、ところどころ観客参加型のワークショップ形式になっていて、コンサートより面白かったです(笑)

舞台はぐるりと360度お客さんに囲まれているので、ウェーブをさせたり、それぞれ自分の前にいるメンバーの出す音(カッコウやハチの羽音、日の光など)を真似して歌わせたりして、全員合わせると1つの曲になる、というのをやってました。

アカペラというと取りつきにくいですが、こうやって組み立てるものなんだなあとよく分かる、優れたパフォーマンスだったと思います。最後まで聞きたかったけど、楽しみにしていた公演の時間が迫ってきたので、泣く泣くその場を後にしました。

さて、有料公演の開演前には、いつも注意事項などのアナウンスが流れるのですが、今年はなかなか凝っていて、各会場にプロジェクターで森が映し出され、自然の音がチャイムがわりに使われています。

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ホールAの様子(もちろん、開演前にスマホは電源を切りました)

公式HPによると、「耳のためのシネマ」(レポートは初日の感想記事に→こちら)のボリスさんが採集した本物の自然の音だそうです。

ホールA : モリヒバリ
ホールB7 : カッコウ
ホールB5 : ミソサザイ
ホールC : ウタツグミ
ホールD7 : ヤツガシラ
G409 : コオロギ
日比谷野音 : サヨナキドリ

本日最初に聞いたプログラムNo.212はヒバリの賑やかな声で始まりました。
毎年楽しみにしている、小曽根真さん登場の絶対外さないプログラム。今年も期待以上の面白さでした。

舞台の上には2台のピアノ。まずはピアニスト1人とヴァオリニストが登場。さて何だろう、と思ったら、弾いてるのはピアノのはずなのに、なぜか琴みたいな音が…そして、やおら始まった「春の海」。

そういえば、この曲きちんと通して聞いたことなかったなぁと思いつつも、会場はすっかりお正月モード。
舞台に登場したもう一人のピアニスト、小曽根さんも開口一番、

「皆さま、明けましておめでとうございます(笑)」

その後、観客のために種明かしをしてくれましたが、スタインウェイに貼ってはがせる粘着テープをつけただけでした。ピアノの弦にさまざまなものを取り付ける、プリペアドピアノのような凝った仕掛けをしているのかと思ったら、工夫次第で簡単にできるものなんですね。

続いて小曽根さんがラテンを1曲弾いてくれて、その後、予告されていたサン・サーンスの動物の謝肉祭が始まりました。

これも「春の海」同様、全部を通して聞いたことがなかったので、とても新鮮でした。ところどころにさりげなく、嫌味のない形でジャズの味付けがされていて、それも良かったです。

ピアノの小曽根真さん、江口玲さん、ヴァイオリンの ドミトリ・マフチンさん、矢部達哉さん、ヴィオラのジェラール・コセさん、チェロの宮田大さん、コントラバスの山本修さん、フルートの工藤重典さん、クラリネットの吉田誠さん、マリンバの安江佐和子さんと、いずれも腕利きのメンバーが揃い、息の合った演奏を聴かせてくれました。

途中、有名な「白鳥」の章がありますが、何度も聴いたことのある、いまさらな曲なのに、今日のチェロは格別に素晴らしくて、思わず涙が出てしまいました。伴奏に回ったピアノも、控えめながら、水や光のキラキラした様子が目に浮かぶようでした。

アンコールはピアノの掛け合いから派手な終曲の追い込みを再演奏してくれましたが、そこに今回の人気者、ナチュールおじさん(勝手に命名)も参戦、大盛り上がりで終了しました。あぁ〜楽しかった!

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ナチュールおじさん(?) ガラス棟入り口の展示付近に出没して皆から記念撮影をせがまれていました。このプログラムの前に、Aホールの入り口でお見かけしたので、おや? と思っていたのですが…


続きましては、No.266の北欧の自然を鑑賞です。

ロケ地めぐり…じゃないや、お宅訪問までしてしまったグリーグはじめ、大好きな北欧の作曲家たちの作品を集めたピアノプログラムということで、選んでみました。曲目は以下の通りです。

パルムグレン:五月の夜(《4つの春の夜》op.27から)
ペッテション=ベリエル:夏の歌、ローンテニス(《フレースエーの花々》 第1巻 op.16から)
シベリウス:ピヒラヤの花咲くとき、孤独な松の木、ポプラ、白樺の木、樅の木(《5つの小品/樹の組曲》op.75から)
シベリウス:ひな菊、カーネーション(《5つの小品/花の組曲》op.85から)
グリーグ:ノクターン、小川、春に寄す、トロルドハウゲンの婚礼の日 (《抒情小曲集》から)

初めて入ったG409のお部屋はこじんまりとしてとてもコージー。153席しかないため毎回競争率が非常に高く、今回は取れてラッキーでした。

演奏はきちんとしていたのですが、体操の曲みたいで面白かった1曲を除くと、どちらかというとおとなしい曲を、曲想に忠実におとなしく弾いた感じで、ちょっと印象が薄くて…。

そして最後はNo.257でこれもピアノソロ。
実は、同じ時間の別のプログラムを予約したつもりだったのに、会場のB7をD7と間違えて取っちゃいました。毎年何か一つはポカをやってしまうのですが、今回はコレでした(哀)

アンヌ・ケフェレックさんによるこちらも好プログラムなのは分かっていたのですが、前に聴いたことがあるからパスしよっと、と思っていたのにそれは許されなかったようですw

曲目はこちら。

ドビュッシー:水の反映(《映像》第1集から)
ドビュッシー:オンディーヌ(《前奏曲集》第2巻から)
ドビュッシー:沈める寺(《前奏曲集》第1巻から)
ケクラン:漁師たちの歌(《陸景と海景》op.63から)
ラヴェル:海原の小舟(《鏡》から)
リスト:悲しみのゴンドラ Sz.200/2
リスト:波の上を渡るパオラの聖フランチェスコ(《2つの伝説》から)

演奏はもちろんさすがの貫録で、どこからこんな音がと思うぐらい迫力のある演奏でしたが、さらに良かったのはアンコール曲。

良く眠れるように、とヘンデルのメヌエットを弾いてくれました。

この方の演奏はフランスの作曲家の曲しか聴いたことがなかったのですが、透明感のある、典雅でしかも優しい、大変素晴らしい演奏でした。おかげで良く眠るどころか興奮してしまい、帰宅がだいぶ遅くなっちゃいました。

とは言え、こんな静かで優しげな、しかも子守唄がわりに弾いてくれた曲が終わった後で、ヴラボーッツ!って怒鳴るのはホントに勘弁して欲しいです。頼むからやめて…。

ということで、明日は最終日。初日に聴いて良かった奏者のチケットがまだ売っていたので、急遽追加して聴きに参ります。

では、また明日!(記事は→こちら

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2016年05月03日

ラ・フォル・ジュルネ・オ・ジャポン 2016 1日目(5月3日)感想

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皆さま、こんばんは。

今年も恒例、有楽町/日比谷の国際フォーラムを主会場に開催されるゴールデン・ウィークの音楽のお祭りに、出演者と観客として参加しております。

今年は前夜祭には参加せず、第1日目の午後から出かけました。

少し曇り空で爽やかな風が吹き、オープンエアの催しには絶好のコンディション…だったのですが、一番混むはずの午後の時間帯でもどことなく人出が少なく、例年なら長蛇の列になる地上広場の屋台村も、並ばずすいすい買えるのに何となく危機感を覚える初日でした。

音楽祭全体のテーマが、「自然」という漠然としたものだったのが影響したのでしょうか。それとも、不景気を反映してるのでしょうか。何とか来年も開催できるだけの入場者が集まって欲しいものです。

沈んだ気分に追い打ちをかけるように、楽しみにしていたピアニスト、ボリス・ベレゾフスキー来日キャンセルの報せ。いの一番にチケットを押さえただけに大ショック。急病とのことで残念ですが、来年は元気で来日してくれますように…。

さて、初日の今日、最初に聞いたのは実は普通の音楽ではなくこちら、「耳のためのシネマ」

入場前にアイマスクを受けとり、開演を待ちます。まずは、プログラムの創作者、ボリス・ジョリヴェさんから挨拶があり、たくさんの作曲家による作品、ということでスタートします。

目を閉じて耳を澄ませていると、さまざまな音が聞こえてきます。

鈴のような音。泡立つような音。風切り羽根や、重い何かが移動するような音。嵐が吹き荒れるような音。
電子音のようなものも混ざっています。
大きい音、小さい音、近い音、遠い音。

鳥のうたや小川の流れのように、すぐ分かるものもあるし、見当もつかない音もあります。
アブのような音がすると頭のてっぺんが痒くなるし、風の音が唸ると砂粒が頬に当たったような感覚があり、ハエの音がしたときは思わず振り払おうと手を動かしてしまいました。

最後は、同じ単語が、まるで下から上へ立ちのぼるように移動しながら唱えられていく声で終わります。

終わった後、ボリスさんが少し解説をしてくれました。作品に使われた音はすべて自然音で、氷の移動する音
、蜘蛛の鳴き声(!)などは採集にとても苦労したそうです。

質疑応答もあり、自然の中だけではなく、たとえば東京では、また他の都市とは違った音がするので、熱心に収集したのだとか。さすがです。

続きまして、今度は合唱のプログラム(No.135)。
VOCES8はイギリスのヴォーカルグループで、美しいアカペラを聞かせてくれました。宗教曲とポップスが混ざっているという凝ったプログラムでしたが、編曲が上手いのか、ポップスも彼らのスタイルに似合っていてどちらも楽しめました。

曲目はこちら↓

シュッツ:天は神の栄光を語る SWV.386(《宗教的合唱曲集》op.11)
メンデルスゾーン:なぜなら彼は天使たちに命じて(詩篇第91番)
ドイツ民謡:マリアはいばらの森を通り
ベネット:生きとし生けるものは
ウィールクス:ヴェスタはラトモス山を駆けおりつつ
コズマ(ローランド・ロバートソン編):枯葉
スコットランド民謡(ターナー編):オー・ワリー・ワリー
アメリカ民謡(ヒューイット・ジョーンズ編):シェナンドー
マクリーン(ジム・クレメンツ編):星の降る夜
ジョン&ミシェル・フィリップス(ジム・クレメンツ編):夢のカリフォルニア

アンコールもあり、ライオンキングから1曲歌ってくれました。

頑張って日本語でMCをしてくれたり、会場出口ではメンバーがお見送りをして一人ひとりに握手をしてくれたりと、小ホールでのリサイタルを思わせる親密な雰囲気でした。

今日の最後は急遽設定された追加公演(No.777)。
「夜」にちなんだ作品を集めて、と題して、

ジョナス・ヴィトー(ピアノ)
チャイコフスキー:5月 白夜(《四季》op.37bから)

ユーリ・ファヴォリン(ピアノ)
ケクラン:夕べの歌、テラスに差す月光、夜の回教僧たち〜荒れ果てた地に差す月光(《ペルシャの時》 op.65から)

ルイス=フェルナンド・ぺレス(ピアノ)
ショパン:夜想曲 ハ短調 op.48-1→こちらは
グラナドス:《ゴイェスカス》より「マハと夜鳴きウグイス」に変更
ショパン:ノクターン 変ニ長調 作品27-2

ソプラノ&ピアノ
ドヴォルザーク:月に寄せる歌 (オペラ《ルサルカ》 第1幕より)
ストラヴィンスキー:ノー・ワード・フロム・トム(トムからは何の便りもない)(オペラ《放蕩者のなりゆき》 第1幕より)

今回の目玉奏者ばかりを集めたプログラムとのことで、たぶんどなたの演奏も初めて聴いたと思いますが、ことに2番目のユーリ・ファヴォリン、この人の演奏は凄かった。

間の取り方が絶妙なのと、音のくっきりとした立ち上がりが美しく、すっかり聞き入ってしまいました。ケクランのこの曲、録音を聴いたときはどうしようかと思うほど退屈だったのに、こんなに素晴らしい曲だったとはおみそれ致しました。

最後に歌曲もあって、歌の方は響かない会場でソプラノの人が歌うには低い音が多かったのか、かなりドスコイ入っていたうえ、高い音はのどを締め付けられてるような感じでちょっと厳しかったですが、伴奏はとても良かったです。ドヴォルザークはチェコ語の歌詞でしたが、歌詞カードをみたら千野栄一先生の訳でした。

ということで、明日も引き続き行ってまいります!


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